頭崎城(東広島市高屋町貞重)

広島県東広島市高屋町貞重の頭崎城とは?
東広島市高屋町にある、安芸国人衆・平賀氏の居城跡です。平賀氏は安芸国内でも有数の大勢力の一つであり、その居城として築かれた頭崎城もその規模の大きさが毛利元就の吉田郡山城跡につぐほどであると記しているご研究もあります。
主郭を中心にいくつもの郭が連なり、堀切や畝状竪堀群、虎口や石垣などの遺構を目にすることができるほか、東広島市の重要文化財ともなっている頭崎神社もご鎮座しております。
頭崎城・基本情報
名称 頭崎城
立地 丘陵頂部
標高/比高 504/200
築城・着工開始 大永三年~不明
城主 平賀氏
遺構 郭、堀、石垣、土塁、畝状竪堀群ほか
文化財指定 広島県史跡
(参照:『安芸の城館』、『日本の城辞典』)
頭崎城・歴史
平賀氏第三の居城
頭崎城は、安芸国の有力国人勢力・平賀氏の居城です。平賀氏は鎌倉時代初期、高屋保に移住してきたいわゆる西遷御家人です。最初は、現在の御薗宇城がある場所に館を築いて居住していました。その後、南北朝期の動乱期に居館の防御を固めて要塞化。これが御薗宇城ですが、その後、付近に白山城を築城。そちらに移転します。頭崎城はその後築かれた三つ目の居城となります。ただし、白山城も併用されていましたので、二つの城が同時に存在し、使われておりました。
高屋には、「平賀氏の遺跡」として、この頭崎城跡を始め、白山城跡、御薗宇城跡や、平賀氏の墓所など平賀氏ゆかりの史跡が多く残されており、それらはまとめて広島県の史跡に指定されています。
頭崎城が築かれたのは大永三年(1532)のこととされていますが、これは、尼子経久が、大内氏の東西条における拠点・鏡山城を落とした年です。平賀氏は政弘期の応仁の乱でも、義興期の足利義稙復職のための上洛に際しても、大内方に従っていました。しかし、この時は尼子方について活躍し、鏡山城攻防戦で活躍しました。平賀弘保の時です。
大内氏は鏡山城を奪い返し、尼子方についた安芸の国人たちを次々に攻めますが、平賀弘保はこの頭崎城に拠って大内軍を撃退し、戦勝記念の神社まで造ってしまいました(頭崎神社)。
吉田郡山城に次ぐ巨大な城跡
平賀氏は安芸国でも非常に有力な国人領主とみなされており、その居城としての頭崎城は、同じく知らない人がいないほど有名な毛利元就の吉田郡山城に匹敵するほどの規模であるといわれています。

いつものように、テキトー図を作ってみました。登山口に至る途中にあった案内看板の図に、ご案内くださったガイドさまの説明を重ねてみたのですが、ここで主張したいのは単に「この城がいかに巨大であったか」という点となりますので、ご注意ください。郭はほぼほぼ正しいですが、屋敷跡はこっち方面くらいの認識でお願いいたします。
最も大切な城の本丸にあたる部分が「主郭」です。ここが山頂でして「甲の丸」と呼ばれております。ここを中心として大小の郭が連なっています。主郭周辺には虎口、後ろの西の丸背後は堀切や畝状竪堀群だらけです。
なお、三の丸から延々と続く道を行きますと、大将軍なるところに出ますが、ここは、毛利元就に攻撃された際、城主の平賀隆保が陣取ったところと言われています。また、三の丸には頭崎神社がございまして、その鳥居が近いことから「鳥居の段」と呼ばれる削平地もあります。このあたりは、登山口から入る順路にあたります。当城跡には、頭崎神社のほかにも、「明治神宮」という神社もご鎮座しておられます。
父子対立の舞台
大内氏に従っていた平賀氏が尼子方について、鏡山城陥落で活躍したのは前述の通りです。頭崎城には弘保の子・興貞が入り、父の弘保は白山城にいたようです。ところが、この父子は不仲であったことで知られており、ついには武力衝突にまで発展します。この時弘保は再び大内氏に従っていたものか、あるいは単に不仲である息子興貞が親尼子だったゆえ、敵対勢力を頼ったのか不明ながら、父子の仲違いには、それぞれ尼子、大内という大勢力が肩入れします。
そのために、頭崎城はたびたび大内氏の攻撃を受けました。けれども、同じく親尼子の諸勢力の助けもあり、興貞は大内氏を敗走させます。恐らく、頭崎城が難攻不落の堅城だったゆえにということもあるであろうと、城跡解説なだけに書き込みたくなりますね。
しかし、頼みにしていた尼子方勢力の弱体化によって、興貞の運命もかわりました。尼子晴久が吉田郡山城を包囲した頃は、安芸国内の親尼子勢力が大内方に寝返ったり倒されたりといった事態が相継いでいました。晴久自ら、大内に寝返った毛利を潰しに来たわけですが、逆に敗退し、巻き返しは叶いませんでした。これをきっかけに、頭崎城の興貞も孤立し、城は落城します。興貞は隠居して子・隆宗に家督を譲りました。隆宗は祖父とともに白山城にいたくらいですので、父と不仲だったのでしょうか? それについての記述は見かけておりませんが、その後隆宗が大内方として、月山富田城攻め始め様々な場面で活躍したことは『大内氏実録』などにもその名前が出ている通りです。
大内義隆の「お気に入り」人事と平賀隆保
平賀隆宗は大内方の将として活躍したものの、備後神辺城を攻撃していた際に陣没します。平賀氏ではその後継者として、隆宗の弟を当主にと望みましたが、なんと、大内義隆は自らの「お気に入り」を勝手に平賀氏に養子として送り込んで、家督を乗っ取ってしまいます。この人物が、平賀隆保で、元々は大内・尼子両氏の争いに巻き込まれて二つに分れて争い、惣領家に攻められて自刃した小早川常平(船木姓)の子でした。要するに、平賀氏とは何ら関係のない人です。当然、平賀氏はこれに反発しましたが、大内義隆は耳も傾けません。
やがて、義隆が叛乱家臣によって倒されると、彼らの命で「親義隆派」の城を攻撃させられた毛利元就によって頭崎城も落とされ、隆保も自害しました。勝手に「お気に入り」にさせられ、強引に他家の養子に入れられた隆保も、あるいは被害者といえるかも知れません。どうにせよ、この意味不明な人事により、隆保が命を落としたことは事実です。ただし、その最期の場所はこの、頭崎城だったとも、槌山城まで逃れてだったとも言われており、定かではありません。
その後、平賀氏は望み通り隆宗の弟・広相が継ぎ、毛利氏と手を結びます。大内氏が滅びると毛利氏に属しました。頭崎城の廃城時期は、慶長元年(1600)と伝わっています。
頭崎城・みどころ
城の姿

じつに長閑な風景が広がっています。ここが、かつて何度も戦乱の舞台になったなど、到底想像できかねます。平和ですね。
説明看板

登山道の手前に案内看板があります。こういうのあると、登らずとも城跡行ってきたことにできるので、こだわりがない方はここで終えても……。家臣団の城に、一日で行けるだけ回るとかなった場合、このやり方じゃないと無理です。
登山口への案内板

これがなくても城跡(山)は見えているわけですけど、とても親切です。
頭崎城跡登山口

入口にもちゃんと案内版があります。今後、城跡内でも要所要所にきちんとありますので、安心です。
登山道

だいたいにおいて、このようにきちんと道が整備されております。
鳥居の段

付近に頭崎神社の鳥居があるため「鳥居の段」と呼ばれている削平地です。
三の丸

「三の丸」には重要文化財指定を受けている頭崎神社が鎮座しています。案内看板も立っており、「大将軍」への順路もついており……と賑やかです。
太鼓の段

三の丸の南の高台にあたる「太鼓の段」です。
二の丸

「三の丸」⇒「二の丸」と郭が続きます。
虎口

主郭に至る通路に何カ所かありますが、写真はこれだけです。
甲の丸

主郭を「甲の丸」と呼んでいます。要はここが山頂です。
展望

主郭からは、高屋の町、そして西条盆地が見渡せるとか。天気もよく、見晴らし良好でした。
石垣

石垣の横にある木製階段の部分は、元は石段の坂道だったそうです。現在、石段は完全に埋もれてしまい、その上に階段を設置しています。
煙硝の段

以前、槌山城付近にも煙硝屋敷がございましたが。このようなネーミングになっているいわれを書いたものは見つけられませんでした。ご案内いただいたガイドさまの資料に「倉庫?」とメモ書きがございました。
明治神宮

いつなんどき、どなたによって創建されたかなどは、まったく不明ながら、「明治神宮」というお名前の神社がご鎮座されておられました。背後の大岩が城を形作っていたパーツなのかどうかなど、極めて興味深いのですが、御由緒説明文などはありませんでした。
頭崎城(広島県東広島市高屋高屋町貞重)の所在地・行き方について
所在地&MAP
所在地 〒739-2112 広島県東広島市高屋町貞重
アクセス
地図には、JR 線の駅名が見えておりますが、いずれの駅からも歩いたら途方もないことになります。車で行かねばなりません。公共交通機関での行き方は調査中ですが、自家用車で行った場合、登山口より手前に車を停めることができるスペースはございました。
参考文献:『安芸の城館』、『日本の城辞典』、東広島市ガイドさまのご案内と拝領資料
頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)ついて:まとめ & 感想
- 安芸国の有力国人・平賀氏の居城
- 平賀氏の城としては、他にも御薗宇城、白山城が知られているが、中でも規模も著名度も最大。広島県の史跡に認定されている
- 県下でも、毛利氏の吉田郡山、安芸武田氏の佐東銀山城などに匹敵する巨大な山城跡
- 城跡はよく整備されており、見学しやすい(ただし、個人差があるので注意)
- 築城は、尼子氏に味方した平賀氏が、尼子氏が大内氏の拠点だった鏡山城を陥落させた年といわれている。尼子方として活躍した平賀広保は、大内氏による巻き返しによって攻撃を受けたが、この城に拠って撃退し、戦勝記念に頭崎神社を建てたと伝えられている
- 城内にはほかにも「明治神宮」と呼ばれる神社が鎮座している
- 平賀広保と息子の興貞は不仲で、それぞれ、大内、尼子氏という大勢力のテコ入れを受けた。そのため、頭崎城は両軍を巻き込んでの戦闘の舞台となり、大内氏から度重なる攻撃を受けた。戦闘は長期に渡ったが、安芸国内での親尼子勢力の衰退により、最後は陥落した
- 城主の興貞は隠居し、子の隆宗に家督を譲る。隆宗は大内氏に味方して活躍したが、神辺城を攻撃していた際に、陣没した
- 隆宗の跡は、当然平賀氏の誰かが継ぐべき外れあるにもかかわらず、隆宗の弟を家督継承者にという願いは無視され、大内義隆によって、無関係の人物が勝手に平賀姓となって頭崎城に入った。これが、平賀隆保で、惣領家によって滅ぼされた小早川常平の遺児。義隆の「お気に入り」だった
- この迷惑な人事に不満やるかたない平賀氏だったが、後に義隆が家臣の叛乱によって倒され、親義隆派の人物が粛清された際に隆保も亡くなり、家督は正統な平賀氏の一族の手に戻った。後の平賀氏は毛利氏に従い、子孫は毛利家臣となったという
きちんと整備された山城跡として、初心者にもおすすめです(※感じ方には個人差があります)。何度も戦闘の舞台となり、しかもそれらに耐え抜いた堅固な城です。特に広保・興貞父子の対立は長期に渡って続き、尼子方に属した興貞が拠点としたことから、大内軍に攻撃されます。大内軍は当初、難なく撃退される程だったようです。当然、興貞の背後に尼子氏とそれに味方する勢力の援助があったからですが、それにしても、大勢力を敗退させるほどの実力を備えていたことは確かです。
父子が対立に至るという気の毒な事情も、大内・尼子という二大勢力に夾まれて、どちらに与するべきかで意見が割れたものと考えられます。尼子氏に味方した勢力のうち、特筆すべきは安芸武田氏と厳島神主家ですが、いずれも落ち目となって大内氏に滅ぼされてしまいます。安芸国内の情勢が親尼子不利となったのです。尼子晴久が吉田郡山に遠征し、毛利氏を攻めたのは、安芸国内での親尼子勢力の衰退を食い止めようとした一環であるとのご研究を見かけましたが、城を落とすことはできず、敗退したのは周知のごとくです。頭崎城の興貞は孤立してしまい、ついには大内氏に屈することになります。けれども、普通に隠居して、家督を息子に譲ることで許されていますから、さほどの悲劇には至りませんでした。
問題はその後の、大内義隆による「謎の人事」です。ただ、これも、尼子氏との対立の中で、信頼できる者を城に配置して置きたかったためととれなくはないですが、単に「お気に入り」に箔をつけたかったというような逸話になってしまっていますから、義隆の本意は読めなくなっています。どうも、逸話通りに読めてしまいますけども。毛利元就が二人の息子を、吉川・小早川氏に入れた例と比較すると何とも無様です。仮に百歩譲って、同じような意図があったと仮定しても、入れる側、入れる人をきちんと見極める必要があったでしょう。強引に押しかけ養子にされ、平賀氏の家臣らにも総スカンを食らったらしき隆保も被害者と言えなくはありません。
頭崎神社は戦勝記念に建てられたってわかるんだけど、明治神宮って、いつ誰が建てたんだろう?
明治神宮なだけにね、明治時代以降に建てられたことは明らかだよね。
そういう、俺でもわかる情報、ほぼ意味がないよね。

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