陶のくにの人々

毛利家に帰順した人々(早期組)

鶴千代
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毛利家に帰順した人たちです。事情は色々で語りつくせません。ちなみにスラッグはテキトーな自動翻訳です。

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鶴ちゃん

……。

毛利家へようこそ~♪ by:隆元

毛利隆元

内藤隆春

内藤隆春、初名は隆通。幼字は又次郎。のち左衛門大夫と称す。下野守興盛の第九子で、母は備後の名門山名直通の娘である。

天文年中、陶尾張守、杉七郎とともに奉行三家老だった。

十七年、同胞の姉が義隆の養女となって、毛利隆元に嫁ぐ。こ れより隆春は父興盛とともに懇信を毛利氏に尽くした。国難の後、所領長門国厚東郡吉部の荒滝城に居住し、敢 て義長のために力を出さなかった。毛利氏が兵を挙げたとき、密かに内通した。

弘治三年、毛利氏は内藤弾正忠隆世の勢力 を除く為に、 隆春に内藤氏の家督を与えた。そこで隆世の勢力はとみに衰え、山口を守ることができず、義長を引き連れて豊浦郡に逃れた。 四月二日、隆世は且山城で死に、その翌日、 義長は長福寺で死んだ。

弘治三年十一月、隆春は山口に遊ぶ。
弘治三年十一月十一日、義長の残党・草庭越中守、小原加賀守等が義隆の遺児・問田亀鶴を奉じて、兵を挙げ障子岳にたてこもった。隆春は杉松千代丸とともにこれを撃ち、草庭越中守、小原加賀守を斬り、亀鶴をとらえて殺した。亀鶴は己の姉が産んだ子である。

弘治三年十二月二十日、長門国守護代となった。

晩年、剃髪して周竹と号した。

慶長五年七月廿四日死去。 享年八十三歳。子孫は繁栄し、数十家に分れて今につづいている。

関連記事:内藤興盛内藤隆世問田亀鶴

椙杜隆康

幼名:十郎。はじめ右京亮、のちに信濃守となる。そのちすじは三善清行から出ている。清行の 遠裔(遠い後世の子孫)太田治部少輔清康の孫・信濃守正康がはじめて周防国玖珂郡椙杜荘に住み、地名を以て氏とした。その子孫・七郎は大内政弘に従い、一字を賜って弘康といった。実子がなく、桑原某の二子を養子にした。これが若狭守房康である。晩年、剃髪して若狭入道宗英と名乗った。隆康の父である。隆康父子は玖珂本郷連華山城に居住した。

三善清行‥‥太田清康 ⇒ 正康(清康孫)‥‥椙杜弘康 ⇒ 房康(養子、桑原某)⇒ 隆康

弘治元年十月八日、毛利元就は岩国から隆康父子に手紙を送り、毛利氏に味方するようにと諭した。隆康父子および桑原源太郎 (隆康の甥であろう) は毛利氏に従った。

この時、同郷鞍掛山の城主・杉治部大夫隆泰も毛利氏に内通していたが、後からこのことを悔やみ、 毛利氏の動静をひそかに山口に報告した。 これに気づいた隆康は、差川村の路傍に兵を伏せて置き、隆泰の使者を捕えて、山口へ宛てた隆泰の手紙を奪って毛利氏に渡した。

十月十四日、毛利氏は隆康および小方隆忠の軍とともに、 鞍掛山城を襲って隆泰を斬った。隆康は隆泰の旧領北方五百貫の地をもらい受けたいと望み、二十八日、元就父子は書状を与えてこれを許諾した。

隆康には実子がなく、志道上野介元保の二男・少輔四郎元縁を養子とした。子孫はいまに続いている。

小方隆忠

のち元康と改名(帰順ののち、隆元の隆字を避けて、その偏名を求め元康としたものと思われる)。

弘治元年、毛利氏に投降した。

弘治元年十月十四日、毛利氏は鞍掛山城を攻めた。隆忠も従軍して城主・杉治部大夫隆泰を斬った。毛利彦次郎にあてがわれていた、玖珂本郷南方の内九十石の地を領したいと願い出た。閏十月一日、元就父子は隆泰を斬った功を褒め、望む所の地を知行すべき連署の書を与えた。晩年、 児玉三郎左衛門尉就忠の二男元信を養子として娘をめあわせた。子孫は今に続いている。

小方家

始祖:長門入道。出自は不明。
安芸国佐西郡小方村に居住し、地名を以て小方と称した。
長門入道 ⇒ 盛康(左衛門大夫) ⇒ 重康(七郎二郎、長門守、対馬守入道) ⇒ 興康(対馬守) ⇒ 隆忠

小方重康・興康父子

義興に仕えた。晩年玖珂郡椙杜北方の内二十石、祖生郷の内十二石の地を興康に譲与した。しかし、のちにこのことを惜しみ、興康を不孝であるとしてその地を悔い返ししたいと願い出た。義興がその事を調べると、不孝とするべきところは全くなかったので、和睦するように命じた。重康は義興の命令に従うと答え、暇を請わずに所領地に還った。
興康は父の過失を老耄のせいであると哀謝して、また父に生涯かの地を自由にさせることを願い出た。義興は興康を褒めて望むに任せた。重康は永正十七年九月一日、かの地を隆忠に譲与した(譲与状、源二郎とあり、義隆の偏名を賜った年月不明)。大永三年四月十一日、これを許可された (興康はこれよりさきに死去したのだろう)。

小方隆忠

隆忠は義隆に仕え、兵部丞になることを望み、享禄二年十二月十二日に推挙状を賜った。また父祖の受領名対馬守を継ぐことを望み、天文十六年五月十七 日、推挙状を賜った。義隆が薨じて義長に仕えた。

弘治元年、毛利氏に投降した。

弘治元年十月十四日、毛利氏は鞍掛山城を攻めた。隆忠も従軍して城主・杉治部大夫隆泰を斬った。毛利彦次郎にあてがわれていた、玖珂本郷南方の内九十石の地を領したいと願い出た。閏十月一日、元就父子は隆泰を斬った功を褒め、望む所の地を知行すべき連署の書を与えた。晩年、 児玉三郎左衛門尉就忠の二男元信を養子として娘をめあわせた。子孫は今に続いている。

のち元康と改名(帰順ののち、隆元の隆字を避けて、その偏名を求め元康としたものと思われる)。

本末二家あり、本家はただ享禄二年の推挙状を蔵するのみ。さて本末の系譜で隆忠の子の数が相違している。 本家の系譜では男女二子として、娘は元信の妻、男は某、太郎四郎、九兵衛、子孫不明とし、末家の 譜では二男一女とし、長男某、喜兵衛尉、遺跡不明。女子元信妻。男某、太夫丸、遺跡不明とする。

町野隆風

町野隆風、幼名善四郎、掃部助となる。

義隆に仕え小座敷衆であった。

天文□年七月、出雲を襲撃するために石見国邇摩に出た。

天文二十年陶隆房につき(佐波系譜に新介隆連は阿武郡生雲で従弟隆秀の舅町野に殺されたと見える。町野は隆風だと思われる)、義長に仕えた(家中覚書○同上に町野加賀守、町野六郎あり、系譜には見えない)。

天文二十二年十月吉見氏と戦った。

弘治二年春、吉見正頼に内通し、弟鶴法師を質とした。のち毛利氏に仕えた。子孫はいまに続いている。

町野家

始祖・兼通(権中納言藤原頼宗の三男・左衛門尉頼親の子)、源頼義に従って奥羽で戦い、戦功により安房国に食邑(知行所、所領地)を賜り、始めて町野と称した。遠裔善四郎隆親は大内義興に従い、西国に下って、長門国阿武郡に住んだ。
善四郎隆親 ⇒ 相摸守隆治 ⇒ 掃部助隆風

隆親、隆治は陶晴賢に従って厳島で死んだというのは受け入れがたい。
朝の雲(猪苗代兼載が政弘を悼んだ詞)に町野四郎弘風の名が見える。弘字は政弘の偏名である。こ れにより、はじめて義興に従って西国に下向したのではないことが明らかである。さて四郎といい、風字を名とすることから、隆風は弘風の子であると思われる(『実録』)。

白井賢胤

白井家

本氏は千葉、上総介忠常の遠裔白井越中守光胤の子・縫殿助膳胤の子である。

十五世・義胤⇒胤時⇒治胤⇒忠胤⇒親胤⇒膳胤⇒房胤(賢胤)

十五世義胤が上野国白井山田荘を領し、 始めて白井と称する。
光胤の高祖父・胤時の所領が安芸国沼田、 砂田、周防国熊毛にあったので、はじめて上野国から安芸に下向したそれ以来武田氏の麾下であったが、光胤父子の時に大内氏に従った。

「系譜」では、賢胤を房胤の子としているが、全くの誤り。「閥閲禄」で房胤は賢胤の始名だとしているのが正しい。天文二十二年二月十三日の義長の袖判状に、「当知行事、 任去天文七年十二月廿二日龍福寺殿証判之旨、白井縫殿助賢胤 可 全領知之状如件」とあり、天文七年十二月廿二日の義隆の袖判状に、 「親父縫殿助膳胤所帯事、任与 奪之旨、白井弥四郎房胤相続領掌不可有相違之状如件」とある。しかし、房胤を膳胤の孫とするは間違いで、系譜で子としているのがただしい(『実録』)。

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ミル

光胤さんのおじいさんのおじいさん(高祖父)が胤時さん、その時に西国に下向した、ってトコロまでは OK。しかし、胤時さんから見た孫の孫は膳胤さんしか書いていないので、この光胤さんが誰なのかが『実録』だけだと不明です。ごめんなさい。

幼名:弥四郎(助四郎とも)。初め則胤、ついで、房胤、賢胤と改名。縫殿助、越中守。母は 熊谷宗直の娘。

大永四年六月二十四日に陶興房が加冠し、一字を契約して 房胤と名づけた。

天文七年十二月二十二日父の譲をうけ、「所帯相続領掌すべき」という義隆の証状を賜った。のち父名を継いで縫殿助となる(九年二月より前)。

天文九年、義隆は安芸を撃つ。房胤は二月十四日、二十二日佐東の川口で戦い、敵首九および船一隻を奪った。

天文九年八月、小原隆言に従い伊予で戦った。十年六月十八日~七月二十六日まで、再び隆言に従って伊予滞在し、所々で戦った。

天文十年五月十三日毛利元就に従い、武田氏の佐東金山城を攻めた。

天文十一 年秋、義隆は安芸より出雲に入り尼子氏を撃つ。房胤は冷泉隆豊に従い、九月五日大根島で戦い、敵首四を奪った。

天文十二年六月六日、周防国玖珂郡新荘に二十石、豊前国築城郡に弘末名十石の地を賜った。

天文十五年隆豊 に従い、二月十六日伊予の平智島で戦い、八月六日、十五日、中途表で戦った。天文十六年五月八日また中途表で 戦った。

天文二十年秋、陶隆房は叛こうとして房胤を誘い、八月十三日、宮川甲斐守を使者とし、安芸国安南郡府 中七十五貫文の地を加増するとして誘った。房胤はこれに与みした。

天文二十年八月二十八日、隆房は兵を挙げて山口を襲い、義隆父子を弑し名を晴賢と改めた。房胤は更に晴賢にその偏名を求め、房胤を賢胤とした(改名は二十二年二月二十六日より以前)。

天文二十二年、越中守となることを望んだ。二月二十六日義長は推挙状を与えた。

天文二十二年七月、毛利氏に従い備後で戦った。

天文二十三年正月、義長は使者を派遣し、石見の吉見正頼を撃つことを伝え、軍を出すことを求めた。賢胤はこれに応じ、長州阿武郡に出て、陶兵とともに吉見の支城嘉年の勝山を攻めてこれを落とし、進んで正頼の居城三本松を囲んだ。
天文二十三年四月十八日、喜汁表で戦い三か所の傷を負った。

天文二十三年九月、正頼は嫡男を質とし和睦を求めた。 義長、晴賢はこれに先立ち毛利氏が兵を挙げ、既に玖珂郡 に進入する勢いがあったことから、正頼の願い出を幸いとして聞き入れ、義長はその質を収めて山口に還り、晴賢は玖珂郡岩 国に出た。賢胤は晴賢に従った。

天文二十三年十月、本国が乱れていたから、熊毛郡小周防の高尾村を所領として賜ることを望み、また義興が芸州安芸郡の内三百貫、佐東郡山本三百貫を与えるとの大永七年の約諾書を捧げて、 証判を求めた。 十月十一日高尾村を賜る。警固奉行を命じられたので辞退したが、許されなかった。これより安芸で戦った。

弘治二年十月二十三日、安芸郡に四百二十二貫五百文の地を領治する証状を賜った。ついで小早川氏に降った。子孫は今に続いている。

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鶴千代

武士の究極の望みは本領安堵と新恩給付が基本だと思うけれど、この人物は、どの主の元でもそこそこ活躍しているのに、しつこいほど新恩加増にこだわり続けていてなんとなく好きになれないな。

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ミル

そうなんだよ。だから、活躍はしていても、義隆期家臣にも義長政権家臣にも分類しなかった。毛利家に仕官したのだって単なる加増目当てだよ。

松原氏 

ポイント

ちすじは宇治関白頼通から出ている。古勢部を氏とし、代々宇治の小松原に居住した。
永享年間、木工頭兼氏が大内満弘の庶子・蔵人佐幸兼を女婿とし家を譲った。
大内持世が幸兼に周防の山代に三十五貫文 の地を与えた。
刑部少輔末則(幸兼の子)が寛正五年三月に初めて山代に下向。七町の地を加えられた。
幸兼 ⇒ 末則 ⇒ 興詮 ⇒ 満氏

古勢部興詮

対馬守。古勢部氏を松原に改める。佐波郡に七町一段の地を領有した。
晩年剃髪して源知と号した。

松原満氏

刑部太郎と称した。

天文二十三年、父・興詮および子弟等を率いて毛利氏に従った。ただ弟・安定の子民部少輔安秀、叔父出雲守氏頼の子・新四郎光末および一族隠岐守守之、その子・隼人佐幸住、主税介武正は従わなかった。

満氏は折敷畑の戦いで宮川但馬隆重および杉田主水と槍を合わせた。

弘治元年三月、神田蔵人允等と山代兵三百余を率い、廿日市の桜尾に出張して毛利隆元に 拝謁した。隆元はこれを労って太刀および馬を与えた。

永禄四年、七町四段の地を加えられた。同十月三日死去。行年七十 八歳であった。

松原祐次

主殿允。折敷畑の戦いで宮川の一所兵中村右衛門尉(山代兵で子孫は今につづく)を斬った。

弘治元年三月、父とともに隆元に拝謁した。

弘治元年閏十月晦日、元就父子の連署で山代地安堵の書を賜った(神田蔵人允と連名)。

天正十二年九月廿三日死去。子孫は今に続く。

松原安定

はじめ左近将監、のち土佐守となった。満氏の四弟である。

折敷畑の戦いで江木筑前守と槍を合わせた。分捕の功があり感状を賜った。

天正十三年五月十日死去。 行年八十八歳。

天正十三年五月十日死去。 行年八十八歳。嫡男・安秀は江良弾正忠賢宣に従った。二男正・祐、刑部少輔であった。三男・隆則は大寧寺で亡くなった。⇒ 江良弾正忠賢宣

松原氏信

安定の四男。将監進と称した。

弘治二年四月、坂新五左衛門尉元祐に従い、須々万の沼城を攻めた。

弘治二年四月二十一日、軍勢をわかつにあたり、城将・勝屋右馬允を追撃し、白砂川で右馬允を射殺し、元祐がその首を獲った。元就は氏信に感状、また右馬允の刀を賜った。玖珂郡に八町七段の地を領した。⇒ 勝間右馬允

文禄四年九月一日死去。

 

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻二十九「帰順」より

 

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廿日市と東広島が大好きなミルが、広島県の魅力をお届けします

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2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
【宮島渡海歴三十回越え】
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