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正福寺(山口市小郡)

2023年12月3日

正福寺・観音堂(2)

山口県山口市小郡下郷の正福寺とは?

大内弘世が開基で、大内氏の祈願所だった寺院ということです。しかしながら、そうと記した由緒看板の類は見付けられず、確認はできません。観音堂に山口市指定文化財となっている観音像が安置されていますが、秘仏ゆえご開帳を待つ必要があります。観音像は行基作との言い伝えがありましたが、現在は平安時代の作品であることが分っています。元の所蔵寺院が土石流で倒壊した際に、像も流されて観福寺に拾われ観音堂を造って安置していましたが、維持管理が難しくなり、その後は転々と場所を変えて、明治時代の終わりに当寺院に落ち着きました。

正福寺(山口市小郡)・基本情報

所在地 〒754-0002 山口市小郡下郷 2757
山号・寺号・本尊 東明山・正福寺・
宗派 曹洞宗

正福寺(山口市小郡)・歴史

正福寺は一箇所ではない

『山口県寺院沿革史』には、およそつぎのようなことが書かれています。

「元和二年(1616)の創建で(言い伝えによれば、もとは薬師堂の跡地だったという)、本堂を建立し上鄉仁保津多聞寺第五世・陽峰慈覃を招いて開山とした。規外栄匡大和尚を第二世、中興とする( 宝永元年七月二十日逝去)。享保九年(1724)に、本堂を再建し同十二年(1727)に庫裡を増築した。それ以後、七十余年を経て、風雨のために柱の根元が朽ちてしまった。歴代住僧たちは再建したいと望んでいたが、財政的に無理だった。その頃、当地に住んでいた秋本源英、竹村長雄などといった人々が協議した結果、寛政十一年(1799)正月二十日より工事を開始し、三月二十一日に完成した。現在の本堂がそれで、以来十七世代を重ねて今日に至る。

本堂:七間ー六間、庫裡:五間ー三間、観音堂:二間半ー三間

寺宝 本尊・薬師如来木像御丈二尺二十年ごとに開帳、作者不明」

協議した結果云々というのは、恐らく地元の方々がお金を出し合ったのでしょう。

ここまでをお読みした限りでは、当寺院は江戸時代の創建であり、大内氏はとうに跡形もなくなっている時代のお話なので、何ら関係がない、となります。しかし、そうは簡単に判断できない部分もあります。

ややこしいことには、正福寺という寺院は、複数存在しております。『沿革史』にも、大内弘世が「正福寺」を建立したと書いてあり(後述)、『大内文化研究要覧』にも、開基が大内弘世、大内氏の祈願所であったとして、小郡の正福寺(つまりこちらの寺院さまと思われます)を紹介しておられます。

ところが、のちほど改めて項目を立ててご紹介する予定の、嘉川の浄福寺さま。こちらが、一時期「正福寺」と名乗っておられました。寺号を改めるようにとのお達しがあったためで、改号は享保元年のことです。『沿革史』を見る限り、本項目の正福寺は享保九年に本堂を再建しています。この時点で廃れていたゆえ、他の寺院さまに寺号が引き継がれたかのようにも見えますが、伽藍が経年劣化により朽ちてきたから再建したい、けどお金がないからできない云々となったのは、それよりも七十年後のことです。ということは、正福寺という同名の寺院が二つ存在していたということになり、なにゆえ、浄福寺さま(改名前は別の名前、現在の寺号は明治時代以後のもの)が正福寺と名乗れと命令されたのかわかりませんよね。

ちなみにですが、現在の浄福寺さま(元正福寺)も、『大内文化研究要覧』に掲載されている「ゆかりの寺院」でして、やはり大内氏の祈願所でした。ということはですよ、弘世が建てた正福寺も、一時期正福寺と改号していた現在の浄福寺さまも、ともにゆかりの寺院ということになります。じゃあ、江戸時代創建って書いてあるのは何なんだ? 大内氏滅亡後に建てられた寺院ではないのか、となりますけれど、『研究要覧』が誤っているはずはない以上、現在の寺院が江戸時代に再興された弘世創建の正福寺、ということになりましょうか。『沿革史』にはその旨、書かれていませんけれども。

ですけど。寺院さまのお名前って、あまりバリエーション豊富ではないみたいでして、似たような名前になることが多いです。試しに「正福寺」と検索してみてくださいませ。あまりにも数が多いため、検索エンジンは位置情報を要求してくるはずです。普通は、最寄りの寺院を探しているのだろうと判断されますからね。というようなことから、万が一、小郡にほかにも正福寺があったら大変ですが、調べたところ一つしかないようです。つまりは、『研究要覧』がゆかりの寺院と書いておられる以上、ここは紛れもなくゆかりの寺院であるはずです。

さらにです、観音堂の変遷についても、ややこしいことになります。本項目の正福寺さまに観音堂が移転してきたのは、明治時代の終わり頃です。

観音堂の変遷

「観音堂の由来を遡ると、大内弘世が長門・石見を領有し館を山口に移した時、鬼門除けのために五福寺を建立して祈願所とした。すなわち、上鄉仁保津の永福寺、山手の善福寺、宗福寺、観福寺、出合の正福寺等がそれにあたるという。永福寺は初め真言宗であったのを、のちに禅昌寺玉峰玄台和尚が再興して、曹洞宗に改宗。寺号も多聞寺と改め今も小郡町上鄉仁保津にある。善福寺は今わずかにその跡地が残るのみ。宗福寺は、いつの頃にか曹洞宗に改宗して、明治初年に大島郡地家室に移転した。正福寺は、明治初年に、浄誓寺と合併して寺号を浄福寺と改め、今も真言宗寺院として、嘉川村にある。観福寺は、観音堂(豊浦郡川棚村妙青寺持)が瀧部山・観福寺の旧跡である。文化四年(1807)の由来記によれば、本尊は聖観世音菩薩(行基の作)で、真言宗寺院。寺号を寛福寺といい、下鄉山手村瀧ヶ迫という所にあり、今も寺跡がある。

大内弘世は長門守護・厚東義武を討ち、長門・石見を統治するにおよび、山口に館を造営した。正平十八年(1364)、瀧源山に(源は辺が正しいかもしれない)鬼門除け及び祈願所として真言宗・寛福寺を建立し寺領五百石を与えたという。塔頭が七ヶ寺( 五ヶ寺とも) もあったらしい。大内氏の滅亡後、寛福寺は大破した。元和二年の頃、土石流によって伽藍が流されて倒壊。観音像が山手村に流されてきて、大木に懸かっていたのを(あるいは字法寿庵へ流されてきて、楠木に懸かっていた、とも)、観福寺の観音堂に安置したという。観音堂の棟柱には「四年子三月七日」と記され、その上端がない(再利用の時、切捨てたのだろうか)ため、年号が分らないのだが、天正四年(1576)以後では、寛政四年(1792)が子年なので、恐くはこれだろうか(そのわけは、今の堂はもと毘沙門堂で、観音堂はやや麓にあるとか) 。

本尊・聖観音菩薩:立像、御丈二尺八寸五分、脇立・不動明王、毘沙門天王:各御丈一尺五寸五分。三躰ともに行基の作と伝えられる。須弥壇の裏に応永三十一甲辰年(1424)正月十一日大願主辨宥外云々と記されているので、本尊がこれより以前の作であることは間違いない。霊験は日々あらたかであるという。

明治以前は十余年ごとのご開帳であった。明和七年、天明八年、文化六年、天保十三年、文久元年、明治三十五年に開帳したという。観福寺の旧跡は寛延二年六月、寺院の建築を許されたが、その堂宇は二間四面に過ぎぬ萱葺で堂守もなく、統廃合の災難を免れなかった。信徒がこの事態を深く憂いていたところ、東津正福寺の鑑司・宮脇至雄師がこのことを聞いて同情し、同寺の境内に移そうと計画し、信徒は大いに喜び同意した。ゆえに、本寺の許しを得、役所もまたこれを承認したから、当寺院内に堂宇二間半ー三間を建立して、移転したのである。」

※「今」とあるのは、すべてこの本が書かれた昭和初期を指していますので、現在の姿とはかわっている可能性があります。( )はすべて筆者の先生が書かれたもので、執筆者の但書ではありません。

ナニコレ意味分かんないし、って感じですが、原文は文語文つまり古文でして、マジ意味わかりません。ゆえに、「おおよそつぎのような」として、引用符もないのです。

現地案内看板をお読みすればスッキリ分ることなのですが、『寺院沿革史』は優れたご本なので、常に身の丈に合わない読解を試みております。

文化財案内看板に書かれていたことをまとめると以下のようになります。

一、聖観音菩薩立像は行基の作と言われてきたが、平安時代のものとわかった
二、土石流によって流されてきた観音像が木に引っかかっていたのを拾い、観福寺跡の観音堂に安置した
三、この観福寺というのは、大内氏時代に建てられた大寺院だった
四、その後もあれこれと変遷し、明治時代に現在地である正福寺に落ち着いた

というような感じでして、看板には大内弘世が建てたという、寛福寺なる寺院については触れられていません。現状、この寺院については未調査ですが、観音像は「流されてきた」のですから、当然流出元があったと考えられます。つまりは、元々は寛福寺にあった観音像だったということですね(多分)。

最新研究の成果である、現地案内看板には、観音堂の変遷について以下のように記されております。

「嘉川の正福寺(今の浄福寺)、 豊浦郡川棚の禅宗妙青寺等を経て、明治の終わり社寺整理の際、この正福寺境内に移して供養することになりました」

つまり、『沿革史』にある正福寺が観福寺から観音堂を引き取った云々のお話は、本項目の正福寺さまではなく、当時正福寺と名乗っていた現在の浄福寺さまのことでしょう。

ぶっちゃけ、こちらは観音堂が有名な寺院さま、その一点に尽きます。創建が江戸時代とすれば、大内氏との接点はあまりないように思えます。しかしながら、『沿革史』の由来沿革は、弘世創建の正福寺を、江戸時代に寺号を改めたゆえに正福寺となった現浄福寺と混同するなど曖昧な部分もあり、出典とするには疑問符です。元々は弘世開基、大内氏祈願所の一つだった同名寺院があったことは事実のようですから、その歴史を引き継いで再興されたのではないか。いわば、新生・正福寺さまとでもお呼びすべき寺院さまなのでは? と考えています。

正福寺(山口市小郡)・みどころ

山口市の指定文化財となっている観音像がみどころですが、秘仏ゆえ、当然のことながら、見ることはできません。偶然にもご開帳に合せて参詣できることを願うのみです。伽藍そのほかの建築物には取り立てて文化財指定となっているものはございませんが、むろん、寺院さまの存在意義は文化財のあるなしとは無関係です。

観音堂

正福寺・観音堂

観音像の安置場所があれこれと変遷しており、まことにややこしいのですが、最終的にこちらに落ち着きました。明治時代の寺社整理の時です。真新しくて立派な観音堂は、明治時代よりは遡らない建立と思われますし、肝心の観音像は秘仏ゆえ見ることができませんので、観音堂の堂宇を見て、お参りして終わりです。

本堂

正福寺・本堂

ご本堂も立派です。左手のほうに墓地が見えています。地元の皆さまに広く信仰されていることがわかりますね。

正福寺(山口市小郡)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒754-0002 山口市小郡下郷 2757

アクセス

最寄り駅は周防下郷と思われます。歩いていないので分りませんが、地図で見た限りではそうです。

参考文献:『山口県寺院沿革史』、『大内文化研究要覧』

正福寺(山口市小郡)について:まとめ & 感想

正福寺(山口市小郡)・まとめ

  1. 『山口県寺院沿革史』は、江戸時代に創建されたとする
  2. しかし、かつて大内弘世が創建した同名寺院が存在し、それを引き継いでいるものと推測する(『大内文化研究要覧』に、弘世開基、大内氏祈願所との記述がある)
  3. 大内弘世創建で、大内氏の祈願所だった観福寺は、土石流によって流されてきた観音像を拾い、観音堂を造って安置した
  4. しかしながら、観福寺は大内氏滅亡後は廃れてしまっていたため、正福寺(のちの浄福寺)がこれを引き取った
  5. 観音堂を引き取った正福寺は現在「浄福寺」となっており、この寺院とは別の寺院
  6. 観音堂は、正福寺(現浄福寺)、妙青寺など引き取り手を替えながら変遷。明治時代末の寺社整理に際して、現在の正福寺境内に落ち着いた

疲れすぎてわけわかりません。これまた寺社の変遷がややこしい、というお話です。じつは『山口市史』に、寺社の変遷を詳しく示した図が載っていたはずで、それをお読みすれば、謎は氷解すると思われますが。『寺院沿革史』は昭和初期の発刊で、明治時代末に正福寺に移った観音堂のことも、きちんと明記されています。

にも関わらず、弘世創建の正福寺と江戸時代に一時的に正福寺と改名していた現在の浄福寺を同じ寺院扱いとするなど、もはや書いている先生も混乱なさっているかのように思われます。先生は寺院さまから提出されてきた資料を基にまとめておいでなので、資料に問題があったのかも知れないですし。そもそも、神社なんて、「古すぎて由緒は不明」ってよくあるじゃないですか。でもね、弘世期に創建され、恐らくは大内氏滅亡までは存続していたと考えられる寺院となれば、それなり新しい部類に入りますので、「古すぎて」という言い訳は通じませんよね。

そもそも、寺院さまは江戸時代に建てられたというのが真実で、大内氏とは縁もゆかりもないのかも知れません。観音堂とて、弘世期に建てられた観福寺はすでに落ちぶれ果てていたのに、たまたま流れて来た観音を拾ったというだけで。維持できなくてその後も転々と場所を変えたわけですし。でもって、観音像が行基の作ではないということは、『寺院沿革史』の時代には分らなかった最新の研究成果かと思われますが、平安時代の作となれば(平安時代のいつ頃かわからんけど)、大内氏ゆかりの寺院にそこそこあったりしますから、そこに繋がりがあるかもですが。流出元となった寛福寺なる寺院も、大内弘世が創建したということについて語っているのは『沿革史』だけなので、何とも言えません。七つも塔頭があったってものすごい大伽藍なので、ほかでも話題になってしかるべきと思いますが……(書いている人が知らないだけかもね)。

文化財案内看板だけ見て帰ってきた、みたいになりました。後、観音堂と本堂という「うつわもの」だけを。寺院さまは綺麗で手入れも行き届いており、とても感じがよいところでした。ただし、観光客ゾロゾロという雰囲気ではないです。むしろ、恥ずかしいので、ご開帳とやら以外は避けるべきかもしれません。

こんな方におすすめ

  • 秘仏のある寺院のご開帳を待っている方(つぎいつなのか知りませんけど)
  • 中に貴重な仏像があるのなら、堂宇だけでも見たい方

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像(涙)
五郎

結局なんなのか、さっぱりわからなかったね。

ミル吹き出し用イメージ画像
ミル

信じる者は救われるよ。きっとゆかりのある寺院が再興されたものかと。

五郎イメージ画像(背景あり)
五郎とミルの部屋

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
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