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北方八幡宮(山口市阿知須)

2023年11月26日

北方八幡宮・入口

山口県山口市阿知須の北方八幡宮とは?

奈良時代に厚東武綱が総本社の宇佐八幡宮を勧請したのが起源です。元は古尾の地にありましたが、のちに大内弘貞によって南北に分社されました。南は南方八幡宮(宇部市)、北はこちらの北方八幡宮となります。その後、弘家代に南北両社はさらに移転されて、それぞれ現在地にご鎮座するようになりました。

応永年間の火災で社殿が焼失し、大内盛見により再建されました。なぜか楼門だけは再建されなかったため、毛利氏統治下になって、人々の嘆願により市川経好が再建しました。

江戸初期に、社殿は壊れてしまったらしく、これまた人々の勧進、藩の援助などによって再建事業が執り行われました。

北方八幡宮・基本情報

ご鎮座地 〒754-1277 山口市阿知須 1496 番地の 2
御祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
配祀神 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命
社殿 本殿、弊殿、拝殿、楼門
境内神社 赤崎神社(湍津姫命、田心姫命、市杵島姫命)、北方護国神社(阿知須、佐山の英霊三八二柱)
主な建物 鳥居、灯籠、狛犬、神輿庫、社務所、手水舎、馬小屋ほか
主な祭典 例祭(九月十五日)、祈年祭(四月十一日)、新嘗祭(十二月五日) 
(参照:『山口県神社誌』)

北方八幡宮・歴史

神社境内にある「本社縁起略」にはつぎのように書かれています。

「一、天平勝寶三年(紀元一一四一年)宇佐八幡宮ノ分霊ヲ東岐波古尾ニ奉祀ス
一、天福三年(紀元一八九三年)南北ニ分社シ北社ヲ佐山村長山ニ奉祀ス
一、建長七年(紀元一九一五年)此地ニ鎮座ス」

※「紀元」 ≠ 西暦ではありません。

神社を南北に分割!?

北方神社の御由緒はとても興味深いものです。まずは、北方八幡宮というお名前ですが、北方というくらいなので、南方という対になる神社さまが存在します。北方・南方両神社さまの御由緒を、二つともお読みして、漸く理解できました(※南方神社さまは宇部にご鎮座しております)。

先ず、奈良時代の天平三年(751)、厚東武綱という人が、宇佐八幡宮から勧請した神さまを賀保荘の鎮守としたことが起源です。その当時は古尾の地にありました。

その後、天福元年(1233)、大内氏二十代・弘貞は、この神社を南北に分割します。えええ、神社を南北に分割って何!? ってびっくりしますが、神さまは分けるも合せるも自由自在の超越した存在ですので。お住まいである社殿を分割というか、二つに増やして、それぞれに神さまをお迎えすることは、特段不可思議なことではなかったりします(多分)。しかし、なにゆえに二つに増やす必要があったのか、ということが気になりますけれど、先にご鎮座地であった賀保荘が分割されたんです。ゆえに、それぞれに鎮守としての神社さまを建てなければということで、神社さまのほうも分けられたのではないかな、と思います。南は吉沢、北は須川村長山に仮殿を建立しました。これが、南方神社、北方神社それぞれの始まりです。

さらに、建長七年(1255)、二十一代・弘家は、南を山村(南方神社の現在地)、北を須田村(現在地)に移転し、同じような社殿を造りました。弘貞が仮殿を建てたというところで、いったん『山口県神社誌』の「由緒沿革」が途切れておりますので、ずっと仮殿のままだったかのように感じてしまうのですが、どうなんでしょう? 弘家は「同様な社殿」を建てたとあります。まさか、またしても仮殿とは思えませんが、弘貞の移転と、弘家の再移転との間は二十年くらいなので、あるいは、最初の場所は現在地に移るまでの仮のお住まいだったようにも取れなくはありません。何も書いていないので、わかりません。

さて、ここから先は、南方神社さま、北方神社さま二つの異なる神社さまとして、御由緒もわかれますので、以降は北方神社さまについてのみ、ご紹介します。

火災による焼失と楼門再建の長い道のり

応永十五年(1408)、社殿は火災によってすべて焼失してしまいました。二十六代・盛見代のことです。盛見は、応永十七年から再建に着手し、年内に楼門以外の再建が終了しました。しかし、なにゆえにか、楼門はその後も手つかずだったようです。この辺り、理由がわかりません。

弘治三年(1557)、つまり、すでに毛利氏の統治下に入った後のことになりますが、地元の方々が毛利家臣・市川経好に楼門の再建を願い出ます。何度も嘆願を繰り返した結果、元亀二年(1571)、念願叶って楼門が再建されました。この、楼門再建に至るまでの苦労はかなりなものだったようでして、現在も神社さま楼門に、楼門再建までの道のりについて、年表が掲げられているくらいです。

こうして、大内盛見代の火災による焼失からじつに百五十年以上経って、ようやっと火災前の完全な姿に再建された神社さまでしたが……。『神社誌』には、慶長十年(1605)頃、「社殿は悉く大破」と書かれています。理由が書かれていないため、なにゆえに大破したのかは、不明です。記録がないため事情がわからないのかもしれませんし、メンテナンス不足で経年劣化により自然崩壊した可能性も皆無ではありません。火災ならば、火災により焼失、と書いてあってもよさそうなものなので、何となく違う気がいたします。経年劣化の場合、地震、台風、単なる大風、なんでも崩壊の可能性はありますよね。

社殿が大破してしまったために、神社は祭礼なども困難となりました。それでも祭祀は引き継がれ、神事は路地で行なわれたりしたそうです。この頃、毎年のように不作が続いた上、疫病まで流行。氏子の方々はおおいに恐れ、再建のために尽力しました。不作や疫病と神社が壊れていることに何の因果関係があるんだ? と考えるのがイマドキの我々ですが、近世の話ですし、神社を信仰している氏子の皆さまです。大切な神社が、神事を行なう社殿もないような状態にしておくのは辛いと考えるのは現在の感覚でも理解できます。加えて、神仏のご加護を今よりずっと信じていた人々からしたら、神さまのお住まいが崩壊したまま放置しているような状況によって、不作や疫病がもたらされたと考えたかもですし、反対に、そのような状況となったゆえに、守り神である神社さまの社殿をきちんと整備して守ってもらおうと考えたのかもです。

人々は皆で費用を集め、藩からも援助があり、再建事業に取りかかります。慶長十三年(1608)に拝殿、寛永七年(1630)に舞殿、寛永十四年(1637)に宝殿の再建が終わりました。宝殿については、元文六年(1741)にも再び改築事業が行なわれました。

境内外に競馬場があった?

『神社誌』には、明治時代以降、全国の神社が整理整頓された以降についても詳細な記述があります。詳しくは、図書館に行ってご本をご覧いただくとして、特に興味深いと思われたことは以下の点です。

明治四十年(1907)、境内の外に「競馬場」を造り、大正年間にはそれを「さらに拡張・整備」した。

境内の外とはいえ、神社に競馬場を造るとか、びっくりですよね。境内の外ってことは、具体的にどこにあるのかがわかりませんので、現状どうなっているのか不明ですが、遠隔地とは思えないので付近にある(あった)かと思われます。しかし、ご参詣した際には、競馬場などありませんでしたので、現在はないのかも……。

競馬場を造ったということが、わざわざ『神社誌』に書かれているということは、競馬場の運営に神社さまがかかわっておられたんだろうか、と考えてしまうのですが。どうなのでしょうか。ただし、その競馬場で、競馬が行なわれた云々の記述はないため、実態は不明です。

北方八幡宮・みどころ

何とも困難な時代を経て現代まで続く神社さまですが、神社の前に線路があったり、入口に鳥居がたくさんあったり、大きな境内神社が二つもあったり……とあれこれと興味深いお姿です。再建、改築、修築などが繰り返されたゆえにか、建築物に文化財指定となっているものはございませんが、厚東氏が創建した神社であることなども、この庭園的にはレアです。

鳥居

北方八幡宮・鳥居

入口には鳥居が合計三つございます。コチラには「北方八幡宮」の扁額が。左手のほうに見えている鳥居には「八幡宮」の扁額がかかっています(アイキャッチにあります)。そして、境内に上がるところにももちろん、鳥居がございます。

社号碑

北方八幡宮・社号碑

この背後に見えているのが入口の鳥居です。合計三つですよね(鳥居の数え方、一つ、二つじゃないと思うんですが……)。

石段

北方八幡宮・石段

石段はたいした段数がないため、上っていくのは比較的楽です。かなり下からすでに楼門のお姿が見えています。

楼門

北方八幡宮・楼門

これが氏子の皆さまが勧進し、藩からの援助も得て再建された楼門です。とはいえ、元亀二年のものそのままではなく、平成時代に改築されております。困難だった楼門再建の歴史は以下の案内看板に。

北方八幡宮・案内看板

元禄、安政と再建、改築がなされていたこともわかりますね。しかし、大内氏の時代に、なにゆえに楼門を再建してくれなかったのかが、とても気になるのでした。

楼門の屋根は昭和時代に檜皮葺に葺き替えられましたが、平成になって銅板になりました。

社殿

北方八幡宮・拝殿

拝殿はなにやら古式ゆかしいように見えますね。江戸時代の再建よりは遡らないはずですが。例によって脇からも失礼いたします。

北方八幡宮・社殿(脇から見た図)

ご本殿の屋根は、昭和末期に檜皮葺の葺替えが行なわれました。いっぽう、拝殿・弊殿は平成になって銅板葺となりました。そして、弊殿の手前に見えている建物なのですが、じつはこのようになっています(下の写真)。

北方八幡宮・社殿(合祀神社)

わざと、手前に白い何かの配線カバーみたいなモノ(なんだかわからずすみません。機械音痴です)を写し込んでいるのは、位置の確認のためです。この白いモノを目印として、弊殿手前にある建物であることをご紹介したいと思った次第です。こちら、左右ともにございまして、これは拝殿に向かって右側(参詣者から見て)にございます。『神社誌』には、境内神社としてお名前はないのですが、焼火神社、若宮八幡宮の扁額があります。弊殿に併設されているように見えることから境内社というより、合祀されているのか、と思えど、合祀神としての記述もなし。

どのようにご説明すべきかわからないので、見出しがないのです。

境内神社・赤崎神社

北方八幡宮境内神社・赤崎神社

社殿の右手にあります。御祭神は三女神さまです。左後ろに見えているのは神輿庫となります。

境内神社・護国神社

北方八幡宮境内神社・護国神社

昭和五十五年(1980)建立の神社さまということなので、わりと最近の創建なのですが、緑の中に奥ゆかしく佇んでおられ、何やら長い歴史があるように見えます。

式年大祭記念碑

北方八幡宮・式年大祭記念碑

北方八幡宮(山口市阿知須)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP 

ご鎮座地 〒754-1277 山口市阿知須 1496 番地の 2
※Googlemap にあった住所です。

アクセス

JR 宇部線、阿知須駅か周防佐山駅の中間という感じですね(地図)。神社さまの前に線路が通っていて、踏切を渡ってご参詣みたいになりますが、その線路は山陽本線の線路だったりします。ならば、そちらに最寄り駅あるのでは? と思われますが、ないです。歩けないことはないはずですが、いちどきにたくさんの神社さまにご参詣したいと考えている通りすがりの観光客には無理と思います。何しろ、電車の本数が少なすぎます。加えて、駅から 5 分というような距離ではないですので、レンタカーもしくはタクシー推奨です。

参考文献:神社さま縁起碑、『山口県神社誌』

北方神社(山口市阿知須)について:まとめ & 感想

北方八幡宮(山口市阿知須)・まとめ

  1. 起源は奈良時代に、厚東武綱が古尾の地に、宇佐八幡宮の分霊をお祀りしたこと
  2. 鎌倉時代になって、ご鎮座地の荘園が南北に分れたため、分社して南北それぞれに移転。天福元年(1233)、大内弘貞の時のことである
  3. 建長七年(1255)、二十一代・弘家が、さらに南北両社を移転。それが現在地の北方神社で、南のほうは、南方神社として、宇部にご鎮座している
  4. 応永十五年(1408)、社殿は火災により焼失。二十六代・盛見代のことで、盛見は社殿の再建を行なったものの、なぜか楼門は再建されなかった
  5. 毛利氏の統治下になって以降、地元の人たちの嘆願により、市川経好が楼門を再建。元亀二年(1571)のことである
  6. しかしながら、慶長年間に社殿は大破し、路上で神事を行なう有り様となった
  7. 人々が再建費用を勧進し、藩からも援助があって、慶長十三年(1608)~寛永十四年(1637)にかけて、すべての建物が元通りとなった
  8. その後も人々の信仰は続き、改築、修繕などを継続して大切に守られている

線路の真ん前にある神社さまって、珍しいそうです。タクシーの運転手さんに教えていただきました。全国見渡せば、皆無ではないと思いますが、確かに現在までご参詣した県内の寺社では初めてのケースかな、と思います。

入口に鳥居がいくつもあり、踏切の件とあわせて、じつに珍しいなぁと感じました。これが素直な感想です。ご由緒までもかわっており、どこまでレアなんだろう、と無礼なことを考えました。しかし、この御由緒を理解するのが一苦労でして、まる一日かかりました、汗。

ヒントはお名前が「北方」神社さまであることでして、北があれば南もあるのだろう、と思い至ればどうということもないですし、理解できてから由来沿革をお読みするとストンと落ちるんですが。そこに気付かなかったので、神社を南北に分割するって何!? となりました。でもって、『神社誌』の解説は当然、北方神社についてであるわけですが、南北一緒に書かれていると勘違いしたため、理解不能に陥りました。南方と北方の関係はそれぞれが移転された後に分れ、それぞれに発展していったのですが、二回移転されているため、その時点までの記述は、南北まとめて書いてあるのですよね。「移転された」という部分だけ見れば、内容も共通なわけでして。

つまり、北方神社さまをご参詣したら、南方神社さまにも立ち寄るべきで、貸切りタクシーであったことからそれは可能だったはずなんですが、気付いてないという……。大内氏ゆかりの寺社でも、山口市内限定でご紹介してくださっている資料を参照して回っていたので、宇部市に鎮座する南方神社さまについては書かれていなかったという……。どう見ても、大内盛見の再建以前の由緒は、両社共通する部分があるわけなので、一方だけしかご参詣していないというのは、いかにももったいないことになりました。

宇部在住の大先輩とも仰ぐべき方でありながら、とっても優しい郷土史研究者の方とお知り合いになれたので、次回はあれこれご教授お願いしようと思いました。

こんな方におすすめ

  • 神社巡りが好きなすべての方
  • 八幡宮を信仰している方

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像(怒る)
五郎

厚東氏ってご先祖(← 大内弘世)に滅ばされちゃったんじゃないの? でもそれって、神社の創建よりずっと後のことだよね。なのになんで、厚東氏が勧請した神社をもっと古いご先祖が二つに分けたりとかしてるんだろう? 

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

そこね。スゴく気になってる。まあ、領地の変遷とか大戦争に至るまでもなくとも、あれこれあったんだろうね。あと、厚東氏って史料から見えなくなっただけで、滅亡してしまったのかどうかは分んないからね。

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

難しいことはどうでもいいけど、線路の前に鳥居あるの面白かったね。それに何で、入口に三つも鳥居あるのかとか、考えたらあれこれ楽しかった♪

新介涙イメージ画像
新介

神社は地元の皆さんにとって、信仰の対象だよ。建築様式について考察するとかはいいんだけど、面白いとか楽しいとか、遊び場感覚の発言はしないようにね。

畠山義豊イメージ画像
次郎

ま、いいんじゃない? お賽銭も入れないマナーが悪い参詣者とかならなければ。神社によっては、信仰のためというより「きゃー素敵」みたいな観光客だらけになってるところ多いと思うぜ? こいつら、きちんとお賽銭入れて、最初に拝殿にご挨拶するようになっただけでも、ものすごい進歩と思うわけ。

五郎イメージ画像(背景あり)
五郎とミルの部屋

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
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