陶のくにの人々

陶弘詮(右田弘詮) 

2022-05-01

弟君
文武両道の名臣・陶弘詮

右田家から陶家が分家したのは周知の如くです。しかし、本家筋にあたる右田家当主が跡継のないままに戦死。陶家の二男だった弘房が本家に戻ります。ところが、今度は弘房の兄が戦死。陶家を継ぐ者がいなくなってしまいます。弘房は陶家に戻り、右田家には自らの二男を残しました。この人が、今回ご紹介する右田弘詮です。陶弘詮とも名乗っていることから、右田なの? 陶なの? と混乱する方もおられるかも知れません。その辺りにも注目しながらご説明いたします。

右田弘詮(陶弘詮)とは?

大内氏宗家から分家した右田家から分かれ出た陶家の武将です。本家筋にあたる右田家の当主が跡継のないまま亡くなり、弘詮の父・弘房が右田家を継ぎます。ところが、今度は陶家の当主だった弘房の兄が戦死。弘房は陶家に戻りますが、右田家には二男である三郎を残しました。のちの弘詮です。

陶家の出身ながら、右田を名乗っているのはそのためです。しかし、父・弘房の死後、陶家を継いでいた兄の弘護が、吉見信頼に刺殺されるという不幸な出来事が起こります。弘詮はまだ幼かった兄の遺児たちを後見します。幕府からの要請に応えるため、幼い甥に代わり上洛する際、一時的に陶姓に復します。

その後は右田なのか、陶なのかよくわからないことになっています。陶姓を名乗るのは「暫時」の措置だったはずが、その後も「陶弘詮」として登場しているからです。息子や孫も「陶」を名乗ったようです(系図には右田の文字も見えておりますが)。

主・政弘の重臣として尽した兄・弘護を助けて九州の戦線で活躍したほか、雅な主に相応しい教養溢れた文芸の人としても著名です。特に、後世の『吾妻鏡』研究に於いて多大な貢献をした「吉川本吾妻鏡」として知られている文書は、弘詮が蒐集・書写したものです。

息子隆康は「国難」に際して主君・義隆を守って戦死した忠義の家臣として、大寧寺に墓碑があり、孫・鶴千代は後に毛利家に仕えました。

右田弘詮・基本データ

生没年 ?~1523
父 陶弘房
母 仁保盛郷女
子 隆康、女子(陶興房室)
幼名 三郎
法名 鳳梧真幻昌瑞
官職等 中務少輔、兵庫頭(文明十一年八月十一日初見)、阿波守、筑後守護代
(典拠:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』ほか)

五分で知りたい人用まとめ

右田弘詮・まとめ

  1. 右田家の分家・陶家に生まれた。父・弘房は、右田家を継いだが、兄の死で旧姓に戻る。その際、右田家に二男だった三郎を残した。これが、後の弘詮
  2. 父・弘房は応仁の乱で戦死。後を継いだ兄・弘護は主不在の分国を守り抜いた英雄として、国の重鎮となる。大乱終結後、弘詮も兄とともに、九州の凶徒退治で活躍。兄から筑前守護代の任を継ぐ
  3. 兄・弘護が石見の吉見信頼に刺殺される事件が起こり、残された幼い遺児たちの後見となる。幕府の要請により、「陶」姓に復して上洛。数々の手柄を立てた。その後も陶を名乗り続け、右田姓に戻ったのか曖昧
  4. 九州での武働きも見事だったが、雅な主・政弘の影響を受けて、文芸面の才能も開花する。正広、宗祇、兼載、宗碩らと交流して連歌の腕を磨くなど、文化人たちと広く交流した
  5. 主君が義興に代替わりすると、足利義稙とともに上洛・在京した主不在の分国を守った。兄・弘護の時代のように不穏な出来事はなく、文化人たちとの風流な交流を続けながら、源氏物語の講釈を聞いたり、吾妻鏡の蒐集を始めたりした
  6. 父の菩提寺瑠璃光寺の再建、母の菩提寺妙栄寺の建立などで、両親の菩提を弔う。瑠璃光寺には『拈頌集』の書写本を寄贈した
  7. 亡くなる前年、吾妻鏡の蒐集がいちおう完結。四十七帖に年表も添えて秘蔵品とした。陶氏の滅亡や、毛利家の防長経略などの混乱からか、この吾妻鏡は吉川家に伝えられる。明治時代に至るまで、その存在は知られていなかったが、公開されると同時に、吾妻鏡の研究でそれまで明らかになっていなかった部分の解決に大きく貢献した
  8. 弘詮の子女について、『実録』では「国難」で主・義隆に殉じた隆康父子、甥・陶興房に嫁いだ娘の存在を記している。しかし、『新撰大内氏系図』や、その他の最近の研究では、興就という人物が、義興とともに上洛し、三条西実隆らと交流した文芸の才ある人物だったとされている。しかし、生没年、子女の有無、死亡理由などすべてがはっきりしない
  9. 弘詮は兄亡き後の陶家を守り支え、甥・興房は立派な忠臣に育った。吾妻鏡の編纂事業が一段落した後、弘詮は筑前で亡くなったという。死亡時の年齢は不明。大永三年のこととされている。その後の崩壊していく大内氏を見ることなく逝ったのは幸運だったかもしれない。隆康の子・鶴千代は、母方の姓・宇野を名乗り、毛利家に仕官した。ゆえに、今も子孫は続いている

本家・右田家を継ぐ

陶の家は右田家の分家です(その右田家はまた、大内本家の分家です)。最も親しい身内ゆえ、世継ぎが絶えるような危機に見舞われるとお互い養子を定めるなど融通し合ったようです。弘詮父・弘房が一時期、右田家の後継者となっていたことからもわかります。ところが、本家の右田家より、分家・陶家のほうが大内本家内部におけるその重要性を高めていくに従い、本家を守ると同時に、元は分家だった陶の家を守ることもより重要となってきます。陶の家が戦争で当主を亡くすという危機に見舞われたとき、弘房は親戚一同の懇願により陶の家に戻って当主となりました。そして、右田家のほうにはかわりとして、息子である三郎を入れます。これが弘詮です。

このことは陶の家にとって、かなり重要な意味を持っています。つまり、跡継がないまま亡くなった主・右田弘篤の遺領などはいったん弘房を経て弘詮に移ったものの、どちらにせよ、実質上本家・右田家が陶家に吸収されてしまったようなことになるからです。けれども、その後も右田本家の系図は弘詮の系統以外でも続いているから、なにゆえ、それらの人々ではなく、陶家の人だった弘房がそもそも右田家に入ったのだろうか、という疑問も残ります。

略年表

寛正六年十一月、父弘房から右田弘篤の遺領を授かる
文明十年、兄・弘護に従い、九州で戦う。
文明十一年冬、兄・弘護に代り筑前守護代となった。のちゆえあって本氏に戻り、陶と称した
永正十四年、所帯を子・隆康に譲る
永正十□年、 阿波守となる
大永三年十月廿四日、筑前筥崎で亡くなる
参照:『大内氏実録』

兄とともに政弘に仕える

弘房には弘護と弘詮という二人の息子がいました(系図に現われている人物という意味で。ほかにもいた可能性はゼロではありません)。右田家から陶家に戻った弘房が、当主として立派に働き、大内本家に忠義を尽したことは明らかです。忠義の究極のかたちとして、主・大内政弘に従って上洛、応仁の乱で戦死します。

残された二人の兄弟はまだ幼かったけれど、弘護もまた、父より以上に、主のために尽しました。ようやく成人し、正式に政務を執れる年齢になったくらいの若さで、応仁の乱で主不在の分国を守って活躍し、政弘帰国後はその右腕として主を支え続けたのです。

九州での活躍

弘詮の生まれ年は明らかではありません。ゆえに、兄が応仁の乱(留守分国)で活躍した時に、弘詮がともに出陣し、兄弟共々に軍功をあげたのか否かは不明です。何しろ、弘護がイマドキならばまだ「子ども」と見なされていいような年齢(十四歳くらい)で活躍してたので、弟である弘詮が兄よりかなり年下だったりした場合には、合戦に参加できる年齢には到達していなかった可能性が高いと考えられるためです。これらの合戦について、弘詮に関する史料が特にないことから考えても、恐らくは参戦してはいなかったのでしょう。

いっぽう、政弘帰国後の九州での合戦においては、兄・弘護とともに、縦横無尽に大活躍をしたことがわかっています。その典拠となっているのは、政弘が弘詮に宛てた以下の書状です。

「大内政弘書状写(萩藩閥閲録差出原本宇野与一右衛門)
先月廿九日之書状到来、殊少弐残党於処々楯籠之所二、自身馳向即時被切崩之通、別紙注文之前令承知候、家来富田市右衛門・野田八左衛門分捕高名、湯木七郎次郎討死神妙之至候、旁以感悦無是非候、併弘護御方兄弟共二年若故、 每々自身之働卒忽之儀候、向後少事之儀者、方角之国人を以可有才判候、自然不慮之過有之者、其表変異、殊以当家安否無申計候、辛労之段者従是以使可申入候、謹言、
(文明十年)
八月十一日
政弘
右田兵庫頭殿」
(参照:『戦国遺文 大内家編 通し番号「三一四」)

弘護・弘詮ともに大活躍し、お褒めの言葉を頂戴しているけれども、これは恐らく、弘詮の書状に対する返信と思われ、弘詮自身が自らの活躍ぶりを主に書き送っていたらしいことがわかります(というよりも、単なる報告書なのであろうけれど、軍功が半端ないのでこのようなお褒めの言葉となったでしょう)。

筑前の守護代

このように、九州は弘護・弘詮兄弟が大いに軍功をあげたゆかりの土地ですが、兄・弘護は単なる武勇の人だけでなく、筑前守護代として政務もしっかり執り行っていました。けれども、九州での騒乱が落ち着くと、周防国のことに専念するためか、あるいは政弘側近として国政に携わることで政務多忙となったゆえにか、筑前守護代を辞職しています。そして、その地位は弟・弘詮にひきつがれました。ここから、弘詮と九州との関係はますます深いものとなりました。

宗祇との交流や、貴重な書物の書写事業を行なったのも、すべてこの九州の地であり、亡くなったのもまた、九州でした

『山口県史 史料編』にて、活字化されたものを見ることができる宗祇の『筑紫道記』には、以下のようなフレーズがあります。

「是より守護所陶中務少輔弘詮の館に至り、傍の禅院に宿りして、又の日彼館にて様々の心ざし有、折節千手治部少輔、杉次郎左衛門尉弘相など有て、一折あり、
はなひろ広く見よ民の草葉の秋の花
此国の守代なれば、万姓の栄花をあひすべきの心なあそり、ひねもすいろいろ遊び暮し侍るに、此あるじ年廿の 程にて、其様艶に侍れば、思ふことなきにしも侍らで、 覚えず勧盃時移りぬ」
(参照:『山口県史 史料編』)

雅な名門・大内氏の重鎮一族として、弘詮の守護代館にもそのような雰囲気があったのでしょう。著名な連歌師・宗祇も、弘詮の心尽くしのおもてなしに気をよくして、時を忘れて盃を重ねたようです。「此あるじ年廿の程にて、其様艶に侍れば」というのは、弘詮の歓待に感激した宗祇の外交辞令も多少は入っていると思われますが、この一文を以て、弘詮を美男子だったと断定(?)している研究者や郷土史家の先生方もおられるから(もちろん、先生方にとっては、彼がイケメンだったかどうかなどは、研究課題の主眼ではないからさらりと流れている程度)、当サイト的には、「弟君(=弘詮)」は宗祇の折り紙つきのイケメン、歴代陶一族第一のイケメンと信じて疑わないのであります。

話が逸れましたが、大内本家にとって、宗祇は大切な客人なので、それを丁重にもてなし、旅の道中の安全をはかることも大切な任務となります。細かいことにはなりますが、宗祇の記録は、弘詮がそれをしっかりとこなしていたという証左と言えます。

兄・弘護の横死と弘詮

兄の遺児たちの後見となる

兄弟姉妹が早くに亡くなってしまった場合、伯父や叔父が遺された子らの後見を任されるのはごくごく普通のことですが、陶家においてはやや尋常ならざる経緯がありました。大内本家の重鎮として、不動の地位を占めていた当主・弘護が、石見の国人風情に謀殺されるという悲劇が起こったのです(文明十四年、1482)。しかも、その時、弘護はまだ二十八歳という若さでした。当然、遺児はまだ幼子で、家督を継いだといっても独立するまでには相応の時間がかかります。父祖の代からの功臣の家柄であることを鑑みれば、陶の家をおろかにすることなどできません。

主・政弘は、弘詮に対して、弘護遺児たちの後見を求めます。これも、政弘が弘詮に宛てた書状が残されていて、素人の我々でも活字の形で目にすることができます。

「大内政弘書状写 (萩藩閥閲録差出原本宇野与一右衛門)

弘護事旨儀有之、与吉見相果、是以対当家忠儀之段更々無是非候、不慮之事出来、 口惜残念無申計候、因茲其境宰府弥堅固可為了簡候、弘護所領対子息安堵之儀者、従是以使可申入候、其許無異儀候様ニオ判尤〳〵候、謹言
(文明十四年)
五月廿八日
政弘
右田弘詮陣所」
(同上、通し番号「五二三」)

宛先が「陣所」となっているので、弘詮はなおも、九州の地でどこかの紛争を鎮定していたものと思われます(後述)。まずはここで、弘護遺児たちの家督が安堵されています。そして、「後見」についてですが、これも残された書状から、事情が分かっています。

「大内政弘書状写(萩藩閥閲録差出原本宇野与一右衛門)
從京都 公方家被成 御教書、陶可差上之旨厳重之事二候、三郎幼稚候条、御手前事彼方名代二早速被致上洛候者可為本望候、城守警之儀者胤世可被申談候、委曲青越二申含候、
謹言、
(年未詳)
正月二日
政弘
右田弘詮 陣所
尚〳〵とかく多人数無用にて候、第一箱崎無心元候、大勢者可有遠慮候〳〵、以上、」
(同上、通し番号「八一〇」)

京都の将軍(この時は義尚)から陶家に上洛の要請がありました。当然武働きを求めるものでしょう。ところが、当主の三郎(武護)はまだ幼少なので、弘詮が名代としてかわりに務めを果たして欲しい、というのです。これまた、宛先が「陣所」であり、加えて、城の守りを代行させるものを指名していたり、筥崎のことが心配なので上洛のために大人数を割いて九州を手薄にしないように、と但し書きがあるので、上の弘護の死を悼む書状とあわせ、弘詮が出陣中であったことは疑いありません。

この「上洛要請」の書状は「年未詳」となっていて、いつのことなのかじつはわからないのですが、弘護死後、間もない頃のことでしょう。弘護・弘詮兄弟の活躍もあり、主・政弘は留守中分国を荒らした凶徒どもを討伐し、九州を平定しました。とはいえ、大内氏の統治に不満を抱き騒乱を起こすものが絶えない地域です。兄から譲り受けたとはいえ、この地のことを任されるというのは、相当の重責です。弘詮はそれに堪えうる、兄に負けず劣らぬ名将であったといえます。

なお、将軍家の命に従って上洛し、そこでも活躍したことが「系図」に書かれています。「大内政弘為名代陶氏可上洛之旨有将軍家御教書依之弘詮暫称 陶氏改兵庫頭帥軍上洛数励勲功将軍家吹挙叙従五位下位下其後又於筑前国征賊徒」(参照:『新撰大内氏系図』)。

主が文武の将なら配下も文武の臣に

二十九代・政弘期は、文武に秀でた当主輩出の大内氏が、最高に輝いていた時代です。主が文武に優れた人であると、配下もその影響を受けるためか、同じく優れた文武の臣が名を連ねました。あるいは、文武の名君の元では、文武の名臣でないと生き残れないのかも知れません。そう思うと、武辺一辺倒の人はたいへんですが、そのせいで不遇を託ったとも聞いたことはないです。主が文武の名君だと、自然その家全体が風雅な雰囲気に包まれ、家臣たちも雅なことに芽生えていくのでしょうか。政弘の元に集った優れた家臣たちの中でも、とりわけ大きな足跡を残した一人が、弘詮です。

『吾妻鏡』の蒐集と書写・「吉川本吾妻鏡」

まず最初に、『吾妻鏡』とは何ぞや? との問題ですが、受験参考書にも載っているので、書名を聞いたこともないという方はおられぬでしょう。そこには、単に、鎌倉幕府について記した本、というくらいにしか書かれていないかと。それでは、あんまりなので、より詳細な説明を見てみましょう。ただし、これでもまだ、不十分です。

吾妻鏡(あずまかがみ)
一一八〇年(治承四)の源頼政の挙兵から一二六六年(文永三)の宗尊親王の京都送還までの鎌倉幕府の歴史を編年体で綴った歴史書。近世以降「東艦」とも。完成した書か、未完のものか明らかでない。源氏三代と摂家将軍・宗尊親王の時期との記述形式が著しく異な っていることから、一四世紀初頭成立説と、源氏三代の前半部を文永年間、のちの三代を一四世紀初頭とする二段階説がある。 完本として残るものはなく、大内氏の武将右田弘詮が二〇年にわたって諸本を収集して復元した吉川本、一四〇四年 (応永一一)に金沢文庫本から書写したことを本奥書に記す後北条氏伝来の北条本、二階堂氏伝来の島津家本などがある。室町時代に「吾妻鏡」から抄出した記録も多く、「山密往来」紙背の元暦年間の記録を抄出した前田本や一一八七年(文治三)から 一二二六年(嘉禄二)までの記録を抄出した「文治以来記録」などがある。近世に入ると、北条本を底本とした寛永版本、その不足分を島津家本から補った「吾妻鏡脱漏」が出版され、明治中期までの流布本となった。明治に入ると、 黒板勝美が北条本を底本として諸本と校合した国史大系本を編んだ。文体は、吾妻鏡体とよばれる和風漢文。
出典:『日本史広事典』
※マーカー引用者

上述のように、弘詮の労作は、現在「吉川本」と呼ばれております。陶本でも右田本でもないのです。これも、大内氏が滅亡したゆえにと思うと悲しくてなりません。しかし、岩国と吉川家を慕う執筆者的には、岩国の吉川史料館に展示されていることは不幸中の幸いです。

吉川史料館では、その時々によって、特別展が開かれ、展示品が入れ替えられます。しかし、「吉川本吾妻鏡」に関しては常設です。ただし、わずかに一部分が展示されているに過ぎません。どの部分が展示されているかは、展示品入れ替えの時に変ります。つまりは、しつこく通えば通うほど、多くの頁を目にすることができるわけです。展示品は当然、撮影不可ですが(※個人的目的による使用であっても厳禁です)、窓口のご担当者さまから、図録の「表紙のみ」は公開してかまわないとご許可をいただいています。要は、「現物をご覧になりたい方は、吉川史料館においでください」と一人でも多くの方に知らしめるためでしたら。

吉川資料館図録

図録表紙

『日本史広事典』の記述では、弘詮がどれほど力を尽して『吾妻鏡』を蒐集したか、後世彼の手になる書写本「吉川本吾妻鏡」が、「吾妻鏡」研究に果たした役割の大きさについて、まったく不十分です。

地元の図書館は「吾妻鏡」だらけですので、その辺り、少し調査を試みました。大内氏研究の先生方も、弘詮の『吾妻鏡』蒐集の並々ならぬ努力については、必ず言及しておられます。その際に、その詳細を知る手がかりとなる資料として、必ず名前が出てくるのが、八代國治先生の『吾妻鏡の研究』です。それでも、弘詮についての言及はわずかですが、多くの先生方の記述の出典はこのご本となっています。

『吾妻鏡』だらけの図書館だけあって、この本もちゃんとありました。倉庫の中でしたが。さすがにこれは、『山口県史 史料編』に入るような古文書ではないですから、徒歩圏の場所にいつでも参照できるように存在していたことを有難いと思いました。

文字通り、『吾妻鏡』研究の歴史についておまとめになった本ですから、『事典』の記述と大差はないです。しかし、弘詮の情熱と「吉川本吾妻鏡」が果たした役割について詳述されているところは、たいへんに貴重です。

『吾妻鏡』などに興味はないですので、研究過程については、ざっくりと要約します。要は、色々な版本があり、この本には載っていてもこの本には抜け落ちているとか、本によって記述が異なるとか、様々な問題が山積し、学者たちを悩ませて来たのです。ことに、ばっさり抜け落ちていて、推測によって意味を考えねばならなかったりする箇所が多々あり、長らく謎になっていました。ところが、「吉川本」の存在が明らかになった時、それらの積年の謎が氷解した部分が多々あったのです。もっと早くにこの本を知っていたら、こんなに悩まなくてすんだのに……という事態になりました。というようなことが書いてありました。「吉川本」がそれだけ、原典に忠実であり、「新事実の発見多し」「諸本の誤謬を正し、補ふべき所あり」「諸本の欠を補ふを得るが如し」といった感じでして、この本の果たして役割の大きさについて克明に記されているのです。

これらの事実は、「吾妻鏡」研究の先生方以外にはどうでもいいことなので、関心がある方は図書館に行ってご覧ください。要するに「吉川本」すごいよ、ということに尽きます。それよりも、成立過程のほうこそが、弘詮に関係がある記述となります。

吾妻鏡の諸本を蒐集して之を研究したるものは右田弘詮を嚆矢とす、
(中略)
嘗て鎌倉幕府の記録吾妻鏡を聞き、之を見んことを欲したるも、普く世上に流布せず永く得られざりき、文龜初年に至り、便宜を得て寫本四十二帖を得たるを以て、数人の筆生を雇ひ、頓に之を書寫して秘藏したり、その前後の年代は治承四年より文永三年に至りしも、猶二十餘年間闕脱せるを以て諸国を巡礼する知己の僧徒、又は諸國遊樂の人に託して、京都はいふまでもなく、畿内、東國、北國に至るまで、諸家に就き搜索せしめたるに、 終に闕脱のもの五帖を得たり、依て一筆に書寫せしめて、前と併せて四十七帖となし、別に年譜一帖を著し、治承四年より文永二年まで將軍以下概略の年表となし、本文と併せて四十八帖としたり、時に大永二年九月五日なり、右田氏亡ぶるに及びて吉川家に傳はしが、
(中略)
弘詮が、吾妻鏡蒐集に力を盡すと共に、この書を整頓せし功賞するに餘りありと云ふべし、この書一度出づるに及びて北條本以下の誤謬闘脱多きを知り、併せて、幾多の新史實を發見するを得たり、弘詮の吾妻鏡に盡したる功偉なんと云ふべし。
出典:『吾妻鏡の研究』

途中に弘詮が右田家を継いだとか、大内氏の山口文化サロンの繁栄ぶりだとか、そんな中で弘詮も感化されたとかのくだりがありますが、引用が長くなりすぎることと、普通に吾妻鏡やってる人は知らなくとも、我々にとっては周知のことなので大鉈を振るっています。

弘詮が『吾妻鏡』を蒐集したいという情熱にかられて、八方手を尽して集めたこと。コンプリートまであとひと息までいっていたこと。年表まで作り、理解の手助けとしたこと。などなどの努力と、その結果、後世の吾妻鏡研究に大いに貢献したこと。それらすべてをあわせて、弘詮の功績を偉大なものと称えています。その評価は決して過大ではないと思います。

しかし、書物の完成した大永二年は、弘詮が亡くなる前年です。すべてやり終えて、まさに力尽きた感じがします。加えて、「秘蔵」して先祖代々の宝として後世に伝えようとしたものが、吉川家の手に落ちたというのも、寂しい気がします。引用文には「右田氏滅ぶる」とありますが、滅んだのは弘詮の出身・陶の家です。孫・鶴千代は毛利家に仕官しています。吉川家のものとなったのは、陶家の宝物として戦利品となったのか、あるいは、子孫が吉川家に寄贈でもしたのでしょうか。どうにせよ、辛い思いが拭い去れません。

けれども、今後も吾妻鏡研究者の心の中に、本来ならばこれほどまで名前が知られているはずもない、地方の一氏族の家臣の名前が刻み込まれて行くであろうことは、誇らしく思えました。

瑠璃光寺の『拈頌集』

『大内氏実録』には、弘詮が父・弘房の菩提寺である瑠璃光寺に『拈頌集』を納めたと書かれてします。これは要するに、禅宗法話集のようなものらしいのですが、具体的なことは不明なので、これから禅宗について書かれた本を紐解いてみようと思っています。

奥書に、永正十五年(1518)四月十日の日付、跋には「鳳梧」の壺型印、「昌瑞」の方印、題箋(表紙に貼られた紙)に「真幻」の円印が押されていたとあります。

この前年、弘詮は子息・隆康に家督を譲って隠居していたようで、これらの印から法名の「鳳梧真幻昌瑞」が読み取れますから、すでに出家していたのでしょう。『周防国と陶氏』によれば、「十五冊三十巻」を博多の聖福寺で書写したとあります。また、これらを「収める箱」も造ったようです(参照:同書)。

『戦国武士と文芸の研究』に見る弘詮

米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』では、大内氏についてかなりの紙幅を割いて、詳細な考察をなさっておられます。この家の文芸関連のバイブルのようなご本なのですが、連歌も和歌もわからない素人には、なんだかよく分からないけど、すごかったんだ! ということしか分かりません。それでも、この本を開けば、歴代当主と文芸関係のことはすべて分かります。基本は、歴代当主について書かれておりますが、この主にしてこの家臣ということで、とりわけ文芸方面に秀でていた家臣についても多くの言及がございます。

弘詮については、その中でももっとも文字数が多い部類に入るではないかと思います。「が」拝読してもさっぱりですので、箇条書きにしてまとめておきます。そのうち、中身が理解できるようになれば、と思います。『吾妻鏡』については、さすがに理解できたのと、原典にもあたれましたので、省略します。また、『拈頌集』は正直、禅宗がらみということ以外意味不明ですが、『実録』から引用しましたので、こちらも省きます。

一、歌詠み関連 ⇒ 正広、宗祇、兼載、宗碩との親交。特に正広には、歌の先生になってもらっていたらしい。

・文明十二年(1480)九月十五日、連歌会主催、宗祇「此の国の守代なれば、万姓の栄花 をあひすべきのこゝろ」(宗祇『筑紫道記』)※この件については、前述。
・長享三年(=延徳元年、1489)二月八日、「陶兵庫頭、哥点所望ありし」(正広『松下集』)

 たらちねの齢は千世のかすみへて玉藻をよせよ和歌(の)うら浪

・延徳二年(1490)秋、連歌会主催、兼載「錦にも玉やはおりし萩の露」(兼載『園塵第二』)
・永正十三年(1506)、宗碩「花の色を玉にもぬかむ樗かな」「けふをせに月も夜わたる天川」「千々の秋一夜はかりの月もなし」(宗碩『月村抜句』)いずれも弘詮亭等で詠んだもの
※その後も、宗碩滞在中(三か月ほど)、ほかの多くの家臣たちが連歌会を催した

二、禅僧関連

永正六年(1509)三月、遣明正使として入明途上山口にあった前南禅桃渓桂悟 (=了庵桂悟)に器之為璠の塔銘を撰ばせる。(「器之禅師塔銘」)。

三、『源氏物語』関連

永正十三年、山口に下向した宗碩の「源氏物語講釈」を聴聞、宗碩を通して、三条西実隆に自ら所蔵する『源氏物語』への奥書や外題を所望
※連歌会同様に、源氏物語の講釈も大流行した

孝行息子と両親の菩提寺

瑠璃光寺

山口市のシンボル瑠璃光寺五重塔。五重塔は瑠璃光寺の管轄ですが、元々はまったく無関係なものです。どこの所属だろうと、どうでもよいことですが。父の戦死と兄の横死は、弘詮の人生中、もっとも辛い出来事だったと思われます。孝行息子は、父の十三回忌にあたる延徳四年(1492)に、手狭だった旧菩提寺にかえて立派な寺院を建立します。これが、瑠璃光寺です。その当時は仁保の地にありました。現在地に移ったのは江戸時代の話です。

寺院が移転したら、寺地に五重塔があった……という感じですね。敢えて、その地を選んだのかも知れません。いずれにしても、その時には、陶の人々は誰もいなくなっていましたので、純粋に寺院さまの問題です。上述の、『拈頌集』が今なお、瑠璃光寺で大切にされているのは、本当に有難いことです。それほど、貴重な寺院さまの宝物だったのでしょう。

その意味で、場所は変っても、瑠璃光寺は今なお、陶家にゆかり深い寺院なのです。なお、仁保にあった元瑠璃光寺の跡地も、大切に守られています。⇒ 瑠璃光寺瑠璃光寺(跡地)

妙栄寺

弘詮が母のために建立した寺院です。『実録』には弘詮は吉敷郡朝倉に所領があったので、「朝倉」とも名乗ったとあります。しかし、本領は長門国豊田郡にありました。殿敷村・諏訪山に城を構えていたそうです。妙栄寺は、殿敷村からほど近い樽原村にあると書いてあります。

最初、母の菩提寺は都濃郡富田にあり保安寺といいましたが、後に矢田村にも寺院を建立し、その後樽原村に移したのだということです。

友人が、弘詮ゆかりの地として、城跡、屋敷跡、それからこの妙栄寺を訪れたと教えてくれましたので、寺院は再建物と思われ、館跡は原っぱかもしれませんが、城跡にもゆかりの遺構は何かしらあるのであろうと思います。

義興期の弘詮

大内氏の重鎮

上述の文芸面の話の中で、宗碩が山口に下向してきて、弘詮はじめ、大内家中の者たちと連歌や、源氏物語講釈で楽しんでいたことを書きました。

この年、永正十三年(1516)、主の義興は京都にいました。流れ公方・足利義材を助けて上洛・復職を遂げさせるという重要な任務を果たしていたためです。永正五年~十五年、当主の義興は在京中だったのです。宗碩が山口に赴き、皆さま楽しげに雅な宴を開いておられますが、主不在であったことには注意が必要です。

言い換えれば、弘詮は、かつて兄・弘護がそうであったように、留守分国を任されていた重鎮のひとりでもあったわけです。それにしては、和やかなのは、時代の違いでしょうが。

主とともに上洛する任務も大切ですが、留守を任されることもまた、それ以上に重要なことです。甥・興房は主の傍らにありましたが、弘詮は国許を守っていたわけです。

筑前で死去

弘詮が亡くなったのは、大永三年(1523)、筑前筥崎に於いてとされています。系図に書かれているだけで、ほかには確たる史料はないようです(『実録』)。兄・弘護の死から四十年余りの歳月が過ぎていました。当主も代り、将軍復職のような大事件も見届け、さらに、分国周辺も騒がしくなりかけてきた頃でした。

兄の代わりにその成長を見届けて来た甥・興房も父譲りの立派な忠臣となり、主を支えています。兄の死後は、だいたいにおいて、国内は平穏でした。それゆえに、好きな文芸に興じることもできたのです。弘詮が亡くなった時の年齢は不明です。兄とそうかわらないとすれば、まずまずの長寿でしょう。

その後の悲劇を見ることなく逝けたことは幸運でした。忠臣の遺伝子は息子の隆康に受け継がれましたが、そのために起こった出来事は悲しすぎます。孫が毛利家の家臣になるなど、夢にも思わなかったことでしょう。そして、吾妻鏡が吉川本になってしまったことも。

弘詮の子孫たち

弘詮の子女は『新撰大内氏系図』に男子二名、女子一名が載っています。

文芸面に功績・興就

陶隆康に比べて、まったく知名度が低いですが、文芸関係の研究書ではむしろ、こちらのほうに紙幅を割いていることが多いです。

この人は義興が、将軍に供奉して上洛した際、付き従っていました。その際、父親ゆずりの文芸肌が開花してしまったようです。三条西実隆の元に入り浸り、和歌を学んだり、「源氏色紙」とやらに詞を書いてもらったり、かなりしつこい。三条西家に出入りしていたことから、ほかの文化人たちとも交流を深め、歌会を開いたり、それらの人々にも「源氏色紙」に一筆書いてもらったりして回ったようです。

そもそも「源氏色紙」って何? ってことなんですが、絵は描いてあるけれども詞書がないもののようです。立派な文化人に詞書を添えてもらうことで完成するらしい。完成したら、源氏物語絵巻のようなものができるとか。文芸って、本当に意味不明ですね。

ただ、「犬追物」についての故実を相伝されたともあり、主・義興が有職故実の習得に熱心だったように、在京中に出来うることはあれもこれも追求した人のようです。しかし、『実録』には伝もないですし、そもそも弘詮には男女一名ずつの子しかなかったと書いてありました。ほかでは見かけぬ名前なのに、文芸関係で途端に頻出のよく分からないお方です。『系図』にはお名前があるのですが、生没年完全に不明。

しかし、三条西さんのような貴族は日記をつけていたりしますから、それらに名前が出ていたりすると、途端に、「実在した」こと確定となりますから、貴族の日記の史料的価値って、本当に意味不明。ただ、単に「陶」としか書いていなかったりすることもあり、研究者の先生方も含めて、正確なところは謎と思います。

『戦国武士と文芸の研究』および『周防国と陶氏』にともに掲載されていたこと、『系図』にも名前があることから、いたのかなぁと思い書き添えました。ただし、子孫などについては全く不明です。

忠臣の遺伝子・隆康

興就という人物に、文芸面がすべて受け継がれたためか、こちらは武勇伝しか伝わらない方です。何と言っても、「国難」に於いて、主・義隆を逃がして壮絶に戦死していることで有名。逆に、その話以外は、何もないです。嫡男はともに戦死しましたが、幼かった子・鶴千代が生き残り、毛利家臣として宇野家を立てました。

参照文献:『大内氏実録』、『戦国遺文 大内家編』、『山口県史 史料編 中世』、『戦国武士と文芸の研究』、『周防国と陶氏』、『吾妻鏡の研究』、『日本史広事典』、『新撰大内氏系図』、吉川史料館図録

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

つまり、お前が外祖父さまの孫、姓は宇野、そうだな?

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

だからどうした?

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

いや、何でもない。お父上は忠臣だ。お前が裏切り者になって毛利家に仕えていると知ったら……。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

やめなさい! この問題は複雑すぎるから。君が彼だったとして、お父上の仇と友達になれる?

五郎セーラー服吹き出し用イメージ画像
五郎

分かっているよ。ただ……。陶の姓は捨てて欲しくなかった。

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

……。

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ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
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【山口県某郷土史会会員】
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