人物説明

神代氏 清和源氏・大内水軍に属した後、毛利家臣に

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大内水軍下士官見習い・21世紀版

大内氏配下にあった方々について調べています。拝読しているのが『萩藩諸家系図』というご本なので、滅亡後毛利家に仕えなかった方々についてはまったくわかりません。今回は神代氏についてご紹介します。……と思いましたが、ほとんど何もわかりませんでした。そのうち何かわかれば、ここに繋いでいくつもりです。

神代氏概説

出自は清和源氏

源頼義の兄弟、頼清という人から始まっているという認識です(個人的見解)。その息子・仲宗は理由不明ながら、周防国に配流となります(清和源氏とか言われてもよくわかりませんので、超有名人で、流された理由もはっきりしていたらとても恥ずかしいですが、すみません)。父を訪ねて来たものか、それとも偶然かも不明ながら、仲宗の子・兼継が周防国へ下向。道前領主として土着します。孫の兼綱代に岩国と名乗りました。

この辺り、系図ですと、その下の代から「岩国氏」と書いてあり、ズレてしまいます。大内宗家の系図でも、分家して「○○ 祖」と書いてあっても、但書に「○○ 氏」と書かれるのはその子孫の代だったりしているのと同じ現象かと。

岩国兼綱には三人の息子がいました。兼家(太郎)、兼秀(二郎)、兼末(三郎)です。兼家は日隈城という城の城主として、「日隈氏」となりました。この辺りが源平合戦の頃でして、太郎は源氏、二郎と三郎は平家に味方しました。岩国氏を継いだのは兼秀のようです。その子、兼高が大嶋郡神代保に移り、そこが名字の地となったようです。となると、ここが真の意味での神代祖なのか? と思えど、なんともです。

南北朝期に武家方につき、後に大内水軍に

系図には、大内氏に属したとか、毛利家臣となったとかの明記がありません。はっきりと誰を以て正式に配下となったのかは極めて分かりづらいです。敢えて曖昧にしたこともあり得ますが、そうならば、毛利家臣となったことまであやふやにする必要はないですので、単に書いてないだけでしょう(個人的見解です)。

南北朝期、兼治という人の代の出来事として、『萩藩諸家系図』には、以下のように書かれています。

「兼高六代孫彦五郎兼治は、延元元年(一三三六) 五月、足利尊氏、直義東上するや、大内長弘の麾下に属して直義軍に従い京都に攻上って、叡山の攻撃に向かい、六 月六日よりしばしば官軍と戦った。」

「大内長弘の麾下に属して」という部分が、つまり大内氏配下になったことを意味するのかは不明瞭です。この文章の後に、以下のように続きます。

「その後神代氏は大内氏の世臣となり、大内水軍に属した。」

神代氏が大内氏配下にあったことは確実なのですが、『萩藩諸家系図』、『大内氏史研究』、『大内氏実録』等々にも、正確にいつ誰の代からということが書かれてはいません。典拠がないことなので、適当に推測することは憚られます。

厳島合戦に参加後、毛利家臣に

神代氏の名前は、大内氏について書かれた書物にしばしば登場しており、配下として活躍していたことは確かです。『大内氏実録』の政弘・義興・義隆代にもその名前が見えますし、叛乱家臣の政権になった後も離れることなく、大内(陶)軍とともに厳島に渡海したことが書かれています。水軍なだけに、活躍してもらわねばならない方々だったはずです。

大内氏滅亡後は、毛利家臣となったというのも、もはや普通のことです。ただ、気になるのは、『萩藩諸家系図』に

「晴賢滅亡後は毛利氏に仕え」

と書かれていることです。大内義長政権滅亡に至るより前、厳島敗北後すぐにのように読めるからです。この辺りも、正確に何年何月誰の時に、ということがわかりません。

わからない連続していますが、どこかには書いてあるはずで、現在見ているのが、『萩藩諸家系図』、『大内氏史研究』、『大内氏実録』だけであることをお断りしておきます。

諸研究書に見る神代氏についての記述

『萩藩諸家系図』による神代氏系図

清和源氏の方々は、当然のことながら、清和天皇から系図が始まっております。適当な方々ですと、ほとんど一本線で助かるのですが、神代さんはいくつもの分岐点がありまして。やめて欲しいの一言です。とりあえず、家督が動いていった順番だけ追ってみました。以下の通りです。

清和天皇―貞純親王―経基―光仲―頼信―頼清―仲宗―兼継―兼廉―兼綱―兼光―兼秀―兼高―兼連―兼親―兼氏―兼頼―兼治―兼範―兼定―兼世―兼郷―兼任―広安―重広―忠兼―兼憲―就忠―兼吉―清忠―兼勝―利行―頼純―某

やたら長いと思ったら、大内配下通り越して、毛利家にいつ帰順したのかもわからず、最後まで行ってしまいました……。お名前は大量に出て来ており、枝分かれも多く、子孫繁栄していることがわかるのですが、但書がわずかにしかなく。どこでどうしてどうなったのかは、系図だけからは分かりづらい方々のようです。

『萩藩諸家系図』の解説によれば、兼治という方の代に、大内長弘とともに南朝と戦ったように書かれています。配下となったのはいつからなのか、はっきり書かれていないのも当然で、系図には「大内」の二文字などどこにも見当たりません。とはいえ、毛利家に属したことも明記されていません。これだけでは、何もわからないではないか! の一言です。

そこそこ但書が書かれている方も数名はおられるものの、大内云々、毛利云々もないです。いくつかそれらしきことを拾ってみると、だいたい下のようなものです。あとはせいぜい名乗りくらいしか書いてないです。

仲宗 筑前守、周防国配流 ⇒ ここで流されてきたことが、恐らくは防長との関わりの最初かも。以降それらしき記述が出てくるためです。なお、この人の一代前、頼清の兄弟に頼義という人がおり、そこから八幡太郎義家が出てます。どうでもいいが。
兼継 防州道前成領主 ⇒ ここから正式に周防に落ち着いたらしい
兼綱 岩国権守 ⇒ 「岩国」の名乗り初見
兼光 岩国源太、東限安芸西限府中南限伊予路北限石見ヲ領ス
兼秀 岩国、二郎
兼高 神代、太郎、周防守、後兼成、防州大嶋神代在城 ⇒ ここで、「岩国」から「神代」が分家

『大内氏史研究』による解説

自己申告による系図からは、ぼんやりとしかわかりません。とはいえ、古文書にあたり云々するほどの課題でもなく(そもそも解読不能でありますし)。『大内氏史研究』の中に、神代氏についてまとめられている箇所がありました。そこからわかったのは、おおよそ以下のようなことです。

一、仲宗周防国に配流
二、兼継(仲宗の子)信州から周防に来て、道前領主となる ⇒ 岩国氏
三、兼成代、神代保に居住 ⇒ 神代氏
四、兼治代、大内長弘磨下として、足利直義に従軍
五、子孫は大内氏世臣に、滅亡後は毛利家臣となる

なんとなく、『萩藩諸家系図』とズレている気がするのですが、いずれにしても流れ的には同じです。

『大内氏実録』に名前が見える神代氏

本来ならば、一項目立てて、「有名人」を抜き書きしたいところなのですが、ほとんど名前が出ているだけですので、何も書けません。お名前が確認できたのは、以下の方々です。

政弘期 応仁元年、摂州猪取野に派遣した面々の中に「問田、陶、杉、内藤、広仲、安富、神代を始として」とあり、政弘とともに従軍、活躍していたことがわかる。

義興期 文亀元年のところに、九州馬岡城の合戦部分に「馬岡援兵として先是神代与三兵衛尉を差遣せしが」とある。

義隆期 天文十一年のところに、「夏四月十一日、中島警固兵援軍を請ふを以て、小原隆言、村上掃部介を将とし神代又太郎兼任等を差遣す」とある。これは、厳島神主家との合戦中のことである。

同じく、厳島神主家との合戦のところで、「友田興藤 子広就」の伝にも「神代左馬助」の名前が出てくる。

というような感じでして、名前しか出て来ない上、そのた大勢のうちひとり。さらに、名前といっても姓だけで、誰なのかわからなかったりという具合です。これだけ活躍なさっているので、系図にもダラダラとその経歴を書いておいてくださればと思えど残念ですね。家文書が伝えられているので、そこに何かありそうですが、諸先生方がとりたてて言及しておられぬので、そのた大勢のうちひとりであるようです。

参考文献:『萩藩諸家系図』、『大内氏史研究』、『大内氏実録』

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五郎

こんな感じだとさ、俺もどこかに『陶某』とか載ってたりするかも! でも、それだと、誰だかわからなくて残念だね。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

(いや、君の名は大々的に……)もうちょっと、海賊……じゃなくて、水軍の方たちについて詳しくしりたいよね。多分、それ専門のご研究があると思うんだよね。通史だけからだと、限界がある。

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

毛利家に仕えるようになった日付もわからないとは。誰からなのかも不明とは……。堂々と書くべきことであるはずなのだが。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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