陶のくにの人々

陶弘房 応仁の乱で戦死・瑠璃光寺が菩提寺

2022-04-17

陶氏歴代ご当主さまについてご紹介しています。今回は、六代目・弘房さま。名前を聞いてもわからない方も、瑠璃光寺五重塔はご存じと思います。国宝として、山口市のシンボルとなっている五重塔は、大内義弘のために建立されたもので、元々はその菩提寺香積寺にありました。江戸時代、菩提寺が破却され、寺地だけになっていたところに、弘房菩提寺・瑠璃光寺が引っ越して来たのです。塔を見ながら、菩提寺の主にも思いを馳せていただけたら幸いです。

陶弘房とは?

室町時代の武将。陶氏六代目の当主です。父・盛政の跡を継ぎました。最初、本家・右田氏の当主が後継者なしの状態で戦死したため、右田氏を継いでいました。しかし、兄・弘正の死によって陶氏にも同様のことが起こります。一族の懇願が主・政弘に認められ、弘房は右田氏に次男を残して陶氏に復帰しました。父の代から任命されていた周防守護代の職に就き、大内宗家のため、根拠地領地の人々のために尽します。

1467年、いわゆる応仁・文明の乱が起こると、主・政弘に従って上洛。相国寺の戦いで戦死したとされています。菩提寺瑠璃光寺は、妻・仁保氏ゆかりの地・仁保にありましたが、江戸時代に現在地に移転。国宝・瑠璃光寺五重塔があることから、宗教施設である寺院として多くの人に信仰されていることはもちろん、貴重な建築物を目にしたい一般観光客の人々からも愛される場所となっています。

基本データ

生没年 ?~14681124
父 盛政 
兄 弘正
妻 仁保右衛門大夫盛郷の娘、保安寺殿華谷妙栄大姉 
子 弘護、弘詮
呼称 三郎、五郎(三郎五郎)※
官職等 中務少輔、越前守、筑前守護代※※、周防守護代
法名 泉福院殿もしくは瑠璃光寺殿文月道周大居士
(典拠:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内氏史研究』、『文化財探訪必携』、『中世周防国と陶氏』、陶弘護肖像画賛)

※『新撰大内氏系図』では、右田氏を継いだ弘房と、陶氏に戻った弘房と二箇所に記載があり、微妙にその中身が違っております。陶氏では「三郎五郎」右田氏では「三郎 五郎」となっております。また、同じ問題について、『大内氏実録』の近藤先生は「幼名を五郎とすることの根拠は系図だけだが、のちに『中務五郎』と名乗っていること、息子・弘護、曾孫・隆房、玄孫・長房、全員幼名を五郎と名乗っていたので、これを採用するのである」と書いておられます。
※※『新撰大内氏系図』右田氏の弘房欄に「周防守護代、筑前守護代」とあります。この「筑前守護代」の出所は、『実録』によれば、以下の如くです。「瑠璃光寺牌に『前筑前刺史』とある。これは『筑前守』なのか『筑前守護』なのか『筑前守護代』なのか不明」よって、近藤先生は「筑前の事を司る」とし、『文化財探訪必携』はそのまま「筑前刺史」と書いておられます。

略年表(生涯)

長禄元年(1457) 右田弘篤の跡を継ぐ
寛政六年(1465) 兄・弘正が戦死。本姓・陶に戻る
応仁元年(1466) 政弘に従軍し上洛(=応仁・文明の乱)
応仁二年(1467) 十一月二十四日、相国寺の戦いで戦死

主な業績

右田家を継いだが兄の戦死で陶氏に復帰

陶氏は元々右田氏から分家した一族です。そのため、最も親しい身内として、互いに跡継を補い合ったりしたようです。本家・右田氏の弘篤が亡くなった際、跡継がいませんでした。一族は、陶氏から後継者を迎えることを望み、陶盛長の次男だった弘房は当主・教弘の許可を得て右田氏に入りました。家名を守り伝えることは何よりも大切ですから、普通に納得できる流れです。

ところが、ここですんなりと問題は解決しませんでした。陶氏でも当主の弘正(弘房の兄)が跡継のないまま戦死してしまったのです。こうなると、今度は陶氏の後継者がいなくなってしまいます。右田氏を継いでいた弘房以外に、陶氏には相応しい人物がいません。そこで、これまた一族は話し合って、弘房を陶氏に復帰させたい旨、主・政弘に願い出て許可をもらいました。こうなると今度は、せっかく弘房に継いでもらっていた右田氏の当主がいなくなります。そこで、弘房の次男・三郎が右田氏に残りました。これが後の右田弘詮です。

争いの絶えない時代のことゆえ、当主が突然に戦死するということも日常茶飯事です。跡継息子に恵まれなかったり、あるいは、跡継が父より先に戦死するというような事態も起こり得ます。陶氏の世代交代の問題も、すんなりとはいかなかった例ばかりでして、いったん右田氏に入ったとはいえ、弘房の家督継承はまだ自然なほうです。

ここで一つの疑問が生じます。右田氏には弘篤以外にも庶流があった模様で、なにゆえにそれらの方々ではなく、弘房が継いだのか、という点です。ただし、このことについて言及されているご研究を今のところ目にしたことがないですので、気にしないことにします。

周防守護代として宗家に尽力

父・盛長に続き、弘房も周防守護代となり、大内宗家のために尽します。いちいち具体的に何をしたかについては、ピンポイントでこの方を研究対象としている研究者の先生でもない限り調べる必要はないことです。そのうえで、いくつか整理しておくとすれば、以下の通りです(参照:『中世周防国と陶氏』)。

・須々万八幡宮の祭礼を定める
・富田保公用米納入を請負う
・龍文寺に仏殿建立(永享三年、1454)

周防守護代として、周防守護である主のかわりに現地のことを任されている、ということは在地の人々からしたら、地元のお殿さまという感じになりますね。もちろん、その下にはさらに小守護代なる方々がおり、さらに細かく地元密着型で政務を担当しているわけです。それらが、守護代の元で集約され、さらに守護に還元されるという流れです。大内宗家の家臣でありながら、根拠地の領主である二つの顔を、多くの重臣たちは持っていたことになります。

応仁の乱に従軍して相国寺で戦死

右田弘篤も弘房の兄・弘正も戦死して、長寿を全うできませんでしたが、弘房もまた戦死しています。京都にて、細川勝元と山名持豊との権力争いが大戦争に発展。主・政弘が山名方として上洛すると、弘房も当然の如くそれに従軍します(=応仁の乱)。十年もの長きに渡って続いた争いの中、主・政弘は十年間在京することを余儀なくされました。主とともに、無事に帰国した人がいるいっぽうで、長期に渡る戦乱で命を落とした人も少なくありませんでした。

弘房の戦死は応仁二年のことですので、参戦間もない時期でした。大乱中、最も大規模な戦闘ともいわれる、相国寺での激戦においてとされています。亡くなった月日については諸説あるようですが、『大内氏実録』の近藤清石先生は十一月二十四日説を採用し、この説で落ち着いている模様です。

人物像や評価

代々築き上げてきた忠節

陶弘房は軍功の究極のかたちである「戦死」で、主に対して忠節を尽しました。もちろん、果たした功績はこれのみならず、平時にあっては政務を助けてもいたでしょう。父・盛政が周防守護代となって以降、その地位は世襲となったとありましたので、何も弘房一代が突出していたわけではありません。歴代が築き上げてきた大内宗家に対する尽力の上に、弘房の功績も上書きされたのです。そして、その地位は、つぎの世代にも受け継がれていきます。

優秀な子ら

『新撰大内氏系図』を見る範囲では、弘房には二人の息子がいました。嫡男・弘護と次男・弘詮です。弘詮は右田氏を継ぎましたから、陶と右田二つの家が、宗家に対して忠節を励むことになります。弘護・弘詮の兄弟はともに極めて優秀で、まさに陶氏の歴史の中で、最高の煌めきを放っていたと言っても過言ではありません。

優秀な子孫を残したこと。これ一点だけとっても、弘房の功績は甚大です。

菩提寺としての瑠璃光寺

国宝・瑠璃光寺五重塔で有名な山口市の瑠璃光寺。瑠璃光寺は弘房の菩提寺であり、その事実は今もかわりません。けれども、創建当時は現在の場所にはありませんでした。夫の戦死後、その菩提を弔うために妻・仁保氏が建立した最初の寺院は安養寺といったようです。

このあたり、『大内氏実録』は問題をややこしくしてしまっているため、素直に最新の研究に従って無視します。『大内文化研究要覧』の年表に現われる弘房菩提寺に関わる変遷の年月日は以下の通りです。

・文明三年(1471)仁保氏が安養寺を創建
・明応元年(1492)「安養寺を隣接地に建て替え『瑠璃光寺』と寺号を改める」
・元禄三年(1690)香積寺跡地移転

『実録』では、安養寺と瑠璃光寺をまったく別の寺院である、としています。ややこしくて混乱する上、上の年表にある流れは瑠璃光寺の「寺伝」に書かれていることなので(参照:『実録』)、当然正しいでしょう。

延徳四年(=明応元年)は弘房の二十五回忌あたります。隣接地に建て替えたのは元の寺地が手狭だったためのようです。法名が泉福院もしくは瑠璃光寺となっている点ですが、泉福院については記録がないようでして、最初は泉福院としていたものを、後に瑠璃光寺と改めたのであろうと書かれています(『実録』)。

弘房の念持仏は薬師如来でした。瑠璃光浄土ですね。それゆえに、瑠璃光寺という寺号になったものかと。近藤先生のご説です。何とも麗しい響きですね。

なお、『実録』には、仁保の地には瑠璃光寺跡地として、二箇所ある、と結んでおられます。先生が認めれおられない安養寺の跡地と瑠璃光寺の跡地があるのでしょう。瑠璃光寺跡地は現在も残されており、歴代ご住職の古墓などがきちんと整備され、守られています。安養寺時代の跡地についてはわかりません。

まとめ

  1. 陶弘房は、盛政の次男。陶氏は兄・弘正が継ぐので、後継者が途絶えた本家・右田氏を継いでいた
  2. 弘正戦死により、陶の家を継ぐ者が絶えてしまい、弘房が陶氏に復帰。右田氏には次男の三郎を残した
  3. 周防守護代として、大内宗家を助けて活躍
  4. 応仁の乱に際して、主・政弘に従って上洛。相国寺の合戦で戦死した
  5. その菩提寺・瑠璃光寺は、元々妻・仁保氏ゆかりの仁保の地にあったが、江戸時代に現在地に移転。大内義弘のために建てられた五重塔がある場所だった。五重塔が瑠璃光寺五重塔として国宝になっているため、期せずして多くの人が弘房菩提寺を訪れている

参考文献:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内文化研究要覧』、『大内氏史研究』、『文化財探訪必携』、『中世周防国と陶氏』、陶弘護肖像画賛

雑感(個人的感想)

山口市に観光に行って、瑠璃光寺に足を運ばない方はおられないでしょう。なぜというに、国宝となっている五重塔があるからです。ただし、目に見える美しいものだけを視界におさめて旅を楽しんでいる方にとっては、その寺院が誰の菩提寺であるかなどは、どうでもいいことだったりします。

瑠璃光寺五重塔を知らない人はいなくても、陶弘房を知らない人はいるのだろうな、という気がします。とかく、最晩期の教科書にも載っている人物だけが有名なこの家で、(あくまで全国区で見れば)この方をはじめ多くの歴代は埋もれてしまっています。これまた仕方ないというか、当然のことでして、地元の著名寺院すら、誰にゆかりがあるかなど関心がない状態です。

戦乱の歴史に関心がおありの方は、相国寺で亡くなった一件をご存じかもしれません。でもそこどまりが普通なのかなと思います。逆に言えば、最大の事蹟はそこだったりしますし。『大内氏実録』の近藤先生は、伝を立てた人については菩提寺の考察が詳しいことが、ご研究の特徴のひとつであるように感じます。瑠璃光寺は寺地を転々とした上、最終的に現在地に落ち着き、そこにたまたま(意図したものかは不明なので)五重塔があった。それは、弘房とは無関係の大内義弘のために建てられたものであった、とそのような流れがけっこう面倒です。

とある研究者の先生が、義弘五重塔のある場所に、宗家を潰した家にゆかりある菩提寺が引っ越して来たのは皮肉なことで云々と書いておられました。そうかもしれません。でも、単に移転しただけでは? と思うのでした。県内の寺院はどこも変遷がややこしいことになっておりますので、瑠璃光寺はわかりやすいほうという認識です。

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弘房さまが「六代目」というのは、どの本もそうなっているんだけども。弘正さまは数えないのだろうか。

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俺、見ちゃったんだけどさ、『中世周防の国と陶氏』というご本の中に、五代目逝去から六代目登場までの間に、しばらく、成人前の人と思しき署名が続いていたって。六代目を指していると思われるというご研究だよ。

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ミル

本当だ。「およそ十一年間」動静不明ってなっている。でもさ、弘正さまって、寛正六年(1465)に二十一歳で戦死だよ。でもって、これって、応仁年号のちょい前。これが兄上だとしたら、年子でも弘房さま亡くなった時、目茶若いことになるし。系図目茶苦茶すぎない?

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系図が目茶苦茶なことは、伯父上たちのところでもそうだよ。目茶苦茶なのに、はっきり年代とか亡くなった時の年齢とか書いてあるのって却って怪しい。山とある残存史料を丹念に調べておいでの郷土史会の先生方の説が正しいはずだよ。

※この記事は 20250202 に加筆修正されました。なおも修正は続いております。

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ミル@周防山口館

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