安芸紀行(除廿日市、宮島)

竹内屋敷跡(東広島市八本松吉川)

竹内屋敷・壁3

広島県東広島市八本松吉川の旧竹内屋敷跡とは?

大内家最後の当主・義長(三十二代)の子・喜久寿は賀茂郡吉川村に逃れました。落城した槌山城跡地にあった専正寺の保護を受けて無事に成人。竹内儀左衛門と名乗ります。竹内氏は武士を捨てて、農業を始めましたが、富裕な名門となります。

たびたび慈善事業を行なうなどして、地域に貢献します。酒造業を営んだり、近代には金融業にも進出しました。子孫の方々は現在も脈々と続いておられます。

竹内家住宅は、竹内家の旧宅跡です。現在は壁が残るのみですが、長らく西条地域に根を張り、地域に貢献した人々ゆかりの史跡として重要です。

なお、竹内家の方々が記した『竹内家文書』は、信憑性が高いものとして、きわめて貴重な史料となっています。

竹内屋敷跡・基本情報

所在地 槌山城跡東麓(東広島市八本松吉川)
面積 八十メートル四方
(参照:『安芸国の城館』)

竹内屋敷跡・歴史

「御屋敷跡」=竹内屋敷跡

毎度お馴染み『賀茂郡史』に、再びご登場願うと、槌山城についての項目に以下のような記述があります。

槌山城は安芸守護大内氏の拠点であり、これを守護山と呼んでいたことは前にみたが、これはいわゆる安芸国の政治の中心地であり、城下には政庁もあったようである。江戸時代製作の賀茂郡地図には、これを「御屋敷跡」としており、先の国郡志下調帳にも竹内氏がここに入ってきたのは元亀二年(一五七一)であったと書かれている。槌山城がその機能を失った後である。
出典:『賀茂郡史』493ページ

必要な部分だけ抜き出しているので、「先の国郡志下調帳にも」云々については不明ながら、竹内氏の存在は確認でき、「ここに入ってきた」とあることから、他所から来た方々であることもお分かりになろうかと思います。

しかしながら、ここでいうところの「御屋敷跡」=竹内屋敷跡ではありません。かつて、槌山城が健在だった時代、その政庁とされていた建物が「御屋敷跡」と呼ばれていて、竹内さんたちは、その跡地にやってきて、お屋敷を建てられたのです。

本来、槌山城のところで記すべき内容でしたが、守護山などと呼ばれ、すべては城内で取り仕切られていたと考えていましたが、違っていました。政庁は平地にあり、城は普通に当時の平時は館住まい、緊急時は詰めの城という中世山城の典型だったんですね。ただし、家臣だれそれの居城というわけではないため、常の館=守護所であった、ということらしいです。となると、鏡山城、曾場ヶ城もまったく同じであったと推測できますね。

それらはいったいどこにあったのか、それとも、このように、城と政庁が分離していたのは槌山だけの特徴であったのか、宿題がまた増えました。

竹内屋敷はどこにある

先程の引用文からご確認いただきたかったのは、竹内屋敷がどの辺りにあったのか、という点です。取り敢えず、元は槌山城の政庁だったことが分ったので、城の付近にあることは確実ですね。ところが、この史跡、地元ではこれほど有名であるにもかかわらず、マップには何も載っていないんですよ。どうしたものか。

東広島市ボランティアガイドの会さまにご案内いただき、しかも廿日市の先生のお車に便乗している状態。歩いていないので位置関係が分らないのです。こういうとき、どうせ Googlemap に載っているのだから、後で探せば良い、と軽く考えているわけですが、載ってなかったんですよ。ゼンリンの地図にもありません。市役所のホームページにもないです。

唯一の手がかりは『安芸国の城館』槌山城の項目に記された以下の記事なので、ご参考までに。しかし、案内看板などがあるわけではないため、地元の方のご案内なしには辿り着けないかと思われます。

東麓には、八十メートル四方の竹内屋敷跡や、四十メートル四方の煙硝屋敷跡などいくつかの平地城館跡が見られ、往時の雰囲気を残している。
出典:『安芸国の城館』200ページ

しかし、槌山城関連の史跡の一つとして見た場合、竹内屋敷はあくまで、政庁の跡地に建てられた城とは無関係な建築物ですので、その点には注意が必要です。槌山城が現役だった時期と竹内家の方々が活躍した時期とは、時代が違うのです。

大友晴英には息子がいた!? 今更ながらに衝撃の事実

叛乱家臣たちによって、大内義隆が自刃に追い込まれて亡くなった後、叛乱者たちは大友家から義隆の甥にあたる男子を連れて来て当主の座に据えました。この人が大友晴英で、戦国時代にキリシタン大名として有名になった大友宗麟の弟です。厳島合戦に勝利したのち、毛利軍はその勢いに乗って防長にまで進出。叛乱者に担ぎ上げられていた当主を死に追いやり、大内氏を完全に滅亡させます。

大内義隆の死を以て滅亡と捉える見方も多いのですが(受験参考書がそうなっているので、おそらく一般教養としての日本史標準)、大友宗麟の弟は、大内義長と名乗り当時の幕府将軍にも当主として認められております。それゆえに、研究者の方々は、彼を以て最後の当主としており、受験生を困惑させています。

その大友晴英もしくは大内義長の子孫にあたるのが、竹内家の方々です。つまり、義長の子が広島に逃れて来て無事に成人したということです。竹内家は西条の地に根を下ろし、さまざまな功績をあげました。当家の記録である『竹内家文書』は、非常に信憑性の高い史料とされており、地元の方々で竹内家のお名前を知らない人はいないほどです。「竹内屋敷跡」はその竹内家の元お屋敷跡で、当時のままの壁が現在も残されています。

日本史の受験参考書類では、大内氏が滅亡したのは「1551年」としています。大内氏が潰れて、日明貿易がそこ止まりとなったことから、要暗記年代なんです。大事なのは大内氏ではなく、日明貿易のほうだと思われますが。

要するに、この家は1551年で終わっており、じゃあ、その後の人はなんなんだ? というのが、普通に勉強してきた青少年の思いです。参考書には厳島の合戦なんて載っていませんから、1551以降のこの家のことなど、覚える必要もないんです。何の因果かどっぷり浸かっていますが、立場を変えたらすぐにわかることで、そこら中にあった地方政権が何年に滅んだかなんて、すべて覚えなければならなかったとしたら崩壊します。問題なのは、ちょっと歴史に詳しいとかいう方々が出てきて、いや、大内義長として幕府に認められていたので、最後の当主はその人で……とやり始めた時です。

むろん、研究者の先生とやらの解説が、それらの詳しい方々の典拠となっているわけで、同意見です。ですが、この問題は極めて微妙なんですよ。1551で終わりにしておいて、受験生くらいの知識はあると思います、と言っておくのが無難です。だって、考えても見てください。毛利元就は主を死に追いやるような極悪非道の輩を退治したのです。そんな連中に担がれていた人物を当主として認めるはずがありません。極悪非道の輩を倒し、当主騙ってる人物を追い払い、山口の地に義隆の菩提寺を建てて盛大に供養した。その麗しい物語が、途端に成立しなくなってしまいます。

毛利家が山口ではなく、九州でも東北でもいいので、それらの無関係の土地に飛ばされていれば良かったのに、あろうことか山口の地を本拠地にされてしまい、明治維新に至るまで頑張っていたことも災いしています。「麗しい物語」は長らく語り続けられており、これこそが正統な考え方になっていることでしょう。今も、ご子孫は数多く現地におられると思いますので、叛乱者を美化したり、大内義長が最後の当主だとか言おうものなら……。

長いものには巻かれないと。元殿様のご子孫に、他家の家来 A の子孫が叶うわけないですから。……というようなわけで、1551年で滅亡とか、大内義長の存在を無視して大友晴英とか書いてるとか、よほど嫌いなのか、歴史分っていないんだろうという汚名を着せられながらも貫いているのは、不本意ながら怖いからなんですよ。大内義長さんのご子息からしたら、反対に何だろうこの人、我々の先祖を無視するとか、無礼なこと極まりないなぁと思われるかもしれませんが。保身のためにやっていることであり、無実です。

さすがに令和の御代ともなり、先祖がなんたらなんて話はどなたも仰らないし、だいたい、生まれる土地は選べませんから、山口に生まれたから毛利の殿様好きです、なんて人、いないと思います。むろん、特に嫌う人もいないでしょう。そんな理由はどこにもありません。要するに「(昔ここが誰の領地だったとか)そんなことどうだっていいです」って人がほとんどですよ。たまたま郷土愛が強い人にあたってしまった時の悲劇を避けるために忖度してるんです。でも、修理中の五重塔に行ってみたら、歴代当主が漫画の主人公みたいに可愛らしく描かれた壁ができており、そこに大内義長が最後の当主として書かれていました。自治体的にもそう見ているのならば、堂々と「騙っても」良さそうですね。

あのお方(誰とは書かない)が亡くなられた1555以降は、もうどうだっていいんです。最初は毛利家の悪口言って回って憂さ晴らししていたりしました。でもそれも今はやっていません。だって、毛利元就さん悪い人ではないと思ってますから。人って、変れば変るね。まあ、仇であることにかわりはないから、尊敬したり好きになったりはできないけど。そんなわけで、大内義長が亡くなったとか、もうどうでもいいから詳しく知らなかったんです。ところが、東広島市ボランティアガイドの会の皆さまによくしていただき、大内義長の子孫がいて、その方たちの家に伝わる文書が超一級の史料となっている、とお伺いしたとき、え!? となりました。

しかしです。こちらは素人で、1555で人生終わってるのでいいのですが、山口で大内氏を研究している友人たちに話したところ(当然ご存じと思ったからです)、さらに「ええええっ!?」という反応。驚きでした。しかも、さすがに、よく研究されている方々なので、大内義長に子どもがいたということはご存じでした(知らなすぎだけど気にしない。参考書がすべてです)。ご存じだったからこそ、「え!?」なんです。つまり、地元の伝承によれば、その子どもは山口で亡くなっているらしく、墓まであると。なので、広島に行っている子どもがいたという事実を受け入れがたかったのでしょう。

どっちも知らなかったこちらもブッラクホールになってしまいました。そんな事実があったの!? すごい! となって、多少は褒めていただけるか、そんなこととっくに知ってるわよ、のいずれかの反応と思ったからです。ところが、おもいもかけず、嘘、そんな話、聞いたことない。違うよね? となったからです。友人は詳しい人に伝えてみると話していましたが、その後の経過は今のところ不明です。驚くのは、大内義長に子どもがいるいないではなくして、広島と山口でこうも意見が違うという点ですよね。

ちなみに、山口では義長の子ども伝説の主人公は「介丸」といい、どこぞに墓もあるそうです。お墓まであるので、極めて伝承的な要素が強いものの、恐らくは実在したのでは?(お墓ってだいたいそういう認識ですよね。慎重な自治体では、『伝』と書いて万が一に備えているケースも)という認識のようです。

いっぽう、東広島のほうでは喜久寿といいます。名前も違いますし、二人の子息がおられ、うちお一人が広島に来られたのか、もしくは一人のご子息について二通りの説があるのか、そこは何ともです。しかし、喜久寿さんのほうは、極めて信頼できる史料ともなっている『竹内家文書』という証拠書類がありますから、その存在は地元の方々に深く信じられています。介丸さんのほうは知りません。それこそ初めてききました。後から、数ある不確かな系図のうち一つを見ていたら載っているものがありましたけど。

竹内家の果たした役割・地元の方々への貢献

大内義長(大友晴英)に子どもがいて、しかも立派に成長して竹内家の祖となった。そこまでは普通です。滅亡した一族の子孫が逃れ逃れて……という伝説など、どこにでもあります。しかし、たいていは「実は生きていた伝説」で終わっています。喜久寿さんこと竹内儀左衛門さんがそれらの伝説で終わらなかったのは、竹内家を繁栄させ、歴史に名を残すほどの名家に育て上げる基礎を作ったお方となったからです。その繁栄ぶりがいかほどであったかは想像がつくと思います。あの竹内家に伝えられた文書だから、ということで、現在の研究者がまるっと信頼しているくらいですから。後の郷土史研究において、『竹内家文書』が果たした役割は非常に大きいものであるらしく、そのような記録を書き残すことができたのは、竹内家にはそれだけの教養あるご当主方が続いたからとも言えます。ここだけの話、貧乏な家から教養ある方々が輩出されることが難しいのは、現代にも通じるところがありますよね。

以下の竹内家に関する記述は、ほぼすべて、東広島市ボランティアガイドの会さま資料を参照にしてまとめました。だんだんと、当日お伺いしたご解説の記憶も薄れ、また、聞いている(読んでいる)者の理解度の低さも災いし、元のお話とは異なる部分があることをお詫びいたします。

竹内家の繁栄ぶりと、地元に果たした役割として、特筆すべきは慈善事業があります。「村役人」として、困っている人々を助けるために穀物を供出したり、「割庄屋」として同じく、困窮者に穀物を提供。加えて、「新開地開発」を行い「雇用の創出」にも寄与しました。竹内さんに助けられた地元の方々が大勢おられたというわけです。

酒蔵の町・西条に相応しい造酒業にも携わっていました。江戸時代から明治時代に及びます。その銘柄は「桂の操」「松乃花」「梅乃香」「富賀緑」などであったそうです。ことに「桂の操」はご当主・浅野家のお殿様が領内巡察に訪れた際に、献上されたことが知られています。

明治期以降には、金融業にも進出した模様です。まさに、あれこれやって、それらの事業で得た富を地元の人々にも還元し、『竹内家文書』を残したことで、郷土史にも貢献。すごい一族ですね。ご子孫は今も続いておられます。

当主の末裔と槌山城番のお姫様の婚姻

槌山城のところで、最後まで城に籠もって叛乱家臣と手を組んだ毛利家に抵抗し続けた城番の方々について触れました。そのお一人が、大林和泉守さんで、明顕寺にはお墓もありました。この、大林さんには桂姫という娘がおり、この女性が喜久寿と結ばれます。世が世なら、当主の奥方さまになった、というところです。

しかし、義長は倒され、和泉守も亡くなっていますから、二人とも孤児です。誰がどうやって二人を引き合わせたのか不明ながら、身分は違えど境遇は同じ二人です。そもそも、山口の人たちは、毛利家の本拠地である広島に逃れて行くなんて、敵のど真ん中もいいところであり得ない、というご意見でした。普通に考えれば、確かにそうで、二人とも身分を隠しながら、ひっそりと暮らしていたと思われます。

先に、大内義長ではなく大友晴英。大内家の当主などではなく、大友家の人である、ということにしていると書きました。忖度もあるけれど、事実でもあります。義隆の甥とはいえ、姓が違うんですよ。本来ならば、お鉢が回ってくるはずもない人です。義隆自身が先に、土佐一条家の晴持を養子としており、月山富田城で合戦関連死を遂げた後、つぎは大友家から養子を迎えるしかないかと考え、晴英に声をかけていたそうです。この話は、のちに実子が生まれたせいでうやむやになりましたが。姓が違う姉の子を養子にしなければならないほどの緊急事態だったわけです。晴英は大内氏からの養子の話にやる気満々でいたところ、実子の誕生で反古になったので、恨みに思っていたフシがあります。それゆえに、のちに叛乱者たちが義隆を倒してくれて、養子の話が本当になったことは望外の喜びだったかも。

しかし、最後の最後に、追い詰められて自刃するに至った際、最初毛利家では「あなたはワルモノたちに担ぎ上げられただけで罪はない」と言っていました。義長と腹心の内藤とが、且山城に籠もったままいつまでも出て来ないので、面倒になったようです。そこで、内藤だけ切腹してくれたら義長は罪に問わないので、という美味しい話をちらつかせ、二人を城から引きずり出したのです。最後に残った忠義の家臣の命と引換えに、義長は助けられるのかと思いました(本人は頑なだったが、内藤が勧めたことになっていますが)。ところが、助けてくれるどころか、結果は史実の通りです。

このくだりで、以前でしたら、毛利家嘘つきじゃないか、と思うわけです。実際、最近までそう考えていました。どうもあからさますぎるなりゆきで、ここは毛利家の「嘘」に応じて、主の命を救おうなどと考えた内藤が愚かでしょう。むろん、援軍が来るあてもないのですから、放置しておいても所詮同じ事です。それゆえに、一縷の望みにかけたのかもしれません。そうならば、儚い夢物語で哀れを誘います。

しかし、不審に思ったのは、毛利家が嘘をついた云々ではなくして、毛利元就さんのお人柄から考えて助命はあり得ると感じたからです。家臣の暴走だったのでしょうか。でも違うんですよ。ここは、心を鬼にしてでも亡くなってもらう必要がありました。本人があとは念仏三昧で過ごしますので、庵一つくださいと申し出、毛利家もそれを許したとします。本人たちはそれでいいですが、周囲は放って置きません。のちに、大友宗麟が大内輝弘を送り込んできたのを見れば分る通り、この人の存在は虎視眈々と隙を狙っている連中からしたら、大きな火種となりかねません。大友宗麟だって、「異姓」の大内輝弘なんぞより、弟のほうを担ぎ上げたほうが、戦に勝利した暁には全部「大友領」にできてしまって、ラッキーなことになります。のちに、尼子家が倒された時、当主の義久らは命を取られることもなかったばかりか、やがては領地までもらい、子孫は毛利家臣にまでなります。しかし、その時と、この時とをそのまま比較することはできません。中国地方における毛利家の勢力が絶対安泰になった時ゆえ、寛大な処置をとっても何ら恐れるところはなかったんです。でもこの時はまだそうじゃありません。それを証拠に、大内輝弘以外にも義隆の遺児を担ぎ上げた例がありました。助けてあげたくても助けられなかったんです。

では喜久寿さんは? 大内姓ではない人の血縁、しかも幼子。人目につかぬよう無事に逃げおおせたのならば、あまり害はなさそうに思いませんか。それも、毛利家の勢力地安芸国に逃げ込んでいる。ますますもって、何かをしでかす危険はないじゃありませんか。毛利方にこの件が全く知られていなかったかはわかりません。でも、皆さんが考えている敵のど真ん中に身を潜めるほうが、賢明な判断だったと思われてなりません。誰の思惑でこうなったのかは不明ですが。槌山城番の娘と結婚した件も、偶然とは思えませんから、安芸国内に彼らを匿う人々がいたということでしょうか。

何もかもが謎に包まれてはいますが、最後の当主を務めた人物の忘れ形見が生き残り、異国の地に根を張って名家ともいわれる一族となった。しかも、その奥方となったのは、槌山で命を落とした城番の遺児である娘だった。なんだかいいお話ですね。

ところで、この大林家ですが、何と、水戸新四郎ゆかりの者であるということなんですが。本当でしょうか。それゆえに、二神山城にほど近い大林寺というところに住んでいて、大林和泉守はその息子だとか(参照:『賀茂郡史』)。どの時代にどう繋がっているのか不明ですが。ご本をお書きになった先生もこの説はとらなかったようで、要するに西条在地の武家だろうということに落ち着いております。

なお、大林和泉守の奥方は、夫の死後、毛利家臣・熊谷氏と再婚したとか。しかし、江戸時代の記録には、大林氏の子孫と思しき方々が帰農しているらしきことが記録に残っており、どうやら父は亡くなっても息子や娘はお咎めなしだったようです。東広島市ボランティアガイドの会さま資料によれば、大林和泉守は同じ槌山城番の菅田宣真の子であるという説もあるそうで。だとすれば、その先祖は九州阿蘇宗像氏から出ていることになります。

西条城番衆

菅田氏:九州阿蘇宗像氏出身。子孫は毛利家臣となった。
財満氏:先祖は菅原道真の末裔。子孫は毛利家臣となった。
尾和氏:詳細不明。大内直臣で派遣されて来た者か。子孫は厳島合戦で戦死した模様。
大林氏:詳細不明。水戸新四郎ゆかりの者、もしくは、菅田氏の身内とも。子孫には熊谷家の養子となった者あり。そのほかは帰農した模様。

参照:『賀茂郡史』、東広島市ボランティアガイドの会さま資料

こうして見てくると、菅田氏も財満氏も結局は子孫が毛利家家臣となっており、詳細不明の尾和氏を除けば、大林氏だけは毛利家家臣にならなかったように思われますが、この家でも和泉守の妻女が熊谷氏と再婚し、子孫は吉川家家臣に。ただ、妻女の件は特別として、多くが帰農したというので、同じく帰農した喜久寿さんと系図には出て来ない娘・桂姫さんが婚姻関係となったのも違和感がありません。

どうせ子孫が家臣になったり、帰農しているのですから、城に詰めていた方々も命ばかりは助けて欲しかったですが、前にも書いた通り、この時点では毛利家は叛乱家臣の命令を受けて動いていますから、好き勝手にはできません。それに、城の明渡しって、責任者が腹を切ってけじめをつける、みたいな面もありますからね。

お嬢さんが、竹内家の祖となったことで、大林和泉守さんも浮かばれるというものです。立派な墓碑も、竹内家によって建てられたものかも知れません。

竹内屋敷跡・みどころ

みどころといっても、壁だけです。お屋敷は残っていません。現在にまで続く方々なので、ご自宅は改築されたか、他所へ移られたかもしれません。由来を記した石碑も今は文字が不鮮明となり、残念です。

竹内屋敷跡の壁

竹内屋敷・壁

周囲は普通に住宅地なので、プライバシーに配慮して隠しております。現在も立派なお屋敷がありますので、竹内家の方々がお住まいなのでしょうか。

竹内屋敷・壁2

内側からのほうがよく見えるとのことで、向かって左手、色が変っている部分のほうが、年代が古いように思えますね。

竹内屋敷・石碑

竹内屋敷・石碑

ここに何か重要なことが書かれていたらしいのですが、この通り、現在は判読不可能です。惜しまれますね……。

石垣と堀

竹内屋敷・堀

便宜上、石垣と堀と書いてありますが、いつ頃からのものか不明です。このあと、ちょっとしたアクシデントがありまして、写真もガイドさんの解説も中途半端になってしまいました……。ごめんなさい。

竹内屋敷跡(東広島市八本松吉川)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒739-0152 東広島市八本松町吉川

※Googlemap にあった「煙硝屋敷」の住所です。

アクセス

最寄り駅は八本松です。槌山城の麓にあります。しかし、八本松から槌山城までがまた遠いです。車で30分ほど。竹内屋敷跡は地図にもないため、煙硝屋敷を目指してその付近としか申せません。観光協会さま、市役所さまのホームページもすべて調べましたが、載っていませんでしたので、普通に観光案内所に入った場合、ご担当の方によって対応が変ると思われます。事前にお問い合わせをしておけば、ご存じの方はいくらでもおられますので、予定が決まったら即お問い合わせをお願いします(当日ですと、詳しい方がご不在のこともあり得ます)。

参照文献:東広島市ボランティアガイドの会さま資料、『賀茂郡史』

竹内屋敷跡(東広島市八本松吉川)について:まとめ & 感想

竹内屋敷跡(東広島市八本松吉川)・まとめ

  1. 大内義長の遺児・喜久寿と槌山で自害した城番・大林和泉守の遺児・桂姫は無事に生き残って結婚。帰農して竹内姓を名乗った。彼らが東広島でご存じない方はおられないほど有名な『竹内家文書』を残した旧家・竹内家の祖である
  2. 竹内家は村役人や割庄屋を務め、困窮した人々に無償で穀物を分け与えたり、新地開拓を実施して雇用を促進するなどして、地元の人々のために尽した
  3. 江戸時代、酒造りで有名な西条で、竹内家も造酒業を行い、数々の銘柄を世に送り出した。中でも、「桂の操」は逸品で、当主の巡察時にも献上された
  4. 明治時代には金融業にも乗り出したとされる
  5. 竹内家が代々記してきた記録は『竹内家文書』として、県立図書館に保存されており、西条、東広島、当時の安芸国を知る上で欠かせない信頼の置ける史料となっている
  6. 竹内家は現在も子々孫々繁栄しており、大内氏最後の当主の血縁を伝えている

山口と広島で歴史的見解も微妙に違うな、と感じたのは一度や二度ではありません。何がどのように? と言われると困るのですが。山口に行って明治維新わからないのは致命的ですし、山口市内の貴重な文化遺産が毛利家のために切り売りされた事実は消せませんから、複雑な思いは隠せません。だから、何とはなしに気が重いのです。

現在のように毛利元就さんの功績を素直に認めることができなかった時代、山口って毛利元就命の方ばかりですよね? と勇気を出してお尋ねしたところ、とあるタクシーの運転手さんが、毛利元就は広島県でしょう。ここは(どうせ)輝元ですよ(なんだかね、みたいな雰囲気)。どうやら、親大内と親毛利のニ派に分れているように感じた瞬間でした。歴史に詳しい運転手さんだったゆえにであり、普通の青少年は電車の中で「マジ、やべ」というようなあまり品がよろしくない全国共通語で語りつつ、スマホゲームに没頭していました。まあ、こんなものだろう、と思ったものです。西の京うんたらとか、知ったことありませんよね。

でも、自然、郷土愛の深い方々との交流が多くなるので、どなたも我が郷土の誇りを大切になさっておられますから、この「温度差」はけっこう他の場所でも感じました。例えば、下松行けば大内弘世ではなく、鷲頭長弘のほうがヒーローだとかね(感じ方には個人差があります)。

廿日市の先生に、東広島に行ったら、大内義長の子孫が有名な家文書を残してたんです云々とお伝えしたら、ん? 大内義長って若くして亡くなってるでしょ? その子孫が広島県内にいるの? という感じでして、山口の友人たち同様、よりにもよって広島に逃げるかな? という反応でした。同じ広島県内でもやはり温度差があるのです。竹内家が東広島地域の方ゆえ、『竹内家文書』を紐解く機会が多いのは当然、東広島地域の方々です。廿日市の先生がご存じないのも無理からぬことです。逆もまた正でしょう。

ただ、地域限定で終わらせるにはあまりに惜しい物語だと思うのです。これを機に山口県内の歴史愛好家の方々は大挙して西条に押し寄せてください。目から鱗の連続と思います。部外者は、先入観のない真っ新な状態でお話を拝聴できるという利点があり、また、地元民でもないので、何を言っても「部外者だから理解不能なんだろう」ですまされます。その点身軽だなぁと思った次第です。

こんな方におすすめ

  • 東広島、西条地域に関心深い人
  • 槌山城見学した帰り道の人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

アクシデントのせいで、ガイドさんの貴重なお話を最後まで拝聴できなかったというのはどういうことだ?

五郎吹き出し用イメージ画像(怒)
五郎

お前に話す義理はないよ。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

写真撮影していたら、穴にはまってしまって、びしょ濡れになっちゃったの……。

五郎吹き出し用イメージ画像(怒)
五郎

(なんで自白するんだよ……)

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

お前たち、至る所で地元の方々に迷惑ばかりかけて。恥さらしな連中だな。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

ごめんなさい……。東広島市ボランティアガイドの会のガイドさんたち、本当に優しい方ばかりなの。毎回あれこれやらかしてるけど、その度に親身になって助けてくださる。何とお礼申し上げたらいいのか。山口で否定されても、喜久寿さんと桂姫さまのお話を広めます。

五郎吹き出し用イメージ画像(涙)
五郎

俺もそう思う。俺たちはともかく、地元の研究者の方たちがご存じないなんて、ショックだった。

五郎セーラー福イメージ画像背景あり
安芸紀行

#hitひろしま観光大使に任命された五郎が、ミルと一緒に旅した安芸国の旅(目次ページ)
宮島と廿日市は訪問回数最多ですが、ほかの都市は訪問先がばらけてしまっていますので、こちらにまとめています。

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  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン用)

ミル@周防山口館

廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
厳島神社が崇敬神社です
【山口県某郷土史会会員】
大内氏歴代当主さまとゆかりの地をご紹介するサイトを運営しています

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