ゆかりの人々

足利義稙(義材)

2024年7月16日

足利義材イメージ画像

足利義材とは?

室町幕府第十代将軍。九代将軍・義尚の従弟。父は足利義政の弟・義視、母は日野富子の妹なので、義尚とはとても血縁が強い。従兄・義尚が若死にしなければ、将軍職につくことなどありえなかった。「血筋」というものは、こういうところでモノを言う。

細川政元のクーデターで将軍の座を追われ(明応の政変)、越中に逃れて幕府を開く。やがて、大内義興の援助を得て将軍職に返り咲く。

援助してくれた多くの人々に迷惑をかけ、その被害者は多岐にわたる。生涯を捧げた畠山尚順はもちろん、当主の義興が長年にわたり京に「拘束された」ことで、大内家も散々な目に遭う。大勢力の留守中に、中国地方の勢力図は大きく塗り替えられてしまったからだ。正直、この人物のせいで、その後の歴史は変わってしまった。

本人は世話になった人々を平然と裏切り、そのために人望を失って、最後は四国の島で寂しく世を去った。

※義材はその後二回、改名しているが、メンドーなので最初の名前に統一している。

足利義材・基本情報

生没年 1466.7.30~1523. 4.9
室町幕府の十代将軍(1490.7.5~1493.6.29、1508.7.1~1521.1)
初名 義材、のち義尹
父 足利義視
母 日野政光の女(富子の妹)
法名 恵林院厳山道舜
従二位権大納言

義材、将軍となる

応仁の乱の最中に将軍位に就いた緑髪将軍・足利義尚は二十五歳の若さで急死する。まだ跡継となる息子もいなかった。当然ながら、このような場合、同族一門の血縁者から大慌てで後継者を探す。将軍がいつまでも空位ではならぬからだ。そして、血縁者から後継者を探す、ということは、どの家でも同じこと。しかし、揉め事が起こるほど候補者が大量に存在する家もあれば、遠縁の没落した身内を遙々探し出さねばならないようなケースも。足利家もここ数代、子沢山ではなくなってきていたから、後継者選びは簡単ではなかった。

だが、九代から十代への代替わりはそこそこスムースだったと言える。義材は両親ともに、前将軍と深い繋がりがあり、血縁が近いことは誰よりも勝っていたからである。

しかし、問題もなくはない。それは、応仁の乱の際、父・義視と義政将軍とが対立関係であったことだ。それらについては、二人のところで詳しくみることにして、ここでは割愛する。

こうして、前将軍の両親からの支持を得た義材は、華々しい将軍職に就く。

育ちは美濃の片田舎

応仁の乱勃発前。伯父である八代将軍・義政は、義材の父・義視に将軍職を譲り、隠居したい、と打ち明けた。出家の身となっていた義視は還俗して将軍の後嗣となる道を選ぶ。ところが、義政に実子・義尚が生まれて雲行きが怪しくなる。続く、応仁の乱によって京は目茶苦茶に。義視が将軍職に就く話も立ち消えになった(詳細は、義政、義視の項参照のこと)。

大乱終結後、義視は美濃に下向。表向き兄・義政と和解したものの、これだけの大騒ぎを起こした身。もはや、生涯、京とかかわることもなかろうと思っていた。大樹の座は夢と消えたが、還俗し、妻子ある身となった義視は、むしろ穏やかな余生を過ごすことに喜びを感じた。

義視には複数の子どもがいたことが知られているが、一番上、跡継ぎがこの義材であった。彼の少年時代についてはよく分らない。恐らくは、その後の展開は予想だにしないことであり、美濃の片田舎でひっそりと過ごす少年を気にかける者などなかったのだろう。

※「片田舎」という表現は「都ではない」というほどの意味です。

薄らと残る応仁・文明の記憶

年齢から逆算すると、義材の出生は応仁の乱の最中となる。従兄の義尚と年も近かった。だが、従兄が九歳で将軍となった時、彼の父・義視は賊軍の頭という身分。もしも、西軍が天下を取れば、それこそ将軍職は父のもの、後嗣は彼だが、膠着した戦線はだらだらと続いてはいたが、実際には敗色濃厚。危険な戦火にさらされることこそないが、明るい未来も見えなかっただろう。

将来、義材の人生に大きくかかわることになる大内義興の父・政弘は在京中。幼い義材がその麗しいお姿を記憶に留めるような機会はあったのだろうか。

だが、このときの義視と政弘はじめ、西軍諸将との関係は親しいものであったようだ。政弘は、講和に際して、義視の処遇について保証することを条件としたし、義視父子を美濃に引き取ってくれた土岐氏、配下の守護代・斎藤妙椿らも西軍だ。

早死にしてくれた従兄

戦は終わり、美濃の片田舎に落ち着いた義視父子。ところが、なんという運命の悪戯か、従兄の義尚が二十五歳という若さで急死する。若すぎたこともあり、未だに跡継ぎとなる息子がいなかった。しかも、父の義政は、隠居するのに弟を頼ったくらいだから、息子は僅かに義尚一人。代わりをつとめる兄弟すらいない。京は俄に慌ただしくなった。

義政は銀閣寺を建てることに熱心で、風雅の道に遊びながらも、隠居の身で政治の実権を手放そうとせず、親子げんかがたえなかった。なので、義政本人も含め、政務を助ける家臣はそろっている。だが、将軍の地位を空席のままにはできないのである。

跡継ぎを誰にするか、彼が座るのが将軍の座である以上、これは大問題である。ところが、義政、富子夫妻は意外にもあっさりしていた。

一度隠居した義政がもう一度将軍になるわけにもいかないし、誰か身内の者を、と言ったら一人しか思い浮かばなかった。弟・義視の妻は、義政の妻・富子の妹。つまり、義視の息子は、義政の甥であると同時に富子にとっても実の甥。これほど、彼ら夫婦と血縁の濃い人物はいない。迷うこともなかった。

天から降ってきた打ち出の小槌

突然にもたらされた息子を将軍の跡継ぎに、という知らせ。義視はどれだけ驚いたことか。義材はこのとき、二十歳を過ぎた青年となっていたが、どうやらまだ元服もすませていなかったらしい。

当時の元服は、とくに年齢がはっきりと決められていたわけではなく、十代半ばが普通とはいえ、二十歳過ぎでもおかしいことはない。反対に、幼くして父を亡くし、大慌てで成人するケースもある。この辺りは、史料がないらしく、義材が義材として史書に現れる以前の名前などを記した書物には、今のところお目にかかっていない。あるいは、これ以前に成人していたかもしれない。

とにかく、従兄の死によって、彼は足利義材、という名前で歴史の表舞台に飛び出してきたのだ。

権力確立を目指して

伯父と父の死 見回せば一人きり

義材が将軍となることは、前将軍の義尚の両親、先々代の将軍義政とその御台所富子が後押ししていたから、反対意見を唱える者はなかった。だが、このとき、ほかの「候補」を推薦した人物がいた。細川政元である。

元西軍の関係者を跡継にするのか、と。政元は義材ではなく、古河公方政知の子・天竜寺香厳院清晃を推薦してもいた。

政元の意見はしごくもっともである。同じく管領家の畠山政長とて、元・西軍の又従兄・義就となおも激しく争っていた最中だったのだから、このワードにはもっと過敏に反応してもよかったはず。だが、義政夫妻には、応仁の乱もすでに記憶の彼方となっていた模様。政元の意見は無視された。ただし、この時の「しこり」が後にとんでもない事態を招く。

降ってわいた打ち出の小槌はとんでもなくラッキーなこと。だが、将軍様の仕事も楽ではない。もともと、幼い頃から、将来の将軍様として、大切に育てられ成長した前将軍とは違い、義材は美濃の片田舎の出身。帝王学のなんたるかと縁遠いことはもちろん、己を支える股肱の臣というべきものがいなかった。それでも、伯父の義政、父の義視の存命中はそのサポートがあり、心強かったのだが。彼らが立て続けに世を去ると、義材の周辺は途端に閑散とした。

心優しい於児丸は、そんな将軍様をお慰めするために、しょっちゅう拝謁を賜り、お相手をしたことだろう。まあ、そこには、葉室光忠などという怪しげな公家などもいたりして、義材は本当に人材不足であった。於児丸の父・政長は、相変わらず宿敵・畠山義就(本人は世を去り、息子の義豊の代になっていた)との戦に明け暮れていたが、先代までの大物が次々世を去るなかで、義材にとって信頼に足る忠臣であった。この頃、元々、義材が将軍位に就くことに反対していた細川政元と義材との仲は険悪であり、長らく繰り返された権力闘争の流れから言っても、政元と相容れない政長が将軍お気に入りとなったのは当然である。

苦楽を共にした「側近」 謎の公家・葉室光忠

心細い新将軍を支えた側近の一人に葉室光忠という公家がいる。葉室家は元々そこそこの身分の公家ではあった。しかし、応仁の乱では、何となく西軍だったので、敗戦後そのあおりを食って没落したらしい。そのため、美濃に下向中の義視父子と時を同じくして、この男もまた美濃の片田舎の住人であった。義材との交流はその時から続いていたものと見える。

一人ぼっちで寂しい青年の心の隙間にべったりと入り込んできたこの男は、たちまちにして、その側近となる。義材のこの男への待遇は常軌を逸しており、権大納言という高い位につけるなどして便宜をはかってやった。

葉室の権大納言昇進に際しては、定員オーバーとなってしまうため、罪もないのにその地位を追われた人物がでるなど、周囲にも被害が及んだ。将軍への取次なども、この男を通すルートが確立され、相当な利益を懐に入れていたと思われる。

このような人物が非難の対象とならぬはずはなく、その矛先は、彼を重用する義材に向かった。

「忠臣」畠山政長とその息子

葉室のような男を重用しなければならなかった背景には、他の将軍たちのように、少年時代から培われた幕府内での人脈がなかったことが大きい。でもどうせなら、怪しげな公家なんぞではなく、政治家を味方につけるべきでは? しかし、幕政においてもっともデカい顔をしていた細川政元が、義材と不仲である。

何しろ、後継者問題の時、この男はあからさまに他の人物を推薦していた。義材に面白いはずはない。もちろん、政元のほうも、こんな将軍おことわりだ。そんなとき、この機会を利用して、新しい将軍に取り入り、お気に入りの座を目指そうとした人物が皆無だったわけではない。たとえば、義材は心許ない将軍というイメージを脱却するため、まずは従兄・義尚が果たせなかった近江六角氏の討伐を継続し、見事にそれを完遂する。

それにあたっては、元・東軍の赤松氏など奮闘努力で目立ちまくった。この時点では、細川家もいちおうは協力し、細川被官の功績も認められるが、せいぜいここまでだった。

え、元東軍って? 細川政元もそうだけど、未だに過去を引きずってんの?

そうです。応仁の乱は、内輪もめ大爆発みたいなものだったが、彼らの大原則は「敵の敵は味方」であった。いちおう、疲れ果てて和解になったが、弓矢に及ぶほど揉めていた問題ある連中が、そう簡単に和解してまるくおさまるはずはないのである。現に、大乱のきっかけみたいに言われている畠山政長と義就両名は、その後も闘争を続けていた。

ただし、ここで、微妙な「歪み」が生じるのである。彼らは、それぞれ家中に問題を抱えており、未だ分裂しているような者もいたわけだが、全国規模での大乱がおさまった今、それぞれの家の中のことと、元西・東がどうのということはあまり関係がない。あるとすれば、心情的なものだろう。

思い出して欲しいのだが、六角高頼は元・西軍の将である。元・東軍の義尚が攻め込んで来ようとも何の矛盾もないが、元・西軍義視の息子、義材にそれをやられたら、なんとなく気分が悪い。そもそも、六角高頼がやっていたようなことは誰もが普通にしていたことであって、たまたま京から近く、大胆にやり過ぎた彼がやり玉にあがりはしたが、ほかの大名たち全員にとって、これは明日は我が身の脅威である。

こういう、「やる気がある」将軍は面倒だ。御所に籠って、山荘の建築に勤しんでくれるような人物が望ましい。そうでなくとも、いちいち、「親征」だなどと呼びつけられては迷惑なのである。これは前任の義尚に対してもあてはまる。

こんな風に、皆は目に見えないところでストレスと不満を感じていた。しかし、大事をやり遂げた義材は最高にいい気分だ。そして、例の「歪み」。元西軍で、義視を奉じて戦っていた畠山義就と敵対する畠山政長が、義材に接近してきた。もうここには、元東も西もない。彼は細川政元とそりが合わず、義材と政元が不仲なら、当然かれと義材は接近する。ごくごく自然の成り行きだった。

管領を輩出する畠山家は、二つに分裂し没落しかけてはいたが、細川家に対抗できるはずの勢力なのだ。彼が味方になってくれるのなら、義材にとってこれほどありがたいことはない。葉室同様、義材の側近となった政長は、息子ともども、義材と親しく付き合い、彼を助けた。

まあ、本人は未だ畠山義就の息子・基家(義豊)と抗争中だし、軍事も政務も多忙なので、若い将軍の気を紛らわせるのは、もっぱら、息子である於児丸の役目だったかも。

我慢と苦難の日々

一生消えない恥辱 明応の政変

先に、前任の義尚が果たせなかった近江の六角討伐を見事に成し遂げた義材は、これに気をよくしたのか、つぎは河内の畠山討伐を行う、と宣言した。とうぜん、お気に入りである、政長らの意見をくみ取ってのことである。将軍親征という大義名分とともに、憎らしい畠山義就の跡継ぎを倒し、念願の一門の統一を成し遂げる。政長父子とって、これ以上ない名誉なことである。当然、義材にとっても将軍としての威厳を示すまたとない機会だ。

だが、ただでさえ気にくわぬ義材が名を挙げること、その「お気に入り」として、畠山家が細川家にとって代わって将軍の傍近く仕える家臣筆頭となること、は政元にとって面白いはずがない。更に言うと、政元だけではなく、この遠征を好ましく思わぬ者は少なくなかったのである。

政元は義材の遠征に付き従わなかったばかりか、討伐先である畠山義豊(基家)と密かに結び、先に義材が留守の間に京を乗っ取り、ついで、義豊とともに義材を襲うというやり方で政権を奪取した。

政長は義材と跡継ぎの於児丸(尚順)を逃がしたあと、河内の将軍本陣だった寺で自害。義材は、細川家の家臣に囚われるという辱めを受け、側近であった公家・葉室光忠なども命を奪われた。

悪運強い主従

紀伊に逃れた尚順は、今は父の仇となった畠山義豊と細川政元を討つことに生涯をかけることになる。義材は、政長の忠臣・越中の神保長誠の手の者に救い出されて彼の分国に匿われ、再起を図ることとなった。

美濃のつぎは越中 片田舎が似合う将軍様

神保長誠のもとで匿われていた義材はそこで再起をはかることを心に誓った。全国の大名たちに檄文を飛ばし、政元の悪行を懲らしめ、自らを復職させるよう協力を募ったのだ。そして、越中がもったいなくも将軍様御座所となったことで、長誠は付近の寺院を改築し、政庁を準備した。それは「越中幕府」と呼ばれ、文字通り、京の傀儡政権ではなく、義材こそが正統であることを、大々的にアピールした。

政元は、義材には何も出来まいと放置していたが、幕府などつくり檄文を飛ばすにいたって、やや目障りに感じ、越中に攻め込んで来た。しかし、ここは尚順の忠臣・神保長誠の功績大である。政元一派は越中を落とせずに引き上げていった。

畠山尚順力戦 でもかなわなかった京都奪還

義材のシンパは少なくなかったが、気持ちの上では同情してくれても、細川政元の専横に口を挟む義の人は少なかった。義材が頼みとするに足る忠臣は畠山尚順と、周防の大内義興くらいであったが、神保長誠らはなぜか大内を味方に引き込むことを敬遠した。

大内家の勢力はそもそも大きい。だからこそ、力を貸して欲しいのだ。だが、力が大きいということは、義材を助けるにあたって「第一の功臣」となってしまう恐れがあった。なんということか、長誠はそんなつまらないことにこだわっていたのだ。

神保らの間では二つの意見が対立していた。

一つは、もう騒ぎは起こさないと約束するので、政元には大目に見てもらい、義材および、若殿・尚順の命だけ保証してもらえればそれでいい。という「穏健派」

一つは、そんな馬鹿な話があるものか。とうぜん、憎っき細川政元を成敗し、義材を復職させ、同時に殿(亡き主君・政長)の仇も取り、畠山義豐一味を河内から追い出す。という「好戦派」

義材と尚順とが、「好戦派」であることは言うまでもない。だれが、政元などと手を組めるものか。しかし、長誠自身も含め、「穏健派」の勢力のほうが優勢であって、いちおうはその「策」が第一案とされていたらしい。それで、神保家からは、政元との交渉にこぎつけるための工作資金として、大量の金銭がばらまかれた。

策はあと一歩で、政元との面会に辿り着けるくらいまで進んでいたが、ここで、どういうわけか方向転換となり、「穏健派」として工作にかかわっていた家臣が殺害されるなど血なまぐさいことになった。というのも、最初は揉めるよりは和解してやるのもかまわないと考えを緩めていた政元の態度が硬化してしまい、この「策」を続けることができなくなったこと。それに、畿内での義豐との戦いで、尚順が思っていた以上に成果を上げ続けたことなどによる。

尚順と義材とは、越中と畿内から京を挟み撃ちにして、政元を倒そう、と計略していた。

尚順は、ついに義豐を自害に追い込み、息子の義英には「降伏」および、義材と手を組むようを認めさせる。父・政長の仇をとり、一時的だが、念願の畠山家の「統一」も実現された。畿内で孤軍奮闘していた尚順の努力が実を結んだのである。これで、計画通り「挟み撃ち」の作戦も実行できる。

ところが、この時、義材はどういうわけか、礼も告げずに夜陰に乗じて神保家を去り、朝倉家に身を寄せた。朝倉家が義材の復職を助けることに応じたからだというのだが。しかし、朝倉家は「動かなかった」。わずかばかりの手勢で京を目指すことになった義材は旗色悪く、これでは挟撃どころではなかった。

さらに、細川政元は「やるときはやる男」だ。彼らの計略を見抜き、しかもそれが朝倉家に無視されたことで頓挫すると知るや、総攻撃を仕掛けてきた。元々士気が低下していた義材派に勝ち目はなく、尚順はまたしても、紀伊国に逼塞することを余儀なくされた。いっぽうで、義材のほうは、京へはいることをあきらめ、大内義興の周防に向かった。

執念の復職

流れ着いた周防国―――大内義興の館に転がり込む

大内家は元々義材に好意的ではあったが、檄文の類いには快い返事を返してこなかった。なぜなら、先代が亡くなって、若い義興が当主となるや、北九州での騒乱が激化し、それどころではなかったのである。

しかし、義材はそんな事情、知ったことではない。着の身着のままで周防に辿り着くと、「将軍」として手厚くもてなされて居座ることになった。ある意味、最初から、義材を助けられるのは大内家くらいしかいなかったのだから、ようやく、主役登場となったわけだ。

大内家は将軍様のお成りを光栄な出来事ととらえて、手厚くもてなしたから、周防での日々は義材にとって、過ごしやすいものであったはずだ。山口には今も、義材がらみの史跡がそこここにある。

しかし、社交辞令はとにかく、本当に光栄であるというだけで簡単には片付けられない面もあったろう。何しろ、接待には金がかかるのだから。いきなり転がり込んできた居候、しかもそれがあろうことか将軍様だった、そんな感じであろうか。

山口館はパラダイス でもやっぱり「片田舎」

山口は「西の京」などといわれ、繁栄した町であった。対外貿易などで潤う大内家は裕福であり、戦乱を逃れて下向する公家なども多かったから、雅な雰囲気も漂う。それこそ、パラダイスだ。義材はここで、政務を執り、義興もよくこれを支えた。

しかし、義材からすると、どんなに大内家の歓待が素晴らしくても、山口のまちがどれほど雅やかであっても、そこがホンモノの「都」でない以上、やはり「片田舎」なのであった。とにかく、一刻も早く京に帰りたい、それだけであった。

都合良く死んでくれた宿敵

義興というのは軍略にも長けた聡明な人物だ。いくら大内家の軍事力が強大であろうとも、おいそれと上洛しようとはしなかった。上洛自体はいつでも出来たろう。だが、問題はその後である。細川政元一派を駆逐し、完全に京を制圧するとなるとそう簡単ではない。

応仁の乱が良い例だ。行くことはできても帰れなくなる、そんな事態は避けねばならない。
(まあ、別の意味で、大内義興は本当に帰れなくなり、難儀することになるのだが)

義材が周防に来て八年。京ではとんでもない大事件が起こる。なんと、あの細川政元が、養子・澄之の家臣に殺害されてしまったのである。「半将軍」とまで呼ばれた男のあっけない最期に、京は騒然となった。

そして、この絶好の機会に、大内が遂に動いた。

夢にまでみた復職

まるで応仁の乱の再来を見ているかのよう。義興の勇姿が京に近付くにつれ、恐れおののいた将軍・義澄とその一派、政元を継いだ養子・澄元は慌てふためいて近江へと逃亡。

越中、周防と遠い異国で苦労した義材は、夢にまで見た京の都に戻ってきたのである。御前に侍るのは、義材復職の最大の功労者、大内義興。それに、同じ細川家でも澄元と袂を分かち義材に恭順の意を表した、髙国。長いこと孤軍奮闘してきた畠山尚順も、その列に加った。こうして、彼ら三人を中心として、義材の二度目の政権が動き始めたのである。

なんだか違う将軍暮らし

大内 vs 細川 やはり終世相容れぬ両家

大内家の「掟」は細川家に気を許すな。しかし、何の因果か細川家も今は二つに分裂し、その片割れは義材の下、「管領」を務めていた。お人好しの義興は文句一つ言わず、今は味方となったこの細川髙国と交流を続けた。

しかし、髙国という人物は専横ぶりが激しく、さすがの義興も最後は音を上げた。家臣同士のいざこざは日常茶飯事。また、これは畠山家とは関係のない話だが、日明貿易の利権をめぐって「寧波事件」などという出来事もおこっている。どうやら、細川家が汚い手を使い、大内家より多くの利益を得ようとしたらしい。

髙国の専横に嫌気がさしたのは、大内家だけではない。一番腹を立てていたのは、むろん、主であるはずの義材だ。どうも細川家の連中というのは、自分たちの手で「仕切らない」と気がすまぬらしい。

まあ、管領などという仕事はそういうものだとも言える。将軍自らがあれこれの雑事にかかわっていたら身が持たない。しかし、そこにまた「旨味」がある職ともいえた。

大内軍なくして守れない京

政権を支えている、とはいっても、細川髙国が仕切っているところに、第三者の出る幕はない。無事に義材を上洛させた大内義興は、はやくも帰国を考え始めた。しかし、近江にはまだ、「前」将軍・義澄も細川澄元もいる。

大内軍がいなくなったら、彼らは待っていたかのように京の奪還に現われるだろう。そう言う意味では、義材の政権はある意味「もろい」ものだった。

刺客に襲われても死なない

京に帰りたくてうずうずしていた義澄と澄元だが、あれこれの謀をめぐらせるうち、あろうことか義材に刺客を放った。義材を亡き者とすることで、将軍としての立場を取り戻そうとしたらしい。だが、この暗殺事件は未遂に終わる。

我儘将軍のだだに困り果てる側近衆

念願叶って京へ戻り、復職した義材だったが、「何かが違う」。政治の実権をにぎっているのは細川髙国、軍事力では将軍をも上回る大内義興。将軍家の威厳とやらはどこにいったのだろうか。

それこそ、優雅に蹴鞠でも楽しんでおられれば何の問題もない。しかし、自ら親征をこなしたほど、「やる気に満ち溢れた」人物である。こんな状況が楽しいはずはなし。そんな毎日に嫌気がさしたのか、義材は何の前触れもなく、唐突に近江に出奔してしまった。この時、足利義澄はすでに病没し、澄元も実家である阿波に戻っていたらしい。

義材の心の中までは分らないが、残された史料などからは「細川髙国の専横を嫌って」のふるまいであるとされている。義材にしたら、一番エラいのは誰だか明らかにしろ。政治を牛耳っているお前か? 大軍率いているお前か? 将軍はこの私だ!! と言いたかったのかも知れない。

しかし、この幼稚な「家出」騒ぎに、側近一同は面食らった。将軍様が、理由もなく京を離れるなど前代未聞のことである。まずはお怒りを解き、ご帰国をすすめるほかなかった。側近らは連名で「義材様に忠誠を誓います」との起請文を提出し、どうにかこうにか京へお戻り願った。

さすがの善人も総スカン

こんな有様だったから、将軍様にお仕えすること=駄々っ子の世話をするごとし。またも臍を曲げてしまったら、今度は何をされるか気が気でない。にもかかわらず、細川髙国の専横は相変わらず続いていたが、大内義興はさすがに義材に愛想をつかせたようだ。なおも、帰国の願い出は続いていたが、何よりも京の安定を望むのは義材だけではない。朝廷も同じ思いであった。ゆえに、義興に高位高官をあたえることで、なんとか京に留まって欲しいと慰留を続けられた。

大内側も朝廷の意向は無視できないから、ますます困ってしまった。ところが、朝廷がなりふりかまわず官位を与え続けたせいで、義興の官位は文字通りエスカレート的に急上昇。将軍様はますます気分が悪くなったろう。これに関しては、大内家は無実である。官位というのは、それなりの箔をつけるという以外、なんの実権もない。中にはそれでも、高位を欲する武家は存在したが、義興はそのようなタイプの人間ではないからだ。

さりとて、たかが官位されど官位であることもまた事実。名ばかりのその名称は、その人物の身分と地位の、つまりは権勢をしめすものだから、高官についている者=実力者なのである。周防の田舎者などと揶揄されている状態が、高位をもらえることで、その風当たりが弱まるのなら、いくらか貰っておくのは必要かも知れない。だが、何も、将軍様に危機感、嫌悪感を覚えさせるほどの高位高官まで頂戴して、その地位に対抗しようなどとは、義興自身は露ほどもおもっていなかったはずだ。

しかし、義材の不信感は拭い去れなかった。最終的に義興の帰国が黙認されたのは、分国でののっぴきならない事情もあったが、義材にとって、義興が、髙国ともども目障りで面白くない存在になってしまったことを意味していたのではないかと思う。義材がこの程度の器の人物であったとしたら、今までお支えしてきた尚順や義興らの苦労はなんだったのだろうか。何やら虚しさを覚えるのである。

流れ流れて最後は四国

何度も居場所をかえたことで、義材には「流れ公方」という異名がある。越中、周防と流れたことまでは話したが、じつはまだ続きがある。

義興の帰国で、京はがら空きとなった。澄元がこれを放って置くはずがない。澄元派はさっそく上洛の準備を始めた。
しかし、上洛するのにはお仕えする「将軍様」が必要となる。この時、先の将軍・義澄は亡くなっていた。忘れ形見の子らは、また幼い。澄元個人が殴り込みをかけたところで、義材に認めてもらえなければただの「造反者」である。ところが、細川髙国と決裂した義材は、なんと澄元と手を結んだ。

澄元が上洛すれば、髙国は追い出され、澄元がこれに取って代わる、そんな約束ができていた節がある。髙国という男は、よほど義材とそりがあわなかったのだろう。

残念なことに、義材の「最後の一手」は失敗に終わった。上洛を前にして、澄元が病に倒れたからである。

髙国はもう一度だけ、義材に「手を組む機会を与えた」。しかし、義材は、こんどは堺に出奔。もうこの男の配下として仕える意義を完全に失った髙国は、堺の義材を無視。義澄の忘れ形見を新たな将軍に立てた。足利義晴である。彼のつぎが各種ゲームやエンタメ小説などでもおなじみ剣豪将軍・足利義輝、そして、最後の将軍・足利義昭と続くのである。

「取られた者負け」だった人生

こうして、先に細川政元のクーデターで将軍職を奪われた義材は、再び細川髙国の手で、将軍職を奪われたかたちとなった。しかし、当然ながら、本人にはまたしても、将軍位を手放した覚えはない。よって、出奔先堺から、淡路 ⇒ 阿波へと移り、この地の人々は彼を「淡路公方」もしくは「島公方」などと呼んだ。

ここが、流れ公方義材が、流れに流れて最後に流れ着いた御座所である。

本当に「奪われ続けた人生」であった。

最後まで付き添った真の「忠臣」は?

義材には実子がなかった。そこで、好むと好まざるとにかかわらず養子を迎えねばならなかった。そして、足利姓の身内と言ったら、もはや亡き義澄の遺児くらいなものだった。そこで、義晴と義維の二人の兄弟は義材の「猶子」となった。遠回りではあるが、義晴の将軍位は、義材にも認められたと言って良い。養子が養父の後を継ぐのは珍しくなく、そもそも、義澄将軍と義材は元々身内だったのだから。

義晴は京で将軍を続けたが、義維のほうは細川澄元の子・晴元の元で養育された。養育されたといっても互いに兄弟のような年齢差の少年同士であった。

この義維という人については、もはやほとんど史料がないらしい。そこで、先生方のご本でも「史料がない」として、実在したか否かなどを推測の範囲内としているケースもある。

義晴・髙国政権に対抗し、晴元は義維を擁して上洛を試みたものの成功はしなかった。そして、ここも謎だが、晴元は義維を淡路に戻した後、自らは義晴の下につく。この先、義維の名が再び現われるのは、その子・義栄が第十四代将軍となった時である。むろん、義栄の父親が彼であった、というかたちで。

そう、かなりマニアックになるが、義輝 ⇒ 義昭という周知の流れの間に、もう一人、義栄という将軍が挟まっているのである。

義維同様、この人物についても謎だらけで、史料すらほとんどない。

このあたりになると、畿内は応仁の乱当時とはまったく様相が変わっている。本願寺や、三好氏、そして、やがて天下を統一していく新たな勢力の誕生で、畿内の地図は完全に塗り替えられてしまう。

幸いに、というか、不幸にして、というか、義材はその後のあれこれを見ずに済んだ。阿波の小島に流れ着き、彼の地で寂しく世を去ったからである。その傍らに最後までよりそっていたのは畠山尚順だった。

早々に隠居し、息子に家督を譲った畠山尚順は、その後再び勃発した両畠山家の騒動とは無縁であった。しかし、息子は煙たい父を追い出したので、行く場のない尚順はまたしても義材の元を訪ね、その話し相手になっていた。しかし、病を得た尚順は、義材を残して先に旅立つこととなり、その後こうして、義材の思い出の中に住んでいる。尚順の姿がいつまでも、幼児期のままなのは、義材にとって、この時期が一番幸せであった故かも知れない。

於児丸吹き出し用イメージ画像(笑顔)
於児丸

将軍さま、今頃、都の紅葉は見頃でしょうね。

足利義材吹き出し用イメージ画像
義材

そうだなぁ。もう一度、都に戻ってやり直したいものだ。

於児丸吹き出し用イメージ画像
於児丸

それはもう、叶わぬ夢でございますよ。どうか、お健やかに。今日はこれにてお暇しますね。

足利義材吹き出し用イメージ画像
義材

何、もう帰るのか? 早過ぎるではないか。もっとゆっくりしていくがいい。ほれ、菓子もあるぞよ。……夢であったか。

尚順が世を去ってから間もなく、義材も旅立った。彼らにとって、その後の畿内のあれこれはもはや関わりのない世界なのである。大内主従にとって大迷惑だった義材。尚順にとっても、その生涯をこの人物のために捧げたと言っても過言ではない。

尚順吹き出し用イメージ画像(卜山)
卜山

迷惑だなどとは思っていない。父上の仇をとり、将軍さまを復職させるという約束は無事に果たしたのだから。

20240715 雑感

URL を変更してサブサイトに移転するにあたり、中身を書き換えようとしました「が」、文字のレイアウトを整理した以外、何もいじっていません。このレベルで完結してしまっているので、全削除して最初から書き直したほうが効果的であり、どこかを手直しすれば何とかなるというものではない状態だからです。超初心者の方向けなら許されるかな。で、読んでいて気が付いたのですが、年号が一切ないですね。最近、覚えやすいと大人気の参考書で、世界史の学び直しを始めたのですが、執筆者の先生がわざと年号は一切書かない方針を貫いておられるとか。確かに、年号がなければないで、特に違和感はありませんでした。このストーリーには、受験生が読者だったとしても、要記憶年号は一切出てきません。いちいち、何年のことです、とか書かなくても何ら不都合はないことに気付きました。とはいえ、そのうち、年号は書き入れる予定です。最優先記事ではないので、いつのことになるか不明ですが。

-ゆかりの人々