将軍一門人物解説

足利義尚

2020年11月3日

足利義尚イメージ画像
足利義尚・茶色のキウイ様画

足利義尚は「緑髪将軍」と称されたほどの美男子であった。その容姿端麗なこと、「御容顔いとも美しく、すきのない玉の御姿」などと褒めそやされている。
これは、特に近江へ親征した際に、将軍様の威風堂々たる陣容とその美しいお姿を目にした者たちの間で噂となったものらしい。
応仁の乱で焼け野原となった京。将軍様の威厳も地に堕ちた感があったが、ここへきてしばらくぶりにそのお姿を目にした人々の喜びはいかばかりであったか。
さらに、このような麗しいお姿なのだからなおさらである。

基本情報

室町幕府第九代将軍
生没年 1465.11.23~1489.3.26
八代将軍・義政の長子、母 : 日野富子
改名 義尚 ⇒ 義熙
法名 常徳院悦山道治
墓所 
官位 従一位・内大臣・贈太政大臣
歌集「常徳院集」

変わり者と悪女から生まれた玉のような御子

世の人からは政治に関心がない、やる気のない「変わり者」扱いされることが多い将軍・義政。そして、「悪女」の代表のように忌み嫌われる日野富子。
最近の研究ではこれらの古い通説、特に富子悪女説については否定されているが、それでも彼女が京中の関所から通行料を取るなど、あれこれ金銭に執着していたのは事実であり、その意味で当時の女性としてはかなり「変わっていた」には違いない。
義尚はこれら「変わり者」と称される両親から生まれた息子である。

生まれたのは大乱の最中

義政とて、最初から政治に無関心であったわけではない。彼なりに真剣に勤めようとした時期もあった。それについては、本人の項目で述べたい。しかし、諸々の事情が、彼に思い通りの政務を執らせてはくれず、やがてはやる気を失っていったのだ。
そして、「やる気のなさ」が頂点に達した時、義政は隠居を考えた。しかし、この時点ではまだ義尚が生まれていない。なので、跡継ぎとなるものを先に用意する必要があった。
義政は出家して僧侶となっていた弟の義視を訪ね、自らの隠居と後嗣問題を打ち明ける。むろん、跡継ぎとして、義視を指名したかったからである。
まだ働き盛りの義政に隠居など持ち掛けられても、義視としては迷惑な話であった。なぜなら、義政・富子夫妻にはまだ、出産のチャンスは十分に残されており、万が一、同意した後に実子が生まれたら、義視の立場は微妙になるに違いないからだ。
ところが、義政は「もしも今後実子が生まれたとしても、すぐに出家させ、後を継がせることはぜったいにないので」と約束をした。
義尚としたら哀れな話である。こうして彼は、生まれながらにして出家させられる、という運命が決められてしまった。おそらく、義政は一刻も早い隠居を望んでいたし、そのためならどんな約束でも平気でしたのであろう。それに、実子の誕生についても、もはや諦めていたのかもしれない。
だが、予想に反して、というか予想通りというか、まだ若い将軍夫妻には、義尚という玉のような若君が生まれたのである。
彼の出生が、特に応仁の乱を複雑化したとも思えないが、我が子可愛さに義視との約束は結局反故にされ、兄弟は相分かれて東西両陣営で対立することになる。

両親との確執

悪女と罵られつつも日野富子が、せっせと蓄財に精を出し、幕政にも口を挟んだのはすべて愛する我が子・義尚のためであった。東山山荘の建築にすべてを注ぎ込む夫の義政は、先に、まだ若い富子を放置して「隠居」を画策したあたりから、夫婦仲は円満ではなかったのかも。
表向きはどうあれ、夫のこのような行為を容認できるような妻はいないだろう。そのかわり、夫に向けられる分の愛情もすべて息子の義尚に与えられた。
義尚は応仁の乱の最中、義視が西軍の陣営に身を投じた後の文明五年(1473)、僅か九歳で将軍位に就いている。山荘づくりに没頭する夫に代わり、義尚に帝王学を身に付けさせたのは富子であった。
当時京で最高といわれた師匠を招き、どこへ出しても恥ずかしくないような教養を身に着けさせる。聡明で見目麗しい我が子は、富子にとってかけがえのないものであった。
いっぽうの義政。政治に無関心といっても、我が子はまだほんの幼子。義尚は1479年に御判始・評定始・御前沙汰始を行いはしたが、政務はいぜん義政がとった。 これまでの先祖たち同様、隠居した父という身分で息子をサポートした。
戦時下ということもあるし、義尚としたら、政治は父に任せ、自らは母にすすめられるまま、最高水準の教育を受ける。後は、将軍家の若君、いや実際にはすでに将軍様であったが、実情はそのような何不自由ない子供時代を送るだけだ。
しかし、子どもはやがて大人になる。やがて物心つき、思春期を迎え、自立したいと考えるようになる。そうなったとき、なにやら隠居の身分で張り切っている父と、過度なスパルタ教育を強要してくる母の存在は、義尚にとって煙たいものに思えてきた。これまた、現代にもよくあるあまりにも普通な親子関係の変化である。
義尚が政務を執るようになったのは、1483年頃からとされている。しかし、実権は相変わらず義政の手中にあった。自らの意志で政治を動かそうとする義尚と、義政との意見の相違は顕著であって、あれこれお伺いを立てるたびにつまらないことで衝突した。義尚は「奉公衆を中心に自己の基盤の強化を企て」たが、1485年には奉公衆と奉行人との抗争が起り、果ては、一人の女房を巡る恋のさや当てで父子の仲が険悪となり、義尚は「もうやってられるか!!」と美しい髪を切り落として、出家すると騒ぎを起こした。
必死に止めに入った富子だったが、すでに義尚の髪は大童。何という父に何という息子なのであろうか。富子は絶望した。
そもそも、学問や生活態度についてしつこくあれこれと言ってくる富子は嫌われて、義尚から避けられていた。こんな一大事が起ろうとは、富子には想像もできなかった。
なんとか息子を思いとどまらせた富子であったが、なんとも気まずい家庭内のことで、義尚の未来は前途多難であった。

命を縮めた近江親征

義尚が立派に成長し自ら政務を執れる年齢になると、義政は東山山荘一辺倒になって、表舞台から一旦姿を消した。漸く独り立ちすることがかなった義尚は、まずは失墜した幕府権力を再び強化することを第一の課題と考えた。
何より、十年にも及ぶ戦乱で、国も民も疲れ果て、何もできない幕府のイメージも定着してしまっている。このままではいけない。
籤引き将軍・義教から始まって、誰しも将軍職に就いてまず目指すのはこの「幕府権力の強化」。復権と言ってもよいだろう。幕府が最も偉大であった義満の時代が、(義持を除く)後継将軍たちにとって、幕府のあるべき姿、戻るべき道であった。
到達目標は同じでも、義教の場合は単なる恐怖政治の終始した。その結果、己の命すら失ったことは、あまりにも有名である。

義尚は義教とはまったく別の道を選ぶ。その一つにして、最大のプロジェクトが「将軍親征」であったのだ。
当時、大名たちは幕府権力の弱体化をいいことに、没落した公家や寺社の領地を力づくで横領するということを平然と行っていた。時代はすでに、力あるものがそれに見合うだけのものを手に入れる、戦国乱世の世に突入し始めていたのである。
なので、このような「横領」は全国各地で平然と行われていたといってよい。むしろ、力がなければ逆に奪われてしまうので、ある程度は積極的にやらねばならない側面もあったかもしれない。
そして、この時、京の目と鼻の先、近江の地で、大々的にこの「横領」をやらかしていたのが、近江の守護六角高頼であった。
しかも、彼が横領した土地の中には幕府の直轄領もあったというからとんでもない話であった。
まずは見せしめとして、六角家を討伐し、同じような不法行為を行っている者たちにも釘をさす、これが義尚が考えたシナリオであった。

まともにつとめると嫌われる将軍職

こうして、長享元年(1487)、実に久方ぶりに、京の人々は冒頭の、将軍様自らが出征なさるお姿を目にすることになったのである。
将軍様自ら軍を率いて行くとなれば、諸国の大名たちも駆り出されることになるので、その隊列はじつに見事なものであった。もちろん、遠隔地の者は到着が遅れるため、それがすべてではない。
少なくとも、最終的に、とてつもない大軍となり、もはや六角高頼ごとき一守護にはとうてい対抗できるものではなかった。
案の定、高頼はとっとと居城の観音寺を棄てて逃亡。伊賀の里に身を隠した。
親征は「ここでやめていたら」大成功だったのである。
少なくとも不法行為をしている者たちへの「見せしめ」にはなったろうし、多くの大名が傘下に馳せ参じたことで、その威厳も示せたはず。ところが、義尚はここで一つのミスを犯してしまう。
彼は、この不届き者・六角高頼をとらえない事には気が済まなかったのである。
高頼はどこにいたか。伊賀の里である。そう、有名な忍者の里だ。それだけでもお分かりだろうが、このようなところに紛れ込んでしまった者を探し出すのは困難であった。
こうなると、如何に大軍を率いていようとも、そんなことはあまり重要ではないのである。
しかし、義尚は側近たちが止めるのも聞かず、遠征を切り上げようとはしなかった。
こうなるともう意地である。彼としては絶対に、六角高頼を捕らえて戻らなければ、この遠征の意味がないのである。
ここにきて、配下の大名たちと将軍との間に不協和音が生じる。
そもそも、戦にはカネがかかる。故郷を遠く離れて駆り出されている兵士らは国許へ帰りたくもなる。正直言って、「迷惑」なのである。しかも、どう見ても、当初の目的は達成できたとおもわれるのに、いつまでも「忍者の里」に隠れている敵を捕らえようと帰国しようとしない。
将軍様には意地があろうとも、そんなことは諸国の大名たちには関係ない。
それどころか、この六角高頼に対する「見せしめ」は、ほかの少なからぬ大名たちにも当てはまることであるから、つぎは我が身かもしれぬと思うと、心中穏やかならぬ。
将軍などというものは、自分たちの「守護」としての職権を認めてくれさえすればよいのであって、それ以上は放っておいて欲しい、というのが彼らの本音だ。
先の義教が家臣に暗殺されるという不幸な最期を遂げたのも「彼がやり過ぎた」からであった。
義尚は今の所、恐怖政治をやっているわけではなかったが、こういつまでも遠征に駆り出され、さらに、二回目三回目と延々と続いていくことを考え、しかも、つぎのターゲットが自分かも知れないと思えば、こんな遠征も、妙に「やる気のある」将軍も迷惑だ。
先の義政のように優柔不断で、山荘の増築にでも凝っていてくれるような人物のほうがずっと楽である。

美貌も霞むほど疲れ果てた末に

義尚は近江国・鈎に陣を置き、長期にわたって滞在した。「陣所」と呼ばれているからといって、陣幕が張られているだけの、風雨にさらされている場所などを想像してはいけない。義尚は京から多くの公家やら幕閣を引き連れて来ており、むしろ京の御所のほうが閑散としていて、実情こちらが「幕府」として機能していた。無論、将軍様らはともかくとして、駆り出された下っ端の兵士らはそれこそ雨ざらしである。既に数ヶ月に及ぶ逗留で、皆疲れ果てていた。
六角高頼の行方は杳として分からず、どうして城を棄てて逃げ出した時点で引き上げてくれなかったのかと、皆、不満たらたらである。
いっぽう、この膠着した状態の中、義尚自身にも異変が起こっていた。慣れない場所での長逗留と、思うに任せぬ戦況が彼の心を蝕み、元々飲酒の度が過ぎていて母・富子からきつく注意されていたにもかかわらず、ここにはうるさい母もいないので、酒量は更に増えていた。
そう、義尚は心身ともに病んでしまったのである。
母・富子は、義尚が病に倒れたと聞き、見舞いに駆けつけた。そこには、これがあの、玉のような我が子であろうかと思うほど、病みやつれて容貌さえ見る影もなくなった義尚の姿があった。

早過ぎる死が招いた波紋

京中の女たちの心をときめかせた将軍様であったが、その華々しい出征の時とは違い、帰国した時は棺の中であった。
長く続いた戦乱の中で幼くして将軍の座に就かされ、父や母との確執の末、漸くすべてを我がものとした彼が、大軍を率いて京を離れた時の颯爽とした美しさは、もはや永遠に拝めぬものとなっていた。
幕閣たちは、膠着した戦線から何とか将軍様を引きはがして京に戻そうと進言し続けた。だが、この戦に持てる力の全てをつぎ込んでいる義尚は、六角高頼の首を目にしない限りは決して諦めない。
当然、京を出た時と同じように華々しく凱旋し、文弱な父義政と自分とは違う事、母富子に溺愛されてその財力を背景に将軍の座に就いたのではないことを証明しなくてはならない。そして、応仁の乱で幕府の無力さが露呈されたという聞くに堪えない噂話を己が力でねじ伏せること、これら諸々が彼の願いのありったけであったのだ。頑なに病身を押してその場に居座り続けた義尚だったが、それら全ては見果てぬ夢に終わった。
長享三年(1489年)三月二十六日、九代将軍・義煕(元は義尚であったが、従軍中に改名していた)は鈎の陣中にてこの世を去った。一年五か月にも及んだ遠征は結局成果をあげることはできずじまいとなったのである。

そして乱世が幕を開けた

義煕には子がなく、その跡を継いだのは、従弟の足利義材。そう、かつて、応仁の乱で政弘らが「西幕府」将軍として担いでいた足利義視の子であった。
しかし、この義材も後に「明応の政変」と呼ばれるクーデターによって、細川政元に将軍位を追われてしまう。
これを境に、将軍職は力のある者のサポートなしでは支えられない不安定なものとなり、将軍の首の挿げ替えも、政元による義材から義澄、細川高国よる義材(復職後)から義晴と家臣の手で勝手に行われる有様となった。
ゆえに、この「明応の政変」を戦国時代の始まりだとする研究者もいる。

ながらへば 人の心も 見るべきに 露の命ぞ はかなかりけり(義尚辞世の句)

義尚の辞世の句とされるものは何種類かあって、実際にはどれがそうなのか分からない。
しかし、儚く散った麗しい将軍には、何となく、これが最もふさわしい、そんな気がした。

20230828 追記

きわめて個人的な感想ではあるが、義尚は室町幕府最後の、将軍らしい将軍であったと考えている。現在にも残る「銀閣寺」(つまりは東山山荘)を造った父・義政はもちろんのこと、最高級の教養を身につけることが可能な身分にあった歴代将軍たちは皆、それなりに風雅な人々だったろう。義尚は父の「雅」な性質を受け継ぎつつ、さらに、母・富子によって、当時最高級の師について様々なことを学んだ。歌人としても著名で、それゆえに、法泉寺さまとも親交が深かった。

義尚は、幕府が輝いていた時代を再興するというしっかりとしたビジョンを持ち、帝王学も身につけていた(お母上に『無理矢理?』学ばされたとしても)。義満ほどのすさまじさはないにせよ、教養深くその上、政治的能力値もあった(はず)。

さらには、将軍自ら遠征に出かけるほど、「武」にも気を配っていた。将軍親征は単なるパフォーマンスにすぎない、戦は家臣がやるもの、というのが現実ではある。でも、やる気がない人ならば、戦は軍略に長けた家臣に任せて、御所で蹴鞠三昧でもいいわけで。だが、義尚は自ら出陣した。

これだけでもう、スゴいことである。そんなん当たり前じゃないか、と思われるかも知れない。けれども、短命に終わったり、家臣に命を奪われたり、戦乱続きでやる気をなくしたりする将軍ばかりが続いていたから、その「当たり前」が皆、できずじまいだったのである。

しかし、歴史はあまりにも残酷である。義満につぐ、立派な将軍として語り継がれていくことになったかもしれない義尚は、わずかに二十数年で花の命を散らしてしまった。佳人薄命というけれど(いつも思うケド、これ、男性に使ってはいけない四字熟語なんでしょうか?)、若くして亡くなったがゆえに、その容姿端麗なお姿のまま永遠に人々の記憶に残ることになった。でも、彼が抱いていたであろう、偉大な構想は何ひとつ叶うことはなかった。

義尚の死後、幕府権力の弱体化は加速し、ついには将軍の地位も有名無実となった。義尚の跡を継いだ義材が細川政元による「将軍の首の挿げ替え」で追放(というか『逃亡』。上手く逃げられなかったら島流しにでもなっていたような)されて以降は、もはやまともに勤め上げることができた将軍などひとりもいない(単なる名義貸しで御所にいた人々は数えない)。それゆえに、オダノブナガなんぞの時代となっていくわけだが、何だかなぁ……と常に思う。

もしも、義尚が天寿を全うしていたら、室町幕府は、その後の日本史はどうなっていただろうか。歴史にもしもはないとはいえ、常にそのことを考える。少なくとも、跡継になる息子がいたとしたら、細川政元の悪巧みは機能しなかったはずである。

歴代将軍の中で、このお方が最も尊敬すべき人なので、時間ができたらしっかりとリライトしたいと思う(何もイケメンだから好きなのではないからね)。意外に思われるかもしれないけど、足利一門も室町幕府も好きなのである。基本、源氏は嫌いなんだけど……。そうでなかったら、この庭園の中に、於児丸は住んで(?)いません。大内偏重だと、幕府は嫌いな人が多くて当然だし、実際、ヘンテコな歴代将軍だらけだけど。

緑髪将軍と管領畠山家、好きって言ってもそのくらいにはなるけども。彼らについてもやがては書いていきたいよ。

参照文献:『日本史広事典』

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ミル

何も見ないで勘だけで書いています。

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於児丸

だから、それ言うのやめようよ。

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次郎

人名と年号は危ういからすべて避けてら。けどさ、ホントにイケメンだったの? 女ってわずかに一行の典拠不明ネタで萌えるのね。

『管領家の庭園日記 第一話』はほとんどこの人の話です。⇒ 「義尚公御政務之事」

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ミル@周防山口館

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