管領家の庭園日誌

第五集・管領家将軍家の家督争い、決戦船岡山

足利義澄イメージ画像

細川澄元・高国管領になる 附・前将軍ご上洛

細川澄之が自害した後、同六郎澄元は管領職につき、右京大夫となった。三好と高畠は天下の実権を握り、心のままに権勢をふるった。しかしながら、まもなく、多くの人々に疎まれてしまった。公家武家ともに澄之を惜しむ者が多く、三好高畠は人々に無礼なことをして驕りをきわめていたから、ひそかに澄元を裏切る者まで出てきた。

京都の奈良修理進元吉、摂州の伊丹兵庫助元扶、丹波の内藤備前守貞正等は一味同心し、九條殿とも交わりがあったので、殿下からも相談されて(澄元を裏切り)、才能が優れていて、一門の中で並ぶ者がない人であるからと、細川民部少輔高国を管領職につけた。この人は細川家の庶流・防州政春の子である。

こうして、中国にいらっしゃる前大樹義稙卿に取り次いだ。(奈良修理進等が)義兵を起こし諸国をもとにもどしたので、永正五年夏四月に中国の大軍が上洛すると聞き、澄元方の人々はこの小勢で大軍の敵を防ぐのは難しいと、卯月九日、澄元も三好、高畠も、京を離れてばらばらに落ちて行き、澄元と三好之長は江州に隠れた。之長の嫡子で執事だった三好下総守長秀は江州へ逃れたが、伊勢の国司は高国の仲間だったので、追手を差し向けて攻撃してきた。長秀は敵わず山田の中嶋というところで、主従十二人が自害した。

新将軍義澄卿は京都にお住まいになっているのが難しく、同月十六日に京都から退去なさったから、人目につかぬように、江州朽木へと逃がしてさしあげた。三四年ほど当国にいらっしゃった。

さて前将軍義稙卿は中国から畿内の味方の者たちに御教書を遣わし、軍勢をお集めになった。その状に曰く

泉州邊之儀其後無殊事候哉此節各有相談一段 可被抽忠節候條可爲本意候早速御馳走肝 要旨候 於 京都之儀者諸家申談可致勤功 覺悟一味候之旨可御心易候彌囘謀略計候 猶重而 棚河民部 可申承候恐々謹言
四月十八日 義興判
大和衆中参

こうして前将軍義稙卿は中国をお発ちになり、同四月二十七 日泉州堺の港に到着された。ここで義尹と御改名された。さて御供の人々には、先ず防州山口城主大内左京大夫義興父子、ならびに大友備前守、大宰新少武、畠山尾張守、松浦、秋月、この者たちを始めとして、総勢三万三千余騎が御供して攻め上った。五畿内の軍勢等は弓弦をゆるめ我先にと馳せ参じたので、軍勢はほどなく六万余騎となって御上洛されたという。

このようにすべてが降参したのに、摂州池田城主・池田筑後守だけは澄元の味方として、少しも服従せず城に籠もっていた。管領高国は細川右馬頭尹賢 を大将にして、同五月上旬から池田城を攻撃した。 筑後守は一騎当千の兵なので、城から切って出て、数度合戦に及んだが、寄手は毎回打ち負けた。しかし、この城は後誥もなく、兵糧も尽きたので、一族の池田遠江守は投降して城を出てきた。残りの軍兵たちはもはや敵うべからずと、同苗二十余人雑兵七千人が切り出て、寄手の大軍を散々に追い払った。五月十日、筑後守を始めとして、一族同苗七十余人が一度に腹を切り、城に火をかけて焼き捨てた。これほど敵味方が移り変わる世の中で、池田が少しも心を変えず、みさをを守って討死したのを、都鄙皆、褒めない人はなかった。

義材の将軍再任 附・盗賊誅伐のこと

永正五年六月八日、公方前将軍義稙朝臣は御帰洛して、 同月十日から御参内した。小番御勤仕があったので、公卿殿上人が寄り集まり、めったにないことだと思い、たいへんお悦びになられた。なかでも九條殿下は公方の御手をお取りになって、あなたが早くご上洛なさっておられたら、九郎も討たれることはなかったでしょうに、とお嘆きになる。畠山尾張守尚順を始めとして、旧功の人々はともに悦び合った。

同七月朔日、勅命を受けて征夷大将軍に再び任命された。これより将軍と申し上げる。新将軍義澄卿はこの日のうちに解任されたので、先の公方とお呼びする。およそ帝王には、重祚の例が多いというけれども、武家の将軍が再任されたことはこれが初めてだとうかがっている。

やがて、三條殿の旧御所を移して、御殿の造営があったころ、永正六年六月二十六日子刻ばかりに、殿中に盗賊たちが忍び入り、御重宝を奪い取った。当番の面々がたまたま油断していて知らなかったので、盗賊等はらくらく公方の御所へ忍び込んだ。将軍義稙卿は御寝巻の物だけをお召しになって、御太刀を抜き合わせ、夜盗の輩を即時に四人切り倒しなさったが、九ヶ所の傷を負われた。誠に天命に相応しいゆえながら、天晴れ武勇の行動なりと、すべての人が感心したのだった。傷の療養をし、御平癒なさったので、同十二月十九日、表御所に御出になり、諸大名の面々は御太刀を持參し、御馬を差し上げる。お目出度いご祝儀は格別であったと思われる。

前将軍義澄の没落 附・諸国乱逆怪異

先の公方義澄卿には細川と三好が付き従い、江州に隠れていらっしゃったが、主従一ヶ所に籠もっていては、大義の計略は叶えがたいと、三好は阿波に下向した。先の公方は江州九里備前守を頼り、しばらく彼のもとにいらっしゃったのだった。近年は大乱で、諸大名は皆、己の分国に引き籠もり、近くには兵を動かして公儀に味方するという人は稀だったので、先の公方も管領も大儀の計略を叶えがたく、無駄に月日を送られていた。

とりわけ、名を知られた大名は数多あるといえども、関東の上杉、美濃の斎藤、 越後の上杉、駿河の今川、伊勢の国司、いずれも多勢の者だが、これはこの乱の中、一度も上洛しておらず、公方が難儀に及ぶことがあれば、駆けつけてきてお世話をし続けるだろうと、頼もしく思っていたのに、今年、越後国の守護上杉民部大輔藤原房能も、家人・長尾六郎為景に打ち取られ、越後は一面が亡国となってしまった。

関東に住んでいた上杉修理太夫顕定、同憲房は多勢を率いて越後に向かい、為景を攻撃したから、為景は敵わず越中へ落ちて行った。ところが、信州の高梨摂津守という者は為景の味方に引き入れられて越後に向かい、椎屋の軍に打ち勝って、顕定を討ち取ってしまった。憲房は敵わずに上州に戻り、このことを京都にも注進した。洛中洛外の反乱がいまだ鎮まらないうちに、諸国はまたこうも乱れる嘆かわしさよ。

同年八月七日の夜、大地が夥しく震え、国々の神社仏閣は顛倒するものが多かった。この時、天王寺の石の 鳥居も倒れた。その地震は七十日あまり止まず、剰え 同八月二十七日、二十八日両日の間、遠江国に大波が夥しく来て、陸地が悉く海となった。それからここを今切渡りと呼ぶのだ。このような天地の異変が続くのも奇怪なので、 きっと天下は治るまい、と道理がわかる人は嘆き合った。

さて、義澄卿は江州の九里のもとに隠れていらっしゃったが、同八年三月のころ、そこで嫡男の若君を授かった。 しかし、当国の大守・佐々木六角四郎高頼は将軍義稙卿の無二の味方で、先の公方を探している間、この国で若君を養育すべきではない。義澄卿は若君御同道で、ひそかに播州へ下向なさり、ここの国守赤松をお頼りになった。そこにしばらく御座なさった間に、次男の若君が御誕生になったので、この若君を赤松に預け置いた。

赤松はこの若君を養い申し上げ、後には公方にして差し上げた。義晴卿とおっしゃるのはこの若君の御事である。嫡男の若君は細川澄元に預け置き、四国の者たちが大切に育て、御元服して堺冠者義維とおっしゃったが、これも後には左馬頭に補任され、その御子を阿波の御所義栄と申し上げた。

先の公方が二人の若君を澄元と赤松にお預けになったのは、一つにはこの両人が無二の忠臣であるゆえ、これらの人々の心をつかんでおきたいというお考えであり、一つにはまた、戦国の最中なので、父子分かれ分かれとなって、どちらかだけでも御運を開かせようとのお考えだという。ほんとうに思慮深いことである。

摂津蘆屋邊合戦 附・義澄逝去

細川右京大夫澄元と三好筑前守は播州へ落ちて行き、赤松を味方に引き入れて播磨勢を従え、そのほか四国の軍兵ならびに細川右馬頭政賢、同名和泉守護畠山総州、遊佐河内守を招集して、和泉国へ攻め上り、深井に陣取りをした。管領高国はこれを聞いて、先ず五百余騎を摂州に派遣した。

この軍勢は万代庄に陣取ったが、四国勢も攻めかからず、互いに日数を送っていた。七月十三日、京方は大軍で深井に押寄せ攻撃すると、澄元勢に横から不意打ちされて、京方は打ち負け、半分以上が討死し、残った軍兵は堺津へ引き退いた。澄元は勝に乗じて中嶋まで攻め寄せ、細川淡路守は兵庫へ渡り、難波まで攻め上った。

高国方の河原林対馬守正頼は同国蘆屋庄上鷹尾城に籠っていたが、淡州の軍勢がこれを攻めようと深井に陣を置いたので、河原林は驚いてこのことを注進すると、管領高国はそれを聞や否や、馬廻柳本宗雄、その子・波多野孫左衛門、能勢因幡守、 荒木大蔵始め、三十余人を摂州へ派遣し同七月二十六日、蘆屋の原で合戦した。

鷹尾城に籠っていた軍勢はこれに勢いを得て、切って出て横合いから襲い掛かったから、淡州の軍兵は数百人が討死して、京勢は難なく打ち勝って悦んでいたところに、播州赤松勢が約束に違わず軍勢を出して、同年八月八日九日、鷹尾城を攻撃した。険しい崖も堀も埋め、喚き叫んで息をも継がさず攻めたので、勇ましい河原林も二日目の合戦で悉く打ち負け、同十日、夜に紛れて城を出て落ちて行った。

赤松は相手の軍に打ち勝ち、それから伊丹城を攻撃した。河内摂津の御敵が二手になって、京都に攻め込むとの注進が度々あり、管領高国と大内義興も京都にとどまっておられず、将軍の御供をして、丹波国に逃れた。

この時、先の公方義澄卿は御上洛しようと、播州を立ち、江州に到着して、岡山城にお入りになり、近日中にご帰京なさるところであったが、病にかかり、次第に重くなられて、永正八年八月十四日、終にこの城で御逝去なさった。 御歳三十二歳。お気の毒なことであった。御追号を法住院殿と申し上げる。

佐々木高頼、将軍に味方する

その頃、将軍義稙卿は江州佐々木六角をお頼りになった。もともと、江州両佐々木というのは、六角が惣領であり、国人はその下知に従う。京極は庶流だが、先祖道誉入道が等持院殿への忠功が多い人だったので、公方家はこれを重んじ、今は四職で随一だった。

応仁の乱以来、京極は細川に同意し、六角は山名の一味となって、互いに敵対していた。 山名方は打ち負けたけれども、六角一人は京都に従わず、討伐されること度々に及んだけれども、しかし今、将軍からも、管領高国からも頻繁に頼りにされたから、終に六角も将軍の味方となった。

高頼は老い衰えたと、長男・亀樹丸に家督を譲り、のちに近綱といったのはこの人である。近綱は片足が短く立居が不自由であり、このような御大事には立ちにくい人であると、高頼の次男・吉侍者といい相国寺の禅僧でいらっしゃったのを、武勇も才能もある人だから取り立てようということになった。

宿老多賀備後守、蒲生下野守、田中四郎兵衛等が相談して準備をし、公方家へ言上させた。この度還俗させて高頼の名代とし、この人を将軍のもとに参上させた。定頼と名乗った。将軍家は大いに御悦びになって、弾正少弼に任官された。定頼は木刀を腰にさして将軍の御前にでたので、これはどういうことか、とお尋ねになった。定頼は、「私はもと出家ですので、刀を持っていません」とお答え申し上げると、将軍はお笑いになり、国行の太刀を賜ったということだ。

船岡山の戦い

さるほどに将軍は丹波国内藤の館から大軍を率いて攻め上られた。御供の人々には大内左京大夫義興、畠山尾張入道卜山、細川民部少輔高国、同右馬頭、伊勢兵庫頭、斎藤法印、土岐美濃守、大友備前守、佐々木弾正少弼、同中務大輔、細川式部大輔、畠山修理大夫、遊佐弾正忠、石黒左近蔵人、進士九郎、 多田治部大夫、神保、 小坂長九郎左衛門、朝倉弾正忠、 同太郎左衛門等、総勢三万余騎と伝わっている。

京方は細河澄元三好等が小川にいたが、攻め上る敵を防ごうと、紫野上、船岡山に陣城を拵え、澄元の妹聟・ 細川右馬頭政賢に畠山上総介義英、遊佐河内守を大将とし、三好筑前守、同山城守一万余騎を添えて、寄せて来る軍勢を待ち受け、大徳寺、今宮、小川の辺りに隙間もなく陣取りした。大将右京大夫澄元は丹州の住人・竹内刑部大夫以下五百余人を率いて小河の屋形でひかえた。

同八月二十四日、攻め上る軍勢は既に長坂山に陣取り、先駈の軍勢・斎藤法印の手の者、土岐、佐々木、六角勢が一番に攻めてきた。畠山総州、安富、 神保、湯河は切り散らされて退いた。二番手の内藤備前守、 嶋村弾正、河原林が息もつがせず攻めかかり、その荒手に切立てられ、遊佐弾正忠、同河内守を始め総州の軍勢は皆、討たれていかにも危うく見えた。

大内義興の馬廻五百余騎の者たちがやにわに攻撃し、喚き叫んで切って入る。義興は直先に進み、重代の長刀で向かってくる敵三騎を薙ぎ倒し、四方を払って切って廻る。三好筑前守、同山城守はここが大事なところと防ぎ戦い、大内方と三好方は自身も太刀打ち度々に及び、郎党たちも掛け合わせ、互いに入り乱れて戦い、いつ果てるとも知れなかった。

佐々木定頼が荒手を以てただ一文字に切懸ると、三好はたちまちに敗れ、先に京兆をお落としせよと、三好はそこから澄元を伴って、摂津国へ落ちて行く。大将右馬頭政賢は小川に残り留って、防矢を射って討死した。京方で討死した者は総数二千三百余人記されている。赤松勢は伊丹城を攻めていたが、船岡山で味方勢が打ち負けたと聞いて、早々に引返し、生瀬 口へと落ちて行った。

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