歴代当主

大内弘幸 影薄い当主から南朝転向で一発逆転

2024年9月3日

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大内弘幸とは?

大内氏第二十三代当主で、大内弘世の父。弘幸代、一族(叔父)の鷲頭長弘が大内氏の代表のようになって、南北朝の動乱期には、北朝の周防守護に任命されるなど、すべてを掠われて何も出来なかったようなイメージが強い。しかし、実際にはそんなことはなく、それ以降の歴代当主同様、寺社の建立や再建など、当主の務めはきちんと果たしておられる。

年長者である長弘を立てたこと、単純に軍事的なことは任せていたこと(弘幸の体調に問題があったとする説もある)などで多少影が薄くなってしまった感は否めないが。時は南北朝の動乱期に差し掛かろうという時代、軍事的に功績をあげた者が高く評価されるのは当然。それゆえに、外部の者(幕府、足利尊氏)からは、長弘がこの家の代表者のように見えてしまったのだろう。

立場を変えれば見方も変る。大内(鷲頭)長弘が実力者であったことは事実だろう。ただし、それを以て、弘幸を何の力もない無能な人物であったと見るのは早急である。

大内弘幸の基本データ

生没年 ?~13520306
父 大内重弘
官位等 大内介、周防権介、正六位上
法名 永興寺殿寒巌妙巌大禅定門
墓地等 古熊猿林永興寺跡地に五輪塔
(出典:『大内文化研究要覧』)

一般的には無視される弘世以前の当主

ここに、大前提として、『日本史広事典』やら室町時代人物○○の類の本に至るまで、大内氏について書かれた専門のご研究の本以外には、弘世以前の当主の項目は「ない」。ひっくりまとめて「大内氏」という項目の中に組み込まれ、始祖が琳聖なる渡来系人物であると自称していること、南北朝の動乱期を上手く渡り歩いて後に西国の大大名にまでなったことが、数行にまとめられているだけ。

『室町時代人名辞典』なる書物に、大内長弘が載っていたのは、極めてレアなケースだと思われる。ただし、情報はまったく足りない。そこで、『大内氏実録』だの『大内氏史研究』だのの難解な本から該当部分を拾い出す作業が生じる。しかし、偉大なる先達のご本も今となっては時代が古すぎる嫌いがあり、現在進行形の研究者の方々がお書きになった本からの抜き出しのほうがよい気もする。

あとは単純に、大内弘世の代に全国区で有名となった勢力なので、それ以前については史料が極端に少ないことも災いしているのだろう。本人たちが残していたかもしれない記録は、滅亡とともに失われた可能性も高い。

時代が古くなるほど残された手がかりが少ないのは理解できるけれど、じゃあなんで、弘幸についての記述はほぼない本にも、鷲頭長弘は載っているの? という疑問についての答えは、彼のほうが足利一門との関わりが強かったためと答えておく。

さすがに将軍家の記録は多く残されているので、弘幸にかわり軍事面で足利尊氏を支えて功績のあった鷲頭長弘についての記述が多く見られるのは当然と言えば当然。

弘幸と鷲頭長弘の関係

鷲頭長弘こと大内長弘は、二十一代当主・弘家の子で、二十二代当主・重弘の弟である。弘幸は重弘の子で、長弘は父の弟、つまりは叔父ということになる。この辺りになると、生没年の記録も少ないので(没年は比較的分る)、重弘と長弘の年齢差がどのくらいあったのか、弘幸よりどのくらい年長だったのか、なども不明。

弘幸が当主となったときまだ幼くて、叔父として長弘が後見していたのかもしれないし、二人は同年代で叔父・甥というよりも、兄弟のような関係であったかも知れない。要するに、よく分らないのである。手がかりが少ないと、推測(素人の場合は想像)するのも難しくなる。

そもそも弘幸は当主だったのか

タイトルにぎょっとするかも知れないが、兄弟相続というのは普通にあった。古代史の天皇家など、何時の頃からか相続は父から子どもとなるが、初期はほぼほぼ兄弟間で相続している。古代まで遡らずとも、跡継が幼すぎるといった理由で、家督が兄弟にいくことは中世以降の武家でも普通にあった(近世は知りませんよ)。

さらに理解を複雑にしているのは、惣領制と分割相続の問題。なぜなら、受験参考書類の定番で、鎌倉幕府の御家人たちが困窮していった背景に「分割相続」のことが出てくるから。分割相続は、文字通り、すべての財産を子らに分け与えること。この相続方法を続けていけば、世代が下がるにつれて、子らの取り分は少なくなっていく。最終的には、これっぽちをもらったところで、生活していけないレベルにまで落ち込む。ゆえに、分割相続では立ちゆかなくなり、次第に単独相続へと変化していったというもの。

次に「惣領制」。鎌倉幕府の御家人たちは、将軍から土地(の管理権=地頭職など)を安堵してもらうかわりに、幕府のためにお勤めしなくてはならなかった。いわゆる「ご御と奉公」とかいうもの。そんなとき、命令は「惣領」というその一族の代表者に伝えられ、一族のメンバーはその差配に従う。平穏時は単にそれだけだが、例えば、何らかの不満があって、幕府に叛旗を翻す、などという際にも、一族全員が惣領の命令に従った。すると、叛乱を起こせば、勝てる見込みなどまずはないので、一族全員が滅亡とあいなる。この制度もやがて廃れていき、一族だから惣領に従うというよりも地域的な横の繋がりのほうが大切にされるようになっていった、と(横の繋がりって何だろうね)。

教科書などにそう書いてあると、真面目な読者(生徒)はそのまま覚えてしまう。むろん、教科書に嘘は書いていないが、分割相続から単独相続への移行、惣領制の崩壊といった流れは本日より開始します、といって全国一斉に開始されるものではない。地域差や家ごとにその浸透度合いも違う。東国のほうが単独相続への移行が早く進み、西国は遅れていたと書かれているご研究があった(一般読者用通史)。それによれば、明徳の乱の頃、未だに分割相続から単独相続への過渡期だったというから、驚きである。

惣領制の崩壊については、もっと難解。応仁の乱の頃には、さすがに単独相続が浸透していたと思われる。それゆえに、惣領となりすべてを手にするか、なれずに何一つ手にできないか、ということが常に争いの種となっていた。その意味では「惣領」という地位も、名前も未だに健在であった模様で、何が崩壊したのだろう、となる。大内氏にあてはめれば、歴代当主が「惣領」で、その地位をめぐって毎度毎度争いが起こっていた。いったん争いに発展すれば、勝利するか死かという恐ろしい事態となり、どれだけの血が流れたかわからない。

さて、弘幸や長弘の頃は鎌倉時代の末期。子孫繁栄して当主の子らは分家を立てて独立していったことからも、分割相続だったんだろうなぁと思うけれど、あまりに初歩的な疑問すぎるゆえにか、敢えて書いてくださっているご本はない。

父・弘家から自らの取り分をもらう権利があったであろう長弘は、長男ではなく跡継にはなれないゆえにか、「大内」を出て、尼御前で途絶えてしまった「鷲頭」の家に入る。跡継がなければ、その家は途絶えてしまうから、普通の流れ。ただ、単に当主の弟として、兄を助けるだけの身分ではなく、同じく協力するにしても、分家の「当主」としての立場。何となく聞こえがいいような気がする。

ここでたまに問題になるのが、弘幸の家は本当に惣領だったのか、ということ。系図にも書いてあるし、当然そうなのでは? と思うけれど、妙見社の本家本元が鷲頭家の牙城・現在の下松の辺りにあったことから、こっちが正統だったのでは? という思考らしい。実際、単純に弘幸が惣領家だったのに、分家の鷲頭家が大きな顔をしていたとはとらえず、「長弘流」と「弘幸流」などと両者を呼び分けて、同等に扱っておられるご研究もあった。そして、最終的に「弘幸流」が正統となったのだ、と。

研究者の先生の数だけ様々なご意見がある、ということですね。最近は系図通りに弘世の系統が惣領で、長弘はある時期惣領顔していただけであるようなことになっているらしく、当主の世代順も重弘 ⇒ 弘幸 ⇒ 弘世で落ち着いているようだ。

鷲頭長弘の専横

個人的に、長弘さんが特に悪い人とも思わないので、この見出しはちょっと気が引ける。下松の皆さんに嫌われたら悲しいし。実力ある者が家をリードする、というのは至極当然な流れと思うので。のちには、我こそはと名乗りをあげて、ひとつしかない当主の座をめぐって争った兄弟たちが後を絶たなかったのだから、長弘も実力で「当主面」を勝ち取ったようにも見える。北朝から周防守護を任せられた時点で、第三者からの評価ながら、我こそがこの家の正統な当主である、という既成事実を作ったのかもしれない。

では、弘幸はこのような事態を単に手をこまねいて見ていただけで、なにもしなかったのか。長弘は北朝方について目立った武働きのパフォーマンスをしただけで、いとも容易く守護職を得、弘幸方との内部抗争のような出来事は一切なかったのか。それらについて見て行く。

弘幸は当主としての務めを果たし得なかった説

弘幸の人物如何と見るに、近藤説の如く、俊傑でも英雄でもなく、興国二年敵方一族代官の為に、大内家崇敬無双の霊砌氷上山興隆寺に放火されて、寺門の復興について、悲痛なる書状を衆徒に与えながら、その敵党を誅罰するの意気と実力を欠ぐ如き凡庸の主であり、かつ、疑えば、体質的にも弱点があったのではないかと思われ、建武元年には年歯十才になる長男弘世統率して、探題軍に従軍するとか、或いは、また、これを討伐するとかいう軍事的活躍に不適任者であったと見るの外はないであろう。そこで、同族中の長老で材幹のあった豊前守長弘が大内家の大勢力を代表して立ち、建武の中興に 当って、庶族でありながら、周防守護に補したのである。
出典:『大内氏史研究』

これは、今となってはやや古くなってしまったものの、未だに大内氏研究の必読文献に挙げられている『大内氏史研究』による「弘幸像」。冒頭に「近藤説の如く」とあるから、同じく必読文献である『大内氏実録』をお書きになった近藤清石先生も同意見と思われる。

「庶族でありながら」と書かれているので、本当は鷲頭家のほうが本家なのではという考えはまったくお持ちでなかったこともわかる。さすれば、この説はその後出てきたものなのだろうか? この時点で否定された古い説であるのなら、批判されていそうなものだが、どこにもそのような記述はなかった。

弘幸が凡庸な人物であったかどうかは別として、「体質的にも弱点があったのではないかと思われ」家をまとめていく力がなかったという考え方は十分にあり得る。ほかの家でも、病弱な当主が身内に支えられて何とか持ち堪えていたという例は少なくないからだ。ただ、この引用部分を見る限りでは、軍事的な行動を取るのに支障があったというだけで、普通に政務を執る能力までないほどの重症とは思えない。

実際、弘幸代にも彼の当主としての功績は少なからず認められており(後述)、凡庸とか無能という話ではないだろう。ただし、時代はそれこそ倒幕から南北朝の動乱期にあたる頃で、戦闘続きだったから、軍事的活動に従事し得ないというのは致命的ではあったろう。「軍事的活躍に不適任者であった」というご推測に尽きると思われる。

ちなみにだが、『大内氏実録』では、弘幸について、ほんのわずかな記述しかない。その中に、以下の文が含まれている。

 建武二年(1335)乙亥冬十一月十二月、弘幸は足利氏に友好を申し入れた

 延元元年(1336)丙子春二月、叔父・豊前守長弘が周防守護代に任命された
(※原文ともに文語文、西暦は執筆者が追記)

これを見る限り、一族を代表して足利尊氏に「友好を申し入れた」のは、惣領としての弘幸だった。けれども、武家方から守護職を与えられたのは、叔父である長弘だった、というようになろうかと思うがいかがであろう。しかし、よく見てみると「守護代」とあるので、は? となる。誤植なのか、この時点では「代」がついていたのか、どうなのだろう。

氏寺興隆寺放火事件

同じ引用文に、「氷上山興隆寺に放火されて、寺門の復興について、悲痛なる書状を衆徒に与えながら、その敵党を誅罰するの意気と実力を欠ぐ」云々とある。寺院が火災に遭い、伽藍を焼失するなど頻繁に起こり得ることだが、「放火」とか「敵党」とか「誅罰」などという記述は物騒である。

この「放火事件」については『興隆寺文書』に記録があるので、史実とみて間違いない。暦応四年(1341)に「一族の代官某」による犯行で、興隆寺は悉く焼け落ちたという。「一族の代官某」とは何者で、同じ一族でありながら、氏寺に放火するとはいったい何のためなのだろうか。

『大内氏史研究』はじめ、諸研究によれば、この「一族の代官某」というのは鷲頭家にかかわる者であり、「長弘が大内氏一族の結合をなすところの信仰的中心を覆えさんとするの策謀」(『大内氏史研究』)であるという。恐らくは犯人が誰なのかも具体的に分っていたのではなかろうか。しかし、その者を処罰することすらできなかったことで、弘幸は「凡庸」扱いされてしまっている。

「悲痛なる書状を衆徒に与えながら」とあるのは、以下。

「当寺院内坊舎已下在家等、為敵方被放火候事、殊以驚入候、将又一端牢籠、返々痛敷事候、抑彼寺者当家崇敬無双之霊砌也、仍弥催興隆之思処、為彼一苗家鳳之代官等令炎滅之条、希代之凶悪也、宜任冥慮之条、不能費詞歟、所詮速令還住本跡、或搆要害、或結草坊、専晨昏行祈之勤、可被奉訪仏智哀涕之謂候也、依忽忙略之、恐々謹言、閏四月十五日、妙厳押字、氷上寺衆徒御中。」(『大内氏実録』、残念ながら、出典が単に『古文書』となっている)。

しかし、すぐに興隆寺の再建を命じ、造営料も寄進しているのだから、それでいいのではないかという気もする。そこここで戦闘が起こっている不安定な状況で、内輪揉めを起こすのも問題だ。分らないのは、鷲頭家がこのような嫌がらせに及んだ意図である。『大内氏史研究』に書かれている通りならば、自らもその一人である大内氏一族が篤く信仰している氏寺に放火する行為は、一族皆から総スカンを食らうだけであり、単に弘幸に嫌がらせをするにしてはリスクが大きすぎる。

鷲頭家の養子に入るまでは、彼もまた「大内」の人間だったわけだし、分家のひとつである以上、鷲頭家にとっても本家同様、氏寺は大切な場所ではないのか。唯一考えられることは、元々氏神・妙見社は鷲頭家の本拠となっている下松にあった。後から分霊して作られた興隆寺の妙見社よりも、本家本元のほうが格式が高いとして、そちらを一族の拠り所とさせる。そんなところか(個人的見解です)。あるいは、鷲頭家こそ嫡流説はこんなところから出てきたのかも知れない。

けれども、いかに「軍事的活躍に不適任」な弘幸といえども、叔父であり、一族の長老格でもあった長弘に一歩譲る形に甘んじていた寛容な弘幸といえども、さすがに興隆寺に放火された件については腹に据えかねたと見える。ここへ来て、大内家と鷲頭家は完全に断絶し、一族は分裂するに至った。

不適任者の逆襲

南朝に帰順し鷲頭家と断絶

鷲頭家が大内弘世によって討伐された時、鷲頭長弘も大内弘幸も、すでにこの世の人ではなかった。それゆえに、鷲頭家の専横が目に余るので討伐するために南朝に寝返ったのは、弘世の策略であり、その成功も彼ひとりの功績に帰属するように書いてあることが多い。執筆者もそう思っていた。しかし、弘世が南朝に帰属したと書かれている時期、弘幸はまだ、辛うじて存命中だった。

むろん、弘世の提案に弘幸が同意しただけかもしれないが、それについては本人たちに尋ねることができない以上、不明といわざるを得ない。弘幸は前述のように体調が芳しくない状態が続いていたのかもしれないが、その命が尽きるまで、仁平寺落成供養の行事を執り行う準備に余念なかった。叔父はとにかく、息子にまで言いなりとは思えないし、仮に弘世からの提案であったとしても、父子ともども、よく話し合ってのことであろう。父が存命なのに、子が独断で何かを決定することはあり得ない。

その意味で、興隆寺に放火した一件の余波は非常に大きく、長弘が多々良一族の第一人者の地位を乗っ取ろうと謀った計画は実現しないどころか、手にしていたすべてを失うことになった。本人の存命中ではなく、遺児である弘直がその犠牲となってしまったのは、気の毒な話である。しかし、本人はそれを知ることなく旅立った。

弘幸も同様で、漸く鷲頭家からすべてを取り戻そうと決意したものの、それが成功したのは彼の死後のことであった。

軍事的には無理でも文芸面で活躍

最後に、弘幸の当主としての功績をおさらいしておく。武働きができなかったのか、させてもらえなかったのかは別として、軍事的な面はすべて叔父の長弘が牛耳っていたので、弘幸に目立った活躍はない。しかし、究極、当主は軍略に秀でた家臣に軍事面は任せてしまう行き方もあるので、これを以て「無能」呼ばわりは NG 。

そのかわり、寺社の建立だとか再建など、軍事的なこととは関係ないお仕事はきちんとこなしていらした。というよりも、記録として残っているのが、どうしても寺社関連の文書の記述などになってしまうため、一般の政務については不明というしかない。ただ、政務能力すらゼロの人に、寺社の建立や再建事業は無理であろう。

弘幸といえば、思い浮かぶのは永興寺。岩国にある永興寺のことを想像しているが、なぜか古熊にも同名の寺院があったという謎めいた寺院。いっぽう、父・重弘の代に初の臨済宗寺院・乗福寺が根幹地・大内の地に建てられて、大いなる発展を遂げていく。禅宗が花盛りとなり、五山僧との交流が活発となる。まだまだその第一歩を踏み出した程度とはいえ、その傾向は子・弘世代にも続くので、弘幸の代だけ抜け落ちているはずはない。だいたい、そうならば、永興寺の建立もないだろう。

弘幸代の寺社事業

1309 永興寺(岩国)創建
1325 虎関師錬、乗福寺の鐘に銘文
1334 後醍醐天皇、乗福寺を勅願寺にする
※乗福寺は、1336年に「北朝」からも勅願寺とされているが、これは鷲頭長弘守護補任の年のことなので除く
1335 玉祖神社を再建
1341 放火され焼失した興隆寺の再建を命じる
1344 興隆寺に造営料を寄進
1349 興隆寺本堂再建
1352 仁平寺落成供養、山王社にて法楽舞
※弘幸は仁平寺落成供養会の最中に亡くなったため、その後は息子・弘世に引き継がれて挙行された
参照:『大内文化研究要覧』

菩提寺と墓所

1352年、仁平寺の落成供養会の最中に、弘幸は亡くなった。その前年、1351年に、南朝への帰属。鷲頭家打倒を決断したばかりであり、供養会も挙行途中であった。ともにこれからやるべきことがはっきりとしていただけに、中途で世を去ることになったのは、無念いかばかりであったろうか。

しかし、弘世が鷲頭家を倒してくれることを信じ、我が息子にはそれだけの器量があることを知っていただけに、思い残すことはなかったかもしれない。

弘世は父の死という悲しみを堪えて、供養会を盛大に完遂し、また、父の遺志を継いでみごと鷲頭家を倒し、惣領の実権を取り戻したのだった。

弘幸は古熊の永興寺に葬られたとある。永興寺は古熊と岩国の二箇所にあるとされていて、古熊のほうに葬ったことになる。実際に、弘幸の墓碑といわれているものは古熊の地に存在するが、この地には元永福寺という寺院があった(現在は移転している)。永興寺が永福寺と名を変えたものか、その辺りとても複雑な事情があり、なかなかに難解。寺院の名前が変れば法名もかわるのか、弘幸の法名は永福寺殿とすることもある。

なお、岩国の永興寺はいったん解体されて、その後再建されているため、寺地などとても狭くなってしまっているが、なおも同地に存続している。なにゆえ、岩国と古熊二箇所に同じ永興寺があったのかは永遠の謎だが、いったん廃寺となったのは、近世になって吉川広家が城下町を造る際、邪魔となったから(悪口として言っていません。広家公尊敬してるんですから)。町づくりが一段落し次第再建されたが、そちらの永興寺に墓所があるより、古熊のほうでよかった。何となく。墓所は人気なく幽玄な趣。岩国の町は美しいが、観光客の皆さんで溢れているので、静かな眠りの妨げになる、そんな気がした。

また、岩国永興寺の創建年代は、大内の乗福寺より遅いと考えられ(理由は、乗福寺に、周防国最初の臨済宗寺院という扁額があるため)、様々な創建年代説があるがどれも乗福寺より早いので、残念ながら誤っていると思われる。

参照文献:『大内氏史研究』、『大内文化研究要覧』、『大内氏実録』

※この記事は、20240903 に、元々「ご先祖さまたち」としてまとめられていたものから、大内弘幸に関する項目を抽出し、大幅に加筆したものです。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
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