お詫び
このページは章段リストですが、未完成&不完全です。引用の時どこに何があったかわからなくてメンドーなので便宜上作ったものです。なので、参考にはしないでください。ながすぎるので、五回に分けました。なおも長いので、さらに分割すると思います。
巻第一
後土御門院の御治世
足利家の繁栄
足利義稙征夷大将軍宣下
義稙将軍河内国発向・正覚寺合戦
義稙将軍西国下向(亡命)
義稙卿防府天神御参詣
義稙、大内義興を頼る
巻第二
足利義澄征夷大将軍宣下
少弐蜂起 附・政資、高経の自害
細川政元生害 附・細川澄之の自害
義稙卿御帰洛 附・将軍再任
京都合戦
長曾我部先祖 附・元秀の戦死
和泉国毛須深井合戦 附 ・摂津国豊島山崎両所合戦ならびに義澄将軍の薨去
将軍丹後御退座 附・船岡山合戦
尼子経久の隱謀
山陰地方の一大勢力となり、大内氏の領国と境を接し互いに潰し合う関係となる尼子氏。尼子氏を京極氏配下の一守護代から山陰の雄に押し上げた尼子経久と、名実ともに西国一の大大名として光り輝く大内義興とのエンドレスな覇権争いの端緒が描かれる。ヘンテコな部分もあれど、義興が擁立した足利義稙ではなく、義稙復職で都から逃れた義澄の遺児・義晴を養育する六角氏からの味方になって欲しいとの誘いに飛びつく。⇒ 関連記事:『陰徳太平記』曰く「尼子経久の陰謀」
尼子氏の先祖
尼子氏は近江の宇多源氏・京極氏から分出した。宇多天皇から、経久の孫・晴久までの系譜。大内氏と違って始祖が異国の王族ではないため素性ははっきりしていると思われるが、宇多天皇のご子息がどのように枝分かれしたかなど存じ上げないので、曖昧な部分がゼロかどうかは責任が持てない。
尼子経久立身
京極家から出雲の守護代を任された経久の祖父。孫の経久まで三代にわたり出雲国を治めたが、いち早く戦国乱世の到来を予期した経久は、積極的に富国強兵を始めてしまい、主家・京極氏の意向など無視。幕府にも睨まれ、守護代の地位を追われてしまう。浪々の身となった経久が、智謀を巡らせ、わずかな人数で月山富田城を奪取する成功物語。※『陰徳太平記』は尼子氏の主家を六角氏と間違えている。
経久、三沢氏を謀る
主家も幕府も無視し、実力で出雲国を手に入れた経久だったが、弱々しい小領主は傘下に入ったが、先祖代々の名門大勢力は易々とは靡かない。それらすべてを敵に回すのは得策ではないため、経久はまたしても謀を用いる。罪を犯して経久の怒りを買い、三沢氏の元に逃げ込んだ尼子家臣・山中。経久により、国許に残してきた母や妻が入牢の憂き目に遭うなど、深く経久を恨んでいた。ゆえに、夜討ちして鬱憤を晴らしたいという申し出に、三沢はこの機に気に食わぬ経久を潰せたら……とほくそ笑む。山中のために選りすぐりの将兵をつけてともに乗り込ませたが、なんと、すべてはこの日のために経久が仕込んだ山中の芝居だった。夜討ちに入るどころか、ほとんどの精鋭を逆に討ち取られ、意気消沈した三沢は経久の軍門に降るほかなかった。この有り様を伝え聞いた他の勢力もこぞって経久の配下に。こうして、出雲国はまるっと尼子家の配下となっていく……。
卷第三
毛利先祖 附・元就卿のこと
丹比松寿丸の元服 附・明人、人相を見る
武田元繁安芸帰国 附・諸城攻撃
武田有田城攻め 附・吉川高橋論同城事
猿掛麓合戦之事
有田中井手合戦 附・熊谷元直戦死
有田合戦 附・元繁戦死
香川己斐討死
上野民部大輔安芸下向
卷第四
公方義稙公有馬御入湯
尼子伊予守経久出雲国阿與城攻撃
大内義興帰国 附・大内尼子和睦
摂津国田中城夜討
細川澄元園越水城 附・細川高国後詰之事
細川高国近江より上洛 附・三好喜雲自害ならびに細川澄元逝去
将軍義稙卿御潜居 附・義晴将軍任官
高橋大九郎討死
丹比元就被圍靑屋城事
安芸西条鏡山城陥落
卷第五
元就毛利、家督を継ぐ
相合就勝謀反 附・生害之事
桂広澄自害
大内勢、銀山桜尾両城を囲む 附・次休蔵主
根之坂上合戦
武田光和合戦
尼子勢銀山後詰 附・合戦
毛利元就夜討
大内勢敗北 附・義興、筑前国発向
-
イマドキ『陰徳太平記』
『陰徳太平記』は江戸時代に書かれた軍記物です。毛利家臣によって書かれ、「陰徳思想」によって、毛利元就を礼賛する書物です。毛利家と関わりのあった他家の人々についても面白おかしく書かれているので、読み物としてはそれなりですが、信憑性は薄いです。
続きを見る