
足利義澄とは?
室町幕府十一代将軍。父は古河公方政知。はじめ、天竜寺香厳院の喝食であり、清晃といった。明応二年(1493)、細川政元が、河内に出陣だった将軍・義稙を追い落とす政変を起こした際、政元によって将軍として擁立された。還俗後、義遐、義高、義澄と改名。明応三年(1494)、正式に征夷大将軍となった。
永正五年(1508)、大内義興が、前将軍・義稙を奉じ上洛してくると、近江に逃亡。京都に戻ることを望みながら、叶わぬまま亡くなったが、その子・義晴、孫・義輝、義昭が後に将軍となった。
足利義澄・基本データ
生没年 1480.12.15~1511. 8.14
父 足利政知、母 武者小路隆光の娘
別名 光晃、義遐、義高
官職等 征夷大将軍、参議、左近衛大将、従三位(後、追贈:従一位、左大臣、太政大臣)
法名 法住院旭山清晃
(参照:『日本史広辞典』、『戦国武将合戦事典』)
- 文明十二年(1480) 出生
- 文明十七年(1485) 将軍・義政の意向で天竜寺香厳院を継ぐと決められた
- 長享元年(1487) 香厳院で出家し、清晃と名乗る
- 明応二年(1493) 政変を起こして将軍・義材を廃した細川政元らに擁立され、還俗して義遐、後義高と名を改める
- 明応三年(1494) 征夷大将軍となる
- 文亀二年(1502) 義澄と改名
- 永正五年(1508) 大内義興に奉じられた前将軍・義材が上洛してくると知り、近江に逃れる
- 永正八年(1511) 京都に戻ることを願いつつ果たせぬまま逝去
(年号等典拠:『日本史広辞典』、『戦国武将合戦事典』)
鎌倉公方と堀越公方
京都が応仁の乱で大騒ぎになっていた頃、その騒ぎは全国に飛び火した。その中には関東での騒乱も含まれる。その騒ぎのなかから、後に北条早雲などが出てくることになる。ま、大内氏には無関係なので、関東の話は飛ばす。
九州に九州探題があったように、関東には「鎌倉府」なるものがあり、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐の関東十カ国の統治を任されていた。九州探題はのちに有名無実化したが、コチラは半ば独立して、幕府の制御が効かなくなった。
足利尊氏が室町幕府を開くにあたり、幕府の所在地は鎌倉がいいか他所がいいか、と家臣らに意見を求めた。すると。鎌倉であれ、他所であれ、よい政治を行っているところがふさわしい場所となります云々、みたいな「建武式目」なるものが教科書または参考書に載っていたはず。まんま鎌倉に幕府再興してもよかったけど、南北朝で朝廷二つになっちゃってるし、京都を離れることができなくなって、そのまま住み着いたらそこが幕府の所在地になってしまった。
というようなことで、鎌倉はここに幕府を置くべきか、なんて考えたくらいの重要拠点。そもそも、なんとなくだけど、東国と西国ってまったく別物なので、懐良親王征西府対策一時出先機関・九州探題とは比較にならない。なので、機関名は鎌倉「府」だし、その親玉……ではなく、責任者も鎌倉「公方」といった。公方なんて名乗っているだけに、そこらの一門衆というわけにもいかず、歴とした足利姓の一門の者が就く決まりであった。
鎌倉「公方」治めるところの鎌倉「府」はなんだか、小型幕府みたいで、なんと関東「管領」なる執事までそろっていた。東国と西国、二つの幕府があるような。
それでも、京都の幕府に恭順して、大人しく関東を治めてくれるのなら問題はない。そもそもそのつもりで身内を任命した。少なくともスタート地点は。
しかし、誰もが権力を求める時代に、大内義興や畠山尚順でも連れて来て長官に据えない限りは、律儀な忠義者は身内でさえ見つからないのが普通。元々貴種であり、さらに「公方」なんて名乗り、半ば独立した機構を形成していて、おとなしく恭順してろというほうが難しい。
鎌倉府は本家本元の幕府と対立しまくるし、足元の関東の連中は騒動を起こすし、でやがては断絶してしまった。
永享十一年(1439年)第四代の鎌倉公方・足利持氏は六代将軍・義教および関東管領・上杉憲実らと対立して討伐されてしまい(永享の乱)、鎌倉府は滅亡した。だが、義教の死後、持氏の旧臣や関東諸将から幕府宛に鎌倉府再興の働きかけがあり、持氏の遺児成氏が新たな鎌倉公方に就任。鎌倉府は一旦再興された。しかし、なおも続く関東での諸々の火種により、成氏は鎌倉を離れて下総古河に移った。ゆえにこれより先は「古河公方」と呼ばれる。
さて、この「古河公方」足利成氏であるが、その後またも幕府と対立し、更には関東でなおもあれこれの争乱を引き起こしたから、もはや京の将軍様にとっては邪魔物でしかなくなった。将軍・義政はここで、異母兄の天龍寺香厳院主・清久を還俗させ、幕府公認の新たな「鎌倉公方」として関東に送り込むことに決めた。政知の「政」の字は還俗に際して、義政より賜ったものである。だが、残念なことに、「古河公方」成氏の勢力が強大であり、政知は鎌倉に辿り着くことすら出来なかった。ゆえにそのまま手前の伊豆堀越の地に留まり、「堀越公方」となった。
大人たちが決めた運命
伊豆の片田舎から京へ
足利義澄は最初、義高といった。堀越公方・政知の息子である。伊豆の片田舎の生まれで、次男であった。ゆえに家を継ぐことは叶わない。父の異母弟である、当時の将軍・義政の命により天龍寺香厳院の院主と定められた。義高六歳の時のことである。この寺は、かつて父政知が関東に下向する前に院主を勤めていたところなので、縁もゆかりもない所ではなかった。
二年後、義高は上洛し、天龍寺に入り僧侶となった。出家後の名は清晃という。以後は、院主となるための修行の日々が続いた。
小坊主から将軍様に
清晃十歳の時、いきなり将軍・義尚の後継者候補として名を挙げられる。この時は結局、対抗馬の義材のほうが正式に次期将軍となったので、彼の身の上にかわりはなかった。
だが、それから四年後、明応の政変が起こり、とうとう、本当に将軍の座に就けられることになってしまった。明応二年(1493年)四月、清晃は還俗して義遐となり、二月後には義高と名を改めた。
すべては自らの意志とは無関係に、回りの大人達が勝手に進めたことであった。それでも、曲がりなりにも「将軍」と呼ばれる身の上になったのであるから、この先にはあれこれと楽しい事が待っているのかも知れない。そんな風に考える無邪気な年頃であった。
しかし、父の政知は既に亡く、生まれ故郷の伊豆は遙かに遠かった。未成年の将軍にはやることもないので、ただ、御所のなかでぼんやりと過ごしていれば良いだけだった。すべては家臣がやってくれる。蹴鞠でもして遊んでいてかまわないのだ。
名ばかり少年将軍
それでも、恐ろしいことはあった。先の将軍・義材(=義稙)が越中に「幕府」を開いて今にも京に攻め上るようなことを喚いたり、その討伐に向かった幕府軍が惨敗するなど、この先どうなるのやら、恐ろしくて夜も眠れなかったろう。更には、義材に味方すると声明する守護が現れたり、勝手に義材と誼を通じる公家だの寺社勢力なども現れたのだ。
だが、何もかもを任せている細川政元は、それらの出来事に臆する気配もなかったと思われる。そもそも、将軍たる義高は政元に何もかもを任せているつもりでも、政元のほうでは「任された」つもりもない。義高などただの「お飾り」。足利家の血を引いており、黙って御所に鎮座しておれば、誰であってもかまわない存在、要するに「傀儡」に過ぎなかった。
義高がそれを思い知らされることになったのは、将軍宣下の儀式の際であった。
将軍宣下の前に、成人=元服ありき。よって、まずは元服の儀式が行われた。ところが、この儀式に参列すべき「烏帽子親」たる細川政元が現れない。理由は、烏帽子を被るのが嫌だから、とごねているとのことであった。
細川政元は周知のごとく、怪しげな修行に凝っている奇怪な人物である。よって、日頃の行いにも他と違うところが多々あった。妻帯していないこともそうだし、服装なども、その修行によっておかしなことになっていたらしい。
少なくとも、重要な儀式に出席するとなれば、烏帽子直垂の盛装で望むのが当然のことであるのに、政元はこの烏帽子の着用が嫌い、ということで有名だった。まあ、奇人変人なので、仕方がないと思えば誰もそれを理由にあれこれ言うことはなかったのだが、将軍様の元服の儀式に烏帽子親として出席するとなると話は別だ。家中の者も何とか説得を試みたのだが、どうしても嫌だという。
義高は何度も使いをやったが、結局政元は現れず、儀式そのものが「延期」となってしまった。今日この日を境に大人の仲間入り、という大切な儀式を心待ちにしていた彼の心はズタズタに引き裂かれた(多分)。
結局、一連の儀式は一週間先に引き延ばされ、十二月二十七日に執り行われた。
この日を境に将軍・義高は「名実ともに」「真の」将軍となった。だが、その立場は完全なる「傀儡」であり、全ては後見人たる細川政元の手に握られている。
なお、儀式当日、政元が平然と「嫌な」烏帽子を被ってやって来たのは言うまでもない。すべては政元無しでは何も出来ないという事実を、義高に思い知らせるための嫌がらせであった(恐らく)。
血塗られた実家
義高にとっては気の毒なことに、彼の実家・伊豆も凄惨なことになっていた。元々、彼の上には茶々丸という異母兄がいたが、これが素行が悪く廃嫡されて半ば監禁状態にあった。ところが、父・政知の死後、牢屋を抜け出してしまった。堀越公方を継ぐはずたっだ義高の弟や、生母を殺害。勝手に堀越公方を自称した。茶々丸自身は討伐され、堀越公方はここに途絶えたが、義高は父のみならず、異母兄はともかく、母と弟を同時に失ってしまったのである。
気が付けば天涯孤独。気の毒なことである。
なお、この堀越公方云々の話には、のちに北条早雲となる人物が絡んできて、いつの間にか世は戦国時代に突入していることに気付くのだった(関東に詳しい人は、応仁の乱からウォッチを始めているから、何をいまさら? ですが)。
今出川嫌い
細川政元の専横は続き、義高は悶々として楽しまなかった。しかし、彼もいつまでも十幾つの子どもというわけにはいかないのである。いつの間にか、二十歳の若者となっていた。この頃になると、義高は政元の意のままに動く「傀儡」から脱皮しようとたびたび衝突するようになる。義澄と名を改めたのもこの頃のことである。
度重なる意見の対立の後、義澄はついに「隠居する」といって政元を脅した。これが文亀二年(1502)のことで、義澄は岩倉金竜寺という寺院に籠もってしまった。義澄の政元への嫌悪感がついに爆発した一件として、各種辞典類でも取り上げられている事件である。「慰諭の勅書」なるものが出された結果、義澄は帰宅せざるを得なかったが。
とにかくも、そこに幕府がある以上、将軍不在の状態は困るのである。「半将軍」などと呼ばれ、政治の実権を握ってはいても、自ら将軍にはなれない以上、誰かしらを将軍位に就けておく必要があったという点が政元の限界とも言える。
これ以外にも、史料にないようなことは数え切れないほどあったと思われる。義澄を大人しく将軍位に就かせ続けておくために、政元としてもできうる範囲でどうでもいい条件は叶えてやる必要があった。そんな中、義澄が政元に提示した条件の一つに、恐ろしいものがあった。それは、足利義材の弟に当たる、義忠の排除である。
将軍という飾りを置いておくためには足利姓のものが必要である。それゆえに、義澄は将軍となっているわけだが、仮に、ほかにもっと都合のよい人物が現われたら、その者が取って代わる可能性はゼロではない。義材が廃され、義澄がそれに取ってかえられたことがその典型であり、つまりは、その意味ではこの、名ばかりの将軍職は不安定なものとも言えた。義澄の本心を尋ねてみることは不可能だが、いなくなったら困る存在として、政元に些細な抵抗を試みると同時に、いつ何時その地位を追われるかもしれないという不安もつきまとっていたらしい。それは、身近にあるいは「取って代わられる可能性」がないとも言えない足利姓の者が存在していたからに他ならず、その人物こそが、義材の弟・実相院義忠だった。義澄はこの「換えパーツ」を排除することで、懸念材料を除去しようとしたのだろう。
実の兄・義材と義澄との関係を考えたら、義忠と義澄のあいだに、親しい交流があったとは思えないが、少なくとも、義忠は、隠居騒ぎで蟄居した義澄の元を「病気見舞い」として訪ねている。
義澄の今出川(義材のこと)嫌いはもはや病的で、石清水八幡宮で、義稙の死を祈願したほどだ(文亀二年、1502)。将軍は義澄であると、最高実力者たる政元すら認めているにもかかわらず、「あれ(義澄)はニセモノで、我こそがホンモノだ」などと喚いている義材は鬱陶くてたまらぬ存在。義忠はその義材の弟なので、「替えパーツ」であることもそうだが、「嫌いな人物の身内」という点でも嫌われて当然のようにも思える……。
「替えパーツ」排除後も残る不安
政元は、義澄の自分への不満が蓄積していると感じると同時に、やはり、「換えパーツ」である義忠の存在を危険視するところなどに、背伸びしてはいても、やはり己の手の内を出ることはかなわないのだ、とほくそ笑んだことだろう。
結局、気の毒な義忠は何の罪もないのに、政元によって殺害され、義澄は「将軍交替」という不安材料を取り除くことに成功したのだった。
こうなると、義澄にとって、残る邪魔者は、政元だけである。とはいえ、自らの地位は政元なしでは保つことができないという自覚もあったと思われる。誰を将軍位に就けるかなど、政元の意向次第で、どうにでもなる。最悪、自らも廃されて追放されるかも知れない――その不安を払拭するために望んだのが義忠の排除だった。政元さえいなければ、何もかも思い通りに行きそうに思える邪魔者ではあるが、果たしてそうなのか。嫌悪感がつのるとともに、いないと困る存在でもあるという事実もあり、なんとも心中複雑で、矛盾した思いを抱えていたと想像される。ところが、ここで、いきなり細川家にお家騒動が勃発する。
始まった途端に潰えた親政
なんと、細川政元が家臣に殺害されてしまったのである。義澄自ら策を練る必要もなく、邪魔な「後見人」は自分から死出の旅に出てしまったのだった。
こうして、少年時代から幾年月、ようやく、義澄の将軍としての「真の」親政が開始されることになった。
ところが……。このどさくさにまぎれて、もう一人の気にくわない相手・足利義材が大内義興の大軍に守られて上洛してきた。
親政を開始するどころか、身の危険を感じた側近たちは、政元の後を継いだ細川澄元を中心に、義澄を近江へ逃がしたのだった。
近江の片田舎でも憎いのはやはり今出川
あれほど邪魔で仕方なかった細川政元が、義澄にとっては要石でもあったから、その死によって幕府内のパワーバランスは途端に崩れた。京都は混乱に陥り、義材の上洛を許す事態となってしまったのだった。政元が健在であったら、こうも早くは実現しなかっただろう。
むろん、義澄にも意地がある。たとえ、「周囲の大人が勝手に決めた」ことであっても、己はれっきとした将軍である。それも、もう子どもではないのだ。
その後は、細川澄元とともに、ひたすら上洛の機会をうかがい続ける義澄であった。
幸薄い少年、若くして死す
上洛の機会は意外に早くやって来た。最初の義材方との合戦では、義澄方は惨敗で、細川澄元は阿波に逃げ帰るほどだったが、これを機会に、一気に義澄方を追い詰めようと近江に出兵してきた義材方がこれまたとんでもない大敗を喫したのである。義材一派は京を捨てて丹波に落ち延びていき、勢いに乗った義澄と澄元はそのまま上洛を決めた。ところが、上洛を目前として、義澄は俄に病に倒れ、帰らぬ人となった。
わずかに三十二歳であった。
意外な繋がりで、子孫は続く
義澄亡き後も、細川澄元は上洛を決行したが、船岡山で大内義興ら義材方に大敗し、這々の体で逃げ出し、京都はまたしても義材一派によって奪還される。
結局、将軍という華やかな名前はお飾りにすぎず、義澄の一生は思うに任せぬものであった。人は彼の生涯を「不幸」と思うかも知れない。しかし、たとえお飾りであったとしても、大樹の魅力は人を惹き付けて放さない。
香厳院で黙々と修行を続けていたら、俗世とは無縁な生涯を送れたであろうし、さらには将軍家の身内として墨染めの衣であってもかなり裕福に過ごせたはず。仮に伊豆に残っていたとしたら、異母兄の刃に倒れることになっていたと考えられ、もっと凄惨なことになった。
最も大事なことは、人生の最後に、彼にはとんでもない贈り物が遺されたことだ。
死の直前、五ヶ月前のこと、義澄には息子が誕生していた。そして、この子が、後に、第十二代将軍・足利義晴となる。ここで、義澄が在任中に、義材の弟・義忠を排除しておいたことが地味に効いてくるのが空恐ろしく感じられる。義澄の子が日の目を見たのは、その後の義材と細川高国との対立などややこしいことが絡んで来るものの、なんと義材自らも生前に対立していたはずの義澄の遺児を、自らの養子にしている。なぜなら、義材には実子がいなかったためで、もし、弟が健在だったらその系統が取り立てられたことは十分に考えられるからだ。
将軍の父として、義晴は義澄に左大臣、そして太政大臣を追贈をしている。悲しいのは、義澄自身が我が子の晴れ姿を見ることが出来なかった点である。
参考文献:『日本史広辞典』、『戦国武将合戦事典』、『公方両将記』、受験参考書、各種通史ほか
【更新履歴】20200825(将軍一問人物解説@周防山口館)、20260325 改訂