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玉祖神社・周防国一之宮

2020年10月8日

神門の写真

玉祖神社・基本情報

住所 〒747-0065 防府市大字大崎1690
電話 0835-21-3915
御祭神 玉祖命、ほか一柱不詳
主な祭典 例祭(九月二十五日に近い休日)、祈年祭(二月十七日に近い日曜日)、玉の祭(四月十日)、新嘗祭(十一月二十三日)
社殿 本殿、拝殿、神饌所
境内神社 浜宮御祖神社(天鏡尊)、若宮社(玉祖命)
主な建物 斎館、社務所、神門、授与所 、宝物殿、手水舎、一ノ鳥居、二ノ鳥居、石造燈籠、石造狛犬、社記亀趺碑、手水鉢、石柱ほか
社宝 一宮造替神殿宝物等目録(俊乗坊重源、建久六年)、周防国一宮玉祖神社神祠重建目録(大内弘幸、建武二年)、周防国一宮玉祖神社御神用米在所注文(文明十一年)、九曜巴紋双雀鏡(正平十一年)、太刀 (銘吉包)、刀(伝信国)、社叢、日本鶏黒柏
最寄り駅 防府駅、玉祖神社前バス停目の前

玉祖神社・歴史

「たまのおや」神社と読む。神社由緒看板の説明にも、「あまりにも古く」て創建時期については明らかではない、とある。古代より存在する格式高い神社の場合、その起源は神話時代まで遡ることから、史料を典拠にいつなんどき創建されたと証明することが難しいのである。逆にいえば、もはや史料で確認することが不可能なほど古い、それこそ悠久の歴史がある、ということになる。

玉にゆかりの神社として毎年四月十日の玉の祭には、宝石、メガネ、時計、カメラの業者が参拝に訪れるというから興味深い。

玉祖神社の鎮座地が周防国衙があった防府市であり、また、具体的には市町村合併前の右田村であったことから、『周防国衙の研究』、『右田村史』、『山口県神社誌』でこの神社についての記述を調べたところ、だいたいつぎのようなことが書いてある。自ら古文書にあたることはできないので、それぞれのご本をお書きになった先生方の引用典拠を直接見てはいない。史料は限られるので文体や切り口に差はあれ、内容はどのご本も同じである。

古代の玉祖神社と祖先神話

玉祖神社は延喜式、神名帳に見える式内神社であった。延喜式神名帳によると、玉祖神社の祭神は二座となつている。しかし、わかっているのは、現在の祭神・玉祖命だけで、もう一座については不明である。大鏡命ではないかという説、高産霊命の孫・大荒木又建荒木命という説、摂社・浜宮御祖神社が玉祖神の御母神なので、これをあわせて二座なのであるという説などがあるがいずれとも決めがたく、「不詳」とされている。

玉祖命は天高御魂命の孫で、玉祖宿禰の祖(玉祖連、玉造連らの祖)・天明玉命(櫛明玉命、羽明玉命、豊玉命などとも呼ぶ)のことである。天照大神が天岩戸にお隠れになったとき、高産霊命の命を受けて八尺瓊之五百箇御統曲玉(八坂瓊曲玉)を奉納したという。天孫降臨の時、五部神(五伴緒神、天孫降臨のとき衆を率いて御創業を補佐した神々)のひとりとして供奉申し上げた。天明玉命の「明玉」とは作った玉が優れていたことが、玉祖命の「玉祖」とは玉作氏の祖先神であることが、それぞれの呼称の由来という。玉作も玉祖も皆玉作部の部民であって、この一族が周防国に来住して祖先神・玉祖命を祀ったものが玉祖神社であると考えるのが妥当。

また、天武天皇の八色の姓制定後、従来連姓だった者は多くが真人、朝臣の姓を賜った。これ以後の臣、連はランクが低いのである。河内別神玉祖宿禰の宗族とみられる玉祖氏はおそらく朝臣を賜ったと考えられるがもっぱら社務に従事したようで、郡司、在庁官人などに玉祖氏の名は見られない。

玉租神は大崎の地で亡くなり、御祖に葬られた。社殿の北、約500メートルにある玉岩窟がその墓所と伝えられている。式内神社というのは、古来その土地に居住していた豪族が各自の祖先神に対して祈年及び新嘗を行ったことを起源とするものが多い。玉祖神社もまた、玉祖命の子孫がその祖先神を祀ったものであったと考えられている。

史料で確認できる玉祖神社についての古い記述として挙げられるものとして、「周防國正稅帳」と『今昔物語集』がある。

一、東大寺正倉院文書、天平十年(738)の「周防國正稅帳」に、「禰宜・玉作部五百背に稲二百束を賜ふ」との記述がある。
二、『今昔物語集』巻十七「依地蔵助活人造六地蔵」に、以下のようなエピソードがある。
周防一の宮に宮司・玉祖惟高という人がいた。神官の子孫であったが、幼い頃から仏法に帰依し、ことに地蔵菩薩を念じていた。一条天皇の御宇長徳四年(998)四月の頃、病で亡くなったが、冥土において六地蔵に遭いその加護を受けて蘇生することができた。そこで、三間四面の地蔵堂を建立して供養した。

「周防國正稅帳」により、天平十年にはすでにこの神社が存在していたことが、『今昔物語集』により、この説話集成立時点ですでに、玉祖神社が周防国一の宮と呼ばれていたことがわかる。

玉祖大明神は俗に玉祖明神ともいう。河内国髙安郡(大阪府河内郡)に玉祖神社があり、玉祖大明神もしくは髙安大明神と呼ばれている。これも延喜式の古社であり、和銅三年、周防国玉祖大明神を勧請したと伝わる。『姓氏録』には畿内の玉祖氏のことが載っており、玉祖氏の子孫が居住し、祖先神を祀り、その地を玉祖郷といったことがわかる。河内の同族が神社を勧請したのは、宗枝関係によるもので、このことからも玉祖神社創建年代がいかに古いかが推測できる。

玉祖神社は周防国の一の宮として、とても格式の高い神社である。じつは、役人たちだけではなく、神社にも位階のようなものがあり、「神階」という。位階同様、これも朝廷より授けられ、位が昇級したりする。当然のことながら、神階が高いほうがより多くの特権を与えられる。『周防国衙の研究』には神階の奉授によって寄進される「位田」の高について詳述されているけれども、正一位と従五位だけ抽出すると、従五位:八町 ⇒ 正一位:八十町ということで、およそ十倍にもなることがわかる。玉租神社は貞観九年(867)三月十日、従四位下より従三位に、ついで正二位となり、康保元年(964)四月二日には従一位を授けられた。正一位となった史料が欠落しているらしいのだが、二の宮である出雲神社が正一位となった記録は残っているので当然、一の宮であった玉祖神社も正一位に昇ったものと考えられている。相当な優遇を受けていたであろうことは想像に難くない。具体的な数値については、『周防国衙の研究』や『右田村史』に「周防國正稅帳」の原文と、その解説が載っているのでご参照ください。

景行天皇・仲哀天皇の御征西伝説

景行天皇十二年秋、熊襲が叛乱を起こし朝貢して来なかったため、天皇は熊襲討伐のために親征した。下向のとき、周防国娑婆(=佐波)に至ると、天皇は玉祖神社社頭で戦勝祈願をなさった。その際奉納された宝剣は、今も御神宝として伝えられている。社辺の宮城の森は当時の行在所の旧跡で、八籠霞山とも呼ぶのは天皇が八神を祭るのに用いた神器を埋めた地であったからだという。

仲哀天皇八年春、天皇は神功皇后を伴って御征西なさった。天皇は玉祖神社に御参詣、戦勝を祈願した。付近の寄江という地は、皇后が御船を寄せた場所であるとの言い伝えがある。このとき、隣村佐野村の陶工、佐野焼の始祖・沢田長に命じて三足の土鼎と盎を作らせ、斎器とした。九月二十五日の例祭で、沢田長の子孫が土鼎と盎を奉納するのは、この古事による。例祭の前夜に行われる占手神事も、仲哀天皇が軍の吉凶を占ったことが起源である。

古代の祭典

三大祭:二月中旬の祈念祭、十一月下旬の新嘗祭、九月二十五日の例祭
そのほかに、白馬節會、九坎祭、御霊會、放生會、國祭、釣垂の神事、拔穂の神事等々。
国祭:三月四日、祈念の守札を六郡の郡家に送って人々に与え授け、秋の収穫の際、初穂を奉献させるもの。
釣垂の神事:釣垂の神事とは、八月十五日の夜、月の出から社頭で舞樂を奏し、田島浦から三艘の釣舟を出して社官が鮮魚を釣り、獲物を神前に供える。※現在は社頭での祭典だけを執行。
拔穂の神事:仲秋の吉日を選び、斎戒した神官が稲の穂を拔く儀式。拔きとる穂は田別何十束ときまっていて、郡司が沙汰して玉祖神社の倉に納めた。

中世の玉祖神社と造替

東大寺再建の際、周防国がその造営料国に宛てられたのは周知のことだが、大勧進重源の努力により、十年後の建久六年(1195)、再建事業は無事に完了した。重源は「これ偏に玉祖大明神の加護によるもの」と考え、神社の造替を企画した。同年八月五日に防府に下向。七日から社壇造営工事を開始し、神宝を調進して九月二十八日に遷宮の儀を執り行い、日別御供料の料田として十町の地を寄進した。(『玉祖神社文書』重源自署「造替目錄」)

造替事業に際して、重源が自書したとされる目録が、「玉祖神社文書」として伝えられている。この原文も『周防国衙の研究』そのたのご本で紹介されているから、神社の宝物を見せてくださいとお願いせずとも普通に読むことができる。ただし、本当に完全な「目録」なので、素人にはわからないどころか現代語訳を見せてもらっても特に面白くない。研究者目線でこの記録がたいへんに重要であるのは、「目録」をみることで、当時の神社のすがたを知ることができるからである。奉納された品々が、「一神」分のものだけであることが、この神社には二座の祭神がおられるはずなのに、一座しか判明していないということに関して重要視されている。つまり、この時点ですでに、もう一座の祭神は不明になっていた、ゆえに、奉納品が「一神」分しかないのである。

その後、建武二年(1335)九月、大内弘幸も玉祖神社の造替を行なった。「重建目錄」から、社殿の構成は鎌倉時代とだいたい同じであったと考えられている。

文明十一年(1479)、大内政弘に宛てた「一宮玉祖神社御神用米在所注文」から、玉祖神社の社領が佐波郡から吉敷郡の広範に及んでいたことがわかっている(大前村・宇野令・湯田保・黒河保・千代丸・下松出作・富海保・西仁井令・佐波令・平井など10ヶ所)。

明応六年(1497)、大内義興は「周防五社詣」で 玉祖神社に参詣し、神馬を寄進した。

近世~現代の玉祖神社

天正十七年 (1589)、毛利輝元が社領200石を寄進。この年から文禄五年(1596)までの「打渡坪付帳」には、法金剛院・得楽坊・正満坊・善得坊・正法院・宝持院・蔵満坊・行泉坊・菊楽坊の九社坊の名があったというから、神仏習合して僧坊も建ち並ぶ盛大な神社であった姿が想像できる。毛利家当主からの崇敬が篤かったこともうかがえる。しかし、慶長三年(1598)の火災で、これらの社坊や社殿はすべて焼失してしまった。慶長十四年(1609)になってようやく、社殿だけ再建されたが仮殿にすぎないものであって、かつての姿は失われてしまった。

慶長十四年(1609)、毛利秀就が社殿を再建
寛延三年(1750)、毛利宗広が本格的な社殿造替工事を行う
安政元年(1854)、藩主による社殿の大修繕
明治四年(1871)、太政官布告により、国幣小社となる
明治六年(1873)、佐野の若宮社が摂社となる
明治十年(1877)、浜宮御祖神社が摂社となる
明治十一年(1878)、官費による社殿の大改修
大正四年(1915)、国幣中社に昇格

戦後、社格制度は廃止され、玉祖神社は神社庁の別表神社となった。特殊神事が維持できなくなるなど、困難な時期もあったが、神社の関係者、氏子の方々などのご努力により、現在は復活され、貴重な文化財として伝えられている。

玉祖神社・みどころ

創建時期がわからないほど歴史が古い神社であるが、火災によって社殿は失われており、古来創建当時の社殿、重源や大内弘幸による造替工事が行なわれた当時の社殿は見ることができない。現在の社殿は寛延三年、毛利宗広が再建し、明治時代に大修築工事が行なわれた建物である。目に見える建造物よりも、由緒ある長い歴史こそがこの神社のみどころといえる。

社宝がたいへんに貴重なものばかりだが、これらは一般の参詣者にはあまり関係なさそうである。国指定文化財として、俊乗坊重源造替目録、大内弘幸重建目録。重要美術品として、九曜巴紋双雀鏡 。防府市指定文化財として源義経吉包の太刀。ちょっと変ったところで、天然記念物として、日本鶏黒柏。

付近にあるみどころとして、祖先神の墓所とされる「玉岩窟」、景行天皇西征ゆかりの「宮城の森」が、神社由緒看板で紹介されている。また、『山口県神社誌』で境内神社として記載がある浜宮御祖神社と若宮社も、由緒看板で付近のみどころとなっている。『神社誌』の境内案内図にも二つの神社は載っていないし、「昭和五十七 年(1982)に山陽自動車道建設に伴い、浜宮御祖神社を旧社地北方150メートルの地に奉遷した」とあるから、境内にはないのだと思う。

なお、社叢が山口県指定自然記念物樹林として、防府市指定文化財となっている。満喫しよう。

鳥居と神門

鳥居の写真

神門の写真

神門は木造流造、小門付き。

拝殿 & 本殿

拝殿の写真

 

中世から続く本殿は江戸時代の火災により焼失。寛延三年に毛利宗広が再建したのが現在の建物。明治十一年に大規模な修繕工事が行なわれた。

日本鶏黒柏

黒柏説明看板の写真

日本古来のニワトリ。名前のとおり全身真っ黒で、嘴や足、爪なども黒っぽい色だと書いてある。どこで飼育されているのか、見付けられなかった。

自然記念物 玉祖神社樹林

天然記念樹林説明看板の写真

どの木がなんなのか、まったく分らないけれど、キシュウナキリスゲの産地としては県内唯一で、学術的価値がとても高い、と書いてある。

お守り

お守りの写真

お守りの写真

玉祖神社だけに、玉で作ったお守りが素敵。

ミル

土産物に最高だけど、ちょい高い。ホンモノの証拠だよ。

ト・ホンホ

さて、ご利益のほどはいかがなものかな?

玉祖神社写真集

アクセス

防府駅からタクシーを使いましたが、玉祖神社前というバス停があります。

参照文献:三坂圭治先生『周防国府の研究』  昭8刊 マツノ書店様 復刻版 昭和59年 、御薗生翁甫先生『右田村史 ・昭29年刊』 マツノ書店様 復刻版 昭和63年、山口県神社庁様『山口県神社誌』、玉祖神社様由緒看板ほか案内看板

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