広島県山県郡北広島町海応寺の吉川元春館跡とは?
毛利元就公の次男・吉川元春公が、自らの隠居所として建てたとされる館跡の遺跡です。居城・日野山城からほど近い場所に建てられていました。
発掘調査の結果、庭園や井戸など、様々な遺構が確認され、かつての館の姿に思いを馳せることができる歴史公園として整備されています。付近には、元春の居城だった日野山城跡をはじめ、家臣たちの城館跡が多く遺されており、それらを総称して「吉川氏城館跡」と呼びます。当館も、その重要な構成遺跡の一つです。当時の武家城館を知ることができる極めて貴重な遺跡群として、まるごと国史跡に指定されています。
併設する「戦国の庭 歴史館」で発掘の成果である出土品などを見ることができるほか、館跡には、元春菩提寺・海応寺跡があり、元春・元長父子の墓所にお参りすることもできます。
吉川元春館跡・基本情報
データ
所在地 山県郡北広島町海応寺
名称 吉川元春館跡
別称 御土居、元春公下屋敷、海応寺本館※
立地 段丘上※
標高(比高) 標高380メートル(10メートル)
築城・着工開始 天正十一年(1583)秋
廃城年 天正十九年(1591)使用終了
築城者 吉川元春
改修者 吉川広家(増築)
遺構 郭、土塁、石垣、礎石建物、掘立柱建物、埋桶、井戸、門、庭園、溝
文化財指定 国史跡
(参照:※は『日本の城辞典』、そのほかは『安芸国の城館』。なお、『安芸国の城館』では、築城開始を天正十一年、吉川弘家の出雲移封で使われなくなった年を天正十九年とし、『日本の城辞典』では使用期間を天正十年~不明としている)
遺跡の概要
なお、館跡付近には、元春館跡以外にも、家臣団の館跡なども残されています。それらの九つの遺跡を合せたものを「史跡 吉川氏城館跡」とし、まるごと国史跡となっています。今回は元春館跡だけの紹介ですが、そのほかの史跡も含めた全体像は、以下の通りです。
史跡 吉川氏城館跡
駿河丸城跡、小倉山城跡、日山城跡、吉川元春館跡、松本屋敷跡、万徳院跡、洞泉寺跡、西禅寺跡、常仙寺跡
このうち、こちらの吉川元春館跡と、小倉山城跡、万徳院跡の三つが「歴史公園」として公開されています。
吉川元春館跡については、平成六年(1994)から平成十年(1998)まで広島市教育委員会による発掘調査が行なわれ、引き続き、平成十一年(1999)から平成十八年(2006)まで豊平町(現北広島町)による補足調査と、遺跡整備が行なわれました。現在目にすることができるのは、これら発掘調査の成果として、整備された遺跡群と出土品などとなります。出土品には、土器、陶磁器、木製品(漆器、箸など生活用品、装身具など多岐にわたる)などがあるそうです。これらについては、「戦国の庭 歴史館」(吉川氏城館跡付属の博物館、後述)にて、一部を見ることが可能です。
(参照:現地案内看板、『吉川氏城館跡』、『広島県の歴史散歩』)
吉川元春館跡・歴史
館ができるまで
天正十一年(1583)秋、吉川元春は家督を長男の元長に譲ります。その後は隠居所でも建てて穏やかな老後を過ごしたい、そんな思いだったのでしょうか。居城を出て、この地に隠居所とするための居所を建築します。これだけの規模のお屋敷ですので、そう簡単には完成しません。年表形式でおっていくと、完成までの道のりは以下の通りです。
天正十二年(1584) 元春夫妻の居所と蔵(衣装等所蔵用)竣工
天正十三年(1585) 東西石垣、芝垣、塗蔵建造
天正十四年(1586) 会所建築
天正十六年(1588) 吉川広家が妻の居所を建てる
天正十九年(1591) 元春菩提寺海応寺建立
(参照:『安芸国の城館』)
館が実際に使用されたのは、天正十二年から、十九年までのわずかに七年間だけでした。なぜなら、吉川広家が出雲に転封となり、この地から去って行ったからです。そもそも、吉川元春が建築を始めた館に、広家夫妻が住まいしていたのはなぜでしょう? 跡継の長男ではなく、弟の一人だったゆえ、お父上の隠居所でぶらぶらしてたからでしょうか?
もちろん、そんなわけがありません。元春も、元長も相継いで亡くなり、家督が広家に回ってきたためです。広家は館を去るにあたり、この地に父・元春の菩提寺を建立しました。それが海応寺で、現在は寺跡しかありませんが、元春の墓所は残されています。
館跡概観
常に不思議に思うのですが、大内氏館跡のような防御もできないただの守護館が、なぜか城跡紹介本の類に載っています。こちらの吉川元春館跡も、城跡ではありませんが、城跡研究書に詳細が書かれています。とはいえ、あくまで居館ですので、城ではありません。安芸国は安泰。天下も統一され(秀吉時点)、もはや城に詰めている必要性もなくなっていましたが。何らかの事情で状勢が変わり、危険となったら城へ戻ればいいだけですしね。
発掘前、石垣以外の遺構は田んぼや林の中に埋もれており、残された絵図面などから研究者の先生方が在りし日の姿に思いを馳せる状態でした。しかし、御屋敷、御本門、御内御門、御風呂の段といった呼び名が残っていたようです(絵図面に書いてあったという意味かも)。
隠居したとはいえども、家臣や客人の出入りはあったでしょう。館はそれらの人々が出入りするおおやけの空間と、完全に夫妻だけのプライベートな空間とに別れていた模様です。前者には石垣や庭園、会所、後者には台所やお風呂場などが含まれます。
基本、館跡は居城・日野山城があった「日野山の西南麓、志道原川右岸の河岸段丘」(『広島県の歴史散歩』)に築かれています。東西南北の区画をざっくりと見てみると、以下のような感じです。
東:館の正面で、石垣を配置。石垣中央表門、その南が通用門という出入り口になっています。
北:河岸段丘の端を削って切岸を作り、削った土を上にあげて土塁としていました。
西:「河岸段丘の傾斜面を削った段に沿って北から南へ大溝。段と溝で区画」(『吉川氏城館跡』)
南:「北と同様に縁辺は切土、盛土で造成し土塁を設ける。土塁の南側は谷川を迂回させた排水路となる堀」(同上)
館の内部はどうなっていたのでしょうか。
表門 ⇒ 広場 ⇒ 建物群
東側中央付近:二棟の大型礎石建物、後に大型礎石建物に改修された掘立柱建物。
北東隅:築地や溝で区画した大型の礎石建物
西:礎石建物群と庭園
南:大型掘立柱建物
平成十四年(2002)吉川元春館跡庭園として名勝指定された庭園、石組土坑、井戸、土坑、鍛冶炉、築地、溝、塀、柵などなどの遺構があります。
文字で読むより目で見たほうが早いし、分りやすいということで、現地の案内看板をお借りします。
※同じ案内版が至る所にありますので、つどつど現在地を確認しながら、すべての遺構を見て行くのがいいと思います。サイズの関係で、この図では上部の海応寺跡部分などをトリミングしています。
なお、『広島県の歴史散歩』を拝読していたら、お手洗い関係の出土品について強調されていました。ほかに類がないほど、充実している模様です。生活していく上で、絶対に欠かせないものながら、何となく大声で語りたくないゾーンではありますが。当時のお手洗いはどのようなものであったのかということが分るのみならず、そこに残る遺物から、当時の食生活なども判明してしまうのです(なにゆえに、食生活までわかるか、説明は不要ですよね)。
(参照:『吉川氏城館跡』、『広島県の歴史散歩』)
寂しい結末と現代に甦った夢の跡
館跡付近に「戦国の庭 歴史館」という名前で、元春館跡の出土品などを展示した博物館が建っています。入るとまずは、館跡の歴史と概観について語る七分ほどのビデオを拝聴します。この作品がこんなわずかな時間で、すべてまるわかりという優れモノです。仮に、吉川元春って誰だっけ? という方がご覧になっても、おおよそのことが理解できてしまう上に、で、この跡地は何? という疑問にも的確にこたえてくださっています。ビデオは他にも何種類かあり、興味がある方はすべてご覧になるのもよいのですが、時間の関係で、オススメの一話分だけですませました。
さすがに吉川元春さんがどなたかは存じ上げていますし、館跡の存在も何となくは知っていました。何しろ国史跡ですので。「隠居所」を建てたらこれからはここで穏やかな余生を……と願うのは普通ですよね。当然そうなったと思っていました。しかし、ビデオのお終い部分で、元春は隠居所の完成を見ることなく亡くなった、というナレーションが入り、愕然となりました。
館跡が使われていた期間は十年にも満たない短い時間です。ですが、そのうち半分以上の期間は、元春夫妻ではなく、広家夫妻が館の主だったのです。父のほうが、息子より先に旅立つのは自然の流れとしても、なんだか悲しすぎます。せめて、完成した館跡で大往生を遂げていただきたかった、そう思いました。
広家が去った後の館がどうなったのかについては、不明のようです。『城辞典』にいつまで存在したか不明と書かれていることからもそれはわかります。誰にも使われなくなって風化していき、やがて土に帰っていったのでしょう。最新の科学がそれを掘り起こし、現代の我々の目に見える形に復元してくれた。そう考えるとなんだか感動しますね。
吉川元春館跡・みどころ
基本は、安芸国分寺歴史公園に似ています。敷地を整備し、発掘調査で分った結果を解説看板やプレートとともに示してくださってあります。国分寺跡と違うところは、こちらには石垣などの目に見える遺構が残っている点です。それらの現代まで残された遺構を確認しつつ、発掘調査の結果跡についてひとつひとつ説明板を読んでいき、あとは自らの脳内に3Dで館跡を再現する、といった作業が必要です。ちゃちな復元建物などはないので、建物跡については、ここにこのような物が建っていました、という説明しかわかりません。
なお、庭園のみは目に見える形で復元されています。こちらはちょっと、大内氏館跡の庭園と「見せ方」が似ておりますね。
切岸と土塁
切岸ときくと山城を思い出してしまいますが……。要するにイマドキ語に変換すると「法面」ですと説明すると分りやすいようでして。というようなことを、別の山城跡でガイドさんのご案内から教わりました。しかしその、「のりめん」なるものが、また意味不明。これほど語彙力に乏しいと、ご説明にも一苦労になってしまいます。道路工事、宅地造成などの際にできた、人工的な斜面のことを法面と言うそうです。その意味では、ここのそれは宅地造成にあたってできたというほうが正しいのでしょうか。館跡に防御的意味を持たせる意図は不明ですから。
で、人工的に土を削って切岸を作る訳なので、削られた土があまりますね。それを上に積み上げると土塁ができます。これもそのまま防御的役割を果たしますが。ここのそれについては分りません。上の方、青々とした斜面の上に土が乗っているのが見えるかと思います。恐らくはこれが土塁です。たまたま駐車場から順番に行くと、最初に見えてくるのが北側となりますので、ご本にある北側に切岸と土塁云々の解説とも合致する次第です。
歴史公園入口
駐車場からそのまま行くと、コチラの入口に到着となります(ほかにも入口があるという意味ではないです)。お屋敷の正面玄関真ん前からではなく、北側から入る構造なのでしょうか。大きな案内プレートとともに、「イノシシ対策用電気柵」が設置されている旨の注意書きがあります。昼間は通電していないそうなので、一般の見学者が誤って触れて怪我をする心配はございません。
石切場跡
入るといきなり「石切場跡」です。
「東西7m、高さ4mの石切場の跡です。ところどころに高さ10㎝、幅8㎝の石切の工具痕(矢穴)が残っています。
中央の斜めに倒れている石の矢穴と岩盤に残っている矢穴が一致することから、中央の石は割られたままで使われなかった石であることがわかります。花崗岩の割れ目(節理)を上図に利用しながら、石を切り出していたのでしょう」
(看板説明文)
正面石垣
「中央の幅8mの門跡の北側に50m、南側に20mに延びる高さ約3.5mの堂々たる石垣です。
間隔をあけて据えた大きな立石の間に平らな石を横積にする石積技法です。石垣の裏側にもきれいな石積面を持つ特徴がみられます。
このような石の積み方は、万徳院跡・二宮氏館跡・松本屋敷跡・今田氏館跡など、この地域にみられる独特な積み方で、古文書に記されている『石つき之ものとも』と呼ばれていた石垣築造の専業職人達が築いたものと考えられます」
(看板説明文)
表門
正面石垣中央部分の切れ目が入口。つまり表門です(上の写真で五郎が立っている辺り)。ここからいよいよ館内部に入っていきます。
主殿舎跡
何に使われていた建物か不明ながら、かつて建物が建っていた場所です。「主殿舎跡」と書かれたものは他にもいくつかあった気がいたします。
門・築地塀跡
これも同じく「主殿舎跡」となっているのですが、ご覧の通り入口が階段になっており、石が積んであります。これが、門と築地塀跡であるらしく、手前に説明プレートがございました。
「長さ18mの築地塀と門の跡です。門の跡は幅2.0mで入口に階段があります。内側には西側を入口とする東西13.5m、南北11.75mの書院造りの礎石建物跡があります。
礎石の抜き取り穴から安産のお守りと考えられる子犬の土製品が見つかっています」
(看板説明文)
廊下跡
廊下がこんなに短いとは思えませんが、発掘調査で証明できる廊下跡としてはこの部分だけなのでしょう。
塀跡
普請小屋跡
付近に説明看板の類があったはずですが、これも「主殿舎跡」と思い、適当に撮影して帰ってきてしまいました。正直、同じに見えますよね……。
井戸跡
いついかなる時も、素人目にもそれと分る井戸跡。もちろん、吉川元春館跡にもございました。
「川原石や割り石を積み上げてつくった円形の石組井戸の跡です。深さは2.75mで水の湧き出る層まで掘り下げられていないことから、雨水などを溜めるための井戸と推定されます。上部は石で覆われており、中からは墨書礫(文字の書かれた石)や半分に割られた柿経(お経の書かれた薄い木の板)が見つかっています。井戸を破棄するときに呪いが行なわれたものと思われます」
(看板説明文)
井戸って当然、そこから水をくみ上げるもの、と思っていました。でも違うんですよね。つい最近とある山城跡でガイドさんから教わりました。むろん、そのような井戸もあるでしょうが、こちらの説明文のように、雨水を溜めておいたりするようなものだったりするのです。雨水だけで、十分に必要な水が調達できるわけでもなく、つまりは外部から水を運び込んで溜めておくことなども行なわれたようです。そんな溜井戸しかなかったら、いくつあっても敵に囲まれたらやがては水不足でアウトとなりますね。
それはさておき、「井戸を破棄するとき呪いが行なわれた」という記述にびっくりしました。
庭園
国の名勝に指定されている庭園です。恐らくは復元展示されているのは、その一部分であるような気がします。
「主庭園は築山と池からなり、東西と南の一部が築地塀で囲まれていました。南側の建物群から鑑賞していたものと考えられ、滝石組と三尊石風の石組が主景となっています。
小庭園は築山の東側を鈎形に削ってつくられ、石組だけで構成している平庭です。
石組や敷石遺構が良く残る中世末期の秀逸な城館庭園として、平成14年国の名勝に指定されました」
大溝跡
館跡の西側は「段と溝で区画」とあった溝です。現地案内版にも、参考文献にも「大溝」と書いてあります。現在も水が溜まっていますが、これはたまたま雨水が溜まっているのか、今なお溝として機能しているのかは不明です。説明看板があったと思われますが、これまた見落としておりました。
ぐるりと取り囲む長い溝の二ヶ所に小さな橋が渡されておりまして、これも、中世から続くものなのか、復元されたものなのか不明ながら、下の写真のようになっております。橋がないと水が流れている溝は渡れませんからね。
吉川元春墓所
上の大溝の橋を渡った先が、このような道になっています。分岐点の案内看板にはガイダンスホールと見えていますが、この写真からは見えていないほうに、海応寺跡と書かれております。じつは、歴史館より先に館跡を見てしまっていたので、海応寺というのがなんなのか知りませんでした。しかし、このような場合、かなりの高確率で菩提寺・墓所であると考え、乗り気ではない廿日市の先生を強引にお招きしました。
すると、やはり元春公墓所がございました。長年培われた勘は満更でもないよね。というよりも、事前に案内看板をよく見れば何があるのか分らず先へ進むこともない話とはなります(汗)。
例によって、例のごとく、毛利家の墓所はガードが固く、中の様子を窺い知ることは困難です。隙間からそっと中を拝見すると、元春公墓碑らしきものをチラ見することはできますが、すべてを視界におさめることはできません。なお、墓碑は三つ並んでおり、一つは長男・元長のもの(元春の左)ですが、もう一つ(同右側)については四男のものとされているものの正確なことはわからない旨、案内看板に記されていました。
「史跡吉川氏城館跡(昭和六十一年八月二十八日指定)
吉川元春の墓
吉川元春は一五八六年(天正十四)豊臣秀吉の要請により九州の小倉へ進攻した時に五十七才で病役した。遺骨を此の地に帰し送葬し随浪院殿前駿州大守四品海翁正恵大居士と号す。
又、左に隣接しているのは、元春の長男元長の墓で、一五八七年(天正十五)に宮崎県日向において四十才で病死したものである。 元春に同じくこの地で送葬し萬徳院殿前禮部中翁空山大居士と号す。
なお、右に離れている墓標は元春の四男で早世した禅岑法師の墓と言われているがさだかでない。
吉川家が岩国へ移封された後は一時期荒廃したが、一八二七年(文政十)に修復され、玉垣・石燈ができた。
更に一九〇八年(明治四十一)の追贈に際し改修が行なわれ現在に至っている。」
(看板説明文)
「戦国の庭 歴史館」
吉川元春館跡に併設されている感じの資料館です。発掘調査の出土品、調査の結果明らかになった館跡を再現した模型、吉川家とこの館跡についてわずかに七分で理解できるビデオなどを見ることができます。コンパクトながら、なかなかに中身の濃い博物館と言えますので、忘れずに立ち寄ってください。
ちょっとかわったところとしては、吉川元春と広家父子をイケメンキャラクター化したグッズが販売されておりました……。需要のある方にとっては垂涎物と思われます。ちなみに、吉川家三代の甲冑(模造品)が展示されているのですが、これは写真撮影 OK となっています(触れることは禁止)。
吉川元春館跡(山県郡北広島町海応寺)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒731-1703 山県郡北広島町海応寺 255−1
※Googlemap にあった住所です。
アクセス
廿日市から車で行きました。というのはあまりに不親切ですので、『吉川氏城館跡』に載っていた「戦国の庭 歴史館」へのアクセスを拝見してまとめておきます。
中国自動車道利用の方は 千代田 I.C ⇒ 国道 261 号線 ⇒ 蔵迫交差点 ⇒ 国道433号
浜田自動車道利用の方は 大朝 I.C ⇒ 町道船峠線
車の免許持っていないので、これを見てもさっぱりなのですが。というよりも、電車の最寄り駅、バス停などのご案内がないというのは、タクシーかマイカー利用以外に辿り着けないように思われ、そのほうが恐怖です。マイカーはとにかくとして、タクシーは……。
参照文献:『吉川氏城館跡』、『安芸国の城館』、『広島県の歴史散歩』、『日本の城辞典』
吉川元春館跡(山県郡北広島町海応寺)について:まとめ & 感想
吉川元春館跡(山県郡北広島町海応寺)・まとめ
- 毛利元就の次男、吉川元春が嫡男・元長に家督を譲った後、隠居所として使うために建築した館跡
- 元春は館の完成を待たずに亡くなり、元長も亡くなったので、兄から家督を継いだ広家夫妻の居所となった
- 広家が出雲に国替えとなったために、館は使われなくなり、やがて廃れていったらしい
- ここに館が存在していたことは、各種史料や絵図などから知られており、現代になってから自治体による発掘調査が行なわれた
- 元春の館付近には、元春の居城だった日野山城跡やほかにも家臣の城跡や館跡が遺されており、保存状態などもよかったことから、九つの遺跡をまとめて「吉川氏城館跡」として国史跡指定を受けた。
- 現在、館跡は発掘調査の成果がわかる歴史公園として整備されており、出土品などは併設の「戦国の庭 歴史館」で見ることができる
- ことに、復元展示されている庭園は価値の高いものとして、国指定の名勝となっている
何とも言えない長閑な田園地帯の中にございます。それだけでもう、最高に心地良いのですが、それだけ都会から離れているということにもなります。自治体さまホームページで調べても、最寄り駅のかわりに「千代田 IC」としか書いてありません。電車はおろか、バスもないとしか言いようがありません(付近に何かしらあれば、それが書かれているはずです)。つまり、素晴らしい場所ではあるが行くのが困難である、ということになります。……というのは、車を持たない人種の愚痴であり、マイカー所持の方なら問題はないですね。ただし、他県から来ているとなれば、それなりにたいへんです。レンタカーを借りてここだけは車にするか。それとも、自宅からひたすらに車か(うちの叔父は千葉県から実家の四国まで自家用車です)。
とまぁ、辿り着くまでがたいへんという問題が大きいのですが、着いてからは良いこと尽くしです。とは申せ、目に見える遺構としては、石垣と土塁くらいしかないですから、そのほかの建物などは想像するしかありません。ひたすら「〇〇跡」というプレートを確認するだけとなります。復元された庭園は国指定「名勝」ですので、一見の価値があります。
廿日市の先生のお車に便乗して貴重な史跡をちゃっかりと見学できました。何とも運がよろしいことです。すなおな感想としては、安芸国分寺歴史公園と似ているな……という感じです。「〇〇跡」のオンパレードですので。ただし、吉川元春さんが好きな方にとっては、まさに聖地ですね。毛利三兄弟の中では、このお方が一番の推しであるため、墓参までできてしまったことは、最高についていました。しかし……。墓所の看板はろくに読みもしなかったので、「戦国の庭 歴史館」のビデオで拝見したのですが、元春さんも、元長さんも異郷の地で亡くなられており、隠居所の完成を見ることはなかった、と。衝撃でした。もちろん、完成はしておらずとも、ご夫妻は館に移っていたと思われ、この地での思い出も少なくはないはずです。
しかし、「天下人」とやらの命令で、楽隠居も全うできずに戦場に駆り出されてこき使われ、それがために亡くなられるとか(戦死ではなくとも、明らかに合戦関連死ですよ、これは。個人的な意見です)、何威張ってんだよ、と思うわけです。毛利家が天下取ってくれてたらよかったのに、ってまた考えてしまいました。もしそうであったなら、その後の日本史はどうなっていたでしょうか。広家さんご夫妻とて、出雲行けの一言で引っ越しでしょ? その後はまた、入れ替わった別の「天下人」からの防長行けの命令で吉川家は岩国に引っ越し。「吉川氏城館跡」に含まれる九つの遺跡の中に、洞泉寺跡の名前があるのを見てピンと来ました。これ、現在岩国にある洞泉寺が元々あった場所ですよね(多分)。山口へ移ったのは、洞春寺だけではないっていうのは知っていましたが、岩国の洞泉寺も吉川家代々の菩提寺である以上、最初からあの場所にあったはずはないですよね。今の今まで気付かなかった。どれだけ適当シャッフルしてくださっておられるのでしょうかね、「天下人」とやらは。
こんな方におすすめ
- 中世城館跡が好きな人
- 毛利家、吉川家が好きな人
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
隠居所を造ったら、後はそこでのんびりと過ごしたいと思うのに、そんなささやかな夢も叶わなかったなんて。気の毒すぎる。結局の所、最後まで、戦い通しの人生だったんだね。
そうだね。なんだかほろりとしてしまった。いや、君の仇に対して、そんな感情を抱いてははならないんだけども。
ん? 俺の仇って何? 厳島神社が燃えないように、消火活動をした立派な人では?
そのエピソード、よほどお気に入りなのね。いいよ、消火活動をした立派な人ってことで。
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安芸紀行
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宮島と廿日市は訪問回数最多ですが、ほかの都市は訪問先がばらけてしまっていますので、こちらにまとめています。続きを見る