廃光代寺観音堂(広島県廿日市市宮内)とは?
かつて、宮内天王社の別当寺であった光代寺の本尊・千手観音立像を安置した観音堂のことです。いうまでもなく、神仏習合時代のお話なので、神社(天王社)と別当寺(光代寺)が深く結びついていたのです。神宮寺や別当寺などと呼ばれるものは、神社に付属してその管理を任されていた寺院といったところです。
神仏分離で、神社と寺院が分かたれた時、それらの寺院は神社との関係を絶たれたまま存続するか、廃寺の憂き目に遭いました。しかし、こちらの光代寺が廃寺とされたのは、福島正則によってなので、神仏分離とは無関係です。
廃寺となったため、本尊である観音像のみを残して寺院は跡形もなくなった模様です。現在も、貴重な文化財として、廿日市市の重要文化財に指定され、大切にされています。
廃光代寺観音堂・基本情報
所在地 〒738-0034 広島県廿日市市宮内1983
※ 『廿日市町史』に、「広島県廿日市町甲一九八三番地」とあります。Googlemap には載っていませんが、かつての廿日市町甲一九八三番地が、現在の廿日市市宮内1983と同じ箇所のようでして、航空写真から堂宇も確認できました。
廃光代寺観音堂・歴史
廿日市観光協会さまの町歩きパンフレットには、以下のようにあります。これがすべてです。
不見山と号し、古くは天王社の別当寺で慶長年間に廃寺になった。今は観音堂を残す。木造千手観音菩薩立像は像高112㎝、室町時代の作(市重文)
出典:観光協会パンフレット
『廿日市町史』にも記述がありますので、拝読してみましょう。
穂井田元清時代の記録
毛利元就の四男で穂井田姓を名乗っていた穂井田元清は、桂元澄のつぎに桜尾城主となりました。要するにその周辺はこの人にまつわる地区となり、廿日市がまさにそうです(現在の廿日市市と完全に=ではありません)。桂元澄夫妻、穂井田元清夫妻の墓所は、同じく廿日市の洞雲寺に二つ(四つ)仲良く並んでおります。⇒ 関連記事:洞雲寺
さて、穂井田元清の時代頃、廿日市地区には、以下のような重要な寺社がありました(全部神社ですが、習合していたので寺社と書いてます)。
一、速谷大明神(厳島神社の末社扱いにされていた……)
一、天満宮(篠尾山)
一、天王社(宮内)
一、新宮社(河井)
このうち、新宮社というのが、現在も存在するのかちょっと未調査ですが、他は現在も堂々とご鎮座なさっております。
さて、穂井田さんは、新宮社、天王社と大頭神社とに土地を寄進したそうです。それゆえに、この三社が、穂井田家領地における由緒ある神社であった、という認識のようです。
ちょっと待って! 厳島神社や速谷神社(大明神)には寄進してないってどういうこと? それに、大頭神社は上の表にないじゃん! と思われた方、執筆者も最初、そう思いました。しかし、かつて全国各地で郷土史出版ラッシュとなった時代はもはや大昔のこと。本は古書店さまでしか手に入りません。中にはプレミア価格と化しているものもございます。
その後に来たのが、これまた全国各地で行なわれた市町村大合併です。合併後に郷土史を出してくだされば、一冊ですむところなのですが、紙幅の関係ですべてを詳細に載せることができなくなるであろうと思われますし、そこまで省略してもなお、持ち運ぶのも骨の分厚い書物にならざるを得ません。そうこうしているうちにネット社会が到来。自治体ホームページを検索してくださいという世の中となりました。
要するに、厳島神社は廿日市町史には載っていません。大頭神社も同様です。最初気絶しそうになりましたが。あとは、穂井田さんの領地が本が書かれた当時の廿日市町全域に渡っていたわけでもないでしょうから(近現代の区画と中世・近世は違ってたでしょうし)、あくまで自らの支配下の土地にある由緒ある神社ということでしょう。
これら土地の寄進が行なわれた際、天王社宛のそれは、別当寺である光代寺に寄進状が出されたとか。光代寺が史料によってその存在を確認できるのはそれらによってです。他にも、光大寺、広代寺など似たような名前の寺院が確認できるそうですが、史料により書き方はまちまちなれど、いずれも同じ光代寺を指していると考えられています。
所属の変遷
様々な史料から、光代寺は元々は曹洞宗寺院であったと考えられています。その典拠は初出史料で、土地の宛行状宛先が「ゑい蔵主」とあることから推測されております(研究者の先生は名前だけで判断できるのですね)。ところが、このゑい蔵主さんは、大内家で政変が起こった際に出て行ってしまわれたそうです。
そこで、元光代寺の土地は宝積院・奝義房に宛行われました。その後、毛利家の統治下となると、光代寺は洞雲寺住持の弟子に与えられてしまったそうです。これ以降の詳細は不明ながら、寺院の名前はしばしば史料に出ていたようです。しかしながら、安芸国の主が毛利家から福島正則にかわると、いきなり寺院は取り潰され、住持は百姓身分に落とされてしまったようです。
何が気にくわなくて取り潰されたのか、『町史』だけではわかりませんが、理由が分っていれば記述がないはずがないですから、史料がなくてよくわからないのだと思われます。
廃光代寺観音堂・みどころ
かつての寺院は、今は小さな観音堂一つを残すのみです。みどころは当然、重要文化財となっている千手観音立像です。室町時代の作とされておりますから、ぜひとも一目拝んでみたいものです。で、拝めます。格子越しにはなりますが。ただし、昨今、重要文化財にイタズラをしたり、勝手に持ち去るようなマナーのない人がおられる(観音堂は無人ですので)、小動物に荒らされる可能性もある、などの理由で観音堂そのものの扉が閉められてしまっていることがあるといいます。運が悪いと、観音さまのお姿を拝むどころか、建物の外観しか見えないこともありますので、覚悟して参詣してください。
観音堂遠景
これまた住宅地の裏山といった感じの場所にございまして、ガイドさんとご一緒でなければ、なかなか見付けられません。地元の方はもちろん、ご存じですが。周囲には緑もあり、なかなかの風情です。
手水鉢
けっこう年代モノに見える手水鉢がありました。
お地蔵さま
境内(?)にあったお地蔵さまです。長閑な雰囲気が善き哉でした。
不見山
「不見山」という扁額と小さな鰐口がありました。観音堂はこの中にあります。これも一種の覆い屋と言えるのでしょうかね。運が悪いとこちらの鍵がかかっており、扉が開かないため、中の観音堂にご参詣できないのです。閉まっているかも!? とドキドキでした。
ところで、「不見山」に見覚えがあるような気がしたのですが、極楽寺の山号が「上不見山」です。何か関連があるのでしょうか。⇒ 関連記事:極楽寺
観音堂
こちらが観音堂となります。ご覧のように、重要文化財の観音さまが格子の向こうにおられますから、近付けばそのお姿を目に焼き付けることは可能ですし、マナーの悪い人は写真撮影とかしてしまうかも。ダメですよ。こちらは、土足厳禁ですので、登山用の靴を脱ぐのが面倒でご無礼ながら、この場所からお参りさせて頂きました。
喚鐘
ふふふ。小さな鐘、つまりは喚鐘までありました。
廃光代寺観音堂(広島県廿日市市宮内)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒738-0034 広島県廿日市市宮内1983
アクセス
最寄り駅は宮内串戸です。かなり歩く上、住宅地の中に埋もれて探しにくいです。観光協会さま主催の町歩きツアーで、ガイドさんのご案内を拝聴しながら行くことを推奨します。なお、本文中にもありますように、観音堂は管理者が常駐していないことから、防犯のために扉が閉められていることがあるそうです。やっとの思いで辿り着いて観音さまを拝めなかったらたいへんですので、個人でふらっと歩いて行く際にはそこにも覚悟が必要です。
観光協会さまに連絡しても、何者かわからない観光客一名のために鍵を開けておいてくださるようお願いできるはずもなく(そもそも鍵の開け閉めの権限は観光協会さまにあるわけではないですので)、そこは運頼みです。町歩きツアー開催日に閉められているはずはないと思われますので、ツアー参加ならそこも安心です。
参照文献:観光協会パンフレット、『廿日市町史』、ガイドさんご案内
廃光代寺観音堂(広島県廿日市市宮内)について:まとめ & 感想
廃光代寺観音堂(広島県廿日市市宮内)・まとめ
- 廿日市市の重要文化財の一つ、木造千手観音立像が安置された観音堂
- この観音像は、元は光代寺という、宮内天王社の別当寺にあたる寺院の本尊だった
- 毛利家と入れ替わり、安芸国を治めることになった福島正則は理由不明ながら、光代寺を取り潰してしまった
- 寺院は廃寺となっても、本尊は大切に守られて現在に至っている
- 住宅地の中にある小さなお堂ながら、周囲は緑に囲まれており、とても趣がある
- なお、貴重な文化財が安置された観音堂ゆえ、防犯のためか稀に覆い屋(?)の扉が閉められている(鍵が閉まっている)ことがあるらしいが、開いていれば、格子越しではあるが、直接観音さまを拝むことができる
こんな方におすすめ
- 観音さま等の仏像に関心がある人
- 小さなお堂ひとつでも、由緒あるところならご参詣したい人
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
ガイドさんから小さな釣鐘のことを習ったばっかりのところで、文字通りの小さな釣鐘を見た。こうやって、自分の目で確認しながら参詣すると、とても勉強になるね。
やっぱさ、靴脱いでもっと近い所からお姿を拝見すべきだったね。二回目行ける時間的余裕はなさそうだし、鍵閉まってるかもだし。
なんでもメンドーって言ってるからそうなるんだよ。俺はちゃんとお参りしたから思い残すことはないよ。
えーっ、いつの間に!?
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はつかいち町歩き
廿日市の観光資源と言えば、宮島と厳島神社の知名度が圧倒的です。それゆえに、ほかの観光地の影が薄くなってしまっている嫌いがあるのが、とても残念です。けっして、それだけではないですよ、ということを証明したく、町中を歩き回っています。
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