大内氏歴代当主の菩提寺(もしくは菩提寺跡)と墓所を巡る旅を続けております。今回は二十七代ご当主、持世公の墓所についてご案内いたします。
最初にお断りしておきますと、現状、持世公の墓所は「存在しません」。存在しないと申し上げる意味は、墓碑そのたが「ない」からです。普通は墓所と言われる場所には、たとえ伝承であったとしても、墓碑と思しき石塔などが存在したりするものです。しかし、持世公にはそれにあたるものが一切ございません。
だったら、墓所なんて存在しないのではないか。との苦情のお声が聞こえてまいりそうですが、仰る通りです。しかし、元々はここにあったのではなかろうか、という場所の推定がなされており、自治体さまの案内看板も立っております。それを以て、持世公の墓所はここであろうという場所についてのご案内となります。
たとえ「伝承」であっても、墓碑すらなく、完全に跡地のみ。それでも墓所と思い、お参りに向かうか否かは、皆さまのお気持ち次第です(訪問回数1回)。
山口県山口市宮野の大内持世公墓所とは?
大内持世は「応永の乱」の関係者として有名な二十五代当主・義弘の子とされている、第二十七代当主です。間に義弘の弟・盛見の統治時代が挟まっておりますので、一代おいての父子間相続です。しかし、持世さんご本人は跡継の男児に恵まれなかったようでして、盛見さんの子・教弘さんが養子となって後を継ぎました。兄・義弘さんの系統を嫡流としてと考えてのことか、我が子ではなく持世さんに当主の座を戻した盛見さんの配慮は結局無意味なことになってしまいました。
持世公墓所は、宮野にあったものと考えられております。理由は恐らく、そこに菩提寺だった「澄清寺」があったためかと思われます。けれども、寺院はすでに廃されており、現在は「跡地」です。さらに、元寺院跡だったことを示すものもほぼ何もないように思われます。ですので、完全に後世の研究者の方々による推定跡地であり、恐らくはそこに墓所もあったに違いないとの認識であろうかと思います。
加えて、墓と思しき石塔類も残されてはおりません。現地にある自治体さまの「大内持世の墓」という案内看板と、この場所を特定してくださった毛利家の方によって造られた墓碑だけが往時を伝えている場所です。
大内持世公墓所・基本情報
所在地 山口県山口市宮野
Googlemap には「山口市」までしか記述がありません。以下をご参照ください。
山口宮野澄清寺跡に碑あり(山口県立大学の北方山中・毛利元徳建立)
出典:『大内文化研究要覧』
※歴代当主の事蹟項目中、持世の「墓所」蘭にある記述
大内持世公墓所・歴史と概観
持世菩提寺・澄清寺について
大内氏歴代当主の菩提寺について、政弘期に定められた「壁書」によれば、持世のそれは「澄清寺」です。この時の壁書では、重弘以降の当主たちの菩提寺に、家臣総出で命日の墓参を行なうことと取り決められたようです。なにゆえに、重弘以前の当主たちについて記されていないのか不明ながら、恐らくはこの時点ですでに菩提寺や墓所の所在が分からなくなっていた可能性があります。
持世は重弘以降の当主となりますので、命日とされる七月二十八日に、墓参イベントが実施されていたものと思われます。所在がはっきりしていた当主たちの菩提寺が粗略に扱われていたとは到底考えられませんから、寺院の保守点検、整備や修繕なども抜かりなく行なわれていたことでしょう。大内氏にはそれだけの財力も、十分にあったはずです。
ところが、滅亡後はそうもいきません。誰それの菩提寺ということとは無関係に、地元の方々の信仰は続いていたものと思われますが、寺院さまの経営状態は苦しくなった場合もあったかと。盛見菩提寺や政弘母菩提寺などが、毛利家によって手厚く保護されたのは、それらの寺院が毛利家の方々の菩提寺に取って代わったゆえにです。どなたかの菩提寺になることもなく、そのまま元々は大内氏誰それの菩提寺だった寺院です、というだけで大切に守り続けてもらえるかどうかは毛利家の方々の判断に委ねられます。歴代当主の菩提寺であると同時に、宗教界での地位も高く、重要な地位を占めていたならば別ですが。例えて言えば、分家とはなりますが、陶氏の菩提寺・龍文寺のように、寺院そのものが極めて高い地位に就いてしまっていれば、なおざりにはできません。
残念ながら、澄清寺さま自体は、かように格式の高い寺院ではなかったのかもしれません。歴代当主の菩提寺という意味では大切にされたとしても、統治する「家」が変れば、その意義は消えてしまいます。そうなると、元の領主(=大内氏)の庇護を失い、没落するケースも出てくるでしょう。何も当主の菩提寺ではなくとも、同じようにして庇護下から外れて消滅した寺社は数知れないと思われます。
毛利家のご当主さまから気に入られたお陰で、統治者が交替してもよりいっそう繁栄した寺院さまももちろんございました。その辺りはお好み次第という感じでして、没落したのは運が悪かった、景気がよくなったのは気に入って貰えたお陰という雰囲気ですね。大内氏時代にもそのような差別化はあったと思われますので、誰が悪いとは申せません。まあ、長らく防長の主であったため、開基がご先祖という寺院がほとんどという気もしますから、粗略に扱うケースは少なかったと思われますが。これら、あくまで執筆者の想像で、典拠はありません。典拠は、一つ一つの寺院さま縁起を調べて回らねば提示できませんし、それは物理的に無理だからです。ただ、参詣した寺院さまで、御由緒を明示してあるところにはたいてい、元大内氏祈願所、のち毛利家にも深く信仰され云々と書いてあります。信仰してもらえず消えた寺院さまに由緒が残っているはずはないですから、自然そうなりますね……。
かつての澄清寺について、『大内氏実録』には以下のように記されておりました。
吉敷郡宮野村の澄清寺を菩提所として(大内家壁書・今の宮野下村の字谷に旧址あり、チヤウセンジと云ふ。或はチヤウセンジは長泉寺にて、澄清寺とは別なりといへど、長泉寺澄清寺一寺二名なり。されば言延覚書に持世を長泉寺殿と云へり)澄清寺(白崎八幡宮棟札、長門国守護代記、系図、古文書)道厳(系図)正弘(大系図、系図)と法名す。
出典:『大内氏実録』
つまりは、近藤先生がご本を執筆された明治時代の時点で、すでにこの寺院さまは「旧址」になっていたのです。現地案内看板によれば、付近には往時この辺りに寺院があったことを偲ばせる地名が残っていると記されております(後述)。ご案内くださった郷土史の先生からも、どこかに当時の遺物があるようなお話はお伺いしなかった気がします。持世の菩提寺がいつどのような形で廃寺となったのか、往時の規模などはどれほどのものであったのか、などについては残念ながら不明であるとしか申せません。
「大内持世の墓」の現状
完全なる「跡地」と化してしまった澄清寺ですが、現状はどうなっているかと言えば、残念ながら何もありません。自治体さまの案内看板や地図にも「大内持世の墓」と書かれてはいるのですが、看板説明文にもあるように、墓すらも失われています。「大内持世の墓」とあるので、何も知らずに、お墓参り目的で訪れた方がいらしたとしたら、がっかりすることになります。
何もないところなのに、持世の墓であるとして宣伝しているのはなぜなんだ!? と思われるかもしれません。形あるものとして、宝篋印塔なり、五輪塔なりをご覧になりたいという方には確かにあまりおすすめできません。しかし、ここに持世の墓があったであろうことは、研究者の先生方も認めておられるようです。さもなくば、自治体さまの看板が立っているはずはありません。築山大明神さまのお墓がある泰雲寺さまなどでも、現在あるのは当時の石塔ではなく、最近になって建立された供養塔です。歴代当主の墓とされるものは、すべてにおいて伝承的要素が強いですし、ホンモノなのかどうかは悩ましくもあります。たとえ墓石がなくとも、この付近に埋葬されておられる、というご研究だけで訪れることも十分に意義あることだと思われます。感じ方は人それぞれですが。
ちなみにですが、大内氏歴代当主の墓と伝えられるものの近くには、必ずと言っていいほど「大内○○墓」と書かれた墓碑が立っています。我々はそれを見ながら、これは間違いなく「○○墓」なのだ! と確信したりします。傍には自治体さまのご案内看板もありますし。この「大内○○墓」なる墓標は、明治時代に、毛利家の方によって造られたものです。毛利元徳さんというお方です(参照:『大内文化研究要覧』)。すべての墓碑がすべてこの方によるものであるのかはわかりませんが、少なくとも「大内持世の墓」のところにあるものについてはご本で確認しましたので、間違いございません。
そこら中にあった大内氏歴代当主の墓と思しきものを確かにそうであるか調査し、それらしきものに石碑を建てて整備してくださったのですね。持世の墓については、それに類するものが見つけられなかったため、ここにあったであろうと思われる場所に碑を造ってくださったのでしょう。
こちらに、お名前が書かれております。これまで、当たり前すぎて確認したこともなかった「大内○○墓」碑ですが、きちんと建立者のお名前や建立年月日が書かれていたのです。
こちらは建立年月日です。
これまた壮大なプロジェクトを行なわれた偉大な先達ですね。案内看板にも「毛利家の」としか書いてありませんし、様々なお墓にご同道くださった先生方なども「毛利家の」としか仰らなかったのですが、今回初めて、まじまじと拝見しました。
明治時代に至るまでは、歴代当主のお墓は言い伝えだけで放置されていたのかなぁと思えば、ちょっとだけ心中複雑とはなりますが。何にせよ、心より御礼申し上げます。
大内持世公墓所・みどころ
墓所ですので、みどころなどと記すのもご無礼な気がいたしますが、案内看板以外には何一つございません。周囲は鬱蒼たる森に包まれており、それが広大な竹林ですので、どことなく荘厳な趣です。元は存在していたであろう石塔類のかわりに、毛利家の方が造られた墓碑は立っております。
大内持世公墓所入口
どこが入口なのか、正直わかりにくく、どのようにご説明すべきか、とても難しいのですが、帰り道に目印として付近の写真を一枚撮っておきました。ご覧のように、いちおう道らしきものがついているのです。
「大内持世の墓」順路案内看板
途中に矢印看板がついておりました。100m先とあります。しかし、そもそもここに辿り着くまでのほうが、わかりにくいのではないかと思われます。ご覧の通り山の中です。ですが、この写真は目印の案内看板をご紹介するために撮影したものでして、右手のほうにきちんと道がついていることが、お分かりになるかと。
山道
広大な森の中、といった感じです。参詣者の方のために、一部木々を伐採してくださってあり、山道が続いています。この写真だとわかりにくいかもしれませんが、削平地のように見えるところが道です。
広大な竹林
広い森の中には、多くの木々が乱立しておりますが、弘世の墓墓碑や看板が近くなってくると、竹の割合が増えて参ります。最終的には以下のような感じとなります。
完全なる竹林です。背後に墓碑が見えておりますね。
大内持世公墓碑
現状、往時存在したと思われる墓はなくなっており、こちらの墓碑だけとなります。
「大内持世の墓」案内看板
墓碑の近くに、懇切丁寧な案内看板が立っており、見ず知らずの通りすがりの方でも持世のすべてがわかる名文です。ただし、この看板は竹の中に埋もれた状態でして、写真撮影が困難でした。全文をおさめるように撮影するための場所が見つけにくいのです。どうしても竹が覆い被さってしまいますので。かなり、危なっかしい状態で撮影しております。
「大内持世の墓
応永元年(一三九四)義弘の子として生まれました。 叔父盛見の戦死後、弟の持盛との間で起こった家督をめぐる争いに勝利し、大内氏第二七代の 当主となりました。 その後筑前、筑後に出陣し、 永享九年(一四三七)には、九州をほぼ平定し、幕府から周防、長門、豊前、筑前の守護職に任命されています。 特世は武士として大いに武威をふるっていた反面、歌道にも大変優れており将軍足利義教が彼に和歌の批評を求めたと言われるほどの名声がありました「新続古今和歌集」の作者の一人でも あります。
後年は京都にいることが多く、嘉吉元年(一四四一)の赤松満祐の将軍義教暗殺「嘉吉の乱」の際も、将軍に同席していたため重傷を負い、一月後に四八歳で死去しました。 菩提寺は澄清寺でこの近くにあったと言われています。 現在のこの標石は明治になって毛利家が建立したものであり、墓石ではありません。付近には妙善院、五葉院、涌泉庵など当時の寺院の名が地名として残っています。」
(看板説明文)
澄清寺跡付近の風景
墓所入口付近の風景です。長閑な雰囲気でした。いったいどのような立派な菩提寺が建っていたのでしょうか。今は本当に何一つなく、墓石の欠片すらも残っておりません。
大内持世公墓所(山口市宮野)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 山口市宮野の澄清跡地
アクセス
地元郷土史会・探訪部の先生と助手の研究者の女性とともに、先生のお車で現地にご案内いただきました。よって、歩いて行く行き方をお伝えするのは難しいです。お役に立てず申し訳ありません。しかしながら、Googlemap に載っておりますので、ナビゲーションを起動すれば辿り着くことが可能です。
ただし、宮野駅から徒歩で……というようなことは難しいであろうと思います。お車を停めることができた場所からもかなり歩きました。付近で一番最寄りの著名観光資源が、雪舟庭園で有名な常栄寺さまとなりますが、常栄寺さま自体が徒歩で行くことは推奨されていない場所です。地図をご覧いただけばお分かりの通り、その常栄寺さまからもかなり離れております。何もない山の中、というような場所ですので、お一人で行くことはあまり推奨されません。観光協会さまにお問い合わせの上、詳細を確認するか、地元のガイドさまとご一緒することを強くおすすめします。ただし、ガイドさまのご案内範囲内にこの場所が入っている保証はありません。要交渉となる可能性もあることをお断りしておきます。
参照文献:現地案内看板、『大内文化研究要覧』、郷土史会先生ご案内
大内持世公墓所(山口市宮野)について:まとめ & 感想
大内持世公墓所(山口市宮野)・まとめ
- 大内氏二十七代当主・持世の墓。ただし、往時の石塔類などは一切残っていない
- 明治時代に毛利元徳氏によって建立された墓碑と自治体案内看板がある
- 持世の菩提寺は澄清寺とされ、この地が寺院跡地とされる。しかし、いつ頃どのように廃されたのかなど、詳細については課題が残る
ゆかりの当主
第二十七代・持世 ⇒ この方の菩提寺とお墓があったとされる地です。
みごとに何もないです。菩提寺が廃寺となってしまっているケースは持世さんだけではありません。この庭園にとっては聖地となるはずの、法泉寺さまや凌雲寺さまの菩提寺も今は跡形もないのですから。しかしながら、一応墓とされる宝篋印塔はあります。ホンモノかどうかは怪しい部分もあり、どこに行っても「伝えられる」と書いてありますが。築山大明神さまのお墓も行方不明ですので、お墓がない方は持世さんだけではありません。しかし、菩提寺が名前を変えつつも現在にまで続いていることから、ご住職さまなどによって供養塔が整備されています。しかし、寺院さまもなくなっているとなると。自治体さまがレプリカのお墓を建てるとか、聞いたこともないですし。ここは諦めて、この竹林のどこかに眠っておられる、と思うしかなさそうです。
そもそも論なのですが、持世さんは京都で亡くなっておられます。ほかにも、山口以外の場所で亡くなられたケースは少なくありません。その場合、亡くなった場所にも何かしらの供養塔が立っていたりします。その後、菩提寺にお運びして埋葬されたり、ご位牌だけお作りになったりと色々ですが。京都のお屋敷で無念にも亡くなられた際、自身の死はしばらく伏せておくようにと言い残されたように記憶しておりますから、都での葬儀はなかったのかもしれません。ひそかに遺骨を祖国に運び、菩提寺に墓所を造っておさめられたのでしょうか。菩提寺がなくなっても墓所というか、宝篋印塔などの石塔類は残されていたりするものですが、それすらも失われるとはあんまりですよね。将軍暗殺事件に巻き込まれて亡くなられたという悲劇的なお方であるゆえ、ますますその思いが強くなってしまいます。
法泉寺で、寺院を廃した際に、法泉寺さまの位牌そのたを地面に埋めてしまったという話も伝わっておりますから(泣)。寺地がなくなってしまうと、跡地は荒れ放題というのは仕方ないこととも思われます。人里離れた山の中、お参りする方が絶えた後に、次第に風化してしまったのでしょうか(人為的に埋めてしまうよりは、遙かに自然なことだと思えたりします←法泉寺の言い伝えと比較して)。今はただ、後世の方が造ってくださった墓標にそっとお参りするだけです。
こんな方におすすめ
- 大内氏歴代当主の墓所を回っている方
- 歴史的に重要な場所であれば、何もない「跡地」になっていても訪れるのを厭わない方
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
管理する人がいなくなると、お墓も消えてしまうんだね……。
それはね、君、現代でも社会問題化しているんだよ。お墓の管理って、ものすごく大変なことだから、跡を継ぐ子孫たちのことを考えて墓終いなる儀式を行なっている方々が多いとか。
お墓をしまうってどういうこと? ここのご先祖のお墓みたいに、消えてなくなってしまうの?
説明するのは難しい。それこそ検索してみてね。確かに、持世さんのお墓はなくなったけれども、ご自身はどこかで眠っておられる。奥ゆかしい竹林の中で、自然に守られておられるとも言える。現代の人たちが、樹木葬や海への散骨を望むのも、そんな思いからかもしれないね。
-
五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
続きを見る
-
大内氏歴代当主の菩提寺と墓所
大内家氏寺と歴代当主の菩提寺と墓所についてのまとめ。二十一代・弘家~三十一代・義隆(+三十二代・義長)すべての所在地と現状についてご紹介してます(山口県外にある義弘墓以外すべて現地に赴いてお参りしました)。※墓所はあくまで「伝承」地です。
続きを見る