
『大内殿家中覚書』
近藤清石先生が『大内氏実録』内に、附録として掲載した史料です。大内義長政権下の家臣一覧表の如きものです(むろん、それなり地位のある方だけ)。完璧な状態で残されていた史料であるとの明記はありませんが、こんな人物がいたらしい、ということの確認には必要にして十分です。

『大内氏実録』に伝がある人々
ミル以下は、『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』の項目を抄訳したものでしたが、ほかに記事ができたりした人は移動してしまったため、見出しだけです(引っ越し先は明記してあります)。
弘中隆兼
義隆死後、義長政権に仕えた。詳しくは、本家サイトに弘中氏の記事を作ったので、そちらをご覧ください。

僧了善
「摂津国住吉の僧である。隆兼に目をかけられて付き従う。隆兼が竜馬場(=駒ヶ林)にたてこもった時、毛利軍はかの地が険しく、将兵も勇敢なので、力攻めすべきではない考えた。降伏する者は一命を助ける、といったところ、弘中備中守、同忠兵衛、糸永加賀守等十二、三人が降伏を望んで山を下りた。他の者は備中守等が敵に降ったのを見ていつとなく逃亡し、了善ただ一人となって隆兼父子に殉じた(『棚守房顕覚書』)。」
『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』(原文文語文)

江田安芸新五郎
厳島で戦死した。
「『棚守房顕覚書』に、陶、弘中を討ったら、撤退するはずなのに、江田安芸新五郎が討たれていないので彼の者を討とう、と、三日の夜も元就は一夜陣をすえていたとある。「□処天野紀州隆重へ江田新五討取、首到来すれば弥山下向ある」、とあるだけで、ほかにはまったく所見がないけれども、房顕の記す所を以て見るに陶、弘中につぐ兵であると思われるので、記しておく。」
『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』(原文文語文)
青景隆著
「初め右京進(天文十四年九月二十一日初見)、のち越後守となる(『有名衆』、『下向饗応記』、『家中覚書』、『武任申条々』等、『饗応記』に書かれているので、天文十八年三月九日より前のこと) 。長門国衆(『有名衆』)。天文十七年三月十六日、従五位下叙位(『歴名士代』)。
天文十八年九月、備後国外郡神辺・村尾の城督となる。
隆著は杉重矩と仲が悪く、重矩は長年陶隆房を嫌っていたので、二人を義隆に讒言した。
天文十八年正月、麻生余次郎が家人・小田村備前守を殺した事件に関して、 義隆は相良武任に命じて重矩に問うところがあった。重矩は武任に隆房、隆著のことを話した。武任が己が言ったことを隆房、隆著に漏すことを畏れた重矩は、意を曲げて隆房、隆著と交り、己が嘗て讒言したことを武任の讒言にすりかえて、隆著に告げた。隆著は信じず、八月、家人・早河藤左衛門尉を派遣して、武任に意見をきいた。武任は慮るところがあって、知らないと答えた。そこで隆著は武任を恨み、遂に重矩に心を合せて武任を隆房に讒言し、隆房を反逆させるに至った(『言延覚書』)。
弘治二年、戦死(『歴名士代』、死んだ月日、場所不明)。」
『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』(原文文語文)
飯田興秀
「初め大炊助(永正十二年差定、『高嶺大神宮御鎮坐記』。明応九年の『御成雑掌注文』に飯田小五郎の名がある。興秀の幼名だろう) 、のち石見守となる(『歴名士代』、『言延覚書』、『義隆記』、『同異本』)。大炊助弘秀の子である。義隆に仕え、小座敷衆であった(『有名衆』)。
天文十九年七月十七日、従五位下を授かる(『歴名士代』)。隆房に与して義長に仕えた(『言延覚書』、『家中覚書』)。」
『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』(原文文語文)
飯田長秀
「興秀の子。初名不明(長字は義長の偏名である)、大炊助となる(『歴名士代』、『有名衆』)。義隆に仕え、侍大将ならびに先手衆であった。
父と同じく晴賢に与みした(叙位の年紀から分かる)。天文二十年一月(二月とも)七日、従五位下を授かる(『歴名士代』)。
『家中覚書』にはその名が見えない。二十四年より前に死んだのだろう。ところで、小座敷衆に飯田小五郎があり、『有名衆』 では侍大将ならびに先手衆の中に見える。長秀の弟と思われる。」
『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』(原文文語文)
阿川隆康
「太郎と称す。義隆に仕え、侍大将ならびに先手衆であった(『有名衆』)。義隆が法泉寺に入ると、隆康はこれに従い 本営を守った。隆康は普段から、自らを十人力があると誇っていた。人々は皆、その最後の戦闘を想像した。二十九日、義隆は隆康に命じ 嶽山を守る冷泉隆豊等を召還した。隆康はその命を伝えてのち、山中にて甲冑を脱ぎ棄てて逃亡した。人々はこれを見てますます気がくじけてしまったという(『義隆記』、『安西軍策』)。義長に仕えて小座敷衆につらなった(『家中覚書』)。」
『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』(原文文語文)
その他に、『大内氏実録』巻二十八 列伝第十四 叛逆』に伝があるのは、以下の方々です。他の記事に書いたので、ここには書きません。そもそも『実録』の区分に合わせる必要性も感じませんが、近藤清石先生の方針を尊重して譲歩しております。
大内義長
「叛逆」のトップバッターです。個々人の感情は抜きとして、最新のご研究では歴とした「当主」として認められている人です。当主が「叛逆」ってなんなんでしょう。とはいえ、コチラでも、「歴代当主」には入れてなかったりしますが、それは受験参考書が「大内義隆」の死を以て、「大内氏滅亡」としているため、それにあわせているだけです。当主でなかったら、この方なんなの? って疑問は拭い去れませんけど。詳しくは以下をご覧ください。
陶晴賢
この人を「叛逆」と書きたかった近藤先生のお気持ちもわからなくはないですが。ただ、単純に「叛逆」などでは片付けられない人物という認識です。少なくとも、現代のご研究ではそうなっています。まあ、「主に叛く」という字面上の意味ならその通りかもしれません。現状記事はないです。以下に書いてはいますが、「仮」です。

問田隆盛
若山城で、陶長房と運命をともにした方です。どこが「叛逆」なのか不明ですが、運良く「問田氏」の中に記事を作ってありますので、詳細はそちらをご覧ください。

野田隆徳、隆方
単に「叛乱者」一味だったとしか書いておらず、毛利家の防長経略でどうなったかという記述が一切ないです。「野田氏」として、メインサイトにまとめてあります。

杉重矩、重輔、正重
近藤先生とは違う意味で、まさしく「叛逆」です。主君(義長)の意向を無視し、味方である陶長房を死に至らしめて私怨を果たすなど、臣下としてあるまじきことでしょう(個人的見解です)。「杉姓」の人については、以下の記事をご覧ください(以下同じ)。

杉興重
「叛乱者」に与し、義長に仕えた、それだけで本人も「叛逆」扱いです。そもそも『実録』の記事だけで、この人を評価することなどできぬほど、情報が少ないです。
杉隆泰
地元ではむしろ「忠義の人」という扱いなんですけど(供養塔立ってます)。『実録』はどうでも「叛逆」にしたいようです。
内藤興盛
義隆期の重臣。むしろ、娘が義隆養女となり、毛利隆元に嫁いだことから、毛利家との関わりが深い人です。にもかかわらず、「叛乱者」の行いを黙認したことで、「叛逆」扱いです。「内藤姓」の人については、以下の記事をご覧ください(以下同じ)。

内藤隆世
興盛の嫡孫。晴賢妻の弟、長房叔父という血縁もあり、「叛乱者」サイドです。義長に最後まで付き従った「忠臣」ですが、『実録』では「叛逆」扱いです。
投降者
『大内氏実録』は、叛乱家臣たちを悪し様に書いています。そもそも「叛逆」などという分類が極めて偏った思想による分類です。要するに主観的すぎて、現代ならば批判されます。加えて、毛利に「帰順」した人物は好ましいという見方です。近藤先生いうところの「叛乱者」と大内義長からしたら、彼らこそ裏切り者です。現状、『実録』に寄せたため、そのような分類になっていますが、今後改める予定です。叛乱家臣や義長と運命をともにしようが、毛利に帰順しようが、義長政権下で「大内家臣」だったという点は同じだからです。ですので、以下の記事も合わせてご覧いただかないと、人物が揃いません。

参考文献:『大内氏実録』

【更新履歴】20260402 改訂

