
『大内氏実録』晴賢家人に見出しがある人
ミル軍記物頻出の「陶内××」「陶兵××」を全部集めるなんてすぐには無理ですから、とりあえず、『大内氏実録』に見出しがある方々だけを抄訳してます。「叛逆」と「陶晴賢家人」に伝がある人物ってことです。郷土史のご本を調査した段階で、もう少し重みづけできる可能性は感じてますが、限界があります。
伊香賀房明
「幼名市次郎(『大内義隆記』)、のち民部少輔となる(『異本大内義隆記』)。
晴賢が叛こうとしたとき、義隆を幽閉するべきか、殺害するべきかを房明、江良房栄、野上房忠と相談した。房明は、お家にとってこれに過ぎる大事はない。叛くならば義隆一人だけではなく、その子・義尊も殺害するべきである、と提案した。さもなくば、お家の憂いを消すことはできない。大友晴英は義隆の猶子だから、これを豊後から迎えて当主とすればいい。そうすれば、九州も分国とすることができると意見したところ、これに決定した(『義隆記』。『異本義隆記』では、野上房忠の提案とする。どちらが正しいのかは不明だが、ひとまず『義隆記』の説に従う)。
厳島の戦いで殉死した(『吉田物語』)。」『大内氏実録』巻第三十 列伝第十六 陶晴賢家人(原文文語文)
柿並佐渡守
柿並氏については本家サイトに項目を作ったので、佐渡守さんについてもそちらに移しました。以下をご参照ください。
宮川甲斐守
「名前不明。
十六歳(『重編応仁記』)で晴賢の父・興房に従って船岡山の戦いで功績をあげ(『重編応仁記』、『棚守房顕覚書』)、将軍・足利義稙から感状と太刀を賜った。その後、所々の戦いで広くその名を知られた(『棚守房顕覚書』)。
晴賢が山口を襲撃した時、甲斐守、江良房栄とともに、将として軍を率い、防府口より入った。
天文二十三年五月、高津大炊助とともに、山代十三郷の監軍となって毛利氏に備えた。六月五日、山代兵を率いて安芸・佐西郡で毛利軍と戦い、平良宮内まで進撃したが、馬が勇み立って懸崖(高くそり立った崖)から落ちて亡くなった(『棚守房顕覚書』)。五十九歳だった(『重編応仁記』で、船岡山の戦いで十六歳だったことから推測。『棚守房顕覚書』に、 陶内宮川甲斐守、馬がはやり、かけほらへ落、死にけり。 彼仁在京舟岡の合戦以来、 度々の高名せし人なり。両弓がけの、右の弓かけをはづしたるばかりなり。 此を見る人、力たまりに如此と沙汰してほむる成とあり。 両弓がけ言々、己は解し得ず)。」『大内氏実録』巻第三十 列伝第十六 陶晴賢家人(原文文語文)
ミル『棚守房顕覚書』の意味不明箇所。要は甲斐守さんが剛の者だってみんなして褒めてるわけで、何を根拠に褒めてるかが問題ですよね。両弓かけというのは、五本の指全部をつかって強弓を引くことだと、AI 検索で一度だけ出たんですよ。でも、二度とは出なかった……(なんで?)。それはいいとして、『実録』の「力たまりに」の部分は、宮島町から出ている『棚守房顕覚書』では「カタマリテ」なんです。注釈に、「カタマリというのは拳が堅固の意味か」とありました。確かに先生方すら意味不明ならわかるはずないです。要するに、当時の都市伝説にもなった剛の者でした、それに尽きます。
五郎そんな剛の者でもやられちゃうなんて、悲しいな……。馬が暴れて崖から落ちたって事故死みたいに思えるけど。それも言い伝えかな?
じつは、宮内まちづくり委員会の『宮内の歴史と文化』というご本では、かなりの紙幅を割いて甲斐守さんについて調査なさってます。それでも謎だらけです。今は時間がないですが、そのうちゆっくりと拝読したいと思います。


江良房栄
「丹後守となった(『義隆記』、『異本義隆記』、『言延覚書』、『棚守房顕覚書』、『滞在日記』、『吉田物語』)。
晴賢謀叛の際、伊香賀房明、野上房忠と密議に参加した。
山口襲撃の時、宮川甲斐守とともに、防府口より入った。
天文二十一年六月、大内義長は備後国境の事を毛利氏に依頼したので、房栄を安芸諸城に派遣した。
二十三年、晴賢に従って玖珂郡岩国に行き、神領兵の監軍(軍隊を監督する役目)となった。弘治元年三月十五日、警固船五十隻を率いて佐東に入る。塩船二三隻を奪い、厳島を襲おうとしたが、家来の兵一人が海に堕ち、厳島に行き着かずに岩国に帰った(『棚守房顕覚書』)。
十六日、弘中隆兼に呼ばれて、その陣営・琥珀院に行く。隆兼の子・中務が晴賢の依頼によって誅を加える、と大声で言い、伏兵が出て来て房栄を攻撃した。終日戦って、三人に傷を負わせ、房栄も重傷を負って門柱によりかかったまま、倒れずに死んだ(『言延覚書』、『棚守房顕覚書』)。三十九歳だった(祈願状)。
晴賢が房栄を殺害したのは、房栄が勇敢な上に賢く、晴賢家人の中で右に出る者がなかったので、まずこれを殺害し、晴賢を補佐する者を除こうとする毛利元就の策であった。
房栄は書を善くしたから、人をやって書を求めさせると、房栄は辞退せずに応じた。よって、その筆跡を模し、房栄が元就に宛てた密書を偽造した。晴賢が厳島を取ることは毛利氏にとって不利なので、厳島を攻撃させないようにすると書いた密書を作らせ、 軍議の席にて武官に示した。
これに先立ち、晴賢も天野慶安に命じて元就を騙し、偽りの内通をさせていたが、元就は(そうと知りつつ)故意に慶安を厚遇していた。この日、慶安も軍議の席に加わっており、晴賢にこの件を報告した。そこで、晴賢は大挙して厳島を取ることを房栄に相談すると、房栄は不可である、として一心に諫めた。晴賢は慶安が知らせてきたことと合致していたので、弘中に依頼して房栄を殺害したのだった(『吉田物語』)。上下こぞってその死を惜んだという(『言延覚書』)。」『大内氏実録』巻第三十 列伝第十六 陶晴賢家人(原文文語文)
五郎陶入道が江良って人を騙し討ちにした理由だけど、やらせ感半端なくて、笑うこともできないね。
ミル「勝者による捏造」これに極まれりって雰囲気の脚色だ。江良が毛利に内通していたのは本当で、単に「報酬安すぎる」って理由で毛利方と揉めたって説を聞いたことあるよ。
五郎何その、海賊みたいな思想。初めて聞いた。
ミル某ゲーム会社の脚色。まあ、殺されたことは事実なので、何かしらわだかまりがあったことは事実っぽいけど、それ、もはや真相は闇。でもこの「江良」って人、なんと大内氏当主たちと並んで『防長人物誌』に項目あるんだよ。家臣の家臣の分際で。つまりは、事情はどうあれ、後世の人々から、有能で立派な人物として事蹟を記録すべしって見なされたことだけは確かだね。
三浦越中守
「名前不明(諸軍記物では弘中隆兼などと同列に記すが、『棚守房顕覚書』に陶内とあるので晴賢家人である)。
晴賢は厳島に渡ろうとし、まず越中守に海上を巡視させた。越中守は厳島、草津、仁保島等を巡って戻り、報告をした。そこで晴賢は厳島に渡り、塔岡に陣を置いた。
毛利軍が襲撃すると、将兵は皆、塔岡に群集し、重なり合って戦う隙間もなく、全軍が散り散りとなって逃れた。晴賢が自殺しようとすると、越中守がこれをとどめ、己れが殿戦(しんがり)し死を以て防ぐ、と晴賢を逃し、青海苔の嶮(険しい所)にたてこもり、毛利軍の追撃を待った。小早川隆景が皆に先立って晴賢を追い、越中守はこれを防ぎ、赤川左京亮元保と槍を合せた。
越中守の所には十六人の兵がいたが、皆、強く勇ましく「十六騎武者」と称えられていた。隆景に目標を定めて力戦し、隆景の近臣・南勘兵衛、山県勘二郎、草井藤市、内海十郎及び同朋井上一忠等がこのために死んだ。隆景自らも槍を取って戦い、三か所に傷を負った。元保はこれを見て越中守にかまわず、隆景を救った。
吉川元春が隆景の急を聞いて駆けつけ、越中守の兵二十余人は皆死んだ。越中守は石に腰をかけて休んでいた。内藤内蔵允、高弥三郎がその背を射ると、二箭皆命中した。越中守が槍を取って立つと、二宮木工助が向かっていき、越中守は木工助と戦って刺され、槍刃が脇から肩に出た。越中守は倒れ、井尻又右衛門がその首を取ろうと駆け寄ったが、越中守は転んで谷に堕ち、内藤内蔵允に首を取られた(『吉田物語』、『棚守房顕覚書』。墓は周防国玖珂郡山城本郷の小字釜屋の谷にある)。」『大内氏実録』巻第三十 列伝第十六 陶晴賢家人(原文文語文)
ミル横須賀市役所で手に入れることができる、三浦氏について研究なさっている方々のご本(会報)に、なんと、三浦越中守さんについて記した論考が載っていた模様でして、あの三浦とこの三浦関係有る無しや? って思ったんですけど(市役所に在庫あり)、その情報、広島県の古書店に入荷した本の説明で見たので、売り切れちゃったせいで「第何号」か分からなくなった。研究会の方々のホームページでは貴重論考という扱いではないみたいで、内容案内にも載ってないんです。
五郎あのとかこのとか、なんなの?
ミル三浦って、三浦半島が名字の地じゃん(多分)。東国から西遷した三浦さんが仁保って名乗ったんだよ(山口県的には。なんか後から三浦に戻してるけど)。越中守さんも関係あるのかねと思って調査なさった関東の三浦氏研究者の方がおられたってことだよ。
五郎それ、本読んでもいないのに書けない情報じゃないか。横須賀まで行ってる暇あったら、古書店で即おさえておくべきだったのに。古書って一期一会だからね。
山崎伊豆守
「名前不明(系譜は名を興守とし、子・右京進、名を隆次とするが、興字、隆字を名とするはずがない。 内藤隆世に勧めて杉重輔兄弟を撃たせた山崎右馬允はこの伊豆守の初名ではないかと思われる) 。⇒ 内藤隆世
都濃郡須々万奥村の熊毛山(船岡山、茶臼山ともいう)城主。
子・右京進、名前不明、同真光院山城主(『地下由来書』)。」『大内氏実録』巻第三十 列伝第十六 陶晴賢家人(原文文語文)
山崎伊豆守子・右京進
「名前不明。都濃郡須々万奥村真光院山城主だった(『地下由来書』)。」『大内氏実録』巻第三十 列伝第十六 陶晴賢家人(原文文語文)
勝屋右馬允
「(系譜は興久、相良遠江守武任の弟とする。『武任申条々』から察するに、武任には兄弟親族はないと思われる。それはともかく、右馬允が遠江守の弟であったなら、晴賢が殺さないでおくだろうか)。
都濃郡須々万奥村殿浴山城主(『地下由来書』。勝屋淡路守、同若狭守の名が見える)。」『大内氏実録』巻第三十 列伝第十六 陶晴賢家人(原文文語文)
江良弾正忠、江良主水正、伊香賀左衛門大夫、宮川伊豆守
「江良弾正忠、名は賢宣(『地下由来書』は興綱とするが、古文書には賢宣とある。これで晴賢の家人であり、興字、隆字 を名とすることは誤りであると知るべきである)。
都濃郡須々万本郷村遠徳山城主(『地下由来書』)。
弘治二年、毛利軍が進入するのを防ぐために、江良主水正、伊香賀左衛門大夫と、本郷沼城はそばに大沢(沼)があって地の利を得ていたから、おのおの居城をすててここにたてこもった(沼城は、もと誰が守る所だったのか分らない)。
義長は須子下総守、三輪兵部丞等を援軍として派遣した。
四月(四日より前))毛利軍が攻撃してきた。江良主水正は出陣し、陶鶴千代丸(右馬允隆康の遺児))に斬られた。⇒ 陶鶴千代
二十日、また攻撃され、迎え撃ってこれを打ち負かした。伊香賀左衛門大夫は追撃し、鴈田で渡辺小三郎長と戦って死んだ。
翌日、毛利軍撤退。勝屋右馬允は追撃し、白砂川で松原将監進氏信に射られ、坂新五左衛門尉元祐に斬られた(『松原系譜』。右馬允の刀が松原氏に伝えられている。空穂は須々万城の某所蔵。その蓋に登藤の徽章がある。もとは空穂中に上差の矢と、大麻の玉串とが収めてあったという。また登藤の差物があり、福川村の福田某が所蔵した。徽章の登藤は竪三尺四寸三分、横三尺三寸八分、花は銀泥、葉は青漆である)。
七月十日、また攻撃される。
九月二十二日、また攻撃。この日、須子下総守、三輪兵部丞等二十余人及び城兵十三人が戦死した(古文書に城兵は町野口で戦死、と見える。須子等は死んだ場所が分らない)。
弘治三年三月二日、沼城陥落。山崎父子、自殺(墓銘、系譜)。
江良弾正忠、宮川伊豆守は毛利氏に降った。
四日、毛利氏は江良、宮川を仮の城督とした。この二人について、その最期は分らない。」『大内氏実録』巻第三十 列伝第十六 陶晴賢家人(原文文語文)
空穂(うつぼ):矢をまとめて入れて、腰に付けておくための筒形の道具(『漢字源』)
野上房忠
「幼名道祖童(享禄二年九月三日文書、当時既に小守護代であった)、はじめ平兵衛尉(『義隆記』)、のち隠岐守となる(『言延覚書』、『棚守房顕覚書』、天文二十四年十二月十三日文書)。周防小守護代(寛正二年に野上隠岐守、文明八年に野上平太郎と古文書にあり、大永四年に野上右馬助と『棚守房顕覚書』にある。房忠の祖先で皆周防小守護代であった)。
晴賢が叛した時、伊香賀房明、江良房栄と謀議に加わった(『義隆記』、『異本義隆記』)。義長が且山に逃れると、房忠は晴賢の遺児・鶴寿丸を背負ってこれに従った。義長が長福寺で自殺すると、房忠は鶴寿丸を刺してこれに殉死させ、自らは鶴寿丸に殉死した(『言延覚書』、『棚守房顕覚書』)。」『大内氏実録』巻第三十 列伝第十六 陶晴賢家人(原文文語文)
陶氏関係者(家人以外)
重見通種
「因幡守。伊予の河野氏の身内である。わけあって出奔し周防に来た。義隆は安芸国西条の木原に領地を与え、陶晴賢に身柄を預けた。晴賢は厚く待遇した。厳島の合戦に従軍。
毛利軍に捕らえられると、自殺させてほしいと願い出た。 元就は通種の人となりを愛し、 また名士であることからその死を惜んだ。近臣に命じ、 通種は晴賢とのあいだに主従の恩義はなく、既にその分(よしみ)は尽くしている。今は考えを変えて毛利氏に従うように諭したが、通種は聞き入れなかった。
元就は強引に、もし命に従わないなら西条に残している二子を捕へて来て、目の前で殺すであろう、と伝えた。通種は言った。某は陶氏の恩をうけたので、入道と生死を共にしようと望んでいたのに、隔てられて捕虜の身となってしまうなど、どうして予期したろうか。元就の誠意はかたじけないけれども、いっそのこと死を賜らんことを願う。子等のことは西条を出る時既に覚悟していた。天の定めのままであるだけだ。
そこで元就はやむを得ずその願い出をゆるし、二子には扶持を与えるだろうと告げた。通種はこれに感謝して有浦で切腹した。 二子は毛利氏に扶持を与えられ、子孫は今に続いている(『重見系譜』、『木原系譜』、『吉田物語』)。『大内氏実録』巻第二十八 列伝第十四 叛逆(原文文語文)
渡辺可性 & 宗阿弥
「渡辺可性は狂歌に優れていた。 宗阿弥は和歌を好んだ。 陶氏の同朋だった。厳島合戦で二人は捕虜となった。元就は、各々に一首を作るよう命じた。
可性:懸てしも頼むやもりのしめだすき命ひとつに二つまきして
その日、毛利氏の兵が注連縄(しめなわ)を二重襁(せおいおび)として相印としたことを詠んだのである。
宗阿弥:名を惜む人としいへと身を惜むをしさにかへて名をば惜まじ
元就は彼らの歌に感心して放免したという(『吉田物語』)。」『大内氏実録』巻第二十四 列伝第十 文苑(原文文語文)
参考文献:『大内氏実録』、『棚守房顕覚書』

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