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銀山城(広島県・安芸武田氏の居城)

2023年6月27日

銀山城跡・頂上看板

広島県広島市安佐南区祇園町の銀山城とは?

甲斐武田氏と同じ一族である「安芸武田氏」の居城だった山城跡のことです。鎌倉時代、のちに武田信玄などで全国区に有名となる甲斐国以外に、安芸国にも所領を与えられた武田氏は、彼の地の守護職に就いていたのです。太田川に面した要衝の地にあり、安芸国を治める守護家の本拠にふさわしく、大規模でかつ攻めるに固い城でした。

南北朝期以降の武田氏は安芸国全体を支配するような力はなくなり、大内氏のような大国に抑えつけられることになりました。勢力回復を目指しつつもついには果たせず、歴史の舞台から消えていきました。

現在、城跡は「武田山」として地元の皆さまのハイキングコースとなっていますが、多くの遺構が見られる巨大な山城跡としても楽しめます。

銀山城・基本情報

正式名称 金山城※
別名 銀山城、武田山城
形態 連郭式山城
立地 丘陵頂部
標高(比高) 410 メートル(360メートル)
面積 東西約 700 メートル、南北約 1000 メートル超
築城・着工開始 鎌倉時代末期
廃城年 1600年
築城者 武田信宗
廃城主 不明
改修者 大内氏、毛利氏※※
遺構 郭・堀切・畝状竪堀群・土塁・石垣・水槽・柱穴
指定文化財 広島県史跡

※「銀山城」という呼び名は近世以降のものであり、安芸武田氏が活躍した時代には「金山」と書き、当時の史料にも同様に記されているそうです(『安芸国の城館』)
※※ 特に増改築したかどうかわかりませんが、陥落後に城の持ち主となった人たち。修繕くらいはやったでしょう。
(参照:『広島県の山』『安芸国の城館』『兵どもの夢の跡 中国地方の山城を歩く』『日本の城辞典』すべていずれかの書物が典拠ですが、本によって載せている情報の種類が違うため、バラバラな情報をひとつにまとめてます)

銀山城・歴史と概観

安芸守護・武田氏の城

「武田氏」ときいたら「安芸武田氏」が真っ先に思い浮かぶんですが。世間一般には、武田信玄とかのほうにいってしまうようです……。洋の東西で異なるのみならず、日本国秋津島六十六ヶ国においても、東国と西国ではまるで違う世界観であるということを、常に感じます。国政の中心地が東国に置かれている現在、「世間一般」が=東国の考え方となるみたいで。ここでは「安芸武田氏」について掘り下げる必要はなく(そんなことしていたら何十年もかかってしまうほど複雑)、銀山城跡に関わることだけ知っていればよろしいので、「世間一般」の権威にまとめてもらいました。

たけだし [武田氏]
平安末~戦国期の甲斐国の武家。 清和源氏の支流、甲斐源氏。 源義光の子武田冠者義清が、常陸国武田郷(現、茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流され、武田氏を称したのに始まる。以後多くの庶流をうみ、 甲斐国内および安芸・若狭両国などに一族を配置。嫡流は義清の孫信義が継承、鎌倉時代には御家人となり、甲斐国守護に任じられた。その子信光は源頼朝の信任を得て安芸国守護も兼任、勢力を拡大した。南北朝期、はじめ北条氏に従って打撃をうけたが、のち足利尊氏につき戦功をあげ、 甲斐・安芸両国の守護を保った。戦国期の信玄のとき全盛期を迎える。その死後、勝頼のときに織田信長により滅ぼされた。
出典:『日本史広事典』

なんかこれ、あんまりですよね……。なんもわからんじゃん。しかし「安芸武田氏」なる項目は事典にはありませんので、一般常識的にはこれだけ知ってれば OK ということです。

ちなみに、源頼義という人に有名な三人の息子があり、一人が八幡太郎義家、ひとりおいてその次が新羅三郎義光といいました。源のナントカとかさっぱりわからないため、鎌倉幕府を開いた源頼朝が八幡太郎義家という人の子孫ということは嫌でも耳に入りますが、どう繋がっているのかは不明です。重要なのは三番目の息子「新羅三郎義光」という人のほうです。上の事典からの引用には「新羅三郎」云々は書いていないのですが、武田氏の祖となったのは「源義光の子武田冠者義清」とあります。甲斐武田は知りませんが、安芸武田では「新羅三郎義光」をその先祖として崇めており、全く同名の「新羅三郎義光」なる鎧が代々伝わっていました。銀山城が陥落したのち、この鎧は戦利品として、大内義隆のものとなりましたが、義隆はそれを厳島神社に奉納したため、現在も厳島神社に伝えられております。

ここで問題となるのは、安芸武田氏が、ずっと安芸国守護だったのかどうか、ということです。大内義弘の時、将軍・義満から安芸国東西条を与えられた逸話は有名です。それ以後大内氏はこの地域の分郡守護となりました(正確には外れていた時期もあるけど)。つまり、誰であれ、安芸国一国をまるまる守護領国とすることは不可能です(東西条を除いた地域のみ、治めることが可能です)。

鎌倉時代については、一時交替した時期もあったものの、だいたいは武田氏が安芸国を治めていたようです。けれども足利時代になると事情は変ります。武田氏は足利尊氏のために奔走しましたが、終始一貫して安芸国の守護に任じられていたどころか、この地域の守護職はころころとかわり、誰がいつ頃というのは、先生方があれこれと整理なさっておられるところです。

のちの毛利家はじめ、有力な国人衆が乱立していた混沌とした地域です。大内氏とて喉から手が出るくらいこの地域全体が欲しかったと思いますが、無理だったわけで。安芸武田氏にもそのような力はなく、安芸国守護 ≠ 安芸武田氏です。ええ!? でも、安芸武田って安芸国守護だってどこかで見たし、この意見は間違っている、と思った方、正解です。「≠」かつ「=」って何なんだ? ってことですが、大内氏同様、分郡守護だったんですよ。その勢力範囲がちょうどこの、銀山城の周辺でした。

武田氏略系図

① 武田義清 ⇒ 清光 ⇒ 信義 ⇒ 信光 ……信武 ⇒ 信成、氏信、義武
信成、氏信、義武の兄弟のうち、信成の子孫は延々武田信玄まで続いて行く。

② 氏信(安芸武田)⇒ 氏在、氏守 ⇒ 信繁 ⇒信栄、信賢、国信、元綱
信栄から若狭守護兼任。信賢、国信と兄弟間で家督移動。安芸国は信繁、元綱が治める。

③ 国信(若狭武田)⇒ 元信 ⇒ 元光 ⇒ 信豊、信実(安芸武田へ)
信豊 ⇒ 義統 ⇒ 元明

④ 元綱(安芸武田)⇒ 元繁 ⇒ 光和 ⇒ 信実

系図典拠:①『日本史広事典』、②~④『安芸武田氏』

県内一、二を争う規模

銀山城は太田川に面した要衝の地にあります。この地に城が築かれたのは鎌倉時代まで遡ります。武田氏は甲斐国以外に、安芸国の守護職も得たわけですが、自らは鎌倉に出仕していたため、安芸国の管理は守護代に任せていました。それが「福島氏」という人で、武田氏が派遣した家臣ではなく、地元の有力者であった模様です。

元寇の頃に、ようやく安芸国に主が下向。信光という人が安芸国に守護を得てから二代のち、孫の信時という人の時です。さらに、銀山城を築城したのはその孫にあたる信宗という人である、とされています。でもって、信宗の孫・氏信代に正式に「安芸武田氏」として分家したことになっています。

まとめ

武田信光:安芸国守護職を得る
武田信時(信光の孫):安芸国に下向
武田信宗(信時の孫):銀山城を築く
武田氏信(信宗の孫):「安芸武田氏」として分出

ややこしくて頭割れそうになりますね。下向しなくとも、現地での政務は執らねばなりませんから、それを守護代に丸投げしていた時代から、守護所はあったはず。現地に赴いた信時代から信宗が城を築くまでの期間、守護所として使われていた建物が銀山城の前身ともいうべきものだったのか(つまり守護所の規模拡張、増改築をしたのか、別の場所に新たに築いたのか)は不明です(書いている人が知らないだけです)。

広島県内でもっとも有名な中世山城は、何と言っても、毛利元就の吉田郡山城であると思われます。大内氏の東西条の城もさすがに大国の拠点だけあって、とてつもなく大規模ですが。こちら、銀山城は元就の城につぐレベルの大規模なものだったといわれています。

吉田郡山城は、毛利元就が力をつけていくに従い次第に増改築されて異常に大規模な山城と化しました。中世から近世への過渡期、戦国時代の幕開けでちゃちな砦みたいな城では生き残ることができなくなったゆえ、どこもかしこも増改築はしたと思うんですが。そこに至るまでに淘汰されてしまった城はそれきりですからね。

安芸武田氏は領地を接していた厳島神主家と紛争を繰り返し、神主家と婚姻関係にあった大内氏から介入されました。築山大明神さまのころのお話です。この時代には大内氏の安芸への進出が盛んでした。銀山城も脅かされています。そのご、応仁の乱にあっては、「とにかく大内氏が大嫌い」な細川勝元と手を組み、足利義材の復職騒ぎの頃には、厳島神主家の分裂に乗じて大内氏と揉めた神主家にテコ入れするなど、武田氏は長きに渡って大内氏と抗争を繰り返しました。いつ何時襲われるかわかりませんから、毛利元就同様、城の増改築は必須だったでしょう。

そもそも、由緒正しき清和源氏の末裔(なんで源氏ばっか威張るのかわからないけど)、鎌倉時代からずっと安芸国守護として認められていたという名門です。そのごは分郡守護に成り下がろうとも、やはり由緒正しき家であるという求心力はそれなり大きく、その居城も、それに相応しい立派なものでなければならなかったことは当然です。

若狭武田氏に転身!?

クジ引き将軍・足利義教の代、気にくわない人物はどんどん誅殺されてしまう恐怖政治が行なわれていました(そんな単純なものではないのですが、参考書レベルで書いてます)。そんなとき、義教将軍は若狭国守護・一色義貫が「気にくわない」と思いました。将軍の命を奉じて義貫を討伐(討伐というより騙し討ちみたいな雰囲気なんだけど)したのが、安芸武田氏の信栄という人。褒美として、将軍から若狭国守護をもらいました。

信栄はすぐに亡くなってしまったため、弟の信賢が跡を継ぎます。この時、武田家は本拠地を安芸から若狭へと移してしまいます。むろん、安芸国を放棄したわけではないのですが、一国まるまる守護職を手に入れることができたこと、より京に近いことなどあれこれの理由から若狭国をメインにすると決めたようです。周防・長門のように二つの領国が隣り合っていればいいのですが、安芸と若狭とは離れています。領国が拡大したと素直に喜んだ後、遠く隔てた二つの国をどう経営していこうか、という悩ましい問題に突き当たります。甲斐武田と安芸武田が同じ武田氏であったのに、まるで別物みたいに思われているのもそれぞれの国に分かれて領国経営にあたるために、親子兄弟分かれ分かれとなったためでした。

安芸武田氏改め若狭武田氏が大勢力で、二箇所に注力して同時発展を遂げられればこれに勝ることはないのですが、そこまでの勢いはなかったんでしょう。安芸国のほうは信賢の父・信繁、弟・元綱が引き続き領国経営を行ないました。こうなるとまたしても、家は分裂。甲斐にも、若狭にも、安芸にも武田家がある、って感じです。この時点で、甲斐武田との間にどれだけ同族意識が残っていたかわかりませんけど。

これが義教将軍の時ということは、応仁の乱のちょい前。大乱時、畏れ多くも法泉寺さま属する西軍と戦闘したのってこの信賢ですよね。名前に見覚えがある……。いっぽう、安芸武田のほうも最初は東軍でしたが、のちには寝返って本家(?)とは所属先を異にしたとか。足利義材復職にあたっては、安芸武田も大内軍とともに上洛しています。要するにこの時点で大内氏の風下に立っていたと思われます。

けれども、大内義興在京中に、混乱する安芸国を治める任務を得て帰国したはずの武田元繁は、将軍(というよりも義興)の命令を無視。鬼の居ぬ間に領土拡張と野心を剥き出しにし、治めるどころか、安芸国をさらなる混乱に陥れます。この後は滅亡に至るまで大内・武田両氏が和解することはありませんでした。

銀山城陥落時、すでに主は逃亡して城内にいなかったとまで言われており、かつての「名門」もだんだんと先細りしてついには滅亡に至ったと思われます。むろん、若狭国のほうに注力するようになった、という事情もあるわけですが、そちらもやがては淘汰されてしまいます。戦国時代の荒波に抗いきれなかった勢力と言うことになりますね。その分、武田信玄が頑張ったと考えれば、武田氏の人的には浮かばれるのかな。それも最後はオダノブナガなんぞに滅ぼされてしまいますが……。

銀山城・みどころ

とにかくやたら広いです。これでも開発などによってかなり縮小し、かつての姿そのままではないというのですから、もともとはどのくらい大きかったのでしょうか。全部で 50 以上もの郭がある(40 としている本もあり)とかで、およそすべて見ることは不可能と思います。

馬場跡、下高間・上高間、観音堂跡、御守岩台、館跡、犬通し、見張り台、千畳敷、御門跡、馬返しの壇等々大量の遺構があり、何を見ることができるかについては、登山口の案内板に書いてくださってあります。

銀山城・今回の登山ルート

※時間の関係もあり、今回は黄色のルートだけの見学となりました。

城の姿(遠景)

金山城(遠景)

難攻不落の銀山城も今やフツーの町中に埋もれた地元の方々専用ハイキングコースの山です。むろん、それらに混じって城跡マニアの若者も(圧倒的に地元、ハイキング勢多し)。当然ですが、遠目にはどこが難攻不落なんだか見てもまるでわかりません。

武田山憩いの森

武田山憩いの森案内看板

この看板を見てしまうと、もはや完全なるハイキングコースであると錯覚します。ただし、鏡山城を思い出してくださいませ。今に至るまで大切にされている山城跡が、市民の憩いの広場として整備されている例は数えきれません。逆に言うと、そのようにイマドキの皆さんが楽しめる場所にしてくださっているがゆえに、大切に守られているのです。

憩いの森はちょっとした公園となっていて、あずまやなどもあります。ただし、頂上でランチタイムの方が多いので、麓は閑散としておりました。登山道入り口まで車で来た人は、コチラの憩いの森駐車場に車を停めておくことができます。

銀山城跡「まむしに注意」看板

またしてもやっかいもの「マムシ」に関する注意喚起看板が。しかし、この看板、これまでみた類似看板中、最大サイズです。これを見落とす人はおられないかと。さすが、巨大な銀山城、看板のスケールもデカい(違うか……)。何気に緑が多いですので、あるいは出るかも? と思うとぞっとしますね。

武田山憩いの森付近の舗装路

ちょいこのような道が続いたので、もしかして、上までずっとこうなってるのか? と多少不安に。まあ、このような道の上ならば、マムシの被害はなさそうですが。

登山道入り口

武田山ルート案内図看板

『広島県の山』によると、「登山口」は憩いの森からすぐで、「武田山ルート案内図」があるとのご案内なので、ズバリここが入り口ですね。憩いの森から数分にして、舗装路はなくなってしまい、これから先は山道となります。

「武田山ふれあい樹林」

武田山ふれあい樹林

鬱蒼とした森の中って道を行くと……「武田山ふれあい樹林」と書かれた札が。超初心者の頃、山城ってのはどこも木でいっぱいなんだな、って思っていました。自宅の鬱陶しい雑草同様、山城跡の木も、使われなくなって手入れしなくなったから勝手に生えてしまい、やがて木々に埋もれてしまったのだということに思い至らなかったのです。そんなこともわからず城跡巡っていたのか!? と張り倒されてしまいそうですが、木々に守られていたのかと思ったんだもん……。

要は「城跡史跡」として大々的に宣伝 & 公開、観光客誘致をする場合、それらの鬱蒼とした木は伐採されてしまうんですよね。木がなくなって丸裸になった山城はきれいさっぱりと昔の姿に戻してもらえるわけです。でも、かつては存在したであろう建物などはすでに消滅しておりますので、整備跡地は果てしない原っぱってことになりますが。

だからなのか、手入れされた山城跡でも、すべての木が伐採されてしまうわけではないようです。主郭跡とか山道以外は生えるに任せてありますよね。やはり木に覆われている……と思うたび、未だに先生方から「これらの木は中世にはなかったんだからね」と釘をさされております。

さて、この「ふれあい樹林」っていったい、何なのでしょうか? いちおう平坦にならされているため、小さな郭の一つだったように見える反面、真新しい工事跡という雰囲気なので、文字通り地元の方々のふれあい交流のために最近造られた何かのようにも。とても気になるのでした。「ふれあい樹林」というネーミングからは、植樹でもなさったのだろうか? とも思えるし。

銀山城跡「武田山ふれあい樹林」

答えはこの写真からなんとなくわかりそう。平坦にならした部分は一つだけではありませんでした。いずれも人工的、かつ現代に整備された跡っぽい。おそらくこれらは多分、休憩所用地ですよね? 「憩いの森」と同じような。あずまやこそないものの、ここらでちょっと休憩しようか、という方々のためのスペースじゃないだろうかと。いちおうの結論(仮定)。

木馬道跡

木馬道跡

山道脇に「木馬道跡」と書かれた札が立っています。こちらは当時の何らかの遺構と思われますが、用途不明です……。「木馬道」っていったい何? なんで説明看板ないのだろうか?

馬返し

馬返し

登山口からここまで、『広島県の山』によると、だいたい35分くらいということですが。マジきっかし 35 分でした。目茶苦茶標準的な登山者ということになりますね。ちなみに、「馬返し」も郭のひとつです。『広島県の山』には「馬返しの壇」と書いてありました。

銀山城跡「馬返し」

こんな感じのスペース。かつてここまで馬で物資を運んで荷下ろしなどの作業をしていたっぽい。それと同時に、いざと言う時には、防御施設ともなり得たわけですね。

この先道が急になるというアナウンスにちょい緊張しましたが、急な登りになった記憶もないような。強いて言えば以下のような岩が目立ちました(※かなり歩き慣れていますので、急な登りと感じていない可能性があります。感じ方には個人差がございますので、足元にはじゅうぶんお気を付けくださいませ)。

銀山城跡・岩だらけの道

銀山城跡・岩だらけの道

そういや、この岩登るのって、それなりキツいよね(笑)

御門跡

銀山城跡「御門跡」

「ここは銀山城の南麓の出入口にあたり、城内への門があったと伝えられるところです。かつては、通路を直角にとる『鈎の手』に石積みがあったと思われ、この石積みで囲まれた部分は、近世の城郭で『枡形』と呼ばれる防御施設にあたり、その原型として注目される遺構です」(説明看板)

ここに至るまでも岩だらけでしたが、ここはそれらの集大成みたいですね。ここが「出入口」ということは、馬も使えないくらい急な道を通ってやっと入り口まで来られる仕様なので、入るだけでどれだけたいへんなんだろう、と思います。敵も入れないだろうけど、味方の出入りもいちいち面倒……。

でも、この写真からは外敵の侵入を防ぐために「鈎の手」になった石積みというのは具体的にどれがどうなっているのかよくわからず。「鈎の手」というのは、直角に曲がっているという意味ですが、曲がらなければならないのは岩ではなく、通路のほうです。通路が直角に曲がるように配置して石を積み上げることで、侵入してくる敵を防ぐ便宜をはかったのでしょう。つまりは石積みに感激すると同時に、通路にも目を向けるべきでした。

銀山城跡「御門跡」

敵さんは通路に沿って登っていくしかないわけなので、守る側は意図的に配置した石積みを巧みに利用して攻撃を仕掛けることができるわけです。ここらが入り口と思うけど、もう少し遠くから先の石積みを見るように撮影しないとうまく雰囲気が伝わりませんね。つねに帰宅してからあ~あ、って思いますけど。これは現地にいる時点で理解できていないからこうなるのです。

「ほぉ」と感心しながらシャッターを押していた先生に素直にお伺いすればよかったのに、知ったかぶりしたいから質問できなかった……。

千畳敷

銀山城跡・千畳敷

要するにここが主郭ということになろうかと。広い原っぱになるほど~と思いましたが。前の日に月山富田城の同じ「千畳敷」を見た後だったためか、「尼子のほうが広かったよな~」というような感想。

国力の違いにより本丸の大きさが変ることも、「千畳敷」となっているからといって、= 千畳ではないこともわかるものの、なんとなく小ぶりに思えてしまって拍子抜けしました。むろん、かつての規模がそのままに復元されているかどうかなどわかりませんから、現状を見て適当に比較するのは NG です。そもそも、そんな気がしただけで、二つ並べたら、あるいはこちらのほうが広いかもわかりません。

銀山城跡「千畳敷」

山頂 & 館跡

城跡解説系のご本によれば、武田山の山頂は「御守岩台」なる大岩メインの岩だらけの空間で、「館跡」と呼ばれる平坦地とあわせて主郭を構成しているっぽい。なにゆえにこのようなあいまいな書き方をしているかと言えば(現地に行ったはずなのに)、「御守岩台」の写真を撮り忘れたことをごまかしたいためです。ただ、この「御守岩台」なるものが、特定の岩を指しているのか、それらの巨石群全体を指す呼称なのか、正式なところはわからず。はっきりしているのは、頂上の大岩の前に「御守岩台」という説明板と石碑があること。つまりは特にその岩を指すのであろうと。

いわゆるここが頂上だ~と皆が思う「城跡(頂上)案内看板」設置場所(普通はこれが頂上に置いてあるはず)が、この城跡の頂上だと思っていたら見事に裏切られ、遺構はその先まで続いていたのみならず、看板設置場所が = 山頂ではなかった模様で。たかが岩一つどうでもいいじゃん? 頂上まで行ったことは間違いないのだからして。と思いつつ、なんとなくショック。

銀山城跡「御守岩台と館跡」

これが山頂付近となります。ひたすらに岩だらけの城跡でした。山頂までも岩また岩。岩好き(?)にはたまらない山城跡です。

銀山城跡「頂上案内看板」

山頂看板の裏側も岩だらけだし……。ほかにも、下のようなものすごい岩の山が(いずれも頂上付近です)。

銀山城跡・頂上付近

銀山城跡・頂上付近

巨石群の下ちょい平坦な部分が「館跡」というのですから、岩に囲まれてお屋敷があったのかと考えるとびっくりですね。中世山城ならば、このような城は常の住まいとはなっていないはずですが。

銀山城跡・山頂付近

岩の後ろに平坦地が見えていますよね。

しかし、吉田郡山城は山城でありながら、のちの戦国時代の城同様、どうせ常に戦争中だから常時ここに住んでしまおう、って仕様になっていました。その記憶が鮮明ゆえ、武田氏の人たちはどうしていたんだろう? って思いました。

戦国時代に突入しようという過渡期(応仁の乱以降が戦国時代とは思ってないからね。オダノブナガとかが戦国と思ってるので)、毛利家とは違い、戦国大名に脱皮することなく終わった勢力なので、城の使われ方がとても気になりました。

ミルイメージ画像(ガイド)
ミル @ SITEOWNER

ガイドであるわたくしの手落ちで皆さまに『御守岩台』前での記念撮影をご案内することを忘れてしまいましたが、お写真はきちんと撮れてございます。黄色枠の中がいわゆる『御守岩台』、その前には石碑もチラ見えております。きちんと山頂へは辿り着けておりますので、ご安心くださいませ。

銀山城跡「御守岩台」

ミル涙イメージ画像
ミル

嘘でしょ!? こんな近くまで行けてたの? でも、説明看板らしきもの見えないし、違うのでは? どっちにしても、こういうことは現場で言ってくれませんかね? 帰宅してから言われても、銀山城まで写真撮りに戻れないんですけど。

畠山義豊イメージ画像
次郎

いいじゃん。ただの岩ひとつ。なんでそんなにこだわるんだか。山頂には行けてたならそれで OK ってこと。写真撮るかどうかより、実際行って来れてたって事実のほうが大事だぜ。

於児丸通常イメージ画像
於児丸

……(珍しく意見が一致したので何も言えない)。

展望

「御守岩台」がたまたま写真の中にチラ見えていたとしても、意識して見てはいないのだから、ほとんど無意味です。いずれにしても、今回はすべてのルートを網羅できてはいないため、次回の宿題となります。

城跡説明看板が立っていた場所を以て「山頂」とすべきなのかは疑問符ですが、展望はとても素晴らしく、心地よいものでした。

銀山城跡・武田山山頂

銀山城跡・展望

現在周囲は町中となっていますし、そもそも広島市内にある山城ですから、市街地を見渡すことができます。なんとアストラムラインまで見えるそうなんですが、見つけられませんでした。ちなみに、以下のような説明版がついております。

銀山城跡・展望案内看板

宮島や周防大島まで見えるみたいです。梅雨時でちょい靄っていたので、案内プレートほどの展望は満喫できなかったかと。

「鶯の手水鉢」

銀山城跡「鶯の手水鉢」

これは「館跡」付近にある有名なみどころのひとつなんですが、一見したところ何の変哲もないただの岩です。なにゆえに「手水鉢」なのかもこれだと不明です。その答えは裏に回ってみたらわかりました。

銀山城跡「鶯の手水鉢」

岩に開けられた穴に水が溜まっているのです。残念ながら、何のためのものなのかは解明されていないようです。ほかにも柱穴などがあるそうですが、今回見た範囲では見つけられませんでした。

銀山城(広島市安佐南区)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 〒731-0100 広島県広島市安佐南区祇園(Googlemap に載っている住所です)。

アクセス

行き方はいろいろあるようですが、「武田山憩いの森」から入るルートを使いました。駐車場があるため、車を停めておくことができ、便利です。

問題は「武田山憩いの森」までどうやって行くか、です。今回車で行ってますので、公共交通機関での行き方がわかりません。最寄り駅「下祗園」から歩くとなると相当の距離になるので、徒歩だとかなり無理がありそうです。

参考文献:『広島県の山』、河村昭一『安芸武田氏』、『兵どもの夢の跡 中国地方の山城を歩く』、『日本史広事典』、『広島県の歴史散歩』、『安芸国の城館』、『日本の城辞典』
※河村先生のご本は読み込めていません。

銀山城(広島市安佐南区)について:まとめ & 感想

銀山城(広島市安佐南区)・まとめ

  1. 銀山城は鎌倉時代に安芸国守護に任命された武田氏が築城した山城
  2. 武田氏は清和源氏で、鎌倉時代、甲斐国と安芸国の守護職を与えられた。甲斐に根付いたのが戦国武将・武田信玄で有名な甲斐武田氏。いっぽう、安芸国にやってきた一類は安芸武田氏となった
  3. 長らく安芸国守護をつとめた武田氏は名門として重んじられたが、安芸国一国の守護としての地位は失い、室町時代には銀山城周辺の分郡守護となった
  4. 足利義教が将軍の時、若狭国の守護職を与えられ、以後は安芸武田、若狭武田に分かれた
  5. 安芸武田氏は領地を接していた厳島神主家と揉めたが、のちに神主家が後継者問題で分裂し、大内氏が神主家の領地を直轄地化すると、これに反発した神主家に加勢した
  6. 大内氏に完全に抑え込まれていたに等しい時期もあったが、基本はやむことなく抗争が続き、尼子氏の勢力が大内氏と衝突するようになると、尼子と手を組むなどした
  7. 最後は大内氏と毛利氏に攻められて銀山城は落ち、安芸武田氏は滅亡した
  8. 銀山城というのは近世以降の呼び名で、中世には金山と書いていた。読み方はいずれも「かなやま」

とてつもなく巨大な城跡です。まさに難攻不落。山城歩きの専門家である県内のガイドさんが、制覇するのがもっとも困難だったのはどこか、というお仲間ガイドさんからの問いに即答なさったのが「かなやまじょう」でした。ご一緒に、それこそ恐ろしく困難な曾場ヶ城に登っている最中だったため、嘘だろ~ここよりスゴいの~!? と思いました。

ですが、実際には地元の皆さまに愛されるハイキングコースといった感じでして、きちんと整備されて歩きやすい道が続き、何を以て「制覇するのが困難」なんだろう? と思いました。その答えは恐らく、ハイキングコースとして整備されているところと、そうでないところの違いなんじゃないかと思います。城跡の面積はとんでもなく広大で、そうやすやすとすべてを見尽くすことができるわけがありません。

けれども、地元の皆さんのハイキングコースが断崖絶壁だったら困るわけで、もっとも登りやすく安全なルートをさらにきちんと整備した、ってことではないかと。普通はそのような道を行くので、山城専門家のガイドさんが行くような道を行かなかったんだと思います。

ところが、帰宅後『広島県の歴史散歩』という本を見たところ、まったく別の登り口が紹介されていました。理由は「安全」とのことで。そちらのルートから行くと今回見落としたものも含めすべて見ることができるのですが(見落としは時間の関係で引き返したという理由もあるため、どのルートから行かないとすべて見れない、という違いはないです。ただし、『歴史散歩』推奨コースを行くと武田家の祈願所だった寺院が見れます)、帰るときも同じ道を戻るように勧めておられるのですよね。理由は「馬返し」付近の道が滑りやすく危険であるから、と。

本が古くて道が整備される前に書かれたものであったのかとも考えましたが、ほかの本にも、キツい旨書かれていたものがありました。今回山登りガイドブックを片手に登ってましたが、山登りガイドブックや城跡解説本は本来、山歩きに慣れている人向けのもの。いっぽう歴史散歩系書籍は、寺社仏閣巡りなどをメインとする人なども読者として想定しています。そこが違うのかも。

あとは恐ろしいことに、数登るうちに慣れてきたので、あまり辛さを感じなくなったのかも。ハイキングコースになっているとはいえ、基本は山です。ご高齢の方たちのグループや中年女性たちのグループともすれ違いましたが、皆さんとても歩き慣れたご様子。普段山歩きなどしない人、ここが初めての山城跡です、という人にとってはおそらく、かなりキツいと思います。

ロープや鎖につかまってよじ登るような恐ろしい場所はありませんでしたが、岩だらけの道などはあります。何より面積が広いので、いきなりすべてを見ようとしたら疲れ果てます。逆に、極めようと思えば大量のみどころがある城跡なので、あれこれ見れて楽しいかと。そこは保証します。

こんな方におすすめ

  • 城跡巡りが好きな人(近世天守閣ありじゃなく山城なので注意)
  • 武田氏興味ある人

オススメ度


純粋に城跡巡りが好きな人でない限り、城跡に行くには理由があるはず。城主が尊敬する一族だったりとか、そこを舞台にした攻城戦に非常に興味があるとか。そのような萌えポイントが何かある人にとっては絶対に行くべきところとなります。城跡としては本当に標準的な普通の城跡です。城跡マニアではないので、観光資源的な評価しかできません。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

おまけ・城跡の遺構は難しい

ミル涙イメージ画像
ミル

これさ、教科書に載っている『堀』にそっくりだけど……。でも、単なる山道にも見えるね。

銀山城跡・堀?

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

少なくとも山道ではないぞ。俺が立っているところが道だ。

ミル涙イメージ画像
ミル

そっか。このお城って、切り岸とか竪堀とかさっぱりわからなかった。ひたすら岩だらけだった気がする……。その場ではわかっても、写真になるとわからなくなっちゃうし。

じつは、今回行ってないのですが、頂上より先にも遺構はたくさんあり、かなり相当なものを見落としてしまいました。地元のハイキングの方々と完全に融合してしまい、楽しかったけど城跡的には完全に制覇できたとは言い難いような……。

おまけ・毛利元就の隠居所?

陶興房イメージ画像
尾張守

我らの代には落とせなかったこの城が、子らの代についに陥落したのですな

大内義興イメージ画像
凌雲寺さま

そなたの息子が活躍したな。

五郎笑顔イメージ画像
五郎

うわぁ、兄上のことだね。

陶興昌イメージ画像
五郎の兄

いや。私ではない。そんな記憶はないぞ。

陶隆房イメージ画像
陶隆房
天文十年(1541)
銀山城を陥落させる
五郎不機嫌イメージ画像
五郎

ん? これって、陶入道じゃないの? そっくりに見えるけど。あのゆる~い殿様から「隆」の字もらったんだな。俺も兄上みたいに、先代の偏諱を賜りたい……。

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五郎の兄

(何やら既視感が湧く。この得も言われぬ『親しさ』はなんだろうか。弟よ、早死にした私は家を継いではいない。だとすれば、彼こそが……)。

銀山城の陥落は、尼子家が吉田郡山城攻めに失敗し敗走した後の出来事となる。援軍まで出して助けてくれた大内氏の銀山城攻撃に、毛利元就も参加していた。軍記物から城跡ガイドブックにいたるまで、銀山城を落としたのは毛利元就である、と書いている。

けれども、大内氏の命令で働かされている立場の毛利元就は、最大の功労者であっても、陥落した城を手に入れることはできなかった。城は当然のごとく、大内氏のものとなる。やがて、大内義隆が家臣たちの叛乱によって倒されると叛乱者たちの城となった。

厳島合戦の直前、防芸引き分けで元就と陶が断絶すると、毛利家は電光石火で陶方の主要な城を攻略したが、その中に銀山城も入っていた。厳島の大博打にも勝ち、名実ともに中国地方の主となった元就は、家督を隆元に譲ったのち、銀山城で隠居しようと考えていたとか。結局「考えた」だけで終わってしまい、そのような史実が紡がれることはなかった。

けれども、この逸話はとても有名なものらしく、城跡ガイドブックのみならず、歴史書でも触れられていた。どうして実現しなかったのか、たんなる冗談めいた会話であり、その気はなかったのか、その辺どう書かれていたかを忘れた。隆元が吉田郡山城に住み、元就が銀山城に住む。行き来するのも大変だろうになぁ……と思った。

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

城落としたのって、父上の息子じゃないの(兄上でも俺でもないみたいだけど)? 何なの、毛利元就の隠居所って? 話が見えない……。

陶興昌イメージ画像
五郎の兄

お前は父上と先代さまだけを尊敬して生き続けなさい。ほかのことを知る必要はない。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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