陶のくにの人々

陶弘詮

2022-05-01

弟君

基本情報

父・弘房、兄・弘護、子・隆康、興房室ほか
幼名:三郎
中務 ⇒ 兵庫頭(文明十一年八月十一日初見)、阿波守
筑後守護代

本家・右田家を継ぐ

陶の家は右田家の分家だが(その右田家、大内本家の分家であること周知の如く)、最も親しい身内ゆえ、世継ぎが絶えるような危機に見舞われるとお互い養子を定めるなど融通し合った。弘詮父・弘房が一時期、右田家の後継者となっていたこともその例である。ところが、本家の右田家より、分家・陶家のほうが大内本家内部におけるその重要性を高めていくに従い、本家を守ると同時に、元は分家だった陶の家を守ることもより重要となってくる。陶の家が戦争で当主を亡くすという危機に見舞われたとき、弘房は親戚一同の懇願により陶の家に戻って当主となる。そして、右田家のほうにはかわりとして、息子である三郎を入れた。これが弘詮である。

このことは陶の家にとって、かなり重要な意味を持っている。つまり、跡継がないまま亡くなった主・右田弘篤の遺領などはいったん弘房を経て弘詮に移ったものの、どちらにせよ、実質上本家・右田家が陶家に吸収されてしまったようなことになるから。その後も右田本家の系図は弘詮の系統以外でも続いているから、なにゆえ、それらの人々ではなく、陶家の人だった弘房がそもそも右田家に入ったのだろうか、という疑問も残る。

兄・弘護を助ける

弘房には弘護と弘詮という二人の息子がいた(系図に現われている人物という意味で。ほかにもいた可能性はゼロではない)。右田家から陶家に戻った弘房が当主として立派に働き、大内本家に忠義を尽したことは明らかで、忠義の究極のかたちとして、主・大内政弘に従って上洛、応仁の乱で戦死した。

残された二人の兄弟はまだ幼かったけれど、弘護もまた、父より以上に、主のために尽した。ようやく成人し、正式に政務を執れる年齢になったくらいの若さで、応仁の乱で主不在の分国を守って活躍し、政弘帰国後はその右腕として主を支え続けた。

九州での活躍

弘詮の生まれ年は明らかではない。ゆえに、兄が応仁の乱で活躍した時に、弘詮がともに出陣し、兄弟共々に軍功をあげたのか否かを想像するのは難しい。何しろ、弘護がイマドキならばまだ「子ども」と見なされていいような年齢で活躍してたから、弟である弘詮が兄よりかなり年下だったりした場合には、合戦に参加できる年齢には到達していなかった可能性が多分にあるため。これらの合戦について、弘詮に関する史料が欠落していることから考えて、恐らくは参戦していなかったのだろう。

そのいっぽうで、政弘帰国後の九州での合戦においては、兄・弘護とともに、縦横無尽に大活躍をしたことがわかっている。その典拠となっているのは、政弘が弘詮に宛てた以下の書状である。

大内政弘書状写(萩藩閥閲録差出原本宇野与一右衛門)
先月廿九日之書状到来、殊少弐残党於処々楯籠之所二、自身馳向即時被切崩之通、別紙注文之前令承知候、家来富田市右衛門・野田八左衛門分捕高名、湯木七郎次郎討死神妙之至候、旁以感悦無是非候、併弘護御方兄弟共二年若故、 每々自身之働卒忽之儀候、向後少事之儀者、方角之国人を以可有才判候、自然不慮之過有之者、其表変異、殊以当家安否無申計候、辛労之段者従是以使可申入候、謹言、
(文明十年)
八月十一日
政弘
右田兵庫頭殿
(参照:『戦国遺文 大内家編 通し番号「三一四」)

弘護・弘詮ともに大活躍し、お褒めの言葉を頂戴しているけれども、これは恐らく、弘詮の書状に対する返信と思われ、弘詮じしんが自らの活躍ぶりを主に書き送っていたことがわかる(というよりも、単なる報告書なのであろうけれど、軍功が半端ないのでこのようなお褒めの言葉となったのだろう)。

筑前の守護代

このように、九州は弘護・弘詮兄弟が大いに軍功をあげたゆかりの土地だが、兄・弘護は単なる軍功の人だけでなく、筑前守護代として政務も執り行っていた。けれども、九州での騒乱が落ち着くと、周防国のことに専念するためか、あるいは政弘側近として国政に携わることで政務多忙となったゆえにか、筑前守護代を辞職している。そして、その地位を弟・弘詮に譲った。

ここから、弘詮と九州との関係はますます深いものとなったのである。宗祇との交流や、貴重な書物の書写事業を行なったのも、すべてこの九州の地であり、亡くなったのもまた、九州だった。

『山口県史 史料編』にて、活字化されたものを見ることができる宗祇の『筑紫道記』には、以下のようなフレーズがある。

是より守護所陶中務少輔弘詮の館に至り、傍の禅院に宿りして、又の日彼館にて様々の心ざし有、折節千手治部少輔、杉次郎左衛門尉弘相など有て、一折あり、
はなひろ広く見よ民の草葉の秋の花
此国の守代なれば、万姓の栄花をあひすべきの心なあそり、ひねもすいろいろ遊び暮し侍るに、此あるじ年廿の 程にて、其様艶に侍れば、思ふことなきにしも侍らで、 覚えず勧盃時移りぬ、(参照:『山口県史 史料編』)

雅な名門・大内氏の重鎮一族として、弘詮の守護代館にもそのような雰囲気があったのだろう。著名な連歌師・宗祇も、弘詮の心尽くしのおもてなしに気をよくして、時を忘れて盃を重ねた。「此あるじ年廿の程にて、其様艶に侍れば」というのは、弘詮の歓待に感激した宗祇の外交辞令も多少は入っているだろうけど、この一文を以て、弘詮を美男子だったと断定(?)している研究者や郷土史家の先生方もおられるから(もちろん、先生方にとっては、彼がイケメンだったかどうかなどは、研究課題の主眼ではないからさらりと流れている程度)、陶のくに的には、「弟君(=弘詮)」は宗祇の折り紙つきのイケメン、歴代陶一族第一のイケメンと信じて疑わないのである。

話が逸れたけれど、大内本家にとって、宗祇は大切な客人なので、それを丁重にもてなし、旅の道中の安全をはかることも大切な任務である。細かいことにはなるが、弘詮はそれをしっかりとこなしていたという証左である。

兄の遺児たちの後見となる

兄弟姉妹が早くに亡くなってしまった場合、伯父や叔父が遺された子らの後見を任されるのはごくごく普通のことだが、陶家においてはやや尋常ならざる経緯があった。大内本家の重鎮として不動の地位を占めていた当主・弘護が、石見の国人風情に謀殺されるという信じられない事件が起り、しかも、その時、弘護はまだ二十八歳という若さであった。当然、遺児はまだまだ幼少であり、しかも父祖の代からの功臣の家柄であることを鑑みて、陶の家をおろかにすることはできない。

主・政弘は、弘詮に対して、弘護遺児たちの後見を求めた。これも、政弘が弘詮に宛てた書状が残されていて、素人の我々でも活字の形で目にすることができる。

大内政弘書状写 (萩藩閥閲録差出原本宇野与一右衛門)

弘護事旨儀有之、与吉見相果、是以対当家忠儀之段更々無是非候、不慮之事出来、 口惜残念無申計候、因茲其境宰府弥堅固可為了簡候、弘護所領対子息安堵之儀者、従是以使可申入候、其許無異儀候様ニオ判尤〳〵候、謹言
(文明十四年)
五月廿八日
政弘
右田弘詮陣所
(同上、通し番号「五二三」)

宛先が「陣所」となっているので、弘詮はなおも、九州の地でどこかの紛争を鎮定していたものと思われる(つぎに述べる)。まずはここで、弘護遺児たちの家督が安堵されている。そして、「後見」についてだが、これも残された書状から、事情が知れている。

大内政弘書状写(萩藩閥閲録差出原本宇野与一右衛門)
從京都 公方家被成 御教書、陶可差上之旨厳重之事二候、三郎幼稚候条、御手前事彼方名代二早速被致上洛候者可為本望候、城守警之儀者胤世可被申談候、委曲青越二申含候、
謹言、
(年未詳)
正月二日
政弘
右田弘詮 陣所
尚〳〵とかく多人数無用にて候、第一箱崎無心元候、大勢者可有遠慮候〳〵、以上、
(同上、通し番号「八一〇」)

京都の将軍(この時は義尚)から陶家に上洛の要請があった。当然武働きを求めるものであろう。ところが、当主の三郎(武護)はまだ幼少なので、弘詮が名代としてかわりに務めを果たして欲しい、というのである。これまた、宛先が「陣所」であり、加えて、城の守りを代行させるものを指名していたり、筥崎のことが心配なので上洛のために大人数を割いて九州を手薄にしないように、と但し書きがあるから、上の弘護の死を悼む書状とあわせ、弘詮が出陣中であったことは疑いない。

この「上洛要請」の書状は「年未詳」となっていて、いつのことなのかじつはわからないのだけれど、弘護死後、間もない頃のことだろう。弘護・弘詮兄弟の活躍もあって主・政弘は留守中分国を荒らした凶徒どもを討伐し、九州を平定したものの、大内氏の統治に不服で騒乱を起こすものが絶えない地であった。兄からの譲りを受けたとはいえ、この地のことを任されるというのは、相当の重責であり、弘詮はそれに堪えうる兄に負けず劣らぬ名将であったといえる。

なお、将軍家の命に従って上洛し、そこでも活躍したことは「系図」に書いてある。「大内政弘為名代陶氏可上洛之旨有将軍家御教書依之弘詮暫称 陶氏改兵庫頭帥軍上洛数励勲功将軍家吹挙叙従五位下位下其後又於筑前国征賊徒」。

お詫び

この記事はこれ以下、現在リライト中です。しばらくお待ちくださいませ。特に、文芸関係のことをまとめている最中です。

略年表

寛正六年十一月、父弘房から右田弘篤の遺領を授かる。

文明十年、兄・弘護に従い、九州で戦う。

七月廿九日、少弐の残党が所々に籠城していたのに自ら急ぎ向かい、即時に撃破したことを政弘に報告した。 政弘はその返信の中で、弘護兄弟はともに年が若く、自ら行動し慌ただしいことである。今後は各方面の国人に判断させるよう。万が一思いがけないことがあったら、その異変を、ことに当家の安否を以ておしはかることなかれ、と言った。弘詮兄弟は政弘にこのように頼りにされていたのである。

十一年冬、兄・弘護に代り筑前守護代となった。のちゆえあって本氏に戻り、陶某と称した。
※年紀不詳。系図に、弘護が殺され、その子・三郎は幼かった。大内政弘に名代として上洛すべしという将軍家の御教書があり、弘詮はしばらく陶氏を称し、兵庫頭と改めて、兵を率いて上洛した。勲功に励んだので、将軍家が推挙して従五位下を授かり、のちに筑前国で賊徒を討った、とあり、ほかには所見がないけれども、本氏に戻った理由はこのようなことからであろう。 さて「しばらく陶氏を称し、兵庫頭と改め」というのは正しくない。 弘詮がそれ以来、陶某といっただけでなく、 その子・隆康も陶右馬允といっているではないか。

吉敷郡朝倉の地を領有していたので、朝倉とも称した。しかし、本領は長門国豊田郡であり、殿敷村の諏訪山を居城とした。

殿敷の近村楢原村に妙栄寺がある。弘詮は亡母・仁保氏の菩提のために、都濃郡富田に保安寺という寺を既に建立していたが、また建立した寺である。初めは矢田村にあり、のちに今の地に移った。妙栄は仁保氏の法名である。もとこの本領地の牌所は普済寺といい、臨済宗であったが、明応年間に断絶してしまった。そのことは妙栄寺の歴住略伝に詳しい。大武山の号について、全当院は昔の山号ではない。昔大武山普済寺があり、今に至るまで旧跡が存在している。すなわち和田孫右衛門の宅地である。南畔の川は普済寺川と言い、普済寺はもともと臨済宗であった。朝倉家の最初の牌所は寺領が矢田村で寄附されたのである。明応五六頃、住持景播が信心を失った後、寺家は断絶し、寺領と山林は先に治めていたものとあわせて、当山に寄附されたことは、墨付きも明白である。寄附状二件、 妙栄に附して寄せた事情も書かれ、文字の磨滅はあるがこれによって明らかである、とあって、その寄附状も現存している。明徳七年戊□□月廿八日兵庫頭弘詮とある。

永正十四年、所帯を子・隆康に譲った。

十□年、 安房守となる。瑠璃光寺所蔵拈頌集奥書には、永正十五年戊寅四月十日兵庫頭弘詮とあって、十六年三月の文書では安房守るとある。それゆえ、この間のことである。

死去した年月日は不詳。系図には大永三年癸未十月廿四日、筑前筥崎で亡くなった、とある。ほかには所見がない。

法名:鳳梧真幻昌瑞。生存中から名乗っていた(瑠璃光寺所蔵教授文奥書)。

系図には真幻の二字がない。教授文は弘詮が納めたもの。奥書に、

右教授文勁岩和尚尊命奉調進畢、陶兵庫頭多々良弘詮、鳳梧真幻昌瑞欽誌之、永正十一年甲戌十月八日

とあり、また上に引用した拈頌集の跋に、鳳梧の壺形印、昌端の方印を捺し、題箋に真幻の円印を捺している。

男女二子があり、息子は隆康、娘は甥・興房の妻となった。

 

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻十八「親族」、『戦国遺文 大内家編』、『山口県史 史料編 中世』

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三男

我が妻は叔父上の娘御、つまり、我らは従姉弟(もしくは従兄妹)どうしである。

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鶴ちゃん

だから父上と従兄弟どうし(父親どうしが兄弟)であると同時に、義兄弟(妻の兄弟)なのですね……。

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三男

それゆえに……そなたと、我が息子とも従兄弟どうしということになるのだ。

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鶴千代

……。

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ミル@周防山口館

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