福岡八幡神社(東広島市高屋町高屋東)

広島県東広島市の福岡八幡神社とは?
平賀広相が鎌倉鶴岡八幡宮から勧請したといわれています。一説によれば、勧請したのは平賀保成(弘保の弟、木原氏)とも言われ、このことは『芸藩通志』に記されています。いずれにしても、当地の一大勢力であった平賀氏ゆかりの神社であることは確かです。鎌倉御家人だった彼らが、かつての勤務地鎌倉から八幡宮を勧請したわけで、このような由緒をもつ神社はほかにも相当数に上るでしょう。
平賀氏の時代から江戸時代末期に至るまで、その祭礼は、城主の参詣や付近の八幡宮から神輿が集まるなど、この地方の一大イベントになっていたようです。現在の社殿は、江戸時代の再建物となります(享保元年、1716年)が、その規模について、本殿はこの地域最大との記述が御由緒看板にありました。
福岡八幡神社・基本情報
御祭神 品陀和気命、帯中津日子命、玉依毘売命
例祭 十月十三日
社殿 本殿、弊殿、拝殿
主な建造物 鳥居
(参照:『廣島懸神社誌』、御由緒看板)
福岡八幡神社・歴史
二種類の御由緒
神社さまご由緒看板と『廣島懸神社誌』に載っている由緒は完全に同一の文章です。創建については二説あり、一つは平賀広相、もう一つは木原保成が鶴岡八幡宮(鎌倉)を勧請したというものです。勧請元についていずれの説も同じです。
- 享保元年本殿再建立棟札 平賀広相が鶴岡八幡宮を勧請
- 『芸藩通志』 天文年間(1532~55)に平賀保成が同神社から勧請
さて、こうなると、いったいどちらが正解なんでしょう、となります。ここでは、現地でご案内くださった地元ガイドさんから拝領した資料にある、二番目の説を掘り下げてみたいと思います。
福岡八幡神社と白鳥神社
この地域で有名な神社のひとつに、白鳥神社があります。詳しくは後ほど、白鳥神社さま記事を作成します。
平賀氏が高屋保に入った頃、当地には白鳥神社の神領が多く存在していました。安芸武田氏が厳島神社の神領の存在にげんなりしたのと同様、地頭識を得て現地入りした武家勢力にとって古来より続く寺社領ほど目障りなものはありません。当然のように、高級貴族の荘園だろうが、寺社領だろうが、武家による見境なしの横領が始まります。ただ、著名神社などの神領が厄介なのは、恐らく地元の人々の信仰などもあり、あまりに露骨なことはできなかったであろう点も、何となく想像できます。
平賀氏は白鳥神社が執り行ってきた神事を福岡八幡宮で行なうこととし、宗教的にも白鳥神社よりも自ら創建した福岡八幡神社のほうが優位に立てるよう画策した模様です。ところが、この企みは上手くいきませんでした。むろん、神領の横領はおかまいなしに続けられましたが。
このように、両神社間にはちょっとした対立構造がありまして、それは平賀氏が高屋に入ってきたその時に、神領が邪魔だと思った瞬間から始まっているわけです。となれば、白鳥神社を凌駕する神社を自ら創建し、服従させようという考えもそれなり歴史あるものとなるはずです。要するに、古いほうが正しいと思うわけです。ただ、弘保の天文年間と広相時期はさほど開きがあるわけでもないですし、微妙と言えなくもありません。
「福岡八幡宮棟札写」によれば(由緒にあるものでしょう)、永禄四年(1561)年、広相代に神社が完成したとなっているらしく、となると、建築工事着工が天文年間末期で、勧請したのが木原保成(平賀弘保の弟)だったケースもあり得ます。二つの説があるどころか、二つは繋がっていることになります。
平賀弘保が白鳥神社を自ら創建したようなものである福岡八幡神社の支配下に置こうと企んだのは、具体的には天正六年(1578)であると、白鳥神社側の記録にはあるらしいのですが、これはさすがに無理があります。弘保が天寿をまっとうしたらしきことは系図類にもあるのですが、さすがに江戸時代まで存命だったとは考えられません。有名どころとしてお名前を誤認なさったものでしょうか。
いずれにいたしましても、両神社には曰く因縁の歴史があったことは史実です。むろん、現在はそんな揉め事はまったくございません。物騒な時代の物語となります。⇒ 関連記事:平賀氏
福岡八幡神社・みどころ
注連石

これより先は神聖な領域です。……というところで、気付いたんですけど、『神社誌』に書いてある鳥居(二基)をすっ飛ばしてきてしまったようです。駐車場経由で来るとあるあるなのですけど、下まで下りてみましたがここ止まり。恐らく、もっと戻らねばならなかったのではないかと。二度目のご参詣はないものと思われ、無念です。
これを鳥居とカウントすることはないのかな?
そういうこと、現地で確認しないとだよね。
御由緒看板

「享保元年本殿再建立棟札によると、白山城城主、平賀山城守藤原広相が鎌倉鶴岡八幡宮より勧請したといい、高屋十三箇村の産土神であった。『芸藩通志』では、天文年中(一五三二ー五五)木原城城主、平賀保成(または弘保)が鶴岡より勧請とする。この地方の大社であって、往時は祭礼の時に、城主の参詣もあり、高屋庄の諸村より奉仕されたと伝え、江戸末期に至っても祭礼には大畠、中島、杵原の三村の八幡宮の神輿が当神社に来会して祭儀を行なった。現在の本殿は享保元年再建のものであって、当地方最大の本殿である。」(看板説明文)
神号碑

神号碑が立派な神社さまは地元の方々の信仰が篤い証拠。ただし、今までのところ、神号碑が立派ではない神社さまに参詣した経験はないように思えます。どこの神社さまも地元の皆さまから深く崇敬されて現代にいたっておられるのですね。
拝殿

拝殿です。この部分はいかにも、享保元年から続いていたとしても、何度か再建されたようですね。新しい。
車祓所

本殿

ご本殿は、三間社流造、向拝、唐破風付、銅板葺です。ここが、享保元年の再建物です。歴史の重みを感じる部分です。
狛犬

立派な狛犬が一対おられました。
福岡稲荷神社

境内摂社・末社のご案内はなかったものの、お名前からして「福岡 稲荷神社」ですので、ご関係がわかります。御由緒看板などと同じ場所に鎮座しておられました。
福岡八幡神社(東広島市高屋町高屋東)の所在地・行き方について
ご鎮座地&MAP
ご鎮座地 〒739-2113 広島県東広島市高屋町高屋東 2131
アクセス
徒歩で行く行き方は調査中です。鉄道の駅からは極めて遠いですから、車で行くほかありません。付近に公共交通機関がないとなると、地元の方々の参詣にも不便となりますので、恐らくは最寄りバス停などがあると考えています。
参考文献:『廣島懸神社誌』、御由緒看板、東広島市ガイドさまの解説および拝領資料
福岡八幡神社(東広島市高屋町高屋東)について:まとめ&感想
- 高屋を地盤としていた平賀氏によって建立された八幡宮
- 創健者は、平賀広相とする説と平賀保成(弘保弟、木原姓)とする説がある。いずれにせよ、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したもの
- 現在の本殿は、江戸時代の再建物だが、この地方で最大のものとされる(由緒看板)
- 江戸時代には、城主の参詣や大規模な祭礼があり、たいへん賑わっていた。もちろん、現在に至るまで、多くの地元の方々に崇敬される神社である
- 往時、当地を治めていた平賀氏は、古代より続いていた白鳥神社勢力を抑え込んで優位に立ちたいと考えていたらしく、それらに関わる伝承が残っている
平賀氏史跡を巡る旅の中で、関連史跡の一つとしてご参詣。武家による寺社領の横領問題、どこでも普通にあったことですが、なんとも深刻ですね。特に、西遷してきた方々というのは、新天地に来てみたはいいが、いにしえの社が大量に神領を持っていた……となると、全部手に入れたくなりそうです。己の信仰は移転前の地の神社だったなんてのも、よくあることです。
というわけで、こちらを勧請している方々も、多いわけです。

この流れに遭遇するたびに、不思議な感覚に陥るのです。八幡宮なら宇佐から勧請したら、と。平賀氏も鎌倉とゆかり深い方々だったということに気付かされた一幕でした。
で、先に鎮座していた白鳥神社と対立していたという構図ですが、これもわかりやすいですね。両神社さま双方にご参詣し、武家と神社とが争っていた往時を偲ぶのも興味深いです。
またしてもさ、狛犬の雄と雌の話題になったんだけど……。
あああ、それにはお答えできません。AIの皆さまに勝手に聞いてくださいね。

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