
山口県岩国市通津の専徳寺とは?
江戸時代開基の浄土真宗寺院です。吉川広家は、隠居後、その次男・彦次郎とともに通津に居住していました。その際、広家に付き従って通津に来た家臣らの要望を叶えるために建立されました。彼らは現役時代の広家とともに岩国にいた時、当地の真宗寺院を信仰していましたが、転居により元の寺院に通うことが難しくなったためです。
寺院さまホームページによりますと、現在の寺地は三代・吉川広嘉により寄進されたものです。また、寺院の開基にあたる善超は弘中隆兼の曾孫です。それゆえに、隆兼の墓があります。
専徳寺・基本情報
寺名・山号・本尊 専徳寺・日照山・阿弥陀如来像
宗派 浄土真宗本願寺派
公式ホームページ あり(Googlemap ご参照ください)
(参照:『山口懸寺院沿革史』、寺院さまホームページ)
専徳寺・歴史
吉川広家隠居地に建立された寺院
『山口懸寺院沿革史』には、だいたい以下のような記述があります。
※「*」部分については、不自然ですが、原文に従っています(詳しくは後述します)。
「慶長六年、吉川弘家公が出雲より入り、由宇村に暫く居住した後、岩国に入城した。その後、嫡男・広正公に家督を譲られ、元和二年、広家公は御法躰を如兼と称し、同七年、次男彦次郎君と父子同じく通津に移住・隠居なさった。広家公は四千五百石、次男・彦次郎君は三千石を領有した。寬永二年九月二十一日、如兼公は六十五歲で通津で亡くなられた。同年冬、彥次郎君は萩に赴き、屋敷を拜領して居住なさった。同三年九月、御隱居分四千五百石、御次男分三千石計七千五石が、彦次郎君に進呈された。元和七年から、寬永二年に至る五年間、父子は通津に御在住された。
慶長十七年、彦次郎君(二十六歳で、吉見三河守広頼君と養子契約し、翌十八年、広頼君が亡くなられると、通津に御在住であった彦次郎君は、吉見家の主となったため、寬永二年冬に萩に移られたのである。三河守広頼は蒲冠者従五位下三河守源範頼の子息・吉見範国の十七代末裔にあたる石見津和野三本松城城主(領地八万石)吉見出羽守正頼の子である。母は大内義興公の娘。広頼は長期に渡り病がちだったため、広長がその跡を譲り受け、広頼は長門萩指月で隠居した。しかし*、吉見家は名家であり、大功もあるゆえ、宗瑞公の懇命によって彦次郎君を広頼君の養子にさせ、加増した上で家を継がせたのである。
彦次郎君は、萬治元年に、平生村を開墾させていたため、家臣らも平生に移住していた。この時、(彦次郎君は)萩に在住し、家臣の多くは通津におり、その一部は長門大津郡に住んでいた。ところで、通津在住の家臣は皆、岩国から従って来た真宗の者で、西福寺(岩国)の門徒だった。由緒ある寺院の門徒なのだから、他の寺院の信者となる道理はないが、岩国と通津は距離があり過ぎて、法役も困難であるため、当地に真宗寺院を建立することを願った。折から、常福寺という真言宗の寺院があったが、廃頽していた。彦次郎君は、御舎弟(ママ)*・広正公に、常福寺を真宗に改めるよう仰せつけた。高森町愛徳寺末正蓮寺了善三男・善超を招聘してこの旨を伝え、一宇を建立し、光照寺という寺号を与えた。正徳三年、専徳寺と改名し現在に至る。本堂十二間四面あり、境内に老松がある。島地黙雷師が覆蓋松と命名した名木だが、樹齢は不明である。」(原文文語文)
さて、江戸時代の吉川家がどうのこうのとか、一切不明ですので、ふーんで終わりです。ただし、この文章にはいくつか懸念事項がありますので、検証してみます。
まずは、吉見家の扱いです。「しかし*、吉見家は名家であり、大功もあるゆえ、宗瑞公の懇命によって彦次郎君を広頼君の養子にさせ」ここ、唐突ですね。広頼に子がなかったため、彦次郎を養子にした、それでいいじゃないかと思われます。なぜ「しかし」「名家であり、大功もあるゆえ、宗瑞公の懇命によって」云々なのかと感じます。ここは、障りがある部分を省略した結果と思われます。
吉見広頼は病がちで広長に家督を譲ったらしきことは本文にも出ています。広長は最初、広行と称し、後から改名したので、広行という名前でも知られています。言動に問題があり、主家に問い質される前に自ら命を絶ったとされています(『萩藩諸家系譜』)。ここで、お家断絶となるところ、「名家であり、大功もあるゆえ」様々な人々の取りなしで、吉川広家の子・就頼が後を継いで、なんと後に毛利姓になってしまいます。どうやら、『寺院沿革史』にある彦次郎君=就頼です(参照:Wikipedia)。
もう一点。「彦次郎君は、御舎弟(ママ)・広正公に」とありますが、広正は吉川家を継いだ人で、弟ではなく兄です(参照:Wikipedia)。彦次郎=次男と明記されてますが、正直、兄弟順などわからないです。『諸家系譜』を基に書いた吉見氏についての記事では、「三男」としました。要するに、当主ではなかった、他家を継いだ、この二点は正しいですが、ほかは諸説あるとしか言えません。寺院さま公式に「彦次郎君」のお名前はあり、次男と書かれておりますから、それを尊重すべきと考えます。
なお、『沿革史』にある、弟が兄に寺院作ってくださいとお願いしたというところですけど、仰せつけるという部分が謎です。普通、他家を継いだ弟が本家当主である兄に「仰せつける」などという、目上から目下に言うような言葉を使うとは思えません。ここ、誤植でしょう(多分)。寺院さまホームページによれば、広家公が広正公に寺院建立を依頼したとあるので、その通りと思います。
※普通、ネット情報は公式以外参照しない主義ですが、時間がないのと江戸時代以降の史料などないので、Wikipediaさんを利用させていただきました。申し訳ありません。
ややこしいので、まとめておきます。
- 元和七年(1621)、同二年(1616)に隠居した吉川広家は、次男・彦次郎とともに、通津に移住した
- 寬永二年(1625)、彦次郎は、萩に屋敷をもらい居住。彦次郎は吉見家の養子となり、家督を継いでいた
- 萬治元年(1658)、彦次郎は平生村を開墾させており、家臣らも多くが平尾に移住した
彦次郎の家臣は平尾、通津、長門大津郡に住んでいたが、元々は岩国から従って来た者たちで、岩国・西福寺(浄土真宗)の信徒だった。岩国は遠く、西福寺に通うことは困難なので、通津にも浄土真宗の寺院があればと望んでいた。そこで、彦次郎は通津にあった真言宗寺院・常福寺を改宗の上、再建。光照寺とした。後、寺号は専徳寺と変り現在に至る(昭和期に書かれた『山口懸寺院沿革史』の記事より。寺院さまホームページによれば、広家が広正に寺院再建を依頼したとなっている。公式見解に従うべきです)
西福寺(岩国)に通うのが不便になる ⇒ 通津にあった常福寺を改宗・再建 ⇒ 光照寺 ⇒ 専徳寺と改名
弘中隆兼との関わり

まずは、いきなり弘中隆兼さんのお墓があることにびっくりすると思います。信徒の皆さま方、地元の方々は御由緒をご存じですが、部外者は「弘中隆兼の墓所がある」という情報で参拝しているケースが多いからです。一歩立ち止まって、「なぜここに?」と思う方はあまりいなかったりします……。
『寺院沿革史』が書かれた当時のご住職のお名前が「弘中」さんであることに「え!?」と思いつつも、だからこちらに墓所があるのかという認識でした。そうであるならば、ご住職が弘中姓であることの理由を考えてみるべきなのですが、けっこう時間がなかったりします。この辺りの詳細は寺院さまホームページに詳細に記されておりますので、ここであれこれ書くことは無駄です。
一言でまとめておくとすれば、吉川家が寺院を建てる際に招聘した「善超」という方が、弘中隆兼の曾孫だったのです。以来、延々と弘中氏ご子孫の方々によって歴史が紡がれてきたわけです。なお、ホームページのご案内によれば、元々墓所は「岩国市今津町大応寺」にあり(ご遺体の埋葬場所)、それが現在地に遷されたのは、「昭和16年(1941)10月」とのことです。つまり、現在地に移築されてからの年月は百年に満たない期間です。何ともはや。これで、「岩国市今津町大応寺」にも赴く必要性を感じた方がおられるのではないでしょうか。
「弘中隆包墓
専徳寺開基、寛永三年(一六二四年)、初代住職は弘中隆包の曾孫善超。弘中隆包、隆佐親子は毛利元就との厳島合戦に敗れ討死。」(看板説明文)
ところで、ここで漸く気付くのですが、「高森町愛徳寺末正蓮寺了善三男・善超を招聘して」(上段の『寺院沿革史』逐語訳)とあることから、「ん? 善超さまが曾孫ということは、この「正蓮寺了善」という方は、お孫さんなのでは?」という点です。でも、それについてはどこにも言及されていないのです。現代の民法では養子は実子と同じ扱いになりますけど(特別養子なんてもっとすごいが)、それはとにかく、中世なんて跡継絶えたら大変ですから、養子縁組は大量に行なわれていましたよね。ですので、「三男」と書いてる=血縁者とは断言できません。ここ、ぜひ知りたい所であります。
専徳寺・みどころ
山門

普通に地元の方々の信仰篤い寺院さまとお見受けするがゆえに、通り過ぎてしまいそうです。信徒ではないのに、物見遊山で入ってはならないって普通思いますので。ですけど、この手前に弘中隆兼の墓所がある旨の案内看板があることから、「えええええ」となって入る人、それ以前に、それ目当てでご参拝に来ておられる方もあるだろうなと。寺院さまが門前に看板を出しておられるところからして、お参りしてかまわない、と勝手に思いました。
ご本堂

立派すぎて溜息が出ます。
「鶴翼の松」

『寺院沿革史』にも書かれていた覆蓋松は、今は枯れてしまい、境内に石碑のみ残されています。参拝前にこの謂れを知らなかったため、石碑すら見落としましたが。後に、老松の枯死を惜しんだ方が寄進なさった松の木が境内前にございます。
ソテツ

寺院さまホームページによりますと、「宗祖650回忌記念事業」の一環として、「通津に在住した陽明学者、東沢写宅跡(現在、岩国市教育委員会管理)にあったものを明治43年移植したもの」です。ソテツを意識して撮影した写真ではないので、右端にちょこっと写ってます(宗祖聖人銅像写真のほうが、分かりやすいかも)。
弘中隆兼の墓

説明は要らないかな。一応。大内氏重臣・弘中氏の方で、厳島合戦で戦死なさった弘中隆兼(寺院さま表記:隆包)さんの墓石です。隆兼さんを慕う地元の方々の手で、昭和時代に弘中氏ゆかりの寺院である専徳寺さまに移されました。
宗祖聖人銅像

親鸞聖人銅像は、浄土真宗の寺院さまに普通にあるよなぁ、と思いましたけど、いずこの銅像にも謂れがあるのですね。詳細はホームページで。
手水鉢

ただの手水鉢だよねと撮影して帰宅したんですが、上にある扁額「洗耳」も、「宗祖650回忌記念事業」関連で、門徒の方々が寄進なさったものです(参照:ホームページ)。
鐘楼

これも、普通に鐘楼あるよなぁと思いましたが、ホームページには掲載されていて、解説も丁寧です。いずこの鐘楼にも物語があるんだなと感じた次第です。
石橋・石灯籠

これ、橋がかかっているのには意味があって、元は池があったそうです。これを渡った先になんと一切経を納めた経蔵があった模様ですが、未見です。手前まで来ていたのにね。
専徳寺(岩国市通津)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒740-0044 山口県岩国市通津 2764
アクセス
最寄り鉄道駅から徒歩は絶望的に思えます。地図を見た範囲では。公共交通機関での行き方については、調べ終えたら掲載します。廿日市から行ったんですけど、日帰りできました。岩国って普通に広島文化圏だよなぁ(個人的見解です)。
参考文献:専徳寺さまホームページ、『山口懸寺院沿革史』、Wikipedia(吉川広家、広正記事)
専徳寺(岩国市通津)について:まとめ & 感想
- 吉川広家・次男彦次郎は、広家隠居後、通津に居住していた
- 多くの家臣たちが、岩国から広家らに従ってともに移住したが、彼らは岩国・西福寺という浄土真宗寺院の信者だった。通津・岩国間は遠く隔たっていたため、西福寺に通うことは困難だった
- 広家は通津にも浄土真宗寺院があれば……という家臣たちの願いを思い、広正に「通津にある廃頽した真言宗寺院・常福寺を改宗の上、高森町愛徳寺末正蓮寺了善三男・善超を招聘して再建するように依頼
- この、善超という方は、厳島合戦で亡くなった弘中隆兼の曾孫だったことから、弘中氏ゆかりの寺院として著名
- 再建時、寺院は光照寺といったが、その後専徳寺と改名されて現在に至る
- 境内には、地元の方々の手で、弘中隆兼の墓が移築されてきている
弘中さんの墓所(何となく『墓』という言い方が嫌いなんです。御廟があるとかいう意味ではありません)があります。で、その他大勢の人同様、それを拝みに来ていましたので、檀家でもないのに云々ということは忘れていました。本文中にある通り、門前に寺院さまがご案内看板を出しておられるので、普通に墓参の方も参拝していいですよ、という意味ととらえました。まあ、同道させていただいた友人が浄土真宗だったので、信徒だからいいんだろうって感じです(え、自らの先祖代々の寺院じゃないとダメとかあるの!?)。当方、仏教徒ではないので、細かいこと分からないのです。申し訳ございません。自宅には神棚も仏壇もあるのですけど、神棚は自らの信仰のため、仏壇は単に、先祖が残したものってだけでして。本人には所属宗派というものがないのです。仏壇で先祖の月命日に線香焚いてても、何の宗派なのか一向にわからないです。こういう人物が祭祀財産承継している理由も謎ですが、これって法的にも相続財産にあたらないので、家にひっついてたって感覚ですね。もはや。
で、またしても、弘中さんだけなんだってこんなにも人気があるんだよって感じですが。こうやって記事を書いている執筆者も崇敬しているのだろうって? 別に嫌う理由もないですし、崇敬しているかどうかまではわからないものの、立派な方であるとは思っています。でも、さほどの思い入れはないです。大内氏ゆかりの寺院として、ご参拝しました。寺院さまホームページに、吉川広家さんがなにゆえにこの寺院の開基として、弘中さんゆかりの方をお招きしたのかという感動の物語が記されているのですが(勝手に感動してすみません)、厳島で敵同士になってしまったけれども、毛利元就と優秀な三人の息子それぞれにとっても、弘中さんって、味方としてともに戦った時もあったわけで。だからこそ、その末裔にあたる方々を丁重に扱った。そんな流れでしょうか。確かに麗しい物語ではあります。でもその裏側には、「叛乱者陶一味」は「極悪非道だが」それ以外の人々に罪はない的な思想が流れています。この類の話、もう聞き飽きました。それゆえに、弘中さん関係のところに行くと、感動すると同時に疲れちゃうんですよね。とまれ、ゆかりの神社、ゆかりの寺院、戦死なさった場所と城跡以外ほぼすべて見終えたのかなぁということで、感無量です。
- 弘中隆兼を崇敬する人でゆかりの地を巡っている方
- 普通に寺社巡りをなさっている方および墓マイラーなる方
オススメ度:(基準についてはコチラ)
★★★
五郎地図を見ていたら、吉川広家終焉の地というのが見えてるね。ここで亡くなったのか。
ミルそうね。歩いたらかなり遠いと思うけども。亡くなられた地からほど近いところに寺院さまがある理由、よく分かるよね。
五郎弘中って人が繋いでくれたご縁で、ゆかりの寺院さまってなるけど、正直言うと、江戸時代に吉川氏が建立したってところから、分類は藩政期の史跡だよなぁ。


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