足利義視 

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足利義視とは?

室町幕府・六代将軍義教の子。浄土寺に入室、義尋と称していた。寛正五年(1464)、兄である将軍・義政の懇願により後継者となり、還俗して義視と改名。ところが、その翌年、義政・日野富子夫妻に実子が誕生してしまう。実子(後の義尚)を跡継にしたいと望む義政夫妻に疎まれる存在となり、身の危険を感じた義視は細川勝元を頼る。応仁・文明の乱が起こると伊勢に逃れた。再三にわたって義政から呼び戻され、勝元方の東軍に属したが、兄弟の不和は解消されなかったので、比叡山に逃れ、遂には西軍に迎え入れられた。大乱終結後は、美濃に移り住んでいたが、義政の子・義尚が跡継がないまま亡くなり、息子・義材が次期将軍候補になると共に上洛。将軍の父として、高位に上ったが、ほどなく亡くなった。

足利義視・基本データ

父 義教
子 義材
別名 義尋、道存
官職等 正二位権大納言、贈従一位太政大臣
法名 大智院久山道存
(参照:『日本史広辞典』、『戦国武将合戦事典』)

略年表
  • 永享十一年(1439) 出生
  • 嘉吉三年(1443) 浄土寺入室、義尋と名乗る
  • 寛正五年(1464) 兄・義政の跡継となり、還俗。義視と改名
  • 寛正六年(1465) 義政に実子(義尚)が生まれる
  • 文正元年(1466) 伊勢貞親の讒言を信じた義政により殺害されそうになり、細川勝元を頼る
  • 応仁元年(1467) 京都に戻り、細川勝元の東軍に属したが、兄弟不和により比叡山に逃亡。やがて西軍に迎え入れられて、将軍格として擁立される
  • 文明九年(1477) 美濃に下向
  • 延徳元年(1489) 将軍・義尚が跡継なく亡くなると、子・義材とともに上洛。通玄寺で出家し、道存と名乗る
  • 延徳二年(1490) 義材が将軍となり、義視は大御所と呼ばれるようになった
  • 延徳三年(1491) 逝去

年号等典拠:『日本史広辞典』、『戦国武将合戦事典』

降って湧いた「将軍」話

足利義政という人は政治にはあまり関心がなく、風雅の道に傾倒したと言われる。それについては、通説にもいくつかあって、ここで議論する話題ではない。しかし、彼が、政治家としての人生に何ら楽しみを見いだせなくなったから、あるいはそれよりも、もっと魅力的なものを見つけたゆえにか、早々に「隠居」したいと考え始めた事だけは事実である。

そして、そのために、己の人生が全く変わってしまった父子がいたことも。
隠居を決意した義政だが、残念なことに、娘はいたが息子がいない。そのため、弟の義視に後を託そうと考えた。

その頃、弟・義視は僧籍にあり、義尋と名乗っていた。彼にとって、この話は文字通り「青天の霹靂」であった。

上手い話には裏がある。容易には動かない慎重派

「将軍職」に就ける、となれば大手を振って飛びつきそうな話のように思えるが、事はそう簡単ではない。なぜなら、兄・義政はまだ隠居する程の老人ではなく、正室の日野富子も二十五歳という若さである。当然、この先息子が出来る可能性は否定できない。もしも、そうなれば、当然実子に後を継がせたいと望むのが親心。義尋はそれを思い、この話に難色を示した。

しかしながら、義政はとにかく一日も早く将軍職をおりたいのだと言い、細川勝元までやってきて、義視の将軍職就任を全力で援護すると確約した。

義政にいたっては、今後もしも実子が生まれようとも、その子は僧籍に入れ、決して世継ぎに据えることはないとまで誓った。

満を持して還俗するも、まさかの展開

義政に加えて、政治を預かる細川勝元の後押し。何より、実子ができても僧侶にするから、とまで言われ、義視は漸く重い腰をあげたのであるが……。

恐れていたことが現実となるまで、ほんのわずかな時間しかなかった。義政の御台所・富子が男児を出生したのである。

日数から考えて、どうも富子はこの懐妊を知っていたかのようですらある。それでも、兄・義政や細川勝元は、なおも義視の将軍後継は揺るがないと公言し続けた。

にもかかわらず、待てど暮らせど引継ぎの話は実行されない。どうやら背後で糸を引いているのは、富子であるようだ。腹を痛めた我が子を将軍職に付けたいと望まない母がどこにいよう? これまた至極当然の思いである。そもそも、中途半端な年齢で、早くも男児の出生を諦め隠居の話を急いだ夫の義政が恨めしかったろう。

右も左も内輪もめ。御所の中は魔物の巣窟

日野富子「悪女」説は現在では、ほとんど否定されている。むしろ、政治や経済に関心をもった「進んだ」女性というべきであろう。ただし、生まれた時代が悪かったので、長いこと男尊女卑の思想の中で、悪人扱いされてきたのは気の毒である。

ただし、いわゆる「良妻賢母」の封建時代の女性と違い、政治にも経済にも関心を持つ富子のような女性を「敵」に回すとなると、義視の不安はますます深まった。何も、富子が産んだ若君から将軍職を奪うために還俗した覚えはないが、富子の目にはそううつるであろう。

細川勝元が義視を推していると知った富子は、勝元と不仲であった山名宗全を味方に引き入れ我が子が将軍職に就けるよう、力を貸して欲しいと頼み込んだ。「敵の敵は味方」だから、宗全が喜んで富子の願い出を聞き入れたことはいうまでもない。

ただし、この辺の経緯については、最近研究が進んで、これまでのような『応仁記』に書かれた内容や、富子悪女説をベースに組み立てられた通説ともども、様々な新説が出てきているので、ここは「古びた」通説と思って欲しい。

富子からしつこく唆されるまでもなく、義政とて、幼い我が子を見て愛しく思わないはずはない。こうなると、義視は義政夫妻らにとって完全な邪魔者となってしまった。この頃に至っても、細川勝元のみはなおも、義視へのサポートを買って出ていたと言われる。

家督争いの嵐、ついに十年戦争に

そうこうするうち、応仁の乱が勃発してしまう。元は斯波家、畠山家の家督相続に関わる揉め事だったが、細川、山名という二大勢力が、それぞれの相続人たちの側について後押ししたため、単なるお家騒動が、京一帯、のちには全国規模にまで展開する大規模なものとなってしまったのである。

勝元はこの小競り合いにおいて義視を主将の座に据えることで、「箔」を付けようとした。義視としても山名宗全が富子とその子を推していることを聞き知っていたし、自らも「後継者」に相応しい功績が欲しい。よって、ここまでは良かった。しかし、その後状況はますます複雑化していったのである。

東西両陣営に分れた合戦は十余年に及ぶ大乱となってしまった。そして、問題は両陣営の組み分けであった。細川勝元は将軍義政の傍近くにあったから、御所と将軍を自らの陣営ということにして、大義名分を掲げた。後には天皇も御所に逃れたので、権威の象徴はすべて細川方に取り込まれるかたちとなった。
義政本人は両家の争いに巻き込まないで欲しいと強く望んでいたにも関わらず、おのずと引き込まれてしまったのである。

義視はこのときもまだ東軍・細川側にあった。兄の義政が東軍に担ぎ上げられているし、自らも主将などというものになってしまったのだから仕方がない。しかし、ここで奇妙なことになってしまっていたのは、元々山名宗全に我が子の行く末を頼んでいたはずの日野富子までもが、御所の中に住んでいるという理由で、我が子共々細川勝元の下につく形になってしまったことであった。

捨てる神あれば拾う神あり

将軍義政や、後には、避難してきた天皇までも掌中に納め、錦の御旗を得た東軍は、西軍を「逆賊」扱いして一挙にすべてを終わらせようとした。しかし、戦に関しては勝元のような文化人と呼ぶにふさわしい人物はあまり得意ではないのである。いっぽうの山名宗全は百戦錬磨の将。更に、彼らがそれぞれ後援している紛争の当事者・畠山家の世継ぎ候補を見てみても、西軍に推されている畠山義就が、これまた武勇軍略に優れた武人であった。そこへ、西国の雄・大内政弘のような大物までが宗全の傘下に馳せ参じた。

事ここに至り、細川勝元にも義視を次期将軍に、などと悠長に言っている余裕はなくなった。

こうなると、もう義視には周囲一面敵だらけの御所の中、生命の危険さえ感じる日々が続いた。実際に彼らが義視を亡きものにしようとしているというきな臭い噂もささやかれるようになっていた。
居た堪れなくなった義視は密かに居所の今出川館を逃れ、着の身着のままで伊勢の北畠家に逃れた。
その後も義政らに強引に呼び戻されるなどの出来事はあったが、なおも義政や富子らを信用することが出来ぬ義視は二度目の出奔をする。

しかも、あろうことか、西軍の陣営に入ってしまった。西軍にとっては、軍事的に敵を圧倒しているものの、相手が「将軍」を掌中に収め、自分たちを「賊軍」呼ばわりしていることが気がかりだったから、義視の亡命はまさに天の助けである。

かたちだけでも夢が叶った、西陣での日々

こうして、義視が「将軍職に就く」という天から降って来たような夢物語は、優柔不断な兄・義政の下ではどうやら頓挫してしまったが、西軍の陣中でその実現を見たのである。西軍では義視を「西幕府」の「将軍格」として奉り、彼らにも「より相応しいお方を将軍職に就ける」という大義名分があるのだと称した。
何と言うことか、義視が取ったこの行動により、京には二つの幕府、二人の将軍が両立するという事態となってしまったのである。

だが、結局のところ、双方ともこれといった決定打を欠き、細川勝元の謀略にかき混ぜられて混乱した西軍からは離反者も相次いだ。

敗戦と遁世

やがて宗全・勝元両名の死去により、後を継いだ両陣営の頭目はともにやる気をなくしており、早々に和睦してしまった。

こうなると、義視の存在はまた微妙になってしまった。既に、自らが西軍に身を投じた後、義政は平然と将軍職を富子の産んだ嫡男・義尚に譲ってしまっていたし、戦が終われば当然元々の将軍義政の血統だけが正当なものとされ、自分の身は危ういだけだ。

幸い、大内政弘らがなおも踏ん張って守ってくれていたし、和睦をするにしても、畠山義就と西将軍義視の身柄を保証しなければ受け入れられない、との姿勢を貫いてくれたので、何とか兄と和睦することができ、這う這うの体で美濃へと逃れて行った。

見果てぬ夢は愛する我が子に

応仁の乱の後、美濃の国で世捨て人同然に過ごしてきた元西幕府の将軍・義視。もはや、己は京の都とは生涯縁がない身と思い、むしろ、そんな気楽な身分と平穏な毎日が有り難いものにすら思えていた。
そもそも、「次期将軍」の座に就けるなどという兄・義政の誘いに乗っていなければ、今頃浄土寺の門跡として、仏門にあったはず。いや、浄土寺は戦乱の被害にも遭い、戦後はそこに隠居所を建てたいと考えた義政によって場所を移されてしまい、今はそこに東山殿が建っていたのだが。

しかし、皇室とも縁のある浄土寺は、義視が僧・義尋として入寺した頃には、たいそう栄えていた。やがては天台座主(法主、天台宗のトップ)にも昇りつめれることができたなら、それこそ出家の身分としてはその栄華も極まれりといったところだ。まあ、仏門にある者に、栄耀栄華などという言葉は無縁であるはずだが。しかし、義視も人の子だった。「将軍」という座に魅せられ、門跡の地位を捨て去り、のこのこ兄に付いていってしまったのだから。

その後のあれこれは、もう思い出したくもなかった。心静かに仏に仕える道には二度と戻れない。そもそも、寺自体今はないのだし。長く続いた戦乱で疲れ果てた民は、例の山荘を造るために駆り出され、またその資金調達のために段銭を課され散々な目に遭ったのだ。だが、義視はそんな京の馬鹿騒ぎとは無縁であった。そんな隠居暮らしのこの身が、まさか再び「将軍」という権力に結びつけられる日が来ようとは。

もう二度とは欺されぬぞ。そう思いながらも、此度は義政の我儘な思いつきでもなんでもなく、本当に前将軍、甥でもある義尚が死に、将軍の座は空位となっていた。そして、それを継ぐことを求められたのは、すでに尾羽打ち枯らした己ではなく、将来ある我が子義材だ。

我が子の栄誉のためならば、確かにこんな田舎暮らしをするより「将軍」として華々しい活躍をさせてやりたい。そんな思いから、義視は義材を連れて、もはや二度とは戻るまいと誓っていた都の土を踏んだ。

乱の終結から十余年。かつて大内政弘が長の戦乱から国許へ戻って来た時と同じように、義視もまた、懐かしい場所へ戻ってきた。はからずもこれまた政弘と同じく、大切な世継ぎたる若子を伴って。一連の騒ぎに巻き込まれ、寺での平穏な暮らしを失ったことを思い出せば、義政には恨みしかないが、唯一感謝するとしたら、父親となれたことだった。還俗しなければ、当然妻帯は許されず、子宝に恵まれることもなかったであろう。政弘にとっての亀童丸同様、義材は義視の希望であり、全てである。だが、違っていたのは彼は襁褓にくるまれた赤子ではなく、既に二十四歳の青年であった。

孝行息子の贈り物。人生最後に最高の栄誉

義視父子が上洛した翌年、義政は我が子の後を追うかのように亡くなり、義材は晴れて将軍の座に就く。延徳二年(1490年)七月のことであった。

義材は父の義視を「大御所」として、幕政の最高権力者の座に就けてくれた。かつてその名に惹かれ、だが結局は手に入れることが叶わなかったものが、人生の最後にその手の内に転がり込んだ。それは「将軍」という名前ではなかったが、「将軍」のお父上、という意味では、むしろ将軍よりも麗しい響きと、より強い権力を指すものであった。

こうして、遂に幕政の最高権力者の地位に就いた義視であったが、その華やかな時間はあまりにも短く、儚いものであった。兄・義政の死からちょうど一年、つまり息子の将軍職就任を見届けてからもわずかに半年後の翌延徳三年(1491年)一月、義視もまた先に亡くなった兄・義政の後を追うようにしてこの世を去った。奇しくも、この兄弟の命日は全く同じ一月七日であった。

兄・義政の我儘な「隠居騒ぎ」のせいで振り回された義視の人生は、何一つ得ることができなかった。
しかし、最後の最後に息子・義材が将軍職に就くという、思いもかけないプレゼントが用意されていた。
これまでの苦労もすべて報われた、といえるかもしれない。

ただし、その後、我が子・義材を襲った様々な出来事を、義視は知る由がなかった。

参考文献:『日本史広辞典』、『戦国武将合戦事典』、『公方両将記』、各種通史ほか

【更新履歴】初出:20200921(将軍一問人物解説@周防山口館)

ミル@周防山口館
この記事を書いた人
【全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者、AFP(日本FP協会認定)、FP2級技能士】
院生時代、大学主催フォーラムの無償通訳などをやらされたことで、通訳案内士の資格を取得。それを機に観光業界に入るも、歴史にも文化にも疎かった。克服すべく受験レベルの基礎知識から必死に復習し、最低限必要なことが学べた次第。それゆえに、苦手な人に寄り添った説明が得意です。現在は、大内氏歴代当主とゆかりの地についてのフィールドワークを行なっています。
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