はつかいち町歩き

極楽寺(廿日市市原)

2024-05-18

極楽寺・本堂(2)

広島県廿日市市原の極楽寺とは

極楽寺は、「廿日市 20 名山」の一つ、極楽寺山にある真言宗寺院です。見ての通り文字通りですが、極楽寺山が極楽寺山と呼ばれている理由は、極楽寺があるからです。藤原姓厳島神主家、大内氏、毛利氏に深く信仰された寺院であり、本堂には毛利家の家紋がデカデカと輝いております。本堂と木造十一面千手観音坐像が広島県の重要文化財指定を受けています。

車道が整備されており、一気にドライブ気分で行くこともできますが、極楽寺山登山を楽しみつつ寺院さまに向かう方々が多いようです。

極楽寺・基本情報

山号・寺号・本尊 上不見山・浄土王院・千手観音、阿弥陀如来
宗派 真言宗
所在地 〒738-0031 廿日市市原 2180

極楽寺・歴史

行基、聖武天皇、毛利元就

何でもかんでも毛利元就に関連付けられてしまうのが、広島県内の観光資源の特徴ですが、ここも然り。むろん、無関係のものまで、結びつけることはできませんから、ゆかりの寺院であることは間違いありません。しかし、これを書くために参考にしている『広島県の歴史散歩』というガイドブックには、毛利元就の「も」の字も書いてありません。本が古すぎるのか、地元の方々の毛利元就愛が深すぎるのか、さて、どちらでしょうか。

残念ながら、寺院さまで御由緒看板が見付けられませんでした。このような場合、あくまで山口県郷土史研究の書籍ばかり蒐集している身としてはお手上げ状態です(山口県内の観光資源とて、完璧ではないのですから)。寺院さまご自身が、ホームページなどを公開されていれば、何ともありがたいことなのですが、それも見付けられませんでした。

廿日市観光協会さまのホームページを拝見して、以下のことが分りました。

標高693mの極楽寺山・山頂付近にある極楽寺は、奈良の大仏殿造営のため諸国を巡歴していた僧行基が天平3年(731)開山、後に聖武天皇が建立したと伝えられる由緒ある古寺です。

出典:廿日市観光協会 ホームページ 極楽寺

これ、『歴史散歩』には一文字も書いていないんですよね。

逆に、本には書かれている、藤原姓神主家、大内氏の信仰については、観光協会さまのホームページには一文字もなく、いきなり、毛利元就に飛んでいます。確かに、大内氏関連の郷土史本(山口県内のもの)には、広島県にある極楽寺のことまでは書いておりませんから、調査するのは困難です。しかし、普通に考えて、藤原姓神主家を滅ぼした大内氏の庇護下にあったことは間違いないです。毛利氏については複雑で、地元安芸国にある由緒ある寺院としての信仰は普通にあったでしょうから、藤原姓神主家の滅亡如何に関係なく、古くから信仰していたとしても、なんの不思議もないです。

大内氏が存在しなくなってからは、毛利氏の庇護下に入ったのは他の多くの寺社と同じです。その過程で消滅した寺社も少なくないことから、深く信仰されていたことは確実です。

しかし、ご存じのように、毛利氏はどこぞの狸のせいで、広島から山口へ追い払われてしまいました。そのせいかどうか、わかりませんが、狸の子孫が統治者となった江戸時代には、一時寺院が廃れてしまったそうです。寺院を守ったのは、地元の方々でした。

というようなことで、その後も幾度となく行なわれたと思われるメンテナンス作業を経て、現在我々が目にすることができる寺院さまには、毛利家の家紋が光り輝いており、ここは毛利元就ゆかりの寺院として著名です。

何も、観光客誘致のために、強引に結びつけたわけではありませんよ。現在みることのできる本堂は、毛利元就が修築したものです。その後、江戸時代享保年間にも修築された、というのが正しいのですが、その際に、元々の姿に忠実に手直ししているので、まあ、毛利元就創建の本堂と考えてよろしいでしょう。

この辺り、厳島神社が平清盛が創建したわけでもなく、現在我々が見ているのが平清盛が修築した時の社殿ではないにもかかわらず、皆さんが、厳島神社=平清盛と思い込んでいるのと似ておりますね。誰がどう見ても、現在の麗しいお姿にして、なおかつ、その後も延々と繁栄して世界遺産にまでなる基礎を作ったのは清盛なので、もはや佐伯鞍職の創建も毛利元就の修築も皆さん忘れちゃっているわけです。

行基が開山、聖武天皇が建立というのも「言い伝え」のようですから、正直、記録の残るものとしては、毛利元就の修築くらいなんではないかと思われます。

宮島ゆかりの地

「みやじま・えりゅしおん」は、宮島と、宮島ゆかりの地を巡り、やがては「宮島検定」合格を目指す企画です。よって、ここに掲載されている寺社仏閣、史跡等はすべて、宮島とゆかりのあるものです。では、極楽寺と宮島のゆかりはなんでしょうか?

『宮島本』には、以下のような興味深い一文がございました。

極楽寺の位置は不思議と厳島弥山の頂上・厳島神社・地御前神社の真北にあたる。

出典:『宮島本』 極楽寺 145ページ

はたして、なにゆえに「真北にあたる」のかについての説明はありませんでした。しかし、偶然とは考えられませんので、何らかの意味があるはずです。極楽寺が、宮島の「ゆかりの地」となっている所以は、こんなところにあるのかもしれません。

極楽寺・みどころ

毛利元就修築の本堂に尽きます。文化財は公開されているようです(参照:『歴史散歩』)ただ、本が古いと、ご住職の世代交代などで、方針がかわったりすることもあることなどから、事前のお問い合わせは必須です。本堂は建築物ですので、見放題です。堪能しましょう。

寺号碑

極楽寺・寺号碑

立派な寺号碑が。ちょっと写真がピンぼけてしまっていて残念です。

参道

極楽寺・参道

至る所に、極楽寺に通じる参道の標識がございました。

極楽寺・参道(2)

十三仏

極楽寺「十三仏」

本堂に至る道すがら、信者の方々が奉納したお地蔵さまやら、神さまの像やらがたくさんありました。地元の方々から、深く信仰されている証です。そんな中で「十三仏」と書かれたものを発見。これは奉納品ではなく、寺院さまが安置したものなのでしょうか。不動明王さまは、ほかにもございまして、そちらは、「十三」どころか、数え切れない神さまが安置されております。どうやら、こちらのほうは、奉納品ではないかと思うのです。だとしたら、「十三仏」は何なのでしょうかね。同じ不動明王さまのバージョン違いがございましたので、下の写真と「十三仏」は無関係と思われます。

極楽寺・奉納品の神さま像

こちらはお地蔵様です。

極楽寺・奉納品

極楽寺本堂

極楽寺・本堂

これが本堂です。確かに中世から続く、由緒ある建築物のように見えます。永禄五年(1562)の創建だそうです。発見された棟札から、ずっとその説が有力でしたが、後に享保四年(1719)に再建されたことが明らかとなったそうです(参照:『歴史散歩』)。しかし、デザインそのたを元の建物の様式を受け継いだこと、材料の一部を元の本堂のものを転用したことなどから、ほぼほぼ、毛利元就時代の姿のままと考えられています。要するに、古くなったので、元通りのお姿そのままに修繕した、ということです(この点、観光協会のご紹介文には書いてないのです。どっちを信用すべきでしょうか)。

なお、この本堂の中に安置されている、十一面観音は行基の作と伝えられているそうです。しかも、その後、弘法大師によって修築されたとか。行基が天平三年(731)に製作、弘法大師が大同元年(806)に開眼供養(参照:『宮島本』)。しかし、現代の研究者が調査した結果によれば平安時代の作品だそうです(製作様式などから推測)。もう行基だの、弘法大師だの云々はそこかしこにありますが、いかにお二人が偉大でも、日本全国津々浦々のすべての仏像を作ったり、修繕して回ったりする余裕はなかったでしょう。

この辺りは、古代史浪漫の世界なので、信じる者は救われます。浪漫に浸りたい人々にとっては、仏像の制作者は行基でなければダメですし、本堂は毛利元就の時代から延々とそのままでなければならないのです。

極楽寺・本堂(3)

毛利家の家紋が云々と言っても、よく見えないので、ズームしとくとこんな感じです。なるほど、でしょ???

「極楽寺本堂

極楽寺の本堂は正面の向拝あたりをのぞくと、京都の法界寺国宝阿弥陀堂にそっくりな、平安朝の軽やかさを感じる優れた堂である。内部は禅宗様の仏殿様式に造られ、これに和洋の裳階が四方に付けられている。鏡天井には龍が描かれている。

永禄5(1562)年に毛利元就が再興したという棟札の記録があり、屋根裏の露盤には慶長4(1599)年の銘がある。

この本堂は形態がよいこと、記録があること、永禄時代の建材が残っていることなどが高く評価されている」
(文化財説明看板)

「木造 十一面千手観音坐像

像高さ 207センチ 腕張り 125センチ 一木造り

この観音像は極楽寺本堂の本尊である。簡素な彫りによる慈悲深い相の中にも、不安な世情を反映して、厳しい表情もうかがえる。大きな鼻、唇の厚い口は国風化した時代の特徴をよくあらわす。肩衣の左の胸に表れる大波小波に彫る翻波文は、この像の古さを示している。

両眼から顎にかけての線は、割れ目を防ぐ漆のためで、後世「涙ながしの観音」といわれた。平安時代中期頃の作で、巨匠が作ったと思われるこの像は、安芸地方では非常に珍しく、貴重な文化財と評価されている」
(文化財説明看板)

阿弥陀堂

極楽寺・阿弥陀堂

やけに真新しいと思ったら、昭和五十五年創建とのことです(参照:観光協会さまホームページ)。ここに安置されている阿弥陀像は「大仏」と書かれており、その大きさは日本でも最大クラスだとか。見てないので、何とも言えませんが。昭和時代といっても、すでにかなり年代モノとなってしまっておりますが、こんなところにも、毛利家の家紋が。どう考えても、昭和時代は、毛利家のみならず、全国からそれらの元殿さまたちは姿を消しております。でも、やっぱり、毛利家のマークがついてしまうのが、広島県なんですね(個人的な意見です)。

極楽寺・阿弥陀堂賽銭箱

まあ、賽銭箱に大内菱って、山口県内にも大量にあるけど、これも中世史浪漫の方々が奉納されたのかな。

「八体仏」

極楽寺・「八体仏」

これも奉納品でしょうか? 「八体仏」と書いてあり、説明文に「十二支の守本尊」とあるのですが、十二支の守り本尊(当然、十二体あるような気が……)が、なぜ八体なのか、永遠の謎です。

原爆死者慰霊碑・平和観音・折り鶴観音

極楽寺・原爆死者慰霊碑

極楽寺・平和観音と折り鶴観音

こんなところにも、きちんと平和への願いが。十三重塔が、原爆死者慰霊碑、その脇に並んでいるのが、折り鶴観音と、平和観音です。

展望台と展望

下の写真で見えている東屋が展望台です。その下の看板に見えているような景色が見えるそうです。実際の展望、いかがなものでしょうか。実は、極楽寺は極楽寺山の山頂付近にあるとはいえ、山頂ではありません。しかし、山頂の展望は今ひとつのようでして、展望を望む方は、こちらから見下ろすのが最適です。

極楽寺・展望台(遠景)

極楽寺・展望台案内看板

なんと、この写真があれば、永年の謎だった、駒ヶ林がどれなのか、分るではないですか。しかし、宮島口フェリー乗り場から見る宮島とは、微妙に違っており、やはり、よく分りませんでした。

極楽寺・展望台からの眺め

あいにくの天気で、展望は今ひとつ。これでは、せっかくの多島美も味わえません。次回もう一度ですね。

極楽寺山

極楽寺山案内看板

極楽寺山は「廿日市 20 名山」にも選ばれている人気の登山コースです。極楽寺山に参詣する方々も、ハイキングをかねて登山しつつ、お参りすることが多いようです。時間に制限のある方、歩き慣れていない方にとっては、車で行くことも推奨されますが、それでも駐車場から、寺院まではそれなり歩くこと、歩いていけなければ見ることのできない景色などもございます。

なお、登山コースはいくつかあり、それぞれに楽しみがあります。

極楽寺山基本情報

頂上標高 693 メートル
ルート定数 18
歩行時間 五時間三十分
歩行距離 11.4 キロメートル

参照:『廿日市 20 名山ガイドブック』

歩行時間「五時間三十分」というところに、目が点になりますね。今回の目的は極楽寺だったので、登山はまったく考えておりませんでした。しかし、極楽寺橋、仁王門などの興味深い名所はすべてパスすることになりました。また、極楽寺は「山頂付近」にあるとはいえ、「山頂」ではありません。よって、山頂も見落としております。

ちなみに、山頂からの眺望は今ひとつだそうでして、眺望を満喫するならば、極楽寺の展望台がいいようです。

さらに、極楽寺山門にいきなり車を乗り付けるようなことはできず、駐車場からは徒歩となりますので、多少は、山歩きを楽しむことも可能です。

極楽寺山参道

こんな奥ゆかしい森や、下のような光景も楽しめました。

極楽寺・山道(2)

極楽寺(広島県廿日市市原)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒738-0031 廿日市市原 2180

アクセス

残念ながら、歩いて行くのは困難です。素直に廿日市駅からタクシーを使いましょう。登山で極楽寺山の頂上を目指し、中途で参詣する方々は、複数のグループで参加されると思われます。その場合は、貸切りバス、仲間どうしでのレンタカーなど色々の選択肢があるでしょう。

いかなる山も、一人で入ることは推奨できかねますので、登山希望の方は、観光協会さまにお問い合わせをし、登山メンバーを募っている際に、日程を合わせるなどして調整するのがよいかと思います。

なお、タクシー利用の場合、駐車場から寺院までかなり歩きますので、メーターが気になる方はいったんお返しして、参詣後に新たにタクシーをお呼びするのがよいかと思われます。有名な寺院なので、話が通じないケースはないでしょう(必ずタクシーが拾えることを保証するものではありません)。

参考文献:『宮島本』、廿日市観光協会 HP、『広島県の歴史散歩』、『廿日市20名山ガイドマップ』、文化財案内看板

極楽寺(広島県廿日市市原)について:まとめ & 感想

極楽寺(廿日市市原)・まとめ

  1. 行基が開山、聖武天皇が建立したと伝えられる古刹
  2. 本堂と本尊の十一面千手観音坐像が県の重要文化財指定
  3. 藤原姓厳島神主家、大内氏、毛利氏などの信仰を受けた
  4. 本堂は、永禄年間に毛利元就が修築したものを踏襲している。江戸時代にも修繕は行なわれたが、元の建築様式、元の建築資材(一部分)を用いるなどして、創建当時の面影を今に伝えている
  5. 十一面千手観音坐像は、行基の作であり、のちに弘法大師が修繕をしたという言い伝えがあるが、専門家の研究では平安時代の作品であると見なされている
  6. 極楽寺がある山は、極楽寺山と呼ばれ、「廿日市 20 名山」に選ばれている。寺院までは、車で容易く行くことができるが、ハイキングを兼ねて登山の中途で参詣する地元の方々が多い。

春なのに、なぜか堪えきれないほどの寒風が吹き荒ぶ一日でした。『宮島本』に載っている観光資源で、まだ見終えていないものは数えるくらいとなってまいりました。極楽寺は、そのなかでも、「ゆかりの地」扱いであり、宮島島内にはないものとなります。

毛利元就の武勇伝そのほかは、もう、厳島で嫌というほど聞かされておりますし、立派な人物であるということも一応は認めております。この先、毛利元就ゆかりの地を巡ることは、どことなく、研究テーマとは離れている気がしてなりません。

しかし、『宮島本』にある「極楽寺は厳島神社の真北にある」という点に惹き付けられておりまして、これには恐らく、何か深い謂れがあるに違いないと思います。これに対する研究者の答えはまだ出ていないようですが、どなたか明らかにしてくださらないかな、と思う次第です。

なお、県内の観光資源にさりげなく毛利元就ゆかりの地看板が置かれまくっている東広島や、最近奉納されたと思しき極楽寺の賽銭箱に毛利家の家紋がついていることについては、微笑ましく思っております。地元民に愛される人物というのは、本当に羨ましい限りです。

毛利元就公の子孫は気の毒にも広島から追い出されましたが、そのせいで、山口では滅ぼされた一族に統治されるという「歪み」が生じ、何とも面はゆい思いが脱ぐいされません。その点、広島ではそのような「歪み」がないですので、羨ましい限りです。でも、毛利家が隣の県に移動させられた後、広島には誰が来たんだろうねぇ? ということは、常に忘れてしまいます。さすがに、これだけ通い詰めているので、浅野さんだということは最近になって、漸く記憶されましたが。地元の統治者(いわゆる殿さまってやつ)が、何者だったのかも知らないくらいですので、そこら辺はお許しいただきたいと思います。要は「興味がないのです」。

こんな方におすすめ

  • 毛利元就が好きな人
  • 健康のために「廿日市20名山」を制覇しようと考えている人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像(怒)
五郎

お前さあ、流れ者から毛利家に拾ってもらったみたいだけど……アピールしまくっているのはいいとして、着ている物にまで毛利家の家紋ついているのは、問題ありじゃないの? 身内とかではないわけだし。

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

これはいわゆるお前達言うところの「こすぷれ」なるものだ。文句があるか?

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

嘘! やけに人生経験豊富な感じはしてたけど、大人しい子だったのに。仕官した途端、何か、人格変ってるし。

五郎吹き出し用イメージ画像(涙)
五郎

俺も毛利元就に頼んでみようかな。あいつがあんなに威張ってるとか、堪えられない。

ミル吹き出し用イメージ画像(怒る)
ミル

絶対にダメだからね! そんなこと許されないから。不倶戴天の敵って言葉知ってる?

五郎吹き出し用イメージ画像(涙)
五郎

陶入道はともかく、俺、そもそも毛利元就なんてやつ、知らないんだけど。そこまで嫌われているって何でだろう?

ミル吹き出し用イメージ画像(怒る)
ミル

嫌われているのは、君ではなく、相手のほうです。あと、そういうこと、気にしなくていいので。君の主君は大内家です。嫌いならば変な殿さまは無視すればいいので、先代、先先代さまだけを尊敬して生きていきましょう。

大頭神社・鳥居
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廿日市の観光資源と言えば、宮島と厳島神社の知名度が圧倒的です。それゆえに、ほかの観光地の影が薄くなってしまっている嫌いがあるのが、とても残念です。けっして、それだけではないですよ、ということを証明したく、町中を歩き回っています。

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  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン用)

ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
厳島神社が崇敬神社です
【山口県某郷土史会会員】
大内氏歴代当主さまとゆかりの地をご紹介するサイトを運営しています

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