『大内殿家中覚書』 大内義長政権下の家臣たち

『大内殿家中覚書』
『大内殿家中覚書』とは?
『大内氏実録』の附録です。著者・近藤清石先生が、大内氏の家臣たちについて調査するにあたり、その史料が乏しく詳細な伝を立てられないことを嘆いて附録として掲載したものです。『大内殿家中覚書』は「天文二十四年正月十日」に記されたと明記されており、大内義長政権下のものであることがわかります。近藤先生がこの記録をご著作に掲載なさった主旨は、大内氏の家臣にどのような人がいたのか、本編に組み込めなかった(伝を立てるには史料が足りなかった)人物を含めてその概容をお示しになりたかったからと思われます。
一方、この『大内殿家中覚書』の他に、同書には『大内殿有名衆』という史料も載せられています。いずれも、家臣の名前リストのようなものである点は同じです。ただし、『大内殿有名衆』については、大内義隆期に書かれたものであることが重要です。要するに、政変後、家臣たちの顔ぶれがどう変ったか、ということが重視されています。両者を比較検討する際参考にすべき点として、近藤先生がいくつか指摘しておられますが、それについては、『大内殿有名衆』に書きましたので省略します。
以下、本文となりますが、煩わしい長文説明は注に入れるなど整理したため、原文そのままではありません。なお、末尾に「人数」が書かれていますが、書かれた人数と挙げられた名前の数は一致しません。原文そのもので省略があったのか、史料が不完全なのかについては説明がないため、不明です。なお、「×」は毛利家に「帰順」した人物、「※」は長い説明文を「注」に入れた人です。
『大内殿家中覚書』本文(見出しなし)
陶尾張守晴賢(初名隆房)、野田兵部少輔隆徳、陶安房守隆満(×)杉七郎重輔、内藤彦太郎隆世、飯田石見守興秀、杉美作守、杉次郎、杉彦七正重、鷲頭大和守、右田右京亮、宇野弾正忠興之、青景越後守隆著、仁保右衛門大夫隆慰(×)、吉田若狭守興種(×)、豊田美濃守、鷲頭彦太郎、内藤左衛門大夫隆通(×)、安富源内(名不明)、神代善内長清、島田彦三郎、安富弥三郎、安富助三郎、島田修理亮、島田新四郎、安富美作守興勢、安富近江守興宗(×、仁保)、大和伊豆守(※)、町野掃部介隆風(×)、龍崎弥七、町野加賀守、町野六郎、仁保平太郎広慰(右衛門大夫隆慰の二男)、田原六郎、小原安芸守降言(×)、小原四郎、吉弘左馬助、田原左馬助、田原刑部少輔、田原兵部少輔、杉彦太郎、豊田左衛門尉、板井掃部丞、市川河内守、池上飛驒守、託摩六郎(『有名衆』縄摩)、市川玄蕃助、怒留湯勘鮮由允(『有名衆』怒溜勘解由)、江口小次郎(『有名衆』江木小治郎、どちらが正しいか不明)、阿川六郎、右田市郎隆俊(×)、仁保宮内少輔、弘中越中守
奉行衆
波多野備中守、久佐河内守、大庭図書允賢兼(×)、宮川大蔵丞、伴田中務丞(『有名衆』中務大夫)、吉田右衛門丞、能美主計允、豊田兵部丞、河屋伊豆守、来原丹後守、末益備中守、海田四郎左衛門入道
小座敷衆
神代中務丞、阿川太郎隆康、服部平右衛門尉、海田四郎、柿並余次郎(『有名衆』柿並与次郎)、吉田小四郎、神代左衛門尉忠兼(×)、波多野大炊介、神代蔵人兼固(×)、杉新四郎、来原次郎、来原隼人佐、野田主計允隆方、遠田修理進、横路次郎、梅月弥五郎、森喜三(『有名衆』森喜惣)、森弥次郎、田北弥五郎、右田三郎左衛門尉、小野中務丞、竹田津右馬助、丹生山城守、斎藤新右衛門尉、怒留湯新右衛門尉、怒留湯右衛門尉、斎藤彦七、佐田掃部助、甲斐余次郎、今村右京進、高山又次郎、田尻掃部助(『有名衆』掃部介)、矢野大炊助、伊佐越中守元綱、伊佐彦四郎、中村佐渡守、石津安芸守、白井三郎左衛門尉、雑賀刑部允隆俊(×、幼名次郎、紀伊守隆知の子、隆知は天正十年六月十八日に、隆俊は慶長十年四月十四日死去)、榑庭新三郎(『有名衆』橘庭新三郎)、横路淡路守、石川弥左衛門尉(『有名衆』弥右衛門尉)、小林新左衛門尉、門司太郎、仁保弾正忠、飯田小五郎、伊佐源次郎、波多野千代王丸、吉弘次郎左衛門尉、河野四郎左衛門刷、河野四郎、楊井飛驒守国久(×)、楊井十郎右衛門尉、河津兵庫允、由利備前守、楊井弥七武盛(×)、厚助五郎(『有名衆』原助五郎)、由利七郎、木村宮内少輔、木村新左衛門尉、井原弥三郎、坪井筑後守、世良小三郎、杉孫七、高木弾忠正、橋爪右馬介(『有名衆』右馬助)、株飛驒守、葛西十郎、豊田但馬守、豊田大蔵丞、豊弥次郎、小野兵部少輔、杉平右衛門尉、相賀七郎(『有名衆』相良七郎)、鷲頭民部少輔、高石宮寿丸(×、※)、鷲頭彦三郎、杉信濃守、杉弥次郎、杉小三郎(小三郎は小二郎の誤にて、長相であると思う)、内藤彦次郎(弾正忠隆世の弟、弘治二年三月四日宝珠院で死去)、内藤鶴寿丸、問田備中守隆盛、宗像鍋寿丸(筑前衆、後の氏貞、宗像大宮司正氏の子、天文二十年八月従弟・氏男の譲りをうけて大宮司となる)、入江民部少輔、貫越中守
国衆
麻生上野介、秋月中務大夫種方(筑前衆)、千手治部少輔(筑前衆)、益田右衛門佐藤兼、鳥田内蔵助武通(幼名九郎、後に肥後守、筑前怡土郡烏田城主、父は景通。杉次郎左衛門尉元相の娘を妻とした。×)
御伽衆
淡路彦次郎(『有名衆』淡路彦四郎殿)、伊佐孫次郎(『有名衆』伊勢孫四郎殿)、竹田法眼定慶、西坊、竹田法橋定詮、西院、在理、宗智、越前(『有名衆』六条越前殿)、有梅軒、池辺松菊
(以上181人、天文二十四年正月十日)
法泉寺(旧地:周防国吉敷郡上宇野令村)、国清寺(後常栄寺、更に潮音寺と改名。寺地:同上万年寺)、香積寺(寺地:同上瑠璃光寺なり)、金髓院(旧地:同上瑠璃光寺と万年寺との間)、闢雲院(『有名衆』關雲寺、同国同郡小鯖下村)、観音寺(旧地:同国同郡上宇野令村)、乗福寺(同国同郡御堀村)、妙喜寺(旧地:同国同郡宮野下村、「今の潮音寺)、妙善寺(旧地不詳、同国同郡宮野下村の字谷の澄清寺旧地中に妙善院と呼ばれる地あり)、正寿寺(旧地不詳、正寿院の誤りと思われる。そうならば、旧地は同国同郡御堀村)、善福寺(旧地:同国同郡山口の道場門前町の北側)、清水寺(同国同郡宮野下村)、善勝寺(旧地不詳)、龍源院(同上)、凌雲寺(旧地:同国同郡中尾村)、広澤寺(旧地:同国同郡上宇野令村の古熊山)、保寿寺(旧地不詳)、広徳院(同上)
(以上18箇寺)
注:大和伊豆守 『吉田物語』、『安西軍策』等が、厳島の合戦で香川光景、毛利元卿が「大和伊豆守は文武の達者なれば虜にしたし」と書いていることから、「伊豆守を諭して降参せしむる」ように思えるが、「本県士族大和系譜」に伊豆守の名はない。逆賊に与みしたことを恥じて、伊豆守の名を省略したものと思われる。晴完というのがこの伊豆守のことだろう。
高石宮寿丸 のち孫次郎と改名。弘治三年四月十六日加冠、毛利隆元の一字を賜り元勝と名乗る。子孫は断絶した。「柿並系譜」で、柿並四郎三郎隆幸の長男を高石二郎興幸とし、その子孫・二郎正幸、その養子を宮寿丸とする。興幸以後は證文があり、家督承継ははっきりしているが、興幸を隆幸の子とする説は受け入れがたい。「興」字は義興の偏名、「隆」字は義隆の偏名なので、隆字を名とする父に興字を名とする子があるはずがない。興幸は「氷上山蔵経勧進帳」に高石兵庫助の名があり、この兵庫助の遠縁の者として、文明二年の文書に高石彦右衛門尉、「大内殿掟書」文明十三年三月五日のものに高石三河守重幸、高石彦右衛門尉忠幸、同十七年のものに高石三河守重幸、高石彦二郎弘秀(弘孝とするものもある)の名がある。弘秀は恐らく、忠幸の孫で、重幸の子だと推測される。そして、この弘秀が興幸の父であると思う。
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