簡略通史

大内庭園全年表

2022年3月26日

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大内庭園全年表

編集途上ではありますが、年表は必須なので公開しておきます。戦闘などについての記述が少なく、文化史偏重な気がしますが、基本は文化史の家ですね。こちらの皆さま方は。もう少し整理するつもりなので、漏れ欠けその他諸々ある可能性がございます。整理がすみましたら、この文言は削除いたします。なお、元号は整理しつつこれから入れます。

重要事項一覧

611 琳聖太子来朝(2)、佐波郡多々良浜上陸、摂津で聖徳太子に拝謁、大内県と多々良姓を賜る(興隆寺縁起)
613 琳聖太子興隆寺を創建
   八代正恒、多々良姓を賜る
703 行基、今山薬師堂創建
806 清水寺創建、山口最古の寺院(およそ)
809 平八幡宮を宇佐から勧請
827 大内茂村、下松から妙見社勧請
859 朝倉八幡宮を宇佐から勧請
931 茂村、大内矢田の桜木神社を勧請
1089 長野長者・平忠平大内長野八幡宮を勧請
1104 仁壁神社、宮野住吉から現在地に移る
1151 仁平寺、鎮守山王社創建
1152 在庁官人として史料に名前が現われる、周防権介任命、権介世襲となり、大内介と称する(およそ)?
1178 多々良盛房、弘盛、盛安、忠遠流罪から召還★盛房帰国後まもなく国衙在庁官人最高位「権介」就任
1182 周防権介多々良名初見?(東大寺文書)
1183 源平合戦で源氏方として軍功をあげる
1184 弘盛周防権介任。「大内介」と名乗る(およそ)
1186 周防国東大寺造営料国に、重源入国
1192 弘盛の杣出し妨害が幕府に訴えられる★弘盛の頃、地頭、小武士団を配下とし有力豪族となっていた証左
1199 平子重経、源久寺創建
1200 散位盛綱、権介弘盛の名前、国庁官人連署に見える
1206 大内満盛瑞雲寺を建立(2)
1254 山口の名初見
1257 弘貞興隆寺搥鐘施入、銘文に興隆寺の名初見
1281 1281 多々良弘貞、元寇の役に出陣、弘貞、弘安の役に参戦(2)
1282 多々良女(★弘貞妹か)氷上山興隆寺に田地寄進
1286 弘貞死ぬ
1288 重弘安養寺創建
1300 弘家死去
1308 弘幸妙見社の神託で大森銀山を発見、採掘開始
1309 弘幸、岩国に永興寺創建
1312 重弘、阿弥陀寺領取り上げに反抗し、国庁と対立、阿弥陀寺に立て籠もり国庁目代と合戦、勝利。重弘、乗福寺建立(およそ)
1318 重弘、国庁に放火、吏員を追捕、国司上人罷免に成功。東大寺衆徒連署して幕府に国司の復職を訴え
1320 重弘死去
1325 虎関師錬、乗福寺鐘名選
1332 北条氏に味方する?
1333 鷲頭長弘、周防守護補任
1334 乗福寺勅願寺となる(南朝)
1335 北朝につく?、弘幸玉祖神社再建
1336 大内長弘、厚東武実と足利尊氏を援助。長弘周防守護、武実長門守護任。★大内氏一族は初めて武士団に組み入れられた。乗福寺勅願寺となる(北朝)
1341 氏寺・興隆寺放火、焼失。
1344 弘幸、興隆寺再建造営料寄進
1345 乗福寺の塔、周防の利生塔に充て、寺格甲刹に準ずる
1349 弘幸、興隆寺本堂再建
1350 弘世、石見出兵、高師泰を討つ
1351 大内弘幸父子南朝帰順、弘世、南朝の周防守護となる(2)
1352 弘幸、仁平寺本堂落成供養のため3月3日に鎮守山王社で法楽舞。6日弘幸死去(古熊永興寺に葬る)。2月弘世、鷲頭荘などで合戦(2)、弘世、仁平寺本堂供養会
1353 足利直冬、興隆寺を祈願所に。弘世、本国寺(現本圀寺)創建(およそ)
1354 興隆寺別当に、妙見社恒例の神事等を先例により興行させる
1355 弘世、周防を平定(2)。守護になる?。(2)長門に進出厚東義武を攻める
1357 弘世、興隆寺条規三箇条を定める、長門一の宮に長門平定祈願
1358 霜降山城を落とし、翌年長府四王司山の戦いで厚東氏を九州に敗走させる、1月弘世、厚東氏を破る(3)。南朝方長門守護となる(2)
1359 長門豪族豊田氏を攻める
1360 山口開府(およそ)(4)~1365
1363 北朝に帰順、周防長門守護(6)九州亡命の厚東氏南朝転向
1364 豊前馬ヶ岳に菊池・名和・秋月・厚東連合軍を攻める。大敗し香春山方面に敗走。長門を厚東氏に返還することを条件に和睦。山口に引き揚げ。九州で敗北。弘世、初めて上洛(2)石見守護
1365 弘世、義弘松崎天満宮を再建遷宮
1366 弘世、益田兼見と石見青龍城を攻める。石見平定。弘世長門国を厚東氏に返す意志なく、再び九州進撃の態勢に菊池厚東軍赤間が関に上陸して合戦。しかし厚東軍次第に戦意をうしない九州勢も手を引く
1369 竪小路に祇園社勧請
1370 厚東氏滅亡か(およそ)(2)、住吉神社に本殿造営寄進(2)本殿再建遷宮
1371 義弘、九州出兵
1372 九州探題と大宰府攻略、明の使者・趙秩、朱本来る
1373 明の使者・趙秩来る(およそ)?趙秩再度山口入り、春屋妙葩らと詩文を応酬。10月下旬山口を去り、帰国、「山口十境詩」、北野小路に北野天神勧請
1374 妙見社上宮再建上棟、翌年4月10日遷宮、清水寺鎮守・山王社本殿建立、義弘長門の守護
1375 弘世、松崎天満宮再建、熊野権現勧請(およそ)
1376 弘世石見守護解任に起り南朝に転向しようとし、細川頼之諭す。義弘、石見の守護
1378 弘世、興隆寺大坊の領所寄進
1379 義弘、初めて朝鮮に使者。対朝鮮交易の開始。?
1380 義弘長府栄山に杉入道智浄ら攻め滅ぼす、ついで安芸国で叔父師弘を攻め、鷲頭氏などを討つ。5月満弘挙兵(およそ)(2)、10月弘世死去(2)
1381 義弘、満弘兄弟内紛?
1382 問田氏を氷上山二月会射手役・弓太郎とする条規定まる
1383 二条良基より「連歌十問秘抄」を送られる
1386 興隆寺に舞装束寄進、正寿院建立
1389 義満に供奉して上洛(4)、普門寺天神像
1391 氷上山事書六箇条を定める、明徳の乱鎮圧のため出陣
1392 明徳の乱鎮圧、1月和泉、紀伊の守護(3)。10月義弘の斡旋により、南北朝合一成る(3)
1393 義弘、興隆寺本堂と塔を修理、舞童制定める、足利氏の一族に准ずる身分とされる
1394 上洛要請拒否し朝鮮貿易に専念、北山別荘新築の不易拒否、朝鮮貿易?
1395 今川了俊失脚、朝鮮貿易拡大。大蔵経を求めて朝鮮に使いを送る(2)?
1396 大蔵経を求める、禅昌寺創建、朝鮮貿易開始?
1397 九州で満弘戦死、問田地蔵院創建(およそ)
1398 九州出兵、菊池・少弐鎮定、朝鮮回礼使朴惇之を歓待
1399 朝鮮に土地要求、応永の乱(6)、弘茂周防長門守護?
1400 兵部卿師成親王山口下向、法泉寺に住む(異論あり)、弘茂、周防長門守護、盛見討伐命令を受ける(2)、盛見いったん九州へ逃れ大友氏を頼る
1401 大友援軍あり長府上陸、弘茂を討ち山口に凱旋、弘茂に味方した豪族ら降伏。弘茂は長府盛山城で敗死。弘茂に勝利?、大内小野志多里八幡宮再建(大内家臣小野弘兼が宇佐から勧請)
1402 盛見、長府で弘茂を討ち(2)?山口凱旋
1403 盛見山口凱旋、周防、長門守護、翌年豊前筑前守護、周防長門安芸石見掌握(およそ)周防長門守護
1404 国清寺創建、2月興隆寺本堂修造供養会★1349弘幸再建の本堂、仁王堂、鐘楼、妙見社上宮、山王社などの修築完成による、闢雲寺創建、5月家督を認められる(およそ)?(2)、豊前筑前守護
1406 高嶺山麓に安芸厳島神社を勧請
1407 唐本一切経を求める
1409 興隆寺に輪蔵を建て一切経を収める、冬上洛(2)
1410 「蔵乗法数」刊行、鷲頭弘忠康福寺建立(のちの大寧寺)
1414 国清寺経蔵規式(蔵院須知)制定
1415 「畊雲千首」自書送られる
1418 仁平寺日吉山王社の鰐口鋳造(現在光巌寺に)、宇佐八幡宮造営開始
1420 興隆寺に土地寄進、宇佐八幡宮神輿奉納
1423 大寧寺に改名、大内氏の菩提寺に
1425 少弐氏蜂起、九州に出陣?
1426 大般若経理趣分刊行
1428 上洛
1429 帰国、持世闢雲寺を鳴滝に移す、盛見天神画像賛を得巌に所望
1430 持盛、観音寺の仏殿建立
1431 宇佐神宮完成、筑前に出陣、少弐大友と合戦、6月九州出兵、筑前深川にて戦死(5)
1432 2月持盛持世兄弟内紛、翌年4月持盛豊前国で討死
1433 持世、豊前で持盛を討つ(2)、持盛敗死、家督。少弐討伐の御教書?
1436 九州平定(2)
1437 九州勢を討ち、1月山口凱旋(2)
1439 百姓逃散禁止(壁書)
1440 上洛
1441 6月嘉吉の乱、翌月関連死(4)教弘家督
1442 瑠璃光寺五重塔完成(5)
1444 教弘、妙見社上宮再建遷宮
1449 上洛、大蔵経興隆寺に寄進
1451 明との貿易開始(5)
1452 師成親王御筆「李花集」相伝
1453 「琳聖太子日本入国記」を求める、朝鮮から「通信符」(5)
1454 雪舟来る(およそ)(2)?、守護職が亀童丸に。築山館造営(およそ)、瑞雲寺再建、曹洞宗龍福寺に
1455 大功円忠招聘、妙喜寺開基に
1459 父子氷上山参拝、祇園社を水の上に移築再建、壁書七箇条
1460 非家人の養子の禁止(壁書)
1461 雪舟招聘(2)(諸説あり)?、築山館(およそ)?山口から領国各地の到着日数(壁書)
1462 調布丈量の制(壁書)殺人禁止(壁書)
1463 興隆寺三重塔完成
1464 11月細川氏と河野通春合戦。幕府より援助要請
1465 惠鳳来る、「飛松の記」、築山館完成か(およそ)8月四国出兵(3)、幕府から帰国命令。9月、通春に味方する。合戦関連死(4)、10月河野氏を援助する政弘に対し幕府の討伐命令が出る(2)
1466 遣明船博多出航
1467 雪舟大内氏の遣明船で明国に(3)。応仁の乱参陣のため上洛(6)、8月京都入り、佐波川渡しの船賃定める(壁書)
1468 陶弘房戦死
1469 雪舟帰国、政弘石城社を造る
1470 大内教幸挙兵、12月陶弘護教幸に叛き挙兵(2)。仁保弘有戦線離脱
1471 大内教幸の叛乱鎮圧(2)?、馬ヶ岳で自害、★子・加嘉丸は宇佐に落ち延び、「山口家」の祖となったという、弘房夫人仁保に安養寺建立(後瑠璃光寺と改称)
1472 内藤弘矩長門守護代
1473 朝鮮貿易再開
1474 雪舟「山水小巻」を描き、弟子等悦に与える。
1475 興隆寺法度制定(興隆寺文書)
1476 一条兼良「伊勢物語愚見抄」書写送る
1477 幕府と和解し離京(3)周防長門豊前筑前守護、安芸石見所領安堵、11月引き揚げ山口へ帰還
1478 今八幡宮社頭および神領の条法を定める、九州出陣、少弐をうち、豊前筑前平定(3)、秋月弘種為世筆「古今集」送る、周防松崎社祭礼に精進
1479 興隆寺本堂再建上棟、朝鮮に使者、仏像を贈り、長門安国寺のため大蔵経を求める、4月三条公敦下向(2)
1480 6月宗祇招聘(3)
1481 奉行人掟(壁書)、金剛般若経刊行(教弘冥福のため。跋文で琳聖29代後胤と自称)、義政に掛絵三十二幅を見せ、三幅一対を献上、正月の椀飯御節など饗膳(方式)を定める(壁書)
1482 興隆寺法華経二十八巻の開版開始、延徳2完成、吉見信頼陶弘護を刺殺
1486 領国内伊勢参拝者への餞別禁止(壁書)兵船赤間が関役法度制定(壁書)
1484 弘護肖像賛、金銀売買の帰順を京都の法にあわせる命令(壁書)、阿弥陀寺焼失、再建
1485 興隆寺山門法界門建立、撰銭禁止、米の売買に関する禁止令(壁書)
1486 父子氷上山上宮参詣、6月教弘に従三位追贈(2)、8月興隆寺勅額を賜る(2)、家譜完成(2)。雪舟雲谷庵に住み、天開図画楼となづけ「山水長巻」を画く(2)、夜中の往来、念仏禁止(壁書)、了庵桂悟来て「天開図画楼記」を造る
1487 分国支配強化のため掟書・法度・禁制を次々だし領内引き締めを進める(壁書)、法界門に氷上山の勅額を掲げる、赤間が関と豊前小倉門司赤坂間の渡し賃を決める(壁書)、大蔵経を求める
1488 亀童丸「義」の字拝領、上京などの兵船使用の際、日別糧米を給し、船賃・夫賃を払わないと定める(壁書)
1489 宗祇山口再訪「伊勢物語」を講義(伊勢物語山口抄)、身分にかかわりなく大刀をさすことを禁止(壁書)
1490 妙喜寺庭園を造らせた(およそ)
1491 父子氷上山上宮再建遷宮、父子六角討伐のため上洛(2)
1492 築山館築地の上での祇園会見物禁止(壁書)、仁保安養寺隣地に建て替え瑠璃光寺と改名
1493 清水寺観音堂建立、「聚分韻略」復刻
1494 2月に焼失した興隆寺を9月に再興、楽器、舞童皷大小等複製、洪鐘鋳造、今山多聞寺雷で焼失、秋、政弘隠居、義興家督(2)?
1495 宗祇、政弘の援助で『新撰菟玖波集』を編集、9月政弘死去、義興、喧嘩に関する法などを制定(壁書)、猪苗代兼載「あしたの雲」
1497 九州遠征戦勝祈願五社詣、少弐政資を討つ
1499 2月杉武明、興隆寺大護院尊光を家督にする陰謀発覚。尊光豊後に逃亡(2)。年末義稙下向(2)。杉武道、正平版論語集解を復刻
1500 足利義稙を迎える(4)、神光寺に居館を造る
1501 妙見社に九州平定祈願剣奉納、豊前馬ヶ岳救援、少弐・大友を破る
1503 朝倉八幡宮を今八幡宮に合併、社殿造る(政弘合併説もある)
1506 雪舟死去
1507 11月足利義稙を奉じて上洛(4)12月15日出陣、凌雲寺創建、開山は了庵桂悟(2)(およそ)
1508 2万5千を率い上洛、7月義稙将軍復職(5)、山城国守護(3)、管領代となる(3)、周防長門豊前筑前安芸石見山城
1509 東大寺に国衙領四百余町返還
1510 遣明使出発、強風のため引返す
1511 船岡山の戦い
1512 3月従三位、公卿に(2)
1516 4月日明貿易管掌許可(4)貿易独占
1518 管領代辞職、10月帰国(5)、山口大神宮の建立開始、従三位?
1519 内宮完成、翌年外宮完成?11月高嶺大神宮外宮完成(3)。翌年4月内宮完成(3)、6月遷宮(3)、のちに柏原天皇、後陽成天皇勅額下賜、祇園社移築新築
1520 乗福寺火災堂宇焼失、祇園社移築?、高向光定伊勢から下向、6月29日神宮遷宮式、山口大神宮完成、「御鎮座記」成る、熊野社を紀伊から高嶺に勧請
1521 興隆寺本堂再建供養、安芸出兵。安芸武田氏、尼子?と合戦(3)
1522「吾妻鏡」書写
1523 5月寧波の乱(2)、6月鏡山城尼子氏に落とされる(2)
1524 氷上山二月会?のため武役を怠る者に神役武役共に励むよう命じる(壁書)壁書中に臣下に守らしめた条々に儒教的礼法が多かった(壁書)遣明船帰国、義興父子厳島渡海、武田・友田氏と合戦(2)
1525 石見大森銀山採掘開始、厳島参詣?
1526 石見出兵、尼子氏を討つ、百姓の徳政令要求禁止(壁書)、松崎天満宮焼失
1528 7月病のため帰国、12月義興病死(3)
1529 家臣の武備充実のため奢侈を禁止(壁書)、段銭未進など課税に関する条々を定める(壁書)
1530 義隆の請により松崎天満宮再建綸旨、10月完成遷宮、三条西実隆「懐紙書方」を送る、左京大夫任、少弐討伐、九州出兵
1531 乗福寺再建供養、周防国衙にも徳政令適用(壁書)
1532 九州に兵を出す、肥前筑前平定、興隆寺鐘鋳造
1533 興隆寺金皷を鋳造施入、大森銀山奪還、灰吹精錬開始
1534 即位料献上、後奈良天皇から大宰大弐を授かり、昇殿を許される?、以後毎年銀千貫献上、今八幡に鰐口寄進
1535 御所の修理費用献上
1536 5月義隆大宰大弐任官(2)、少弐氏討伐完了?、
1537 12月毛利隆元山口に(3)、筥崎宮法楽和歌興行、「多々良問答」成る、尼子経久大森銀山?占拠
1538 朝鮮に大蔵経等求める、遣明船独占(2)。大友氏と和睦?、
1539 大内版「 分 略」刊行、遣明船派遣(2)?大森銀山奪回
1540 9月毛利氏尼子氏にせめられ、救援。翌年1月勝利(郡山合戦)(2)、
1541 毛利家に援軍、撃退、従三位
1542 厳島神社修築を命じる、遣明船帰国幕府に贈物、1月出雲遠征、6月月山富田城を囲む、6月出雲遠征(3)
1543 出雲で大敗北(5)
1543 遣明船派遣(2)?
1544 玉堂宗条、義隆画像に賛
1545 奢侈を禁じ尚武の壁書を出す、相良武任肥後へ逃亡、正三位
1546 経書輪読、筥崎宮本殿拝殿建立
1547 兵部卿補任、「渡明船法度条々」を定める、遣明船独占、遣明船派遣
1548 今山多聞寺再建、相良武任再出仕、従二位
1549 3月毛利元就来る(2)
1550 遣明使策彦周良帰朝、山口滞在、9月サビエル来る(5)、8月15日仁壁、今八幡宮例祭参詣中止、17日詰問使、9月サビエル布教を許される、11月若山城補強
1551 サビエル布教開始(3)、厳島千句連歌、9月天文の国難(6)8月28日山口進撃、法泉寺に撤退して長門へ、白石龍福寺戦火で焼失、9月1日大寧寺で自殺、2日義尊殺害
1552 3月大友晴英山口に(4)、宣教師に大道寺の再建と布教の許可、山口に日本初のキリスト教会、初のクリスマス、義長改名?宣教師に裁許状
1553 晴英大内氏を名乗る(2)元就晴賢討伐の勅許を申請、翌年許可
1554 元就に吉見討伐要請、5月毛利氏晴英政権と断絶、挙兵(3)
1555 10月厳島の戦い(3)元就11月鞍掛山杉隆康を破る
1556 義長りがちな二月会を先規のとおり例祭を行なう願文、内藤隆世、杉重輔同士戦市街焼ける、4月山口の教会焼け、宣教師豊後府内へ
1557 1月高嶺城建設開始、2月入城(2)。元就沼城攻略、元就に降伏した右田隆量先鋒として氷上の砦をおとす、3月、義長勝山城に逃亡、4月内藤自害、義長も長福寺で自害、毛利氏吉見氏とともに山口制圧、隆元龍福寺を館跡に再建、義長残党問田亀鶴を奉じて障子ヶ岳に挙兵、内藤隆春ら討伐、4月晴英自殺(4)元就周防長門を支配下に置く
1569 10月大内輝弘の乱

凡例

※この略年表は、以下の博物館展示、文化財展示などにある「関連年表」「略年表」類、および信頼できる研究者の先生方ご著作に付属する「関連年表」「略年表」類を参考に作りました。( )内の数字は、それらの参照した展示年表、書籍付属年表類に掲載されていた回数の合計です。日本史受験参考書などの用語集で、何冊の教科書が取り上げている用語か、などと数字を載せているのと同じ感覚です。

凡例:(およそ)とあるのは、参照した年表で「この頃」というような表示になっていたもの。「?」とあるのは、いずれかの資料だけ年月日が異なっていて謎であるもの。なお、展示物、書籍によってはいちいち出典となった古文書を明記しているが、煩雑となるためすべて省略した。博物館の期間限定展示物以外は、現存する説明板や権威ある書籍ばかりなので、書名で安心していただくか、図書館等でご確認ください。

現状、大内氏文化探訪会の方々が出しておられる「文化要覧」の年表が最も詳細かつ、信頼できるものと思われます。ただし、「大内文化」という面にフォーカスして書かれているため、寺院の建立や文化事業などの記述が詳細、かつ、大内氏壁書の事項も盛り込まれるなど素人には難しい部分があることと、分量が増えると「略」年表ではなくなることから、せっかくの貴重な資料をすべて盛り込んではいません。そのかわり、これとは別に「文化史」「壁書一覧」のようなまとめをするときに真っ先にご参照したいと思います。

参照した展示物一覧:歴史民俗博物館「大内氏関連年表」、同「大内氏略年表」、龍福寺博物館「大内氏年表」、凌雲寺文化財案内看板「大内氏略年表」
参照した書籍一覧:『栄光と挫折の譜』

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