細かいことは削りに削った最低限の日本史年表です。全体像の把握、暗記しなくてはならない年号はどれかというようなことを確認するためにお使いください。なお、この年表は、元々、大内氏を扱ったメインサイトのために作ったものです。日本史基礎としては、どこに配置してもその意義は変りませんが。念のため、心の片隅に。
なお、最近、日本史のカリキュラムがかわり、「日本史B」から「日本史総合」になるなどしました。これは「日本史B」時代の参考書を参照して書かれました。しかし、カリキュラムが変ろうと、年号は変りませんから、受験生以外は神経質になる必要はないと思われます。そのほか、あれこれの「ひとこと」については、読み飛ばす方も多いと思われるため、巻末に置いてあります。何か変だぞ? と思った方はそちらにもお目通しください。
年表本編
先史時代
先史時代とかは、適当でいいです。年号云々される時期ではないので。
そもそも、正確な年代なんて分りゃしないもんな。
そんないい加減なこと、言っちゃダメだよ。でも、発掘調査なんかで次々情報が塗り変っていく時代でもあるので、この辺りについては、ちゃんと教科書を見て欲しいと思います。
旧石器時代
650万年前 更新世(氷河時代)
猿人 ⇒ 原人 ⇒ 旧人 ⇒ 新人と進化
猿人 | ||
原人 | 打製石器 | |
旧人 | ||
新人(港川人、山下町洞人、浜北人) | 細石器 | 岩宿遺跡(群馬県) |
縄文時代
一万年前 完新世(温暖化)⇒ 日本列島ができる
草創期 | 土器 | |
早期 | 磨製石器、骨角器、竪穴住居 | |
前期 | 大森貝塚(東京都) | |
中期 | 三内丸山遺跡 | |
後期 | ||
晩期 | 菜畑遺跡、板付遺跡、亀ヶ岡遺跡 |
弥生時代
紀元前4世紀~
前期 | BC300~100 | 水稲耕作、弥生土器 |
中期 | BC300~AD100 | |
後期 | AD100~300 |
青銅器、鉄器
(紀元前1世紀頃)小国の分立状態(典拠:『漢書』地理志)☆
57 奴国王の遣使(『後漢書』東夷伝) ★☆☆☆
107 帥升らの遣使(『後漢書』東夷伝) ★☆☆☆
古墳時代
古墳文化
(出現期) | 3世紀 | 箸墓古墳 | |
前期 | 4世紀 | 前方後円墳、円墳、前方後方墳 | |
中期 | 5世紀 | 前方後円墳(大型化) | 大仙陵古墳 誉田御廟山古墳 |
後期 | 6世紀 | 前方後円墳、円墳、群衆墳 | |
(終末期) | 7世紀 | 方墳、八角墳 |
239 卑弥呼の遣使(典拠:『魏志』倭人伝) ★☆☆☆
266 倭女王(壱与?)西晋に朝貢
369? 百済王、七支刀を倭国王に贈る
ヤマト政権の成立(正確な年代は確定できない)
391 倭、朝鮮半島に出兵(高句麗好太王碑文) ★☆☆☆
【讃・珍・済(允恭)・興(安康)・武(雄略)】⇒ この頃の天皇(以下同じ)
404 倭軍、もとの帯方郡に侵入(典拠:高句麗好太王碑)
471 稲荷山古墳鉄剣銘 ★
478 倭王武の遣使(典拠:『宋書』倭国伝、倭王武の上表文)☆☆☆
【継体】
507 大伴金村ら継体天皇擁立
512 大伴金村、伽耶四県割譲 ☆☆☆
513 百済から五経博士
522 司馬達等来朝(仏教私伝)
【(安閑・宣化)】
527 筑紫国造磐井の乱 ★☆☆☆
538 仏教公伝「戊午説」(典拠:『上宮聖徳法王帝説』)★☆☆☆
【欽明】
540 大伴金村失脚
552 仏教公伝「壬申説」(典拠:『日本書紀』)★☆
562 新羅、加羅(任那)を滅ぼす ☆☆☆
【用明】
587 蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす ☆☆
589 隋の中国統一 ⇒ 日本にとって重要な国際情勢(以下同じ)
【崇峻】
592 蘇我馬子、東漢直駒に崇峻天皇を殺させる 推古即位 ★☆
【推古】592~628
593 厩戸皇子(= 聖徳太子)摂政になる☆☆
594 仏教興隆の詔
600 隋に使者を派遣(典拠:『隋書』倭国伝)★
飛鳥時代
603 冠位十二階 ★☆☆☆
604 憲法十七条(『日本書紀』)★☆☆☆
607 遣隋使・小野妹子(典拠:『隋書』倭国伝、『日本書紀』)★☆☆☆
608 妹子、隋使裴世清とともに帰国(『日本書紀』)☆
遣隋使:高向玄理・僧旻・南淵請安ら留学
614 遣隋使:犬上御田鍬
618 唐建国(~907)☆
(620 厩戸王・蘇我馬子により『天皇記』『国記』完成 )
622 厩戸王(= 聖徳太子)が亡くなる(関連事項:626 蘇我馬子没)
【舒明】629~641
630 第1次遣唐使:犬上御田鍬 ★☆☆☆
【皇極】642~645
643 蘇我入鹿、山背大兄王を滅ぼす☆
645 乙巳の変:中大兄・中臣鎌足ら蘇我入鹿を殺害 ★☆☆☆
難波長柄豊碕宮に遷都
【孝徳】645~654
646 改新の詔 ★☆☆
647 渟足柵 ★☆
648 磐舟柵 ★☆
【斉明】665~661
655 斉明(皇極重祚)即位
658 阿倍比羅夫の東北遠征(~660)
660 百済の滅亡☆
百済の将鬼室福信、救援と人質の王子余豊璋の返還要請
【(天智)】称制661~667、在位668~671
661 斉明、百済救援に進発 筑紫朝倉宮で没
⇒ 中大兄王(天智称制)
663 白村江の戦い ★☆☆☆
667 近江大津宮遷都 ☆☆
【天智】
668 天智即位 近江令制定 高句麗の滅亡
669 中臣鎌足、大織冠と藤原の姓を賜る ⇒ 鎌足没 ★
670 庚午年籍 ★☆☆☆
法隆寺全焼(『日本書紀』)
671 近江令施行 天智天皇没 ★
【(弘文)】
672 壬申の乱(大海人皇子、大友皇子を破る)★☆☆☆
【天武】673~686
673 大海人皇子、飛鳥浄御原宮遷都、即位(天武天皇)☆
675 部曲を全廃
676 新羅の半島統一☆
684 八色の姓 ☆☆
【(持統)】称制686~689、在位690~697
686 天武天皇薨去 ⇒ 皇后称制(690即位)
689 飛鳥浄御原宮令施行 ☆☆☆
【持統】
690 庚寅年籍☆
694 藤原京遷都 ★☆☆☆
【文武】697~707
697 文武即位
701 大宝改元 大宝律令 ★☆☆☆
702 遣唐使:粟田真人 山上憶良☆
【元明】707~715
奈良時代
708 和銅改元 和同開珎(銀銭・銅銭)を発行 ☆☆☆ 250年後 ⇒ 本朝(皇朝)十二銭の最後、乾元大宝
710 平城京遷都 ★☆☆☆
711 蓄銭叙位令(『続日本紀』)★☆
712 出羽国成立 ★☆
『古事記』完成★☆☆
713 大隅国成立 ★☆
『風土記』撰進の命 ★☆
【元正】715~724
717 遣唐使:阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉ら留学☆
718 養老律令 ★☆☆
720 隼人の反乱 藤原不比等没
『日本書紀』完成★☆☆☆
721 長屋王、右大臣に
722 良田百万町歩開墾計画☆
723 三世一身の法(『続日本紀』)★☆☆☆
【聖武】724~749
724 聖武即位☆、長屋王を左大臣に 多賀城設置☆
727 渤海使、初来朝
729 長屋王の変 光明子立后 ★☆☆☆
737 天然痘流行、藤原四子没 ★
(翌年、橘諸兄、右大臣となる)
740 藤原弘嗣の乱 ☆☆☆ 恭仁京へ遷都
741 国分寺・国分尼寺建立の詔 ☆☆☆
743 墾田永年私財法を施行(『続日本紀』)★☆☆☆
(近江紫香楽宮)廬舎那大仏造立の詔 ☆☆
744 難波宮に遷都
745 平城京に遷都 玄昉を筑紫に左遷
【孝謙】
749 孝謙即位 藤原仲麻呂、紫微中台の長官に
(751 『懐風藻』成立)
752 大仏開眼供養 ☆☆☆
754 唐僧鑑真来朝、東大寺に戒壇☆
756 聖武太上天皇薨去
757 橘諸兄没(前年、左大臣辞任)
藤原仲麻呂を紫微内相に 養老律令施行☆
橘奈良麻呂の乱 ☆☆☆
【淳仁】
758 淳仁天皇即位、藤原仲麻呂、大保(右大臣)に任じられ、恵美押勝の名を賜る
(759 唐招提寺の建立)
(760 藤原仲麻呂を大師(太政大臣)に)
761 下野薬師寺・筑紫観世音寺に戒壇
【称徳】
764 恵美押勝の乱★☆☆☆ 称徳天皇(= 孝謙天皇重祚)
765 道鏡、太政大臣禅師となる☆(翌年、法王 ☆)、加墾禁止令
769 宇佐八幡宮神託(道鏡皇位)事件☆、和気清麻呂、大隅に配流
770 称徳没、道鏡、下野薬師寺に配流 ☆☆、光仁即位☆
【光仁】770~781
780 伊治呰麻呂の乱☆
【桓武】781~806
781 桓武即位、早良親王立太子
784 長岡京遷都 ☆☆☆
785 藤原種継暗殺事件 早良親王廃太子 安殿親王立太子
788 紀古佐美、征東大使に
792 健児の制(『類聚三代格』) ★☆☆☆
平安時代
794 平安京遷都 ★☆☆☆
795 雑徭半減
797 坂上田村麻呂、征夷大将軍に ★☆
(この頃)勘解由使を設置
「続日本紀」撰上(797)
801 畿内の班田を12年1班とする★
802 胆沢城・鎮守府 ★☆☆☆
803 志波城★
804 最澄・空海・橘逸勢ら遣唐使に同行★
805 平安京造営中止「徳政相論」(『日本後記』)☆
最澄帰国、天台宗を開く
【平城】
806 桓武没、平城即位
空海帰国、真言宗を開く
【嵯峨】809~823
809 平城譲位、嵯峨即位
810 藤原冬嗣・巨勢野足を蔵人頭に☆
平城太上天皇の変(薬子の変)★☆☆☆
(811 文室綿麻呂、東北地方に派遣☆)
814 『凌雲集』成る
816 (この頃)検非違使を設置
空海、金剛峯寺創建(816)
819 最澄、比叡山に戒壇設立を請う
820 『弘仁格式』を撰上 ☆☆☆
822 最澄没、のち比叡山に大乗戒壇設立許可
823 大宰府管内に公営田設置 ☆☆☆
828 空海が綜芸種智院を設立 ☆☆
【淳和】
833 清原夏野ら『令義解』を撰上(翌年施行)☆
【仁明】
833 仁明即位、恒貞親王立太子
838 最後の遣唐使 円仁同行
842 嵯峨上皇没 承和の変、恒貞親王廃太子、道康親王立太子 ★☆☆☆
【文徳】
857 藤原良房、太政大臣に
【清和】
858 文徳薨去、清和即位 良房、実質上「摂政」に ☆☆☆
866 良房摂政(正式に) 応天門の変 ☆☆☆
872 良房没 藤原基経、摂政に
【陽成】
879 畿内に官田設置☆
【光孝】
884 光孝天皇即位、基経、事実上の関白に ☆☆☆
【宇多】
887 宇多即位、藤原基経を関白とする(『政事要略』)☆
888 阿衝の紛議(887~阿衝事件)★☆
891 基経没 菅原道真を蔵人頭とする
894 遣唐使の派遣を停止 ★☆☆☆
【醍醐】897~930
897 寛平の御遺誡
899 藤原時平を左大臣に、道真を右大臣とする
901 昌泰の変 、菅原道真を大宰府に左遷 ★☆☆
『日本三代実録』☆
902 延喜の荘園整理令 ☆☆、12年1班(最後の班田)☆(『類聚三代格』)
905 『古今和歌集』(300年後には「新」古今)☆☆☆
907「延喜格」完成(翌年施行)唐の滅亡☆
914「意見封事十二箇条」:三善清行(『本朝文粋』) ☆☆
922 最後の渤海使(919年説もある)
926 渤海の滅亡☆
927「延喜式」完成(967施行)★
【朱雀】
930 朱雀即位、藤原忠平摂政
935 新羅の滅亡☆ 承平・天慶の乱始まる(将門、国香を殺す☆)☆
936 高麗の半島統一
(939 平将門の乱、藤原純友の乱起こる ☆☆)
940 藤原秀郷・平貞盛、平将門を討つ
941 小野好古ら、藤原純友を討つ
【村上】
947 村上即位
958 乾元大宝(皇朝十二銭の最後) ☆ ←250年前に和同開珎
960 宗(北宋)の建国☆
【冷泉】
969 安和の変、左大臣源高明を大宰権帥に左遷 ★☆☆☆
【円融】
977 藤原兼道・兼家兄弟の抗争
【花山】
985 源信『往生要集』を著す ☆☆
【一条】
988 「尾張国郡司百姓等解文」☆☆☆
995 藤原道長を内覧とする
【後一条】
1016 後一条即位、道長を摂政とする ★☆☆☆
1017 藤原頼道を摂政とする 藤原道長を太政大臣とする ★
1018 威子立后「望月の歌」(『小右記』)★
1019 刀伊の入寇 ★☆☆☆ 400年後に⇒「応永の外寇」
1027 道長没
1028 平忠常の乱(1031年、源頼信平定)☆☆☆
【後冷泉】
1045 寛徳の荘園整理令☆
1051 前九年合戦(~62)★☆☆☆
1052 末法第一年 ★☆☆
1053 平等院鳳凰堂竣工 ★☆
1062 源頼義、阿倍貞任を討つ(前九年合戦終わる)
【後三条】
1068 後三条即位☆
1069 延久の荘園整理令 記録荘園券契所設置 ★☆☆☆
(1072 宣旨枡制定)
(1072 白河天皇即位)
【白河】
1083 後三年合戦(~87)☆☆☆
【堀河】白河院政1086~1129
1086 白河譲位、院政開始 ★☆☆☆
【鳥羽】白河
1108 源義親の乱☆(1107~1108)
【崇徳】鳥羽院政1129~1156
(1124 中尊寺金色堂が完成 ☆☆ )
【後白河】鳥羽
1156 保元の乱 ★☆☆☆
【二条】後白河院政1158~1192
1159 平治の乱 ★☆☆☆
【六条】後白河
1167 平清盛太政大臣 ★☆☆☆
【高倉】後白河
1177 鹿ケ谷の陰謀☆
1179 治承の政変(後白河法皇を幽閉)☆
【安徳】(高倉)後白河
1180 安徳即位☆ 以仁王(四月に令旨☆)・源頼政ら挙兵
福原遷都(6月~11月遷都)☆
源頼朝、伊豆で挙兵、石橋山で敗れる(八月) ☆☆☆
源義仲、信濃で挙兵
源頼朝、鎌倉に入る (駿河)富士川の戦い(十月)☆
侍所の設置(十一月)☆☆
清盛、法王の幽閉を解く
平重衡、南都焼打ち
1181 清盛没☆ 養和の飢饉☆
1183 (越中)砺波山の戦い(倶利伽羅峠、五月)☆ 平家都落ち…源義仲入京
「寿永二年十月宣旨」頼朝の東国支配確立 ☆☆
【後鳥羽】後白河
1184 (近江)粟津の戦い 公文所・問注所 ☆☆
(1184 一の谷の合戦、二月)
1185 (讃岐) 屋島の戦い(二月) (長門)壇の浦の戦い(三月) ☆☆☆
頼朝、守護・地頭の任命権を得る ☆☆
1189 奥州藤原氏(泰衡)の滅亡 ☆☆(奥州総奉行設置)
1190 頼朝上洛、右近衛大将☆
1191 政所を開設
(1191 栄西が帰国し臨済宗を広める ☆☆)
1192 後白河法皇没
鎌倉時代
1192 頼朝、征夷大将軍に ★☆☆☆
1195 東大寺大仏殿再建 ☆☆
【土御門】後鳥羽
1198 後鳥羽天皇譲位、院政開始
法然『選択本願念仏集』栄西『興禅護国論』
1199 頼朝死去、頼家継ぐ☆
頼家親裁を停止、北条時政ら13人の合議
1200 梶原景時の乱☆
1203 比企能員の乱☆(実朝将軍就任)
(1204 頼家謀殺☆)
1205 畠山重忠の乱 ☆
藤原定家『新古今和歌集』☆☆
時政失脚(平賀朝雅の乱) 義時執権
「興福寺奏状」
鴨長明『方丈記』
【順徳】後鳥羽
1213 和田義盛の乱(健保合戦)★☆☆☆
⇒ 北条義時、侍所別当を兼ねる
源実朝『金槐和歌集』
1219 実朝暗殺 ☆☆
九条頼経東下
1220 慈円『愚管抄』☆☆
【仲恭】後鳥羽
1221 承久の乱 ★☆☆☆
北条泰時・時房入京、六波羅探題設置
【後堀河】後高倉
1223 新補立法☆
(1224、義時死去、泰時継ぐ)
1224 親鸞『教行信証』☆☆
1225 大江広元没 政子没 北条時房連署となる
連署・評定衆の設置 ☆☆
(1226、摂家将軍、藤原頼経就任)
1227 道元、帰国し曹洞宗を開く
1232 御成敗式目制定 ★☆☆☆
【後嵯峨】
【後深草】後嵯峨
1246 蘭渓道隆来日
1247 宝治合戦(三浦泰村の乱)☆☆☆
1249 引付を設置 ☆☆
1252 将軍頼嗣を廃し、宗尊親王を迎える ☆☆
【亀山】後嵯峨
1260 日蓮、『立正安国論』を時頼に献上☆
日蓮、佐渡に流される
(1260 フビライ、モンゴル皇帝になる)
(1268 高麗の使者、大宰府に)
【後宇多】亀山
(1273 三別抄の乱)
1274 文永の役 ★☆☆☆
1275 紀伊国阿弖河荘民訴状☆
一遍、時宗を唱える
1279 無学祖源来日
(1279 南宋滅亡)
1281 弘安の役 ☆☆☆
1285 霜月騒動 ☆☆☆
1293 鎮西探題設置☆ 平禅門の乱☆
1297 永仁の徳政令 ★☆☆☆
(1317 文保の和談 ☆)
【伏見・後伏見・後二条・花園】
【御醍醐】
(1318 後醍醐即位)
1320 渡会家行『類聚神祇本源』
1321 御醍醐、院政を停め天皇親政とする
記録所を再興 ☆☆
1322 虎関師錬『元亨釈書』
1324 正中の変☆
1325 建長寺船派遣☆
1327 『徒然草』
【御醍醐・光厳】
1331 元弘の変 天皇笠置山に逃れる ★☆☆☆、光厳天皇即位☆
1332 幕府、御醍醐を隠岐に配流
1333 御醍醐隠岐脱出
鎌倉幕府滅亡 ★☆☆
室町時代
【御醍醐】
御醍醐帰京
記録所・雑訴決断所
1334 二条河原落書
建武の新政 ☆☆☆
1335 中先代の乱 ☆☆☆ 尊氏離反
1336 湊川の戦い…楠木正成敗死 ☆
【光明・御醍醐】
(尊氏入京)光明即位 建武式目 ☆☆
御醍醐、吉野へ移る…南北朝分立☆
1338 尊氏、征夷大将軍 ☆☆☆
【光明・後村上】
1339 御醍醐没
北畠親房『神皇正統記』☆
1340 北畠親房『職原抄』
1342 天龍寺船派遣 ☆☆
1350 観応の擾乱(~52)☆☆☆
1352 半済令(観応令)☆☆☆
1356 二条良基『菟玖波集』☆☆☆
1368 朱元璋、明を建国☆
半済令(応安令) 足利義満、将軍となる☆
(1371 今川了俊、九州探題)
(1372 二条良基『応安新式』)
【後小松・後亀山】
1378 義満、室町殿(花の御所)に移る ☆☆
1382 義満、相国寺建立
1390 土岐康行の乱☆
1391 明徳の乱 ☆☆☆
【後小松】
1392 南北朝合体★☆☆☆ 李成桂、朝鮮建国(李氏朝鮮)☆
1394 義満、太政大臣に☆、(将軍、義持)
1397(1398) 北山殿(鹿苑寺金閣)造営☆☆
1399 応永の乱 ★☆☆
世阿弥『花伝書』
1401 日明国交開始 ☆☆☆
(1402 明使来日、義満国王冊封1403 明に使者派遣)
1404 勘合貿易開始 ☆☆☆
1408 義満没☆
1411 勘合貿易中絶(~1432)☆
【称光】
1416 上杉禅秀の乱
1419 応永の外寇 ☆☆☆
1428 (義持没)、青蓮院義円(義教)を将軍後嗣に決定
【後花園】
正長の徳政一揆 ★☆☆
1429 播磨の土一揆☆
琉球王国成立 ☆☆☆
1432 勘合貿易再開 ☆☆
1438 永享の乱 ☆☆☆
1439 上杉憲実、足利学校再興 ☆☆
1440(~1441) 結城合戦☆
1441 嘉吉の乱 ★☆☆☆
嘉吉の徳政一揆 ☆☆☆
山城一国平均の徳政令発布
1454 享徳の乱(~82)☆(享徳の徳政一揆、分一銭徴収)
1455 足利成氏、下総古河に移る(古河公方)
1457 コシャマインの戦い ☆☆☆
足利政知を関東に派遣(堀越公方)
【後土御門】
1467 応仁の乱(~77)★☆☆☆
蓮如、越前吉崎
1473 山名持豊没 細川勝元没
義政、将軍職を子義尚に譲る
1477 応仁の乱終息
1482 享徳の乱終息
義政、東山山荘
1485 山城の国一揆(~93)☆☆
1488 加賀の一向一揆(~1580)★☆☆
1489 足利義政が銀閣を造営 ☆☆
1493 明応の政変☆
堀越公方滅亡 ☆☆
1495 宗祇『新撰菟玖波集』☆☆
(1496 蓮如、石山御坊建立)
【後柏原】
1510 三浦の乱 ☆☆☆
(1518 『閑吟集』ができる ☆☆)
1523 寧波の乱 ☆☆☆
山崎宗鑑『犬菟玖波集』
【後奈良】
1532 法華一揆、山科本願寺焼討ち☆
1536 天文法華の乱 ☆☆
1543 鉄砲伝来 ★☆☆☆
1547 最後の勘合船
1549 フランシスコ=ザビエル、鹿児島に上陸 ★☆☆☆
1550 ポルトガル船、平戸来航
1551 (ザビエル離日)、大内氏滅亡★☆ 勘合貿易断絶
1554 古河公方滅亡
※これより下は、覚えていません。
参照文献:参考文献:『日本史の実況中継』、『日本史の年代暗記法』、『マンガとゴロで100%丸暗記 高校日本史年代』、『日本史年代サーキットトレーニング』(20240724時点)
※『実況中継』は日本史通史の参考書なので、通読していく中で、重要年代の覚え方が伝授されている感じです。『サーキットトレーニング』は年代特化の本ではありますが、語呂合わせについては一切載っていません。
以下はコラムなので、興味のある人はどうぞ。できたら目を通しておいて欲しいです。
ミルからのワンポイント。これらの「これだけでOK」的なモノは、最初からこれだけでいいんだ! と喜んで飛びついてはいけません。人って一生懸命勉強しても100%覚えられるなんてことはあり得ません。ちょっと難しい本で勉強し、それから「これだけで」的な本に移ると、これ知ってる! 苦労して勉強したアレだ、って感じになります。最初から「これだけで」しかやらずに、それすら100%覚えられないとしたら、試験類はすべてアウトです。あくまでも、到達できたレベルの確認に遣うのが理想的です。逆では上手くいきませんので。何事も、そんな上手い話はありません。
日本史の勉強における「年代」について
年代って覚えなきゃならないの?
いかなる学問においてもそうですが、もはや問答無用で覚えるしかない! って事項があります。日本史だと、年代がそれにあたるのかな、と考えます。受験生の方でしたら、必要に迫られて、仕方なく……となります。けれども、大人の学び直しとやらになりますと、特に必要に迫られているわけではないため、暗記するとか不要、と思ってしまいます。
日本史が好きでたまらない方ですと、様々なご本を読んでいるうちに、いわゆる「流れ」というものが自然に頭に入っていきますので、それでかまいません。ですけど、特に好きじゃないんだよ(その場合そもそも、日本史なんて学ぶ必要がない、ってことにはなりますが……)という場合、自然に覚えるなんて芸当はできません。ゆえにいつまでたっても、応仁の乱って何年だっけ? とかなってグチャグチャのままです。
逆に、応仁の乱が1467年と覚えていれば、凌雲寺さまご生誕1477年がちょうど十年目とか、感覚的にとらえられたり、まんま覚えられたりしてしまって人生が楽しくなります(と思います)。
重要
究極、年代は暗記するよりほかないので、覚えてください。
この年表はいったい何?
メインのサイトで大内氏の歴史を扱っています。彼らについての関連事項の年表を作るにあたり、その前にそもそも、日本史全体の基礎年表が必要だろうと考えた結果できたのが、こちらの年表です。大内氏の歴史も、日本史という全国レベルの歴史、中国地方の歴史、周防国の歴史と、だんだんターゲットを絞ってくる中で見えてきます。これについては、管領家の人々がメインになっているこちらのサブサイトでも同じです。要はどのようなテーマを中心とするにせよ、まずは、全体像を掴み、その中にお好みのテーマを当てはめていくというイメージです。
まとめ
- 特定の氏族や地域に関連する歴史事項も、日本史の流れの中に存在
- 例として ⇒ 大内氏関連事項 < 周防長門国関連事項 < 中国地方関連事項 < 西日本関連事項 < 日本全国 = 標準的な日本史年表
- つまり、勉強する優先は全国 ⇒ 自らの専門とする関連事項とすべきである
というようなわけで、現状この年表には特定のテーマ限定の重要事項は書いていません。まずはコレを全部覚えてください。
使っている本と「覚え方」について
ミルたちは、日本史の学び直しに際して、石川晶康先生の『日本史講義の実況中継』を使っています。ほかにも良書はたくさんあるので、お好みのご本が見付かれば、なんでもいいと思います。昨今、「わかりやすさ」や「覚えやすさ」が重視される傾向です。文字でビッシリ埋まっているようなご本だと目がチカチカしちゃいますよね。本当は、そのような本を読みこなせないとダメだとわかっちゃいるんですけど。
石川先生の『実況中継』は「わかりやすく」「覚えやすい」上に、そのような本にありがちな中身スカスカというデメリットがなく、気が付いたらものすごく奥深いところまで覚えてしまってた……ってことが実現できる稀有なご本です(むろん、わかりやすいからといって、隅々覚えられるかどうかは別問題です。使う人の能力値によります。涙)。
日本語には「ゴロ合わせ」というありがたいものがあり、それを使えば年代暗記は容易です。ゴロ合わせを好まない先生方もおられることはわかっていますが、使える手はすべて使うべき、と思います。石川先生も、特に重要だと仰っている年号には「覚え方(ゴロ合わせなど)」を伝授してくださっていることがあり、まさに至れり尽くせりなんですが、一~百までゴロ合わせというわけにもいかず、すべてはカバーし切れていません。
そこで、ほかに、年代暗記に特化した本も何冊か参考にして、石川先生のご本では「覚え方」が伝授されていない項目もいくつか追加しました。残念ながら、石川先生はじめ、諸先生方が生み出した神がかり的なゴロ合わせをここに公開することはできません。最下部に出典となっているご本を書いておきましたので、ご自分でお買い求め(もしくは立ち読み ← 非推奨。お金をかけたほうが覚えられます。人ってケチなので)くださいませ。むろん、ゴロ合わせなどしなくとも覚えられる記憶術の達人には無用なお節介でした。
※石川先生のご本にある事項「★」、ほかの本にある事項「☆」としています。ただし、これはあくまでも、暗記法の伝授があるかどうかのマークにすぎません。また、「★」については、「覚え方」がゴロ合わせではなく、○○のちょうど○○年後とか、連続している年代はまとめて覚える、のような「覚え方」になっていることもあります。★がないけれど書き出したのは、附録の講義ノートに載っている重要年号と思しきもの。( )になっているのは、ノートにはなく、参考にしたほかの「年代暗記用」参考書に「ゴロ合わせ」などが載っていたりしたものです。
いずれにしても、☆の数が多いほど、たくさんの本に「覚えた方がいいよ」とかいてある、ということになります。この先も、日本史参考書のコレクターは続けると思われるので、記載事項や☆の数は増えていく予定です。
なお、ミルたちじしんは特に「ゴロ合わせ」信奉者ではないです。平方根や年号の暗記にゴロ合わせが有効なのは、それらが単なる数字の羅列でしかなく、「理解して覚える云々」することができないものだからです。受験生のために必死に覚え方を考えてくださった先生方には心より感謝いたしますが、必ずしもそれらの「覚え方」を皆さまに推奨しているわけではありません。念のため。
まとめ
- 石川晶康先生の『日本史講義の実況中継』で勉強しています
- 年代暗記は基本「ゴロ合わせ」。ただし、あえてゴロ合わせをせずに覚えた方がよいケースも存在する。それらは本の中に書かれた機密事項となるため、ここには記せない ⇒ 各自本を買うか借りるなどしてください
- むろん、ゴロ合わせなんてしなくとも、歴史の流れくらい頭に入ってる、って人には年表も参考書も不要です
- ☆の数が多いほど、たくさんの本で取り上げられているものとなります
時代区分について
原始時代の時代区分はいい加減です。なぜなら、何万年も前のことなど、先生方にもわからない世界です。のみならず、古代、中世に至ってもそう簡単に何年からなんて決められない状況です。なので、参考書によってズレがあったり、巧みに話題を回避していたりしており、正確なところはどこもかしこも「協議中」って感じです。
そもそも、「○○時代」などという時代区分は、未来の我々が便宜上勝手に付けているだけですので、当時の人々は、「俺、縄文人」とか、「飛鳥時代に生きています」なんて意識はなかったわけで。見出しがないと延々と長くなってメンドーなので、いちおうわけていますけど、自らの意見でも推測でもないです。
いちおう、下記のような問題が気になって仕方ないです。
一、縄文時代の終わりと弥生時代の始まりは重なっているらしい
弥生時代の特色が農耕と弥生式土器云々とすれば、文化が伝播していく早さには地域差もあり、ここはすでに弥生時代やってたが、ここはまだ縄文時代だった、ってことになる。その意味では日本全国○○年から弥生時代、なんて断定することはできない。実際、参考書類にも終わりと始まりの重なりについて書かれていることが多い。
二、聖徳太子や推古天皇の頃もまだ古墳時代だったっぽい
卑弥呼は弥生時代、倭の五王はヤマト政権の成立云々の代表選手みたいに考えていたけど、古墳にフォーカスしてみると、卑弥呼の頃から出現期古墳はあったかもだし(三世紀から、ってことなので)、聖徳太子の頃も、終末期古墳が存在してた(七世紀までなので)。卑弥呼と推古天皇をどうすればいいのか、素人にわかるはずがない。⇒ 石川先生の附録年表には、古墳時代と弥生時代の間に区切りがなかった……。飛鳥時代は先生の分け方に従いました。
三、都が移った瞬間、政権トップが征夷大将軍などになった瞬間が○○時代の始まりという考え方は揺れているっぽい
大昔、鎌倉時代は1192年から、と決まっており、超定番のゴロ合わせも存在しました。これは源頼朝が征夷大将軍に任命された年ですが、最近では 1192 = 鎌倉時代の始まりとしていいのかどうかってことで揉めているようです。ゆえに、書物によっては○○説をとれば、鎌倉時代は△△年から、××説をとれば、鎌倉時代は□□年から、のように何種類も書いてあったりします(覚えることが増えて受験生困るのでは? と思いますが……)。⇒ 奈良、平安は石川先生の分け方に従いました。で、問題は鎌倉時代なのですが、先生は「寿永二年十月宣旨」で分けておいででした。「が」この時って、まだ平家存在してるやん……ってことで、何となく悲しかったので、大昔の分け方(つまり 1192 )で切っています。
四、室町時代の区分に常に違和感
南北朝 ⇒ 室町 ⇒ 戦国って認識みたいですけど、流れ的にはそうですが、ココも切れ目がわからず揉めているところです。南北朝については揉める必要がない(後醍醐逃げて朝廷二つになったところから合一までなので)ものの、ここを、南北朝時代とやってしまうと、足利家の幕府は尊氏から始まっていたと思われるのに、義満の代までは「南北朝時代」って区切りなので、室町時代が南北合一後から始まるみたいになり、それ以前が浮かんでしまいます。
「並立」してた、ってことだと思うのですが、ここら、南朝年号と北朝年号とかを併記するだけで頭割れるのに、○○時代まで併記するとか頭痛い……。そもそも、鎌倉幕府の滅亡年号はほとんどの人が暗記していると思われるほどメジャーですが、その後すぐに始まったのは後醍醐の政権ですよね? ということは、ここは南北朝でもなければ、室町幕府もまだ出来ておらず、建武の新政とでも分けるほかないみたいなぶら下がり時代が何年かあります。
あと、おしまいのほう、戦国時代はいつから? って問題も、最近の定説は応仁の乱から戦国時代、ってことみたいなんですが、まだオダノブナガとか出てきていないのに何で? 定説はずっと室町時代で、その中に南北朝時代、戦国時代があるってことで、戦国時代についてはいくつか意見がある(明応の政変でわけている先生もおいでです)ってことのようです。
でも、後醍醐天皇親政の時期は室町時代に入れたらおかしいような気がして仕方ない……。しかもこれ、この時点では南北朝に別れてもいないので、南北朝時代というわけにもいかないし。謎すぎます。しかし、メンドーなので、鎌倉幕府の滅亡後は室町時代にしてます。違和感ある方多数と思いますが、本人も違和感なので。どっち道、意見が割れているような微妙な問題を出題するような試験(含資格試験)は相当に意地が悪いと思われます。そのような問題がでた場合(しかも割れている年号が選択肢に二つ以上ある)、ほかの問題で頑張って、不幸にも落第したら、二度と受験するのをやめるか、意見申し立てしましょう。
まとめ
- 「時代区分」には諸説あり、バラバラである
- そもそも、時代区分など明確に分けられるものではない。「定説」があろうとなかろうと、「便宜上」のものでしかないので、気にする必要はなく、「個人の自由」。学者に怒鳴られても、無視すればよい。
大内庭園 & 管領家年表法(※重要)
特別規則
- 大内庭園の歴史には「琳聖さま来朝以前」は存在しない。とはいえ、過去の上にその後の歴史が積み重なっているという意味で、それ以前も完全に無視することはできない。ゆえに、とりあえず『先史時代』としておく。
(学術的な意味での『先史時代』とは意味合いが違うため注意されたい) - 同じく、1551以降の歴史もない。過去と違い、将来は完全に無視してかまわないため、オダノブナガだとかそういうのは一切存在しないものと見なす。
- 管領家の庭園については、細川家の分裂から畿内を大混乱に陥れ、のちに信長はじめいわゆる「戦国大名」が跋扈して、それぞれが都を目指すことになる。しかし、メイン大内庭園との関わりにおいてのみ存在する彼らという認識なので、今のところ1551以降は無視という原則を当てはめる(今後、余裕ができたら進出したい)
※この記事は、サイトのリニュアールに際して、こちらに移転してたものです。その際、多少書き改めました。
元の場所での初出:20230511
移転日:20240724
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周防山口館【大内庭園~雅の宴~】
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