日本史基礎

土地制度概観

2024年2月19日

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土地制度の変遷

土地についての問題は非常に難しく、何がどうしてどうなっているのか本を読んでもイマイチわかりません。要は「荘園」というものが分りづらいのです。「泣く子と地頭には勝てぬ」などという言葉を中学生くらいの頃、棒暗記し、よく分らないけど地頭って怖いんだ。何で? と思った記憶が鮮明です。

いっぽうで、一所懸命などという言葉も習い、一生懸命ではなく、一「所」懸命ですからね、と先生に言われた記憶も。武士というのは土地に対して命をかけてるという感じでしょうか。

現在のように、土地の権利書を持っている個人がその土地所有者であり云々と分りやすければ苦労しないのですが、日本史の場合、土地の「所有者」は荘園の持ち主だったりするわけでして。そこに住んでいる人は単に、その「経営権」を認められているだけだったりするらしきことがわかり、途端に頭の中が混乱しました。

でもこの問題、なんとか分っていないと、あれやこれやと意味不明なことが続出してきます。研究者の方々はたいへんですが、単なる趣味人ならば、教科書や参考書の知識で十分と考えます。それすら理解するのは困難ですが。というわけで、この機会にさらっとおさらいしておきましょう。

古代の土地制度

律令制下の初期荘園

律令制度における土地税制は公地公民制でした。しかし、これは8世紀の初めに早くも崩れてしまいます。土地、口分田が不足してしまったからです。そこで、土地開発を奨励し、不足を補おうとしました。

 723年 三世一身法(養老七年の格)

新しく土地を開墾した人には三世代、荒れ果てた土地を復旧した人には一身(その人が死ぬまで)、その土地を自分のものにしてかまわない、という法律です。

でも、開発者一世代にせよ、三世代にせよ、その時期がすぎたら、土地は結局、国のものとなってしまいます。ゆえに、あまり魅力的には見えなかったようで、この法律は失敗でした。そこで、新規開墾でも、荒れ地の復旧でも、その土地は永久に開発した人のものとする、という新しい法律を出しました。

 743(天平十五)年 墾田永年私財法

今度は多くの人が開発に参加しました。ただし、誰もが開発事業を行える、というわけでありません。財力がないと無理だからです。東大寺や興福寺のような大寺院や高級貴族が中心となります。むろん、偉いお坊さんや貴族たちが自ら鍬をもつわけじゃありません。開発した土地は地元の農民たちに貸し出して耕作させ、使用量を徴収して利益を得ました。このようにして、開発された大寺院や貴族らの土地を初期荘園といいます。

これらの荘園はすべて輸租田でした。つまり、租庸調の「祖」、土地からあがる税金はきちんと国に納めていました。ゆえに国司や郡司などの律令政府のお役人も、貴族や大寺院の土地開発事業や徴税などに協力したのです。

つまりは、初期荘園の特徴は、律令制の恩恵を被る高級貴族や大寺院が、律令制の国司制度・郡司制度を利用して営んでいたものであったことです。

初期荘園・まとめ

  1. 律令制では口分田という土地を与えて耕作させ、そこから税収を得ていた
  2. しかし、やがて口分田が不足したので、新たに開墾する必要が生じた。そこで、三世一身法を出したが、効果はなかった
  3. そこで、墾田永年私財法を出し、開墾した土地は自らのものにしてもよい、とした
  4. 大貴族、大寺社などの勢力は率先して土地の開拓事業に乗り出し、自らの土地を増やしていった
  5. けれども、この時代の土地は、自らのものとなっても、税は納めねばならない輸租田であった
  6. こうして、律令制度の下で、役所も協力して開発事業を行なって大貴族や大寺社のものとなった土地を「初期荘園」と呼ぶ

律令制完全崩壊

初期荘園はあくまで、律令制下で認められた土地ですから、律令制度の衰退とともに、初期荘園も危うくなっていきます。

9世紀にはいると、班田収受・租庸調制が崩れてきます。その理由は、根本となる戸籍がダメになったためです。

律令制の恩恵を被る高級貴族、東大寺、興福寺のような大寺院が、律令制の国司制度・郡司制度を利用して開墾した初期荘園は、班田収受・租庸調制の崩壊に従い、9世紀にはいると衰えてしまいます。この事態を打開するため、あれこれのアイディアが生み出されました。

例えば大宰府は、自ら土地経営をすることによって、なんとか事態を打開しようと頑張ります。大宰府経営の土地は「公営田」と呼ばれ、823年に認可を受けました。それを真似るようにして、879年からは、中央政府も土地経営を開始。これが「官田」です。けれども、いずれも大した成果を上げることはできなかったようです。

902年、醍醐天皇は「延喜の荘園整理令」という法律を発布。何とかして、律令制、租庸調制を維持しようと試みます。けれども、これも成功はしませんでした。「班田収受の法」の命令が出たのはこの年が最後となってしまいました。律令的な口分田の班田収授法と租庸調制度は完全に崩壊し、土地に対する課税は不可能となってしまったのです。

そこで、平忠平政権の頃、発想の転換が行なわれました。これまでのような人頭税ではなく、土地に対して課税をすることにしたのです。土地所有者に対して課税をすれば、戸籍のあるなしは関係なくなりますので。

そもそも、戸籍がダメになったってどういうこと? と疑問が湧くかも知れません。要は誰しも徴税を免れたいと思うのは当然なので、インチキな申告をする人が増えたってことです。税率が低いがゆえに、男性なのに女性として届け出るとか、そもそも戸籍に登録しないとか。ゆえに、三善清行という人が意見した際に、つぎのような話をしています。

斉明天皇が百済を助けるために遠征をしたとき、声をかければ多くの兵士を集めることができました。戸籍がきちんと整理されていたため、兵士となるべき男子は逃れられなかったわけです。しかし、時は流れ、次第にいい加減になっていくと、まともに登録する人が少なくなっていき、しまいには登録者ゼロなどという極端なケースも現われたのだとか。重税に苦しむ農民たちが、偽りの報告をして逃れようとするのは理解できますが、きちんと調査すればすぐにバレてしまうはずです。監視する役人たちもいい加減だったのでしょう。

受領と寄進地系荘園

地方政治を任されていたのは国司でした。つまり土地課税を行なっていたのも彼らです。国司でも実際に現地に赴任する人々はだんだんと少なくなります。国司にも色々なランクがありますが、その中でトップにあたる人に、地方政治を丸投げし、もはや地方のことは地方で。中央にはとにかく徴税した税を納めればいいので。となります。このようにして、現地に赴任して徴税を任された国司を受領と呼びました。受領の主たる任務は一定の税を請負って中央政府に納入することとなります。とにかく税金を納めることが任務ですので、土地課税を徹底し、厳しい取り立てを行ないました。それがあまりに過酷であったゆえ、現地の人々は音を上げました。郡司などの現地の租税徴収者たちも同様です。そのような有り様が史料として残っているものが、いわゆる「尾張国郡司百姓等解文」であり、教科書・参考書に必ず載っているものです。

土地課税と国司によるその徴収という、新しいスタイルが定着してきた頃。11世紀は、摂関全盛期でした。受領、国家による過酷な徴税の下、現地の開発領主たちは徴税を免れるため、権力者を頼る道を選びます。寄進地系荘園の登場です。

すると、どこもかしこも権力者の庇護下にはいって、徴税を逃れるため、寄進地系荘園だらけになってしまいます。こうなると、またしても徴税ができなくなります。そこで、1069年に延久の荘園整理令が出ました。これによって、「荘園公領制」という中世的な土地税制が生まれます。

後三条親政と土地改革

摂関政治が絶頂を迎えたのは、周知のように、藤原道長の時代でした。しかし、道長の息子・頼道は、後宮に入れた娘に跡継となる息子が誕生しませんでした。こうなると、天皇家の外戚として権力を振るうことができません。そこで、摂関家と血縁関係にない天皇が立つことになりました。これが、後三条天皇です。1068年、後三条天皇が即位すると、頼道は弟・藤原範道に関白の地位を譲って、宇治に引退してしまいます。天皇と血縁関係にない範道は、外戚としての権力がないため、関白といってもこれまでのような摂関家全盛時代とは違い、ただの名ばかり。関白の地位は単なる名誉職と化します。

延久の荘園整理令

いっぽうで、後三条天皇は摂関家に介入されることなく、自由な親政を行ないます。その最たるものが、1069年の延久の荘園整理令っでした。天皇は「記録荘園券契所」を創設し、1045年以降に成立した荘園については、たとえ国家が許可したものであっても、認可しない、と定めました。つまり、摂関家はじめ、有力者の庇護下に入ることで、徴税を免れていた者たちからも徴税をする制度を徹底させたのです。

長いものには巻かれろということで、税金を納めたくない土地所有者は皆、摂関家などに土地を寄附。そうすることによって、その土地はやんごとなき摂関家の土地であるという理由で徴税を免れていたのです。土地所有者は、自らの大切な土地を寄附してしまってどうするの? と思いますが、寄附をして摂関家などの土地とすることにより、徴税に来る国司を撃退することができました。何しろ、天下の摂関家の土地ですから、そこらの国司には手が出せないのです。すごすごと引返すほかありません。だからといって、元の土地所有者は自らの土地を摂関家に献上してしまったら、何の取り分もなくなってしまうではないか? と考えてしまうかもしれませんが、そんなことはありません。確かに、土地の名義は摂関家のものとなり、元の所有者は摂関家に対して土地から得た収入を納めねばなりませんでしたが、それでも、国司から徴税されることに比べればほんのわずかで、残りは自らの懐に入ったのです。つまり、摂関家は名義貸しをして、土地の上がりの一部をもらう。元の土地所有者は土地を摂関家のものということにして、自らの所有権を手放し、摂関家に土地からのあがりもおさめねばなりませんが、そのお陰で彼らの土地は摂関家に守ってもらうことができ、国からの重税から逃れることができました。見た目上は、同じ土地所有者が同じ土地を管理しているわけで、以前となんら異なることはありません。こうやって寄附をしたかたちの荘園を「寄進地系荘園」といいますが、皆考えることは一緒なので、いずこも寄進地系荘園と化し、そのお陰で、徴税を免れていたのです。これでは、税金はまったく入ってきません。

そこで、後三条天皇は荘園整理令を出すことによって、これらの摂関家の名を借りて徴税を逃れている土地の取り締まりを行なったわけです。記録荘園券契所という役所で、国から正式な免税許可をもらっていない土地はすべて「公領」と見なすゆえ、きちんと納税しろ、と命令したわけです。摂関家の名を借りて、国の役人を撃退していた土地開発領主たちは真っ青ですね。ことに、1045年以降に開発された荘園に関しては一切認めず、すべてを公領とする、という厳格なものでした。

「荘園公領制」の成立

逆に言えば、1045年以前で、国から許可を得ているものについては、その所有を認められたということでもあります。これによって、国に税金をおさめねばならない「公領」と、国から正式に免税許可を得ている「私領地」とが、明確に区別されました。そして、土地に税金を納めなくてもよい私領を「荘園」と呼んだのです。これによって、「私領=荘園」と「公領」とが並立する「荘園公領制」という中世の土地税制の基礎ができあがりました。

つまり、摂関家の威を借りて徴税を免れていた連中の土地が「公領」とされてしまい、徴税対象となったと同時に、国から許可を得て徴税を免れる私領としての荘園のいくつかも正式に認められたわけです。どういうところが、正式に認められ、どういうところがはねられたか、といえば、まずは1045年以降のものは問答無用でダメ。それ以前のものは、開発し領有しているのが誰であれ、「正式な書類」が発行されて認められたものでない限りはすべて「公領」とされました。たとえ、どんなにやんごとなきお方の名義であれ、正式書類がなければ没収されて、偉い人、著名な大寺社の領地でも逃れることはできなかったのです。

土地を開拓した人=開発領主が、自らの土地を守る(徴税を免れる)ために大貴族・大寺社に土地を「寄進」するというかたちをとって寄附。その見返りとして、大貴族・大寺社から、現地における土地管理者(=荘官)として、その地位を認めてもらい、守ってもらう。そんなウインウインの関係が築かれていたのです。

寄進を受けた側の偉い人を荘園領主、「領家」といいました。荘園領主は権威を傘に役人たちに圧力をかけ、願わくは国家による正式の認可を得ることを望みました。国による正式の認可を受け、紛れもなく彼らの私有地である、と認めてもらった後は、不輸不入の権という特権を得ることが目標です。
 不輸の権ーー納税不要の特権  
 不入の権――徴税のための調査官を荘園内に入れなくする特権
ここまで認めさせた完璧な私有地が「寄進地系荘園」です。

当たり前ですが、こんな都合の良い特権は容易く認めてもらえるものではありません。不輸の権はわかりますが、不入の権がちょい分りづらいかもですが、開拓が進むと、収入が増えますので、調査官は定期的に現地調査にやってきます。調査の結果、この土地はだいたいこれだけの価値がある(収入がある)ので、いくらいくらの税金を納めてください、ということが決まりますからね。そんな人に自由に出入りされてあれこれ調べられたらたいへんです。けっこう不輸の権というのものは、与えられているケースがありました。しかし、不入の権まで得れば、完全にすべてをシャットアウトできるので、いつ何時、これまでは徴税対象にしてませんでしたが、あまりに潤っているようですので、今後は……ということも未来永劫ないと保証されるわけです(知らないけど)。

それまでは、あそこは摂関家の土地だから、大寺院の土地だから……という理由だけで、仕方なく徴税をあきらめるということがまかり通っていました。けれども、今後は「正式な認可書類」を持っていなければ、どれほど偉い人であろうとも例外は認めない、といいます。だったら正式な書類さえもっていればいいじゃないか、と思いますが、それをもらうのは並大抵のことではありません。

正式な書類をもっている荘園 ⇒ 官省符荘:太政官符、民部省符をもっているところ

太政官符、民部省符をもっていない荘園、国免荘(国司が国司の権限で徴税を免除してあげていたところ)などはすべて整理対象となりました。

しかしです。皮肉なことには、この整理の結果、運良く正式な書類を持っていた荘園は国のお墨付きで徴収免除となってしまいました。本来ならば、すべて徴税対象にしてしまいたいところですが、却って、一定数の徴税不要の土地を認めてしまうことになったんです。

こうして、一定数の「私領=荘園」と公領とが並立するという状態は近世に至るまで続きました。織田信長や豊臣秀吉などの時代になって、天下統一が成し遂げられるまで続いていたというわけです。

荘園領主(領家)――現地の開発領主(荘管):下司、公文、地頭

荘園領主は、寄進してくれた現地の開拓者に「職(しき)」という名目でその土地を認めます。そのかわりに「得分」と呼ばれる経済的な収益を得ていました。ところが、荘園領主の力が弱まったり、途絶えてしまったりすると、自らはもちろん、開発領主をも守れなくなります。そこで、その場合にはよりランクの高い人に、さらに寄進をします。荘園領主から、より高貴な身分のひとへの寄進です。そうやってより上位の人たちに寄進を続けていった結果、皇族や大寺院などの元に寄進地系荘園が集中していくことになりました。

現地の開発領主から見ると、すぐ上の荘園領主に経済的収益を渡している感じですが、その荘園領主もまた、さらに上位の荘園領主に自ら得た得分の一部を渡しているのです。このようにして、寄附に寄附を重ね、最終的にはどんどんランクが高い人のところに土地が集中していきました。このような最上位の土地所有者を「本家」といいます。

やがて、荘園ではない「公領」についても、ある国一国分の収入をすべて一人の人物に与えてしまう「知行国制度」やら、現地の開発領主(荘官)の職を鎌倉幕府の将軍が保証する「本領安堵」などのその時代にあわせて新たな制度が生まれました。

領家や本家のように、寄進を受けるだけで経営はまったく行なわない人々を荘園領主。彼らに土地を寄進した開発領主は荘官として、預所、下司、公文、荘司、地頭といったような様々な「職」を得て、現地の経営権を認めてもらいます。荘園領主は不輸の権・不入の権を獲得することで、私的な土地支配は完全なものとなりました。

こうして「荘園公領制」という制度が確立してくるのですが、このまま素直に公領と荘園とがきちんと納税を果たし続けていればこの制度は永遠です。しかし、そんなに順調にいくはずがありません。武家による荘園の横領などが進んで、やがてはダメになってしまいます。それについてはまだまだ続きます。

※この項目まだ中途です。

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ミル@周防山口館

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