
『大内氏実録』では、宗家滅亡後、毛利家に仕えた方々を「帰順」と分類しております。なんとなく、裏切りじゃないのか……と感じたりするのですが、宗家の殿さまが叛乱家臣に追い出された挙げ句亡くなられたという経緯があったため、事情が複雑です。いかに毛利元就公が仁徳者であったとしても、どことなく侵略しているようにしか見えない側面もあるのですが。せいぜい「降伏」くらいに思っています。特に悪いことではないです。無駄死にはやめたほうがいいので。
現在『実録』の分類方法には問題があるのでは? と感じています。家臣は家臣としてまとめるべきかと。「義隆 ⇒ 義長 ⇒ 毛利家」と所属が変った方は大勢います。いわゆる「忠臣」なる人以外、普通の流れでは? 現代の感覚では、「忠臣」なる人々の思想のほうがついていけません。
一言で「投降」と言っても、即行でやると「裏切り」とか「内通」ですが、家滅んでしまったら、再就職先ないと食うに困ります。その意味で、山に籠もったり、帰農しなかった人は全員「投降者」となる運命です。気の毒なのは、投降したくてもさせてもらえなかった人たちですよ。そんなわけで、機械的に淡々と、古い本の分類に沿って区分けしてます。現在、新しい本も見ながら書き直していますので、すべて終えたら、このページは消滅します。リンク先でお楽しみください。
右田隆量
若山城が落ちた後、毛利元就からの勧めにより投降し、毛利家の山口入りを助けて功績甚大だった人です。身内なのに嫌なことです。隆俊はその息子。
右田隆俊
これらの人については、メインサイトの右田氏記事に書きました。
陶隆満
陶持長なる、右田弘詮の子らしいが、今ひとつ身分がはっきりしないことになっている人の息子です。少なくとも、毛利に投降したことは間違いないらしく、持長についてはっきりせずとも、隆満については分かっています。隆秋はその息子です。詳しくは、「陶持長」記事に書きました。
陶隆秋

杉隆相
単に父子共々毛利に降伏したというだけの人たち。ただし、子・長相のほうは歴史に名を残す大変な事件に巻き込まれてしまっています。これ、山口県側の史料的には抹殺されているか誤魔化されている可能性なきにしもあらずですが、現代はそういう「障り」がないため、書き放題です。詳細はメインサイトの杉氏記事に書いたため繰り返しません。降伏しなければよかったくらい、後悔したと思います。毛利の歴史も変った可能性あるね。
杉長相
毛利に降伏したは良かったが、毛利輝元に妻を奪われる悲劇に遭った。

内藤隆春
大内氏代々の重臣、内藤氏の一族。実の姉が義隆・養女として、毛利隆元に嫁いだ。元よりこの人物は最初から大内義長を認めず、何ら政権に手を貸さなかった。「帰順」というより、最初から毛利一味。⇒ 詳しくは本家サイトの「内藤氏」記事をご覧ください。

吉田興種
「はじめ左兵衛尉となり (享禄二年八月廿八日文書所見)平兵衛尉と称す。のち若狭守となる(『有名衆』、『家中覚書』、『保寧日記抄』)義隆に仕え、侍大将先手衆であり(『有名衆』)、奉行でもあった。国難の後は、義長に仕えた(『家中覚書』、天野隆良等が臨終書翰(書簡、てがみ)に、小原安芸守殿、青景越後守殿、吉田平兵衛尉殿、仁保右衛門大夫殿と書き記していたことから、これらの人々は国難のとき山口にいなかったものと考えられる。ところで、興種は当時、若狭守だったのに平兵衛尉と書いたのは旧名を思い浮かんだままに書いたのだろう)。
義長政権下でも、同じく奉行だった。のち毛利氏に仕えた(三浦仁保系譜は、隆在の実父を吉田若狭守元種としている。隆元の一字を賜わり、興種を元種と改めたのだろう)。永禄十二年十月二十日、吉敷郡仁保郷の高野原で自殺した(『保寧日記』)。
『保寧日記』によれば、永禄十二年十月十五日、大内輝弘が山口に攻入り、築山龍福寺に陣を置いた。火を放ったため、市中は灰燼と化した。輝弘は、二十四日には敗走し、防府で自害した。この時、山口の浪人衆が寺内に乱入し、什宝を奪おうとしたが、吉川元春次男・元棟の家臣・江田宮内らが来て寺院を守護したので、無事だったという。吉田若狭守が高野原で自害したと書かれているのは、輝弘に与党してこれらの狼藉に及んだからだと思われる。」
『大内氏実録 巻第十九 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
五郎この人いったい、何考えてんの? 毛利に降伏したのに、まだ未練があって大内輝弘に味方したのか、寺のお宝欲しかっただけなのか、わけわからない。
鶴千代この人物を「帰順」にいれることは微妙だな。大内だろうが毛利だろうが、どうでもいいという典型だ。元就公に帰順したのなら、大人しくしたがっていればよいのだ。
五郎感情論はどうあれ、俺もお前の考えに同感。コロコロ考え変えてどうすんの? 少なくとも『実録』引用の史料だけだと、「寺のお宝欲しさ」にしか読めないけど、書いた先生も依怙贔屓半端ないからなんとも言えないね。
小原隆言
「初名は隆名(天文十六年六月二日の文書に、初めて隆言と見える)、中務丞となる。のち安芸守(今山多聞寺奉加帳に、安芸守と見えるのが初出。この奉加帳巻末に天文十九年十月十二日と記されている)。義隆に仕え、侍大将先手衆だった(『有名衆』)。
天文九年八月、警固船の将として、伊予の中島に赴き、十三日、忽那島で戦った。天文十年六月十八日また伊予に赴き、 七月二十六日まで滞在して三島、 甘崎、岡村、能島、印島等で戦闘。天文十六年八月、義隆の命で以て安芸に赴く。この時、尼子軍が備後に援軍を派遣し、国境に在陣していた。賀茂郡志波にて毛利元就と話し合い、外部に出陣。十二月、外郡の大半が降伏し、尼子軍が帰国したので、報告のため山口に帰還。天文十七年毛利元就が義隆の依頼を受け、国衆を率いて備後国安那郡神辺の村尾城を攻撃した。この時、隆言が検使となった。
義隆が亡くなると、義長に仕えた(『家中覚書』)。のち毛利氏に降伏(『家中覚書』で、小原安芸守の次に小原四郎とある。隆言の子だろう。ところで、井上系譜に小原半左衛門尉元忠、永禄二年六月二日、小原左近の跡目を相続とある。左近は恐らく四郎のことであろう)。」
『大内氏実録 巻第十九 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
仁保隆慰
仁保氏については、メインサイトにまとめたので、以下の記事をご覧ください。

椙杜隆康
三善姓。「意見封事十二箇条」三善清行、京下りの輩・問注所執事三善康信の末裔、太田という者が玖珂郡椙杜に移住し、大内氏に属した。⇒ 本家サイト椙杜氏の記事内に移しました。詳しくは以下をご覧ください。

こちらにも少し書いています。椙杜氏の居城「蓮華山」の記事です。
小方隆忠
「のち元康と改名(帰順ののち、隆元の隆字を避けて、その偏名を求め元康としたものと思われる)、幼名源二郎。
義隆に仕え、兵部丞になることを望み、享禄二年十二月十二日に推挙状を賜った。また父祖の受領名対馬守を継ぐことを望み、天文十六年五月十七 日、推挙状を賜った。
義隆が死去すると、義長に仕えた。弘治元年、毛利氏に投降した。
弘治元年十月十四日、毛利氏は鞍掛山城を攻めた。隆忠も従軍して城主・杉治部大夫隆泰を斬った。毛利彦次郎にあてがわれていた、玖珂本郷南方の内九十石の地を領したいと願い出た。閏十月一日、元就父子は隆泰を斬った功を褒め、望む所の地を知行すべき連署の書を与えた。晩年、 児玉三郎左衛門尉就忠の二男元信を養子として娘をめあわせた。子孫は今に続いている。」
『大内氏実録 巻第十九 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
始祖:長門入道。出自は不詳。
安芸国佐西郡小方村に居住し、地名を以て小方と称した。
長門入道 ⇒ 盛康(左衛門大夫) ⇒ 重康(七郎二郎、長門守、対馬守入道)⇒ 興康(対馬守)⇒ 隆忠
「本末二家あり、本家はただ享禄二年の推挙状を蔵するのみ。ところで、本末の系譜で隆忠の子の数が相違している。 本家の系譜では男女二子として、娘は元信の妻、男は某、太郎四郎、九兵衛、子孫不明とし、末家の譜では二男一女とし、長男某、喜兵衛尉、遺跡不明。女子元信妻。男某、太夫丸、遺跡不明とする。」
小方重康・興康父子
「義興に仕えた。晩年玖珂郡椙杜北方の内二十石、祖生郷の内十二石の地を興康に譲与した。しかし、のちにこのことを惜しみ、興康を不孝であるとしてその地を悔い返ししたいと願い出た。義興がその事を調べると、不孝とするべきところはなかったので、和睦するように命じた。重康は義興の命令に従うと答え、暇を請わずに所領地に還った。
興康は父の過失を老耄のせいであると哀謝して、また父に生涯かの地を自由にさせることを願い出た。義興は興康を褒めて望むに任せた。重康は永正十七年九月一日、かの地を隆忠に譲与した(譲与状、源二郎とあり、義隆の偏名を賜った年月不明)。大永三年四月十一日、これを許可された (興康はこれより先に死去したのだろう)。」
『大内氏実録 巻第十九 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
町野隆風
藤原姓。安房国、近江国、周防国と移動。叛乱者に与したが、毛利家臣となった。町野氏についても本家サイトにまとめ直しました。詳しくは以下をご参照ください。

大庭賢兼
「幼名不詳、図書允(『有名衆』、『家中覚書』。義隆に仕え、小奉行衆だった(『有名衆』)。義隆が亡くなると、義長に仕え、奉行となった(『家中覚書』)。毛利氏に降伏後、加賀守を受領。(弘治三年八月二十三日以後のことである)。
和歌をよくしたので、元就に気に入られた。元亀二年六月十四日、元就が亡くなると、賢兼は哀悼のために剃髪して宗分と法名した(真蹟)。子孫は今に続く。
大庭氏は本末合せて四家ある。
一、村岡忠通の子・鎌倉太郎景明より系って、古文書は伝わらない。
二、同忠通の子・鎌倉権頭景成を氏祖とし、庄司景房、平太権頭入道景義、小次郎景兼、刑部少輔盛景、平左衛門尉元景、平三郎若狭守景家、中務丞矩景、加賀守賢兼と続く。しかし、景兼が建暦二年和田合戦で討死してから盛景に至るまでのうち、文亀元年まで二百六十一間のことは不明。
盛景から賢兼まで五代が大内の家中であったことを記した古文書は伝わっている。その古文書は賢兼より以前のものについては、
義興が平左衛門尉元景に与えた文亀二年四月七日の領知證状
義隆が平三郎に与えた天文十一年八月四日の感状、同十三年九月二十二日の中務丞吹挙状、若狭守景家に与えた同十四年七月三日の領知証状、中務丞矩景に与えた同十六年六月十六日、父景家一跡相続の証状である。
盛景の名は文亀の領知証状中に見えるし、矩景以前は指摘する点はない。ただ、賢兼を矩景の子とすることについては裏付けがない。矩景は天文十三年までは幼名平三郎と称し、同十六年に父の遺跡をついだ。ゆえに『有名衆』は天文五年以後、十六年以前の記であるが、これに賢兼は図書允とあり、ことに小奉行につらなっているので矩景の子ではあるまい。 賢兼と矩景とは一族であり、 矩景の家が断絶して、その証文が賢兼の家に伝わって混乱してしまったのであろうと思う。よって、相良武任申条々中に、「大庭若狭守子、父若狭守に被仰付、可切腹由」とある若狭守は、矩景の父・景家が若狭守であったことから、これを継いだ矩景であるはずだ。」
『大内氏実録 巻第十九 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
白井賢胤
本氏は千葉、上総介忠常の遠裔白井越中守光胤の子・縫殿助膳胤の子である。白井氏については以下の記事です。

松原氏
ちすじは宇治関白頼通から出ている。古勢部を氏とし、代々宇治の小松原に居住した。
永享年間、木工頭兼氏が大内満弘の庶子・蔵人佐幸兼を女婿とし家を譲った。
大内持世が幸兼に周防の山代に三十五貫文の地を与えた。
刑部少輔末則(幸兼の子)が寛正五年三月に初めて山代に下向。七町の地を加えられた。
幸兼 ⇒ 末則 ⇒ 興詮 ⇒ 満氏
松原(古勢部)興詮
「古勢部末則の子。対馬守。古勢部氏を松原に改める。佐波郡に七町一段の地を領有した。
晩年剃髪して源知と号した。」
『大内氏実録 巻第十九 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
松原満氏
「興詮の子。刑部太郎と称した。
天文二十三年、父・興詮および子弟等を率いて毛利氏に降伏した。ただ弟・安定の子民部少輔安秀、叔父出雲守氏頼の子・新四郎光末および一族隠岐守守之、その子・隼人佐幸住、主税介武正は従わなかった。
満氏は折敷畑の戦いで宮川但馬隆重および杉田主水と槍を合わせた。
弘治元年三月、神田蔵人允等と山代兵三百余を率い、廿日市の桜尾に出陣して毛利隆元に 拝謁した。隆元はこれを労って太刀および馬を与えた。
永禄四年、七町四段の地を加えられた。同十月三日死去。行年七十 八歳であった。」
『大内氏実録 巻第十九 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
松原祐次
「主殿允。折敷畑の戦いで宮川勢の中村右衛門尉(山代の者で子孫は今に続く)を斬った。
弘治元年三月、父とともに隆元に拝謁した。
弘治元年閏十月晦日、元就父子の連署で山代の地安堵の書を賜った(神田蔵人允と連名)。
天正十二年九月二十三日死去。子孫は今に続く。」
『大内氏実録 巻第十九 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
松原安定
「はじめ左近将監、のち土佐守となった。満氏の四弟である。
折敷畑の戦いで江木筑前守と槍を合わせた。分捕の功があり感状を賜った。
天正十三年五月十日死去。 行年八十八歳。
嫡男・安秀は江良弾正忠賢宣に与した。二男・正祐は刑部少輔であった。三男・隆則は大寧寺で亡くなった。」
『大内氏実録 巻第十九 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
松原氏信
「安定の四男。将監進と称した。
弘治二年四月、坂新五左衛門尉元祐に従い、須々万の沼城を攻めた。
弘治二年四月二十一日、軍勢をわかつにあたり、城将・勝屋右馬允を追撃し、白砂川で右馬允を射殺し、元祐がその首を獲った。元就は氏信に感状、また右馬允の刀を与えた。玖珂郡に八町七段の地を領した。
文禄四年九月一日死去。」
『大内氏実録 巻第十九 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
五郎小方って人と松原って人は、そのうち本家サイトに記事できるような……。間に合ってないんだな。
鶴千代毛利家に「帰順」したのだから、記録は残っているだろう。ま、いつになったら作業が終わるかわからないが。
楊井国久
「飛騨守となる。父を弥七国盛という。永正八年、船岡山の合戦で軍功があり、修理進に推挙された。国久は、その二男。義隆に仕え、侍大将先手衆(『有名衆』)。医術の心得もあった。天文の乱の際、義隆に従い法泉寺に入る。義隆は、母が国難に驚愕して危篤状態となったときき、国久を派遣して治療させた。国久が薬を調合すると、効果があった(『義隆記』、『同異本』)。ついで義長に仕え、小座敷衆となった(『家中覚書』)。のち毛利氏に降る。子孫は今に続く。」
『大内氏実録 巻第十九 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
楊井武盛
「幼名万寿、後弥七と称す。飛騨守国久の二男。天文七年、伯父・但馬守春盛は嫡男を廃し、万寿を養子とし家督を譲った。天文十三年、義隆が加冠し武盛と名づけた。侍大将先手衆となる(『有名衆』)。義長の時、小座敷衆となった(『家中覚書』)。 のち毛利氏に降り、 右京進となり、 天正十年但馬守となる。父から伝えられて、医学に通じていた。子孫は今に続く。」
『大内氏実録 巻第十九 列伝第十五 帰順』(原文文語文)
五郎なんかこう、義隆 ⇒ 義長 ⇒ 毛利家臣って、一般ルートに思えて来た。
鶴千代当たり前だ。毛利家に仕えない限り、浪人となって、大内輝弘のような輩に与して文化財を燃やすことになる。
五郎食うためには仕方ないってか。実のところ、上司なんて誰だってかまわないんじゃないの?
参考文献:『大内氏実録』
【更新履歴】20260416 改訂


