
作画:アイカワサンさま
大内持世とは?
大内氏第二十七代当主。父は応永の乱で敗死した義弘。義弘の後、家督を継いだのは叔父にあたる盛見だった。しかし、あくまで「繋ぎとしての役割」に徹し、後継者は兄・義弘の忘れ形見に、と考えていたらしい。よって、盛見が九州での合戦で命を落とすと、その家督を継いだ。
けれども、家督相続にあたっては、兄弟である持盛との間に争いが勃発。九州・大友氏を頼った持盛を倒して正式に当主となるまで二年の歳月を要した。兄弟相克に乗じて不安定となった大友・少弐ら九州勢を鎮圧し、ようやく分国内が落ち着きを取り戻すまでに、さらに四年かかる。
ようやく本格的に当主として政務に専念し始めてからは、将軍家との関係もまま良好。得意の和歌で名を挙げるなどした。けれども、赤松家による義教将軍暗殺事件(いわゆる『嘉吉の変』)の際、現場に居合わせたことで重症を負い、治療の甲斐もなく亡くなってしまった。
当主としての活動期間はわずかに十年ほど。最後は暗殺事件関連死という気の毒なことになった。実子にも恵まれなかったのか、後継者の座は養子としていた盛見の子・教弘に回る。兄・義弘の子に家督を「戻す」という盛見の配慮は結局無駄となった。在位期間が短いため、印象が薄いものの、家督相続と九州平定のために戦って勝利し、『新続古今集』の作者に名を連ねるなど、「武」でも「文」でもしっかりと足跡を残している。
大内持世・基本データ
生没年 1394~1441.7.28(嘉吉元年七月二十八日、京都赤松満祐邸にて重傷を負い、後日死去。48才)
父 大内義弘
幼名 九郎
通称 大内介
官位等 左京大夫、修理大夫、兵部少輔。従五位下 ⇒ 従四位上、周防長門豊前筑前守護(長門永享三年辛亥七月三日ヨリ御管領云々、ほか年月不明)。
安芸国東西条、石見国邇摩郡知行。
法名 澄清寺殿道巌正法大禅定門
墓地等 菩提寺・澄清寺(現在は寺の跡地が残るのみで、墓石等は伝わらない)
(出典:『日本史広辞典』、『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内文化研究要覧』等)
- 永享元年(1429) 覚隠永本を招聘し、闢雲寺を再興させる
- 永享三年(1431) 幕府は持世を「惣領」とし、周防豊前筑前の守護に。持盛に長門守護職と安芸東西条を安堵
- 永享四年(1432) 弟・持盛との間に家督を巡る争いが起こる
- 永享五年(1433) 持盛が、豊前国で討死。家督相続争いに勝利
- 永享九年(1437) 九州で、少弐、秋月、大友を討ち、豊前・筑前を勢力下とする
- 永享十一年(1439) 「百姓逃散禁止」の壁書を出す
- 永享十二年(1440) 上洛
- 嘉吉元年(1441) 将軍・義教とともに赤松満祐邸の宴席に招かれ、将軍暗殺の場に巻き込まれ重症を負い、1ヶ月後にその傷が元で死去。
弟・持盛との家督争い
持世・持盛兄弟の出生について
『大内氏実録』の近藤清石先生は、持世を弘世の子である、としていた。きちんと典拠も提示し、かなりの自信をもっておられたご様子だが、現在この説は否定され、持世は義弘の子、と修正されている。『日本史広辞典』でもそうなっている。近藤先生は「系図では義弘の子となっているが誤り」として、裏付けもあげておいでだった。かなり自信を持っておられたご様子だが、この時点では史料等にも限界があったのだろう。むしろ、素直に「系図」に書いてあるとおり、としていれば何の問題もなかったのである。
いずれにしても、持世と持盛とが兄弟であることは『実録』も同じ見解で、家督相続にあたり、持世が持盛を倒して当主となったところ、またしても先代に引き続き、兄弟同士の争いである。先代と同様、兄弟の抗争は二年間に及び、西国各地で展開された。永享五年(1437)、持世が豊前において持盛を倒し、相続争いは漸く終結した。『大内氏実録』から、それらの経緯をまとめてみる。
盛見が筑前国深江で戦死した時、持盛は豊前に在陣していた。『実録 世家・持盛』によると、盛見死後、持盛が家督を継いだことになっている。しかし、在国していた持世は自立して家督を領有してしまった。永享三年(1431)辛亥秋七月三日のことである。つまり「持世家督を奪へるなり」(『実録』)という事態である。その証左は以下の如く。
一宮大宮司次第記:三十四代大内刑部少輔殿持世、永享三年辛亥七月三日ヨリ御管領、三十六代大内新介殿持盛、永享四年壬子二月十三日ヨリ御管領、三十六代大内刑部少輔殿持世、重而御知行、永享四年壬子三月十五日石見ヨリ山口え御入部。
白崎八幡宮棟札:澄清寺殿、勝音寺殿、両家御弓矢之時、勝音寺殿依御家督御供仕、依負方云々。
薩戒記:持世討取兄新助某之由云々。(以上三点史料、『実録』)
永享四年(1436)二月十三日、持盛は豊前から長門に帰国。いっぽう、持世は石見にいたが、三月十五日、山口に戻った。四月二十二日、長門国守護代として鷲頭肥前守盛範(後、弘忠)が入府。六月七日、持世も長府に下向。九日、一宮に参詣。
永享四年八月十二日、持世は盛見の牌を高野山成慶院に立てた。「孝子大内介持世建立也」と記した。盛見の実子ではないけれども、その遺跡を受けたことを以て「孝子」と称した。要するに、家督後継者であるとのアピール。
『実録』には、この間の持盛の動向が記されていない。永享四年時点で、両名とも長門に入ったわけだが、そこでは衝突はなかったのであろうか。持世が九州討伐に赴いた際、持盛は満世とともに持世を攻撃した。持盛は大友家と結んでいたのである(参照:米原正義『大内義隆』)。
そもそも持世は簒奪者ではない
ここで、重要なことだが、『実録』にある、「持世家督を奪へるなり」も誤り。この説を唱える『実録』は、持盛が正統な後継者であり、持世はそれを簒奪したという前提で書いている。ゆえに、「世家」の中に持盛の伝が加えられているのである。しかしながら、現在の系図では、持盛を当主だったとは数えない。これは、単に「簒奪者」持世が持盛を系図上から抹殺したわけではない。
先代・盛見の戦死は突然のことだったから、正式に兄弟いずれを後嗣にという正式な声明はまだなかった。ただ、周知の如く、実子ではなく、兄・義弘の子に継がせたいという思いがあったことはほぼ間違いない。それで、存命中から以下のような取り決めをし、幕府の許可も得ていた。
兄・持世 長門守護
弟・持盛 周防守護
兄弟仲良く、防長の地を分け合う、というところまでは決まっていたのである。ただし、肝心の、どちらが「家督」ということについては、まだ決めかねていたのか、ここ止まりだった。
むしろ、こうした事情を知っていた幕府のほうが慌て、永享三年(1431) に、持世を「惣領」にして、周防、豊前筑前の守護とし、いっぽうの持盛には長門守護職と安芸東西条の地を安堵するという裁定を下した。要するに、「お墨付き」は持世のほうに与えられたのである。
持盛がこれに反発したことから、争いが起きたのであって、先に持盛が家督後継者に決められていたのに、持世がそれを簒奪したというのはおかしい。
持世と持盛の確執については、持盛の項目に書いたので、ご参照ください。

九州平定
永享五年(1433)、持世は将軍の命を受け、豊後に出て大友中務少輔を討った。
ここにきて、持世は将軍の命で動いている。つまり、幕府によって家督であることを認められたゆえにであることがはっきりする。しかも、持盛が頼っていた大友家を討伐しているのである。
四月八日、持世と持盛は豊前篠崎で合戦。持盛は敗死する。
持盛の死によって、持世の家督は名実ともに確立した。しかし、九州での戦はなおしばらく続いた。大内氏の家督争いに便乗して、九州の大名たちが挙兵することはよくあることだった。
永享八月~十年(1436~1438)までの間、持世は少弐氏らと、豊後、筑前で合戦して勝利をおさめ、ようやく九州が落ち着くと、持世は山口に帰国した。
永享十二年(1440)四月二日、長門国一宮を修築し、この日遷宮式を執行、参詣した(日付については諸説ある)。
将軍弑逆と持世
嘉吉元年(1441)六月二十四日、赤松満祐が将軍・足利義教を自邸に招いて弑逆した(嘉吉の乱)。持世はこの日、将軍につき従っていて、重傷を負う。しかしながら、土塀を跳び越て幕府に還る。
さて、この嘉吉の乱についてだが、教科書にも載っているので、知らない人はいないだろう。持世が仕えた将軍・義教という人は、「クジ引き」にあたって将軍となり、将軍権力の強化を狙って恐怖政治みたいなことをやった人、ということになっている。やり方があまりに強引だったことから、周辺の人々(含諸大名)は恐れおののき、自らがやられる前に手を打とう、とついに将軍そのものを殺害してしまった。
恐ろしい将軍が消えてくれたら取り敢えず眼前の恐怖は消えたかも知れないが、赤松家はそのまま無事ですむはずはなく、すぐに討伐された上、その後再興されるまでお家は滅亡状態となった。将軍暗殺現場は前代未聞の出来事に騒然となったが、何しろ将軍様が一撃で即死なわけで、残された人々は慌てふためき、我先にと逃げ出した。赤松家の連中は逃げた者を追い詰めるようなこともなく、見許しにしたので、持世も逃げていたら無事であったはずである。
ところが、彼は将軍様に不届きなことをした賊徒が許せなかったのか、その場で大立ち回りをしてしまった。さすがに、斬りかかってくる相手に対しては、賊徒もやられっぱなしではないので、応戦して斬り合いとなる。そそくさと逃げ出していたらよかったのに、と思うか、それとも、天晴れ忠義の家臣だと思うかは人それぞれ。いずれにしても、大内氏にとっては、当主の死亡という不幸な結末となった。
嘉吉元年七月二十八日。療養の甲斐もなく、刀きずは日を追ってひどくなり、もはや起き上がれる日は来ないであろう、と持世は悟った。今日に至るまで命をおしみ、いたずらに生きながらえてきたのは、逆賊をことごとく滅ぼさんと思ったからである。今にわかに朝露と先立つことはどれほ心残りであることか。速やかに兵を出して賊を討つべし。われ死するのち尸を隠して土の中に埋め、葬事を行うことなかれ、と遺言して亡くなった。
持世と和歌
持世は位階の昇進が順調ではなく、正五位上のままで多くの年月を送った。なにゆえこのように昇進が滞っているのだろうか、と愚痴をいいたくもなり、その思いを歌に託した。
折々は袖こそぬるれたらちねのかしらをきれは椎柴の露
将軍・義教は気の毒に思ったのか、執奏を経て従四位下を授けられたという。『実録』の近藤先生は、どこから出た話か系図以外に典拠不明であると仰っている。
この類の話は数多いようで、のちの政弘も似たような逸話を残している。
詠歌の出来栄えに関心したのか、憐れと思われたのかは別として、このような逸話が伝えられているのも、持世が歌人として知られていた所以であろう。
持世は和歌が巧みで『新続古今集』の作者である。
持世の文芸について、『実録』にはこの一文しかない。しかし、附録の『汲古集』の中にその詠歌が載っているので、興味のある方はご覧ください。
米原先生の『戦国武士と文芸の研究』によれば、『新続古今集』に採用された持世の歌は三首で、これは「大内氏歴世中一番多い」(同書)。
持世の和歌の師匠とされるのは、盛見同様、耕雲明魏で、基本は叔父・盛見代からの流れを受け継いだものと思われる。それぞれの歌風は異なっていて当然として、大きな特徴としては、持世は連歌の作品も数多く残していることで、『新撰菟玖波集』の中にも六句が載っている。
祖父・弘世が大量の金帛を手土産に上洛し、父・義弘が忠義の二文字で将軍のために戦い、叔父・盛見が仏教に傾倒して漢文だらけの禅僧たちと交流しつつ、和歌も嗜み……持世の代には祖父の財力、父の武力に加えて、叔父の代からさらに一歩進んだ文芸の才でも中央にその名を知られるようになった。
彼の文芸、つまりは和歌と連歌はすなわち「国文学」と総称されるようで、
大内氏の国文学愛好は持世に至って伝統となったとみるべきである。
出典:『戦国武士と文芸の研究』米原正義、おうふう、
これ以後の、教弘、政弘と続く文芸の家は弘世が畑を買い、義弘が種を蒔き、盛見が水をやり、持世の時に芽が出てきた。続く教弘で蕾が膨らみ、そして政弘の時に麗しい花が咲くのである。
持世の朝鮮通交
『大内文化研究要覧』には、持世の業績欄に「朝鮮国の信頼があった」と記されている。わざわざ特記されているので、何事かと思えば、以下の如くである。
永享五年(1433)幕府に派遣された朝鮮の使節団が、その帰り道で海賊に襲われたという。この時、持世は九州に出陣中だったが、この事件について調査させ、的確に処理した。このこよが、朝鮮国王(世宗)に感謝されて、謝礼の使節が送られてきたという。
いっぽう、持世自身は、家督相続の争いや九州平定にあけくれ、朝鮮との通交に時間を割く余裕がなかった。わずかに永享十二年(1440)一度きりであった。これから落ち着いて、朝鮮との関係を深めて行こうとし始めた矢先に不幸な事故に巻き込まれて亡くなったと言える。
菩提寺墓所と子孫
菩提寺と墓所
『実録』は頑なに、持世が弘世の子であるという説をとっているため、持世が亡くなった時の年齢は弘世が亡くなった時の生まれだとしても六十二歳。いっぽう、系図では四十八歳としている。現在の、持世を義弘の子とする説からいえば、四十八歳が妥当だろう。
法名は澄清寺道厳正弘といい、菩提所は「吉敷郡宮野村・澄清寺」とされる。「今の宮野下村の字谷に旧址があり、チヤウセンジという。もしくはチヤウセンジは長泉寺で、澄清寺とは別であるというが、長泉寺、澄清寺一つの寺に二つの呼び名である。ゆえに、『言延覚書』では持世を長泉寺殿という」(『実録』)。
持世の菩提寺は、近藤先生の明治時代にすでに跡地になっていたことになるが、現在その場所と思しきところには、何も残されていない。寺院が失われると同時に、その墓碑も朽ち果てて行方不明になってしまったのだろう。
現在、かつてここに墓所があったと推定される場所に、「持世の墓」という看板と、石碑が立っている。
後継者
持世は子宝に恵まれなかったようで、少なくとも跡継となる男子はいなかったらしい。少なくとも系図上は断絶している。早世した実子がいたものか、女性は記されていないのかそこまでは調べようがない。持世は後嗣として、叔父・盛見の子、教弘を養子とした。つまりは、彼の従兄弟にあたる。
盛見同様、突然に訪れた事故死だったが、その後は順当に、教弘が継いだ。盛見は兄・義弘の子を後継者にとお膳立てをしたが、結局は自らの子に当主の座が戻って来たのであった。

大内持世・まとめ
- 大内義弘の子で、先代・盛見の甥
- 兄の子に家督を継がせたいという盛見の願いから、盛見存命中から後嗣候補だったが、盛見の突然の戦死により、弟・持盛といずれが跡を継ぐかが曖昧なままに
- 幕府により、盛見の後継者は持世と定められたが、それに不満を抱いた弟・持盛との間で相続争いが起こった。兄弟相争った結果、持盛を倒す
- その後も、九州で相継ぐ不穏な動きを鎮めるため、少弐、大友らと交戦。九州を平定する
- 漸く上洛した後、足利義教が赤松家に弑逆された嘉吉の乱の現場に居合わせて負傷。これが元でなくなる
- 歌道に優れ、最後の勅撰集となった『新続古今集』に三首が採用された他、後の『新撰菟玖波集』にも六句が載るなど、連歌にも秀でており、「国文学」の人と称される
参考文献:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『戦国武士と文芸の研究』(米原正義)、『大内義隆』(同左)、『大内文化研究要覧』
雑感(個人的感想)
大内持世という人は悲劇の人である。合戦で命を落とすことも、家臣の謀叛によって自害に追い込まれることも、悲劇であることに変わりないが、将軍暗殺という前代未聞の大事件に巻き込まれて亡くなった、というとんでもない亡くなり方をした人だ。将軍には常に取り巻きが多数いる。暗殺現場に居合わせて巻き込まれた人は彼一人ではなかった。ただし、大半は将軍をほったらかして逃げ出してしまった(実際にはそう単純ではないが)。にもかかわらず、何人かは完全に巻き込まれ、命を落とした。その何人かに入ってしまったのがこの人である。運が悪いとしか言いようがない。
持世が政務を執っていた期間はわずかに十年ほど。存在感がイマイチなく、いきなりのアクシデントで突然に消えてしまった人、という印象であるのも無理からぬことだ。さらに、そのわずかに十年しかなかった治世のうち、永享三年からの弟・持盛との家督争い、つづく九州での少弐大友との争いがいちおう落ち着いたのが永享十年とするならば、落ち着いて政務に専念できた期間はもっと限られる。
年表中に記された持世に関する事項は、当然、とても少ない。持盛を倒して家督を相続したこと、九州の凶徒を討伐し、平定したこと、その後はもう、嘉吉の乱である。しかし、九州平定と嘉吉の乱の間に、唯一、永享11年(1439)「百姓逃散を禁止」(大内壁書)とある。漸く家督を相続し、九州も落ち着いたので、これからは内政に精を出そうと梶取を始めたところだったのだろう。同じく、養父・盛見が創建した闢雲寺に関して。持世の文化的事蹟欄にも、わずかに「覚隠永本を招き闢雲寺を再興させた」と書かれているだけである。持世が覚隠永本を招いたのは、応永三〇年(1423)とあるから、まだ盛見が存命だった頃である。永享元年(1429)、寺院を宇津木畑(棯畑)葦谷の地から現在の場所に移した。これが、再興を意味しているのであろうか。
実子がなかった持世の家督は甥である教弘へと受け継がれていく。教弘の子・政弘の生母は山名宗全の養女であるが、実父は山名一門の時煕。嘉吉の乱で、命を落とした人の一人だ。どうでもいい偶然に運命を感じる。
何よりも、持世は文芸の人であり、勅撰集に名を連ね、新撰菟玖波集の作者の一人でもある。もしも、もっと長い時間が与えられていたとしたら、歌人としての持世はもっと多くの作品を残すことができたのかも知れない。
実子はいなかったが、養子となった教弘が養父の薫陶を受け、立派な文武の将に育ったこと、その息子・政弘が史上稀に見る文武の名将となったこと、それが持世の最大の功績といえるかもしれない。

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