広島県三原市本郷町本郷の新高山城とは?
小早川家の家督を継いだ毛利元就の三男、小早川隆景が築いた城跡です。付近には小早川家代々の居城・高山城がありましたが、隆景はなぜか新たに城を築いて引っ越しました。その後は、三原城を築城しさらに移転したため、隆景一代限りの城となりました。
城跡は地元の方々の手で隅々まで整備されており、案内看板などの類も充実しておりますので、きわめて登りやすい山城跡となっています。高山城、三原城とあわせて「小早川氏城跡」として、国指定史跡になっています。
新高山城・基本情報
所在地 広島県三原市本郷町本郷・船木
名称 新高山城
別名 雄高山城
立地 丘陵頂部
標高(比高) 196 メートル (180)
築城・着工開始 天文十九年(1550)~二十一年(1551)頃、天文二十一年から慶長元年まで使用※
改築 天正年間(1573~1592)に大改築
廃城年 天正十三年(1585)以降
築城者 小早川隆景
廃城主 小早川隆景
遺構 郭、石垣、土塁、井戸、畝状竪堀群、堀切
指定文化財 国史跡「小早川氏城跡」
(参照:『安芸国の城館』、『日本の城辞典』※)
新高山城・歴史
元就次男の小早川家入り
毛利元就は、三男を小早川家の養子としました。小早川隆景です。
小早川氏の先祖は鎌倉御家人・土肥実平、その子・遠平です。平家方に与して滅亡した沼田氏の所領だった蓮華王院領沼田荘地頭職を頼朝から与えられ、遠平の孫・茂平が西国に移ってきて小早川姓を名乗りました。茂平は承久の乱で軍功をあげ、さらに都宇荘と竹原荘(下賀茂神社領)を得ました。茂平の嫡男・雅平が沼田荘を、その弟・政景が残りの都宇荘と竹原荘を相続します。これがそれぞれ、竹原小早川家と沼田小早川家の起こりです。
両家は応仁の乱でも、それぞれ東軍・西軍につくなどして対立し、長らく抗争を繰り返しておりました。最終的に、両家とも次第に力を失っていきますが、隆景は先に「沼田小早川家」を相続し(天文十三、1544)、のちに「沼田小早川家」も相続しました(天文十九、1550)。これは、竹原小早川家を継いだ隆景が、沼田小早川家当主の妹を妻とするというからくりによるものです。何と、長らく争っていた両小早川家は統一されてしまったわけです。
毛利元就は、次男の元春を吉川家に、三男の隆景を小早川家に養子として入れ、二人が家督を相続することで、安芸国の名門だった二つの家を完全に配下に入れてしまいました。悪く言えば、「乗っ取り」ですね。配下も何も、息子たちが相続したということは、身内どころか、一門となってしまい、毛利家の勢力は肥大化したわけです。
小領主がバラバラに分裂してまとめるのがたいへんな状況も、治める側としては厄介ですが、一つの家が力を持ちすぎるのもまた危険な状態です。この時の毛利家はまだ大内氏の風下にあったので、いちいち大内義隆の許可を得なければなりませんでしたが、特に警戒されることもなく認定されています。危機感がなさすぎるのは大問題と思います(個人的な意見です)。
しかし、小早川家、吉川家ともに問題を抱えていたようでして、お家の存続のためには立派な人物が当主になって欲しいと望む家臣たちがおり、元就の息子たちの養子入りは、それらの人々との密かな話し合いの結果でもありました。それを証拠に、これをもって「乗っ取られた」などと反発する人はおらず(いたとしても少数派。淘汰されてしまったのかもしれません)、皆元就の息子たちを歓迎した模様です。
高山城と新高山城
新高山城からほど近いところに、沼田小早川家が本拠地としていた「高山城」があります。しかし、隆景は家督を相続したのち、その高山城からほど近いところに、新たな本拠地となる城を築城します。それが「新」高山城です。
新旧二つの高山城は川を挟んで並び立っているような感じでして、元々城があったのに、なにゆえ、その目と鼻の先に、もう一つ新しい城を造ったのかは謎です。
今回登頂しておりませんが、高山城について簡単に見て行くと、こちらは長らく「沼田小早川家」の本拠地としてその役割を果たしておりました。城が築城された時期などは特定されていないようですが、当時、竹原、沼田の両小早川家は対立・抗争していたので、応仁の乱の頃などには、竹原小早川家がこの城に攻め込むようなこともたびたびあったようです。
最初に竹原小早川家を相続した隆景は、その本拠地だった木村城にいましたが、沼田小早川家も相続するに至り、本拠地を高山城に移しました。そして、新たに「新高山城」を築城した、というわけです。新しい城ができた後、元の高山城はお役御免となったのでしょうか? 詳細は不明ながら、城には16世紀中頃まで利用されていた痕跡が残るといいます。ちょうど新高山城が建てられた時期までとなります。新しい城が造られても、元の城にも見張り台くらいは残しておくのが普通ですが、これだけ近すぎる場所にあると、古いほうの城にはほとんど存在意義がなさそうですね。
城の概観
中世山城時代の最晩期に建てられた城です。とはいえ、未だ近世天守閣の城を築城する時代には至っていない。ゆえに、ところどころ、近世の城郭建築様式への過渡期にあたる部分が見受けられます。要は、戦国乱世に突入し、どこもかしこも元々の山城に手を加え、より強固なものにしようと改築したわけです。それらは主に、石垣や虎口だということです。
これより少し前の時代には、切岸に石を埋めて補強するなどということが既に始まっていたようですが、さらに時代が進むと、石垣が築かれるようになるわけです。近世になると、石垣だらけです。虎口なるものも、古すぎる山城跡には見られません。
1~4の郭が主なもので、ほかにも多くの郭があり、井戸や寺院跡などもあります。各郭は虎口や石垣を備え、ほかにも多くの郭、土塁、堀などの遺構が残されています。山頂にある郭1~3は、詰めの丸、本丸、中の丸跡といい、そこから一段低い位置にある4の郭と、その下に連なる多くの郭群からは山頂へと続く道が丸見えだった模様です(参照:『安芸国の城館』。
『広島県の歴史散歩』によれば次のような遺構があると。このご本は歴史探訪のお供として、たいへん重宝しておりますが、なにぶん、出版年度がやや古いため、最新の研究結果が反映されていない可能性もあります(権現丸なるものは、現地案内版にはなかった気がします)。
北の尾根:北の丸、二の丸、本丸
南の尾根:出丸、権現丸、南丸
南東尾根:堀切
ところどころに石垣、土塁、井戸跡
寺院跡、庭園や池の跡、築地跡などが見られるほか、城内には何と能舞台までもあったことが古記録から知られています。どうやら、吉田郡山城同様、山城が居館としても使われていたようですね。
「小早川氏城跡」
長らく毛利家の本城だった吉田郡山城が輝元期、ついに広島城に本拠地の座を移したのと同様、新高山城も三原城にその地位を明け渡します。隆景は三原城の築城のために、思い出深い新高山城の石垣や石を用いました。別に記念として運び出したわけではなく、築城資材にしたという意味です。そのため、新高山城は石垣などが破壊されたことになりますが、それでもこの城の歴史的意義は大きく、いまなお高く評価されています。
小早川隆景が築城した新高山城と三原城に、元々の小早川氏の本城だった高山城をあわせて「小早川氏城跡」として、国の史跡に認定されています。
新高山城・みどころ
高山城跡
こちらは、高山城となります。残念ながら、新高山城と向かい合っている姿を撮影できてなかったけど。本当に目と鼻の先です。背後に見える幟旗が新高山城をアピールしているものですから。ちなみに、新高山城を別名「雄高山城」というそうなので、だったらこっちは雌なのかな、と思ったら「妻高山城」というのだそうです。ううむ。
新高山城(城の姿)
山城は遠くにありて愛でるもの。あまりに近付きすぎると全体像がつかめません。でも、これしか撮影していなかったので。
登山道入口
もっと正確な意味での入口(登山道への曲がり角)はアイキャッチの写真です。こんだけアピールしているのですから、見落とす方もおられぬかと。小早川隆景人気が分るというもの。なにゆえ、この方ばかりがかように人気があるのか(特に若い女性)、次男推しのミルたちはその理由が知りたいです。むろん、三兄弟は押し並べて人気があります。でも、なんか突出しているんですよ(若い女性)。普通に歴史に詳しい方、純粋に山城登山を好む方には、このような依怙贔屓はないので、過剰評価されている、というようなことはありません。あとは、自治体さまの力の入れ具合でしょうかね。それについてはいずこも遜色ないと思うのですが。
入って暫くはこんな道です。途中民家があったりして、撮影は憚られます。石垣が見えていますが、これも遺構でしょうか。
順路案内版
いたるところに「こっちです」という矢印看板が。これで迷ったら恥ずかしいよね。しかし、何気に五郎が立っているほうにも道は続いているので、この看板がなければ、真っ直ぐ行ってしまうことも十分考えられ、とても親切です。
登山道入口(二)
あれ、さっきも入口案内看板がデカデカとあったのに、ここにもまた? と思いますが、どうやらここに至るまではウォーミングアップにすぎず、本格的な登山はここからのようです。そういや、ここまでは舗装路だったりしましたが、この先は完全に山の中です。山歩きのお供に、杖のようなものも置いてありました。
さて、この案内看板の右下にポストのようなものがございまして、ここには新高山城のパンフレットが入っています。ご自由にお取りください、というものです。ここで、たいへん重要なことをお伝えします。ここは新高山城ですが、中には高山城のパンフレットも入っているのです。くれぐれも間違えて取らないようにしてください(間違えて取ってしまい、それに気付かなかったので、あるはずのものがない……と彷徨ってしまいました)。
山道
なるほど。山道開始です。こういう山城跡多いですが、地元の方々の手で、樹木のお名前プレートがついています。木なんか見ても何なのかわからないですからね。基本は整備が行き届いており、このような山道か、もしくは下のような階段がついております。
番所跡
真っ直ぐ行くと番所跡、左折すると鐘の段という分かれ道で、まずは番所跡に向かいました。
「番所跡
軽石の段、中の段、下の段の三郭からなり、大手道を警固する番所が設けられていたところである。この番所の東方と西方にもそれぞれ東の番所、西の番所と呼ばれる郭が残っている」
(看板説明文)
匡真寺跡
「小早川氏の菩提寺跡で、隆景は天正5年(1577)亡父毛利元就の七回忌、亡母妙玖尼の三十三回忌に際して、ここに匡真寺(現在三原市宗光寺)を建立し、法会を盛大に営んだ。
寺跡は東西41メートル南北72メートルに及ぶ広大なもので、全面に瓦片が散乱し、築庭を思わせる湧水池・築地塀の跡などが残っている」
(看板説明文)
瓦片
湧水池跡
中の丸
「中の丸(二の丸)跡
本丸の北方に四段の郭からなる東の丸、井戸郭、五段の郭からなる中の丸、西方にも四段の中の丸の各郭が配置され、こ れらが二の丸の縄張りである。
中の丸の郭には随所に土塁を築き、曲輪を設けて防備を固めている。
また、北方の中の丸の広い郭には礎石 の配置が一部みられ、規模の大きな建物があったことが知られる。
三原市教育委員会」
(看板説明文)
本丸跡
ついに本丸跡に到着です。途中かなり省略しておりますが、ここに至るまでに、郭や石垣の跡など色々とありました。
詰めの丸
本丸のさらに先端にある謎の石たち。神さまが彫ってあったりします。これは、城の方々が造られたものなのか、のちに何かの信仰に関連して造られたものなのか。はて、どうなんでしょうか。
展望
ココが山頂ってことらしいですね。さきほどの神さまに埋もれていました。神さまの岩群は周辺ぐるりと道がついており、背後から素晴らしい展望を楽しむことができます。
名残惜しいですが、ご覧の通り、お天気はご機嫌斜め。登ってくる途中、分かれ道に入らず直進したために、見落としたところがございますので、それらを補いつつ下山していきます。
西の丸・北の丸(三の丸)跡
「中の丸に続いて西方に配置された四段が西の丸で、これからさらに北西にのびる北の丸の五郭が連なっている。これらが三の丸の縄張りである。
西の丸の東端の郭は石弓場と呼ばれるが、それ自体が二の丸を守る箱薬研の堀切の役割を果たしている。
また、北の丸の中心的な郭には石積みの方形基礎が残っており、社寺に類する建物があったと思われる。
三原市教育委員会」
(看板説明文)
鐘の段
「城山の南斜面中腹に半独立的な小丘をなしている郭で鐘の段と呼ばれる。
この鐘の段は、北方背後に土塁を設けた二郭、東側に大小二郭、西南側に三段の郭を配置している。
鍵の段を中心としたこれらの郭は、地形、縄張りなどからみて、中世初期の独立した山城(丘城)の形態をなしており、 この部分の築城年代は古いものと思われる。」
(看板説明文)
附・米山寺小早川家墓所
曹洞宗寺院・米山寺は沼田小早川家の菩提寺で、寺院付近には小早川家代々の墓所があります。ずらーーっと並んだ宝篋印塔は圧巻です。合計二十基の宝篋印塔のうち、二つが国の重要文化財指定を受けており、そのうちひとつが、小早川隆景の墓碑とされています。
前列右端の塔が、隆景公の宝篋印塔です。なお、キャラ画像は目印用に合成したもので、墓所の中に入ることはできませんので、ご了承ください。
新高山城(三原市本郷町)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒729-0412 三原市本郷町本郷
※Googlemap にあった住所です。
アクセス
鉄道最寄り駅は三原となりそうですが、歩いたら信じられないほど遠い気がします。山口市内などでは、どこまでも歩いてしまいますが、山城に向かう前に体力を消耗するのはいけませんので、車がいいです。駐車場完備です。欲を言えば、同じ日に高山城、三原城も制覇したかったですが、無理は禁物です。
参考文献:『安芸国の城館』、『広島県の歴史散歩』、『兵どもの夢の跡』、『日本の城辞典』
新高山城(広島県三原市本郷町本郷)について:まとめ & 感想
新高山城(広島県三原市本郷町本郷)・まとめ
- 小早川家を相続した毛利元就の次男・隆景が、沼田小早川家代々の居城・高山城の向かいに建てた城。それゆえ「新」高山城と呼ぶ
- 中世から近世へと築城のあり方も変っていく過渡期にあった時期の城として、たいへんに貴重なものとされ、高山城、三原城とあわせて「小早川氏城跡」として、国指定史跡になっている
- 非常に整備が行き届いた山城跡で、迷わぬような配慮がなされており、個々の遺構はほぼすべてに解説看板がついている。見落としや迷子の悲劇は最小限と思われる。しかし、油断は禁物なので、ひとりでふらっと入ることは厳禁
- 隆景はのちに、三原城を築城して移っていったので、新高山城はその役目を終えた。その際、この城の石垣や石を、三原城の建築に使ったという。それでもなお、石垣や石積みなどの遺構は残されている
- 車で来たのなら、沼田小早川家菩提寺だった米山寺に立ち寄ると、墓所にお参りでき、隆景の墓碑もそこにある
何かとわかりやすい城跡です。いわゆる山城マニアでない場合、山城跡を見学する目的は、歴史的好奇心からであることが多いと思われます。城跡研究者の先生方ならば、研究のために、数多くを調査します。ここは誰の城でどんな歴史があり云々はもちろんご存じですが、中世史浪漫に浸るために入っておられるわけではないので、遺構の残り具合とか、その場所に築かれた地形的意義とか、関心事項はそちらです。山城マニアの方々も研究者に負けず劣らず、それらを重視しているので、恐らく歴史は二の次です。日本全国いくついくつの山城を制覇しましたと宣う方々は多分そちらです。
そのような方々が半分羨ましいです。なんで、半分なのかと言えば、案内など不要で一人でどこへでも入っていき、なんでも見付けて帰ってくるからです。最近、「山ガール」だか「山城女子」だか呼ばれる方々もおられるようなので、何もそのようなマニアは男性だけとは限らず、女性でも一人きりで平然と山に入っていたりします。まあ、自己責任でやっておられるわけだし、それだけの能力値があるゆえなのでご無事でしょうが。しかし、我々中世史浪漫の面々は、堀? 竪堀? となります。せっかくの訪問機会に大切なものを見落とすこともしばしばです。
友人と話していたら、彼女も同じ悩みを抱えており、これは先生方も仰ることなので、なるほどそうかってかんじですけれど、その場でご説明を聞いた時には堀だの竪堀だのがよく理解でき、写真にも納め後で復習しようと楽しみにしていると、帰宅後見た写真にはただの林が写っているだけです。これは、現地では立体的に見える物が、写真だと平面になってしまうので、よほどの専門家でもなければ、教科書に載っているような写真は撮れないそうです。
それでも、郭=削平地くらいは平面でも撮影可能です。しかし、整備されていない城跡ですと、入り口の案内看板と頂上の本丸跡看板以外何もなかったりします。どれが〇〇の郭なのか、なんてことは、地図を眺めてもまったく不明です。あんなにたくさん見たのにな、と思うと失われた時間と労力を思いげんなりします。その意味で、この城跡のように、ここは何で、どんなものという解説が至る所に書いてくださってあると本当に助かります。加えて、山道が分りづらい山城跡も、素人にはとても危険ですので、道が整備され、順路案内までついていたら完璧です。
各地に点在する山城跡は、よほど整備が進んでいない限り、年々埋もれていきます。もしも、行きたい所があるのなら、早めに行ったほうがいいです。道が荒れ果てて埋もれてしまい、現地の方すら通れなくなったり、自然災害で道がなくなってしまうこともありえます。まあ、そういう整備してもらえなそうな城跡に関心をもってしまった方は、必ず、地元の方にご案内をお願いしましょう。少なくとも、この城跡は問題ないです。でも、念のため、一人でははいらないように。
こんな方におすすめ
- 山城跡を巡るのが好きな方
- 小早川隆景や毛利家に関心のある方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
俺入口の案内看板で、井戸があることを知ってしまったんだよね。でも、ミルの案内には井戸が出て来ない。つまりは「見てない」ってこと。整備が完璧で、見落としや迷子が起りにくいということは事実なんだけど、にもかかわらず、見落とすこういう人種がいるってどういうこと?
何度でも来ればよいではないか。それよりも、三原城のど真ん中に新幹線の線路が貫通してしまっていることを、お前は知っているか?
ん? 城の中を新幹線が通ってる!? すごいな。ということは、新幹線に乗ったら、知らぬ間に城を通っているということか。
何がすごいのだ。隆景公が心血注いでお造りになった城跡を線路で分断するなど。だが、イマドキの民の利便性を思えば、そんなことを恨みに思うようなお方ではない。むしろ、喜んでおられるであろう。
ここまで毛利に媚び売ってる親戚がいるなんて、堪えられないよ。
それは元就公と三人のご子息の偉大さを知らぬ者の台詞だ。
(確かに新幹線で何度も跨ぎ越したけど、やっぱ三原城も見てみたい……)
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安芸紀行
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