広島県廿日市市宮内の「宮内天王社」は、素戔嗚尊と神武天皇をお祀りする神社です。明治時代、宮内地区の神社から、多くの神さま方が合祀されました。
このページでは「宮内天王社」の歴史と沿革、厳島神社(宮島)との関係、天然記念物指定を受けている境内の巨樹群などについて、現地に赴いた経験をもとにご紹介します(訪問回数:2回)。
なお、宮内地区観光の入り口となる、宮内串戸駅と宮内駅にも触れています。
広島県廿日市市市宮内の宮内天王社とは?
素戔嗚尊と神武天皇をお祀りする天王社です。起源は神武天皇の東征まで遡りますので、とても歴史が古い神社となります。天正年間に現在地に遷って以来、長らく地元の方々に深く信仰される神社として、今日に至ります。
明治時代の寺社整理に際して、付近の神社から神さま方を合祀したほか、社名も八坂神社と改められました。しかし、氏子の皆さまの強い要望により、元々の天王社に再度改名されたという経緯がございます。
恐らくは、現在地に遷った後に植樹されたと考えられている大木が数多くあり、「天王社巨樹群」として天然記念物指定を受けています。
宮内天王社・基本情報
ご鎮座地 〒738-0034 廿日市市宮内 1701
御祭神 素戔嗚尊、神武天皇
相殿 大山津見命、天受女命、伊邪那歧命、伊邪那美命、猿田彦命、宇迦迺魂命
境内社 稲荷神社ほか
主な建物 社殿、鳥居、石柱、狛犬、灯籠、由緒碑、記念碑
例祭 十月第二日曜日
天然記念物 天王社巨樹群
(参照:神社由緒碑、文化財説明看板、建物は目視、ご鎮座地は Googlemap にあったもの)
宮内天王社・歴史
神社の御由緒
そもそもの起源は、神武天皇まで遡るとされていますので、まさに遙か大昔に創建された神社さまとなります。神武天皇が建立なさったのではなく、東征の際に立ち寄られたのです。その場所が尊いということで、社殿を造ってお祀りしたのでしょう。当時は「天王宮」と呼ばれ、ご鎮座地も広田社山の麓でした。
ところが、天正年間(1573~92)の自然災害(津波)によって倒壊。それ以後、現在地に遷ったといいます。明治時代の寺社整理にあたり、全国の天王社は八坂神社となりましたので、この神社さまも八坂神社となります。さらに、付近の小規模な神社を合祀して一つにまとめることも行なわれました。この辺り、そのほかの神社も皆そうですので、さして、珍しくもありません。
しかし、宮内天王社さまでは、氏子の皆さんの希望によって、元の「天王社」というお名前に再度改称します。妙見社が天御中主神社になっても、地元の人はなおも、妙見さまと呼んでいるのと似ておりますが、「改称」しているところが特別です。通称ではなく、やはり慣れ親しんだ天王社がいいんだ! という強い思いが伝わって参ります。
現在の境内には、神仏習合時代の面影は見当たりませんが、元は光代寺という別当寺が存在しており、やはり習合していたのだな、ということが確認できます。光代寺は、慶長末(1615年頃)に廃寺となったそうです(参照:『広島県神社誌』)。
なお、宮内天王社は厳島神社の兼帯社でして、厳島神社の神職が祭りを執り行っておりました。そのかわり、社殿の修理なども、厳島神社から援助を受けることができました。
「宮内天王社由緒
社伝によれば神武天皇が御東征の折に立寄よられたところとして広田社山の麓に祀られ、天王宮と呼ばれていましたが天正年中(一五七三~九二)に津波によって破損し現在地に移されたと古書にも誌されています。
また当社は、古来厳島神社兼帯の一社であって厳島の祠官が来てお祭りを行なったと伝えられ、社殿や鳥居を造る木材も厳島から給されていました。また古くは別当光代寺があったが慶長の末(一六一五頃)に廃された。
明治以後宮内村上組の氏神として社格も村社となり上組内の神社を合祀して、相殿にお祀りし、八坂神社と改めましたが、昭和四十四年に氏子の皆様の要望により宮内天王社に再度改称して今日に至っております。
平成五年十二月 宮司 林 新 誌す」
(宮内天王社ご由緒石碑文)
「宮内」という地名の由来
宮内天王社は、そのご鎮座地を冠して「宮内」天王社と呼ばれております。「宮」という文字が入っている地名は、その歴史を遡ると地元の神社に由来する例が多いです。山口市の「宮」野が三之宮・仁壁神社に由来しているように。では、この宮内というのは、この神社さまが鎮座しているゆえに「宮」内なのでしょうか? 残念ながら違います。広島県、それも廿日市市で神社といったら、厳島神社です。ご想像の通り、こちらもまさに厳島神社ゆかりの土地でした。宮内天王社さまが厳島神社の兼帯社だったことからも、両社のゆかりが深かったことが分りますし、この付近を「宮内」と呼ぶのは、厳島神社由来によるものです。
仁治3(1242)年の「厳島文書」 に 「宮内」の記載があり、 鎌倉時代は厳島神社の神領であった。また宮内の地名は厳島神社の社務を取りしきる政所(宮政所) が置かれていたことに由来しているともいわれている。
出典:『宮島本』 宮内
厳島神社の政所については、何かの古記録(活字版)で見た記憶があるので、もう一度目撃したら必ずここに書き記しておきたいと思います。そのときに、神社に政所って? と思ったのを覚えています。日本史の参考書などで「政所」という文字を見かけるのは、幕府の政治機構の一つであったりするためです。
しかし、きちんと講義をきくと、政所という言葉は、単に「家政機関」という意味であり、なにも幕府だけのものではないということが分かります。
政所、まんどころ
平安中期、令制の家司制度が変質し、親王四品以上、諸王・諸臣三位以上の家政機関として設けられた。四位以下の家政機関は公文所という。有力寺社にも政所がおかれた。(中略)荘園の現地支配機構も政所とよばれ、国衙にも設置された。出典:山川出版社『日本史広辞典』政所
というようなことで、有力寺社である厳島神社にも当然、政所はあるわけです。ついでに、鎌倉幕府の家政機関が最初公文所だったのに、何で途中から名前変るんだよ、二つ暗記するのメンドー、ということになったのも、源頼朝が右近衛大将となり位が上がったため、四位以下の家政機関・公文所ではなく、政所になった、というわけですね(宮内とは関係ありませんが)。
宮内天王社・みどころ
閑静な趣の神社さまです。多くの神社を合祀したことはご由緒にも書かれておりますが、二つの境内社があり、うち一つは御祭神がわかりません。境内社の問題はそれなり深刻でして、何も書いておられない神社さま、事細かく書いてくださっておられる神社さまがございます。どちらでも問題はないのですが、通りすがりの観光客には、書いてくださっていないと分らないため、そこだけがちょっと残念でした(現在調査中です)。
なお、宮内天王社の「巨樹群」は、天然記念物指定となっています。明らかに人の手で植えられたと思われる樹木が、長い年月の間に巨木となったということなので、ご鎮座地が遷って以降植樹されたものでしょうか。境内の樹木、鎮守の森についても気にかけて参詣なさるのがよろしいかと思います。
鳥居
立派な石鳥居から参道が続き、社殿もチラ見えております。この鳥居は、道路からちょっとだけ奥まっているため(ちょっとだけです)、ぼんやりしていると通り過ぎてしまいますので、注意が必要です。道路(歩道)に鳥居がはみ出していたら通行の妨げとなりますので、当然のことなのですが、初めてのご参詣ですと通過してしまうことがあり得ます。
石段
ただの石段がみどころなのか!? と仰る方もおいでかもしれません。しかし、この石段は、氏子の皆さまの協力によって修築されたものでして、境内にはその旨記した記念碑もございます。ほかにも、氏子の方々から寄進されたものが多数あり、篤く信仰されていることが伝わってきます。
棚守寄進の灯籠
これは厳島神社の神職・棚守が寄進した灯籠です。刻された文字はかなり経年劣化が進んでおり、素人には読めませんが、棚守が寄進した旨の文字が刻まれているそうです。ガイドさんのご案内では、棚守が灯籠を寄進している例は、ほかに見られないとのこと。厳島神社との関わりが強い、地御前神社にもないそうです。
この灯籠の存在が、天王社と厳島神社との深い結びつきを示す証となっており、その意味でも非常に貴重なものです。
御鴉の岩
厳島神社の神使である、御鴉さまがここで休憩なさったとされる岩です。この辺りからも、厳島神社との深い関係性が垣間見られます。
社殿
拝殿も堂々としていて厳かな雰囲気でした。注連縄がまた、かなりの重厚感がございます。他県をご訪問しても、やはり脇からもご無礼いたします。
すぐお隣に境内社がある関係上、これ以上広範囲に構図を拡大することができませんでした。
境内社・稲荷大明神
境内社の稲荷神社です。朱色の鳥居に「稲荷大明神」と書かれた額がかかっております。
境内社
ご覧の通り、とても立派な境内神社なのですが、ご案内がないため、どんな神さまがご鎮座なさっておられるのかわかりませんでした(調査中です)。
宮内天王社巨樹群
広島県内の巨木ランキングにも載っている樹木が何本かあります。人の手によって植えられたものと考えられていることから、神社の関係者の方による植樹でしょうか。神社の歴史を見守りながら、それらの木々も大きく生長していったと思われます。
「このお宮の森は、自然の森ではなく人間によって植えられたものと思われるが、木の年齢も古く、めずらしい種類もあるので貴重な文化財である。
ケンポナシは秋に果実の柄がふくらんで甘みがあり、食用になる。この木は県内の記録では第1位の巨樹である。ムクロジは秋に熟する種子が「羽根つき」の玉に利用され、種皮にサポニンが含まれるので、昔は、石けんの代用にされた。この木は県内では第2位の巨樹である。イヌマキは県内第7位、エノキは第15位の大きさである。
この他にもシイモチ(Ilex buergeri、モチノキ科)があり、木は小さいが、貴重な種類である。
和名 学名 科名 胸高幹囲 胸高直経 樹高
ケンポナシ Hovenia dulcis クロウメモドキ科 228cm 76×61cm 22.5m
イヌマキ Podocarpus macrophylla マキ科 138cm 41×40cm 18m
ムクロジ Sapindus mukurossi ムクロジ科 307cm 100×84cm 30m
エノキ Celtis sinensis var. japonika ニレ科 345cm 135×87cm 26.5m
平成元年3月
廿日市市教育委員会」
(文化財説明看板説明文)
イヌマキ
ムクロジ
附・天王社旧地
天王社が津波で現在地に遷される前の旧地も、大切に保存されています。
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天王址(広島県廿日市市串戸)
宮内天王社の旧地。神武天皇が東征の時に立ち寄った場所とされる。天正年間津波により旧地の社殿は倒壊。現在地に遷されて存続している。
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附・旧別当寺光代寺
旧別当寺であったとされる、光代寺は廃寺となっていますが、観音堂が残されております。
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廃光代寺観音堂(広島県廿日市市宮内)
宮内天王社の別当寺だった光代寺は、福島正則が当主だった時代に取り潰されてしまった。廃寺となった後も、本尊だった千手観音立像は大切に守られ、現在も観音堂の中に安置されている。室町時代の作品として、廿日市市の重要文化財に指定されている。
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宮内天王社(廿日市市宮内)の所在地・行き方について
ご鎮座地 & MAP
ご鎮座地 〒738-0034 廿日市市宮内 1701
※Googlemap にあった住所です。
アクセス
宮内串戸駅から徒歩圏内です。20分もかかりません。ただし、初めてだとそれなりわかりにくく、Googlemap のナビゲーション推奨。大きくて遠目からそれと分ると想像していると、通り過ぎてしまうか道を誤ります。駅から案内看板、付近に入り口はこちら矢印の類はありません。
最寄り駅は、JR西日本の「宮内串戸」もしくは広島電鉄の「宮内」となります。どちらの駅を使っても問題ないのですが、「宮内串戸駅」を利用する際には注意が必要です。
宮内串戸駅JR西日本宮内串戸駅路線案内
宮島口 ⇒ 阿品 ⇒ 宮内串戸 ⇒ 廿日市
現在の宮内は、閑静な住宅街となっておりまして、最寄り駅宮内串戸は通勤通学時間帯の電車に乗る人々、降りる人々がとても多いです。東京大阪のような大都市圏近辺で、十何番線までプラットホームがあるような駅ですと、乗降客は大量ですが、駅もそれだけ大きく、かつ、駅周辺はオフィスビル群だったり、商店街だったりするので、近隣住民はさらにバスなどの公共交通機関で自宅へ向かうことが多いのかな、と思います。
しかし、宮内串戸の駅は住宅街の中にある雰囲気でして、文字通り住宅地の方々は駅近便利で羨ましいと思う反面、他所者が当駅を起点に観光して Googlemap のナビゲーションなどに頼って駅に帰ってくるとたいへんなことになります。「目的地に到着しました!」と MAPアプリさんは明るい声で仰るのに、「駅はない」のです。再度読み込みしてやり直すと「右側です」などと教えてくれるのですが、そういえば確かに線路があり、駅のホームの端っこが見えていますが、駅の入り口がないのです……。まさに、迷路のようでして、線路を隔てるフェンスをよじ登り、線路伝いにホームに上がってしまいたいと泣きたくなりました。
黄色枠に「行き止まり」と書かれているのがご覧いただけるでしょうか? これは二回目訪問時に駅舎を撮影したものです。駅が目の前にあるのに入れない状態です。上記のように、線路やホームが見えているのに……の究極の形態ですね。裏側に行けばいいだけなんですが、行き先を阻まれている方というのは、住宅街のほうに入ってしまっていると思われますので、そう簡単に裏側には行けません。迷路です……。
宮内駅広島電鉄宮内駅路線案内
広電廿日市 ⇒ 廿日市市役所前 ⇒ 宮内 ⇒ JA広島病院前 ⇒ 地御前 ⇒ 阿品東 ⇒ 広電阿品 ⇒ 広電宮島口
広島には広島電鉄の路面電車があり、宮島口まで JR 西日本と併走してますから、二回目はそっちを使いました。どちらを利用しても観光資源からの距離は変りません。ひろでんさんのほうは、JRさんと違って駅舎がなく、いきなりホームなので(宮内駅)、入り口が分らないと言うことにはなりませんから、安全なのはコチラです。ただし、これはとんでもなく方向音痴の者視点の話なので、普通の方々は道に迷うことなどないでしょう。あまり気になさらずとも大丈夫です。
参考文献:『宮島本』、『日本史広事典』、『広島県神社誌』、現地現地案内看板類、JRおでかけネット(https://www.jr-odekake.net/)、広島電鉄HP(https://www.hiroden.co.jp/index.html)
宮内天王社(廿日市市宮内)について:まとめ & 感想
宮内天王社(廿日市市宮内)・まとめ
- 起源は神武天皇が東征の際に立ち寄った場所に、天皇さまをお祀りしたこと
- 当初は広田社山に鎮座していたが、天正年間の津波によって社殿が被害を受け、現在地に遷る
- 遷宮前の「旧址」も「天王址」として保存されている
- 厳島神社の兼帯社で、厳島神社から神職が来て神事を執り行ったり、社殿の修繕などの際には、援助を受けたりした。厳島神社との結びつきは古く、棚守寄進の灯籠、御鴉の岩などがその証となっている
- 境内には、多くの巨樹があり、「天王社巨樹群」として、天然記念物指定を受けている
- 明治時代の寺社整理によって付近の神社から神々を合祀、八坂神社と改名される
- 昭和時代に、氏子の方々の希望によって、社名が元々の「天王社」に戻った
ごくごく普通の地元の方々に愛されている神社さまです。巨樹群が文化財(天然記念物)であったということは、帰宅後に知りました。植物に詳しくないので、どの樹木が何なのか、どこが貴重なのか、といったことがわかりません。ただし、何本か目に付く大木があったことは記憶しております。
それよりも、この神社さまに関しては、宮内串戸駅で迷路に入ったことのほうが強烈な印象として残っておりまして、今もトラウマと化しています。案外と、見学後に最寄り駅が宮内串戸駅になる観光資源は多いのですが、その場合は敢えて「宮内」を探してそちらへ向かうことにしています。天王社ご参詣時には、「行き止まり」という貼り紙に気付かなかったのですが、その頃にはなかったけれど、迷子になる人が多すぎるため注意喚起が必要となって後から貼られたものか、単に焦っていて気付かなかったのかはわかりません。ただ、このような貼り紙があるということは、目の前に駅があるのに、中に入れないと絶望する人々が少なからずいたことを示しているような気がしてなりません。
二回目の訪問は、ガイドさんとご一緒に町歩きをしながらのご参詣となりました。やはり、ひとり(ふたり)旅ではまったく気付かなかったことが山ほどあり、専門家のご教授を受けることがどれほど貴重であるかを再確認した次第です。帰宅したら記憶が薄れていたことは毎回と同じで、もっともっと学びがあったはずなのに、忘れてしまっていてショックです。誰であれ、その場ですべてを記憶することは難しいですので、仕方ないのですが。ご案内ありがとうございました。
こんな方におすすめ
- 神社巡りが好きなすべての人
- 天王社信仰の人
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
まったく同じ宮島口から宮内までを結んでいるのですが、JR さんとひろでんさんとで、停車駅の数が随分と違いますね。
路面電車、面白いよ。広島に来たら一度は乗ってね!
やっぱりミルの案内だと何もわからないね。ガイドさんとご一緒に再訪して、山ほどのことが勉強できた。ミルのトロい頭には、ほぼ何も残ってないみたいだけどね。
君って子は、本当に容赦ないのね。そんなん言うなら自分で書いたら?
俺は雑用係ではなく、享受する側の人間だから。もっとためになる記事を書いてね。
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はつかいち町歩き
廿日市の観光資源と言えば、宮島と厳島神社の知名度が圧倒的です。それゆえに、ほかの観光地の影が薄くなってしまっている嫌いがあるのが、とても残念です。けっして、それだけではないですよ、ということを証明したく、町中を歩き回っています。
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※この記事は、20241114 に加筆・修正されました。