陶のくにの人々

陶盛政 周防守護代世襲開始・菩提寺龍文寺の開基

城主さま
出番はそろそろ。孫なんです。

陶氏歴代当主についてご紹介しています。今回は、五代当主・盛政さまです。この代から、周防守護代が世襲となり、大内氏重鎮としての地位がほぼ確定します。また、菩提寺として有名な龍文寺の開基もこの方です。あらゆる意味で最初の方、と言えます。むろん、それまでの歴代が積み上げてきた功績があったればこそですけども。

陶盛政とは?

室町時代の武将です。大内氏庶流右田氏の分家、陶氏五代目の当主です。大内宗家の盛見、持世二代に仕えました。父・盛長を継いで長門守護代となりましたが、持世期に周防守護代にかわり、その後は陶氏代々が周防守護代を世襲することになります。陶氏菩提寺・龍文寺を創建したことでも知られています。

大内家中における陶氏の地位は、父祖の代までの功績により次第に高まってきましたが、盛政期になっていよいよ確たるものになったと言えるでしょう。

基本データ

生没年 ?~14451121
父 盛長 
子 弘正、弘房
妻 葱妙観大姉※※
呼称 徳房※、五郎
官職等 越前守、長門守護代 ⇒ 周防守護代
法名 龍文寺殿大造釣公居士
※『大内氏実録』では、「幼名徳房」とする。ほかの史料には「幼名」の明記なし
※※『新撰大内氏系図』に法名と没年のみ記載あり。
(典拠:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内氏史研究』、『文化財探訪必携』、『中世周防国と陶氏』、陶弘護肖像画賛)

略年表(生涯)

永享元年(1429) 龍文寺創建※
永享四年(1432) 長門守護代として入府(持盛期)
永享十一年(1439)龍文寺に、梵鐘と僧堂鐘を納める
永享十二年(1440)龍文寺に土地寄進、四至牓示を定める
文安二年(1445)盛政死去
※龍文寺の創建年代については、永享二年(1430)とするものもあり、史料によって若干のズレがあります。元年に寺院建立に着手、二年に完成をみたように思われます。

おもな業績

盛見、持世に仕え、周防守護代に

盛政は、盛見、持世二代に仕え、周防守護代に任命されます。先代までは、長門守護代を務めていましたが、盛政代が初めての任官です。

「盛見―持世」期の間には、持盛が持世の家督を簒奪しようとした事件が挟まっています。盛見が九州の凶徒討伐の際に戦死した時、後継者を指名していませんでした。盛見という方は、兄・義弘の跡を継いで当主となりましたが、義弘が将軍・義満に叛旗を翻して和泉堺で戦死するという尋常ならざる事態を受けてのことです。それゆえに、自らの後継者には、実子ではなく、兄の遺児をつけようと考えていました。それが、持世と持盛の兄弟です。ところが、兄弟どちらを次期当主にという肝心なところを決める前に戦死してしまいます。兄・持世が幕府より後継者として認められたにもかかわらず、それに不満を抱いた持盛は九州在陣中に持世を襲い、敗走させるという事件が起こりました。

持世は長門に逃れた後、石見に向かいます。その間に持盛が帰国。ところが、幕府の支援をとりつけ、態勢を整えた持世が石見から戻って来ます。持盛は豊前国に逃れますが、持世の軍勢に敗れて亡くなりました。

盛政が長門守護代となったのは、父・盛長の後を継いでです。『大内氏実録』は、持盛を盛見の後継者として、当主の世代順に入れるという現代では否定されている説をとっていました。それゆえ、持盛が持世を追って、長門に入った際、「陶越前守盛政守護代となりて随従す」と書かれています。その後、持世が持盛を駆逐すると、「永享四年免ず」とあり、いかにも持盛によって認められていたものが、持世によって解任されたように読めます。『大内氏実録』は持世が持盛の家督を簒奪したという古い認識に基づいて書かれています。最初から家督は持世であり、持盛は家督簒奪を企て一時的に持世を追い出していたという現代の通説にあてはめると。盛政は主に叛旗を翻した人物に追随し、長門守護代であることを承認され、主の復帰により解任された、と読めてしまいます。しかし、このような考え方は深読みしすぎです。

盛政は、何も叛乱者に与していたゆえに処罰された(=解任された)わけではありません。そもそも盛政が持盛に与党したと明記しているものを見たことはないです。もしもそんな事実があったとしたら、持世によって重く用いられることはなくなってしまったでしょう。単純に、地理的にもより相応しい、周防守護代に配置換えとなったのです。そして、これ以後、周防守護代の職は、陶氏代々の世襲となります。「世襲だからね」と言ってもらえたのか、振り返りみると代々これ以後世襲のようになっていたのか不明ながら。

菩提寺・龍文寺の創建

陶氏の菩提寺として有名な名刹・龍文寺。この著名寺院が創建されたのも、盛政代のことです。創建は盛見代のことで、仏教に深く帰依した当主の下で、ほかにも多くの名刹がこの時期に創建されております。『大内氏史研究』には、盛見が石屋真梁の弟子・定菴殊禅を招いて闢雲寺(現在の泰雲寺)を創建して以来、曹洞宗峨山派の寺院が多く建立されるようになったことが詳細に書かれております。峨山派は曹洞宗の門流のひとつで、この時期には、九州・中国で隆盛を誇っていたようです。曹洞宗といえば、義弘期に立てられた禅昌寺が思い出されますが、こちらは明峰派でして、流派が違います。盛見の闢雲寺創建以来、その信仰は大内氏内に広まっていきますが、まずは「庶流大身」による大寺院建設から始まりました。『氏史研究』には、陶氏の龍文寺創建と並んで、鷲頭氏の大寧寺を挙げておられます。

龍文寺は、単に陶氏という一氏族の菩提寺という枠組みを超えて、曹洞宗の名刹として極めて重要な地位を確立していくことになります。それは大寧寺も同じです。ちなみに、大寧寺は『日本史広事典』にも項目が立てられているほどの著名寺院です(※家臣の叛乱によって宗家の主が亡くなった云々については一言も言及はありませんので、誤解なきようにお願いします。純粋に寺院、宗教施設として著名なのです)。いっぽう、龍文寺については項目がありません。

大内氏宗家が文武の家として繁栄してきた関係で、主が文芸に熱心だと家臣もその影響を受けて文芸に熱心となり、という話題はよく目にします。同様に、主が仏教に深く帰依すると、それは家臣の間にも広まるようです。盛政が寺院を建立したいと強く望み、相応しい土地を求めたりあれこれと構想を練った過程は、数々の逸話となって伝えられています。それらについては、龍文寺の項目に記したので、繰り返しません。⇒ 関連記事:龍文寺

人物像や評価

「国家藩幹」、「文武才備」

新南陽郷土史会の先生方がおまとめになった『中世周防国と陶氏』というご著作には、盛政について以下のように記されております。

陶盛政は「国家藩幹」、「文武才備」と評された大内家の柱石であった。
出典:新南陽郷土史会『中世周防国と陶氏』

「国家藩幹」、「文武才備」については、史料からの引用と思われますが、ご紹介くださっているすべての参考文献に目を通す時間も資源もないため、そのままご研究の成果を引用させていただきました。

なお、同書の引用文下には、盛政が菩提寺・龍文寺を創建するなどの事蹟について記した後、つぎのように書かれています。

「陶盛政の時代は財政的にもかなり豊かであったと推定されるのである。」

大内氏重鎮としての地位が確定される

大内家中において、陶氏の活躍が知られるようになったのは、二代目・弘政の時からです。南北朝期、同じ一族内部の鷲頭氏との争いにおいて、宗家弘世が陶氏を鷲頭氏への抑えとして相手方根拠地に近い富田の地に配置したことから始まります。

初代の弘賢が右田氏から分家し陶の地で一家を立ててから間もない頃でした。弘政は弘世の期待に応えて、鷲頭氏と弘世の戦いでも活躍。その後は新天地・富田保での地盤を固めつつ、代々宗家のために尽してきました。弘政の子・弘長が初めて長門守護代となって以来、盛長、盛政と同職を継いできました。

盛政期になって、初めて長門守護代から周防守護代となり、以後は代々世襲となります。ここに至るまでも、先祖たちが様々な功績をあげ、活躍してきたという実績があったゆえに到達した地点ではあります。それでも、盛政期に守護代職世襲となった、という事実は大きな意義を持っていると思われます。

盛政自身、および先祖代々によるたゆまぬ努力が実を結んだ結果といえるでしょう。陶氏という一族の中で、この代に至り地位の確立を見たという点で、その名前が永遠に記憶されるに値される人です。もちろん、これを境に後の子孫が怠惰で地位を守りきれなかったとなれば、その功績も消し飛んでしまいます。跡を継いだ代々の子孫たちもまた、優秀な人々であったのです。

盛政の子ら

『新撰大内氏系図』によれば、盛政には、弘正、弘房と名前不詳の三人の男子があったことになっています。弘正が盛政の跡を継ぎますが、寛正六年に戦死してしまいます。いっぽう次男の弘房は陶氏の本家筋にあたる右田氏に入っていました。当主の弘篤が、跡継のないままに戦死してしまったためです。弘正が戦死した際、やはり跡継の男子がいませんでした。陶の家が断絶してしまう危機となったわけです。このため、弘房が右田氏から戻って陶氏を継ぎます。詳細は弘房の項目に記したので、ここでは繰り返しません。⇒ 関連記事:陶弘房

菩提寺と墓所

盛政の死因などについては、詳細は不明です。何も書かれていないということは戦死ではないのだろうと想像することができるのみです。亡くなった時の年齢なども系図には書かれていませんから、長寿を全うされたかどうかもわかりません。法名を龍文寺殿大造釣公居士ということからわかるとおり、自らが創建した菩提寺・龍文寺に葬られました。

龍文寺には、陶一族のものと思しき古い石塔類が多数残されておりますが、どれが盛政のものであるのかは、残念ながら明らかになっていません。

まとめ

  1. 陶盛政は盛長の子で、陶氏第五代当主
  2. 盛見、持世に仕えた。父の跡を継いで長門守護代となるが、持世代に周防守護代に役職がかわり、以降は代々周防守護代職を陶氏が世襲していく
  3. 周防守護代を世襲するという地位は、陶氏が大内家中の重鎮として認められていたという証であり、父祖の代からの宗家に対する忠誠と尽力は盛政代にその評価が確定したといえる。むろん、続く子孫たちも先祖に倣い、代々活躍を惜しまなかったゆえに守られた地位であることを忘れてはならない
  4. 仏教に篤く帰依していた盛見期、家臣たちもそれに倣って信仰心篤かった。ことに、盛見が石屋真梁の弟子を招いて闢雲寺を開山したことで、その流派の寺院が繁栄する。盛政も領内に龍文寺を創建。陶氏代々の菩提寺となっただけではなく、後には中国地方の曹洞宗を代表する寺院として高い地位を確立する

参考文献:『大内氏研究』、『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『文化財探訪必携』、『日本史広事典』、『中世周防国と陶氏』

雑感(個人的感想)

ようやっと、資料に名前だけではなく、事蹟解説的なものが見え始めました。ここまでくると、つぎはもう、弘房さまなので繋がった感が半端ないです。ただ、ご本に書いてあることと裏腹に、この後もあれやらこれやらと難解な出来事が続きますから、正直、ここらまでが平穏とすら思えます。

だいたい、『大内氏実録』や『大内氏史研究』の時代には、存在すら知られていなかった当主がその後の研究では普通に明らかとなっています。であるにもかかわらず、最近のご研究でも、それらの人々は世代順に入っていなかったりします。それひとつとってみても、前途多難であることは間違いありません。

じつは先祖をすっ飛ばしてこれ以後の当主についての記事が先に存在し、しかも、今よりさらに理解度低であった時代の恥ずかしい産物です。情報が増えれば増えるだけ、整理するのは大変となります。面倒なことかぎりなくなります。

盛政期は、持世と持盛の家督争いがあった程度で、おおむね平穏だったように思われます。しかし、持世代の九州は、盛見が戦死した辺りからの荒れ放題が長く続きましたし、それらに盛政や陶氏の方々がどうかかわり、どのような功績をあげたのか、ここに書いてあることだけからは、何もわかりません。考えれば、考えるほど頭が痛くなる、そんな気分です。龍文寺開基の人、初めて周防守護代になった人、二言で要約できるお方、現在の理解度ではそのレベルです。

補足

『中世周防国と陶氏』の中に、以下三点のご指摘があり、とても重要だと思われるので、忘れないように記録しておきます。まだ本の内容を十分に把握できていないため、理解が追いつかない貴重な情報が大量にあります。いつの日にか自ら説明できるほどにならないとご紹介することは無理なので、こんなことが書いてありました、という理解度です。

一、「大内氏有力家臣である安富氏とは盛政が相互扶助の 盟約を結んで以来、代替りごとにその盟約を更新している。」

二、京都の臨済宗寺院・東福寺と陶氏とは関わりが深い

三、「了庵桂悟は陶盛政の養子になっている」

ことに、三がびっくりですが、現状よくわかりません。無責任なことや資料のまる写しとならないよう、これらについては、保留とします。

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五郎

祖父さまの祖父さま……ということは、そろそろ時代的に近くなってきたんだねぇ。

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ミル

そうだね。これを終えたら、古い記事のリライトを始められる。

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五郎

なんとなくなんだけど、見出しが気に入らない。えーあいってのが、作ってくれたやつ。そもそも、えーあいっての、異国の「者」では? 自動翻訳機の香りがするんだけど。

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ミル

そうね。なんだか違和感あるのは確か。それも含めてリライトになるね。

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ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
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【山口県某郷土史会会員】
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