足利義材・大内家と畠山尚順を苦しめた迷惑将軍 

室町幕府第十代将軍。九代将軍義尚の従弟。父は足利義視、母は日野富子の妹。

応仁の乱で、お父上の義視様が、西軍の「将軍格」に祭り上げられた時、いや、正確にはその前に、義政様が、弟の義視様に将軍位を譲って隠居するなどと言い始めた頃から、この親子の運命は変わった。

ぽわっとした見かけに似ず、実は我儘で頑固。援助してくれた多くの人々に迷惑をかけた。その被害者は多岐にわたる。
生涯を捧げた畠山尚順はもちろん、当主の義興が長年にわたり京に「拘束された」ことで、大内家も散々な目に遭う。そのせいで、歴史は変わってしまった。

細川政元のクーデターで将軍の座を追われ(明応の政変)、越中に逃れて幕府を開く。後、大内義興の援助を受けて将軍職に返り咲く。

本人はその後も、世話になった義興らを平然と裏切り、そのために人望を失って、最後は四国の島で寂しく世を去った。
(外見と性格付けは当サイト独自のファクション要素を含みます)

大内家と畠山尚順を苦しめた迷惑将軍 足利義材

応仁の乱の最中に将軍位に就いた緑髪将軍・足利義尚は二十五歳の若さで急死する。まだ跡継となる息子もいなかった。
当然ながら、このような場合、同族一門の血縁者から大慌てで後継者を探す。
将軍がいつまでも空位ではならぬからだ。そして、血縁者から後継者を探す、ということは、どの家でも同じこと。しかし、揉め事が起こるほど候補者が大量に存在する家もあれば、遠縁の没落した身内を遙々探し出さねばならないようなケースも。足利家もここ数代、子沢山ではなくなってきていたから、後継者選びは簡単ではなかった。
だが、九代から十代への代替わりはそこそこスムースだったと言える。義材様は両親ともに、前将軍と深い繋がりがあり、血縁が近いことは誰よりも勝っていたからである。
しかし、問題もなくはない。それは、応仁の乱の際、お父上の義視様と義政将軍とが対立関係であったことだ。それらについては、お二人のところで詳しくみることにして、ここでは割愛する。
こうして、前将軍のご両親からの支持を得た義材様は、華々しい将軍職に就く。

でもさ、ここだけの話、育ちがあれだから、ちょっと「似合わない」雰囲気があってさ。ふふふ。

育ちは美濃の片田舎

応仁の乱勃発前。伯父である八代将軍・義政は、義材の父・義視に将軍職を譲り、隠居したい、と打ち明けた。出家の身となっていた義視は還俗して将軍の後嗣となる道を選ぶ。
ところが、義政に実子・義尚が生まれて雲行きが怪しくなる。続く、応仁の乱によって京は目茶苦茶に。義視が将軍職に就く話も立ち消えになった(詳細は、義政、義視の項参照のこと)。
大乱終結後、義視は美濃に下向。表向き兄・義政と和解したものの、これだけの大騒ぎを起こした身。もはや、生涯、京とかかわることもなかろうと思っていた。
大樹の座は夢と消えたが、還俗し、妻子ある身となった義視は、むしろ穏やかな余生を過ごすことに喜びを感じた。

義視には複数の子どもがいたことが知られているが、一番上、跡継ぎがこの義材であった。彼の少年時代についてはよく分らない。恐らくは、その後の展開は予想だにしないことであり、美濃の片田舎でひっそりと過ごす少年を気にかける者などなかったのだろう。

薄らと残る応仁・文明の記憶

年齢から逆算すると、義材の出生は応仁の乱の最中となる。従兄の義尚と年も近かった。だが、従兄が九歳で将軍となった時、彼の父・義視は賊軍の頭という身分。もしも、西軍が天下を取れば、それこそ将軍職は父のもの、後嗣は彼だが、膠着した戦線はだらだらと続いてはいたが、実際には敗色濃厚。
危険な戦火にさらされることこそないが、明るい未来も見えなかっただろう。
将来、義材の人生に大きくかかわることになる大内義興の父・政弘は在京中。幼い義材がその麗しいお姿を記憶に留めるような機会はあったのだろうか。

愚かな。あのような迷惑千万な小僧と交流などあろうはずが……。

だが、このときの義視と政弘はじめ、西軍諸将との関係は親しいものであったようだ。大内政弘は、講和に際して、義視の処遇について保証することを条件としたし、義視父子を美濃に引き取ってくれた土岐氏、配下の守護代・斎藤妙椿らも西軍だ。

俺も大内殿に負けない西軍の雄だったが……。どういうわけか、後からこちらさんとの関係は目茶苦茶になったな……。あの馬鹿息子が絡んでいるようだが……

ドキっ

早死にしてくれた従兄

戦は終わり、美濃の片田舎に落ち着いた義視父子。ところが、なんという運命の悪戯か、従兄の義尚が二十五歳という若さで急死する。
若すぎたこともあり、未だに跡継ぎとなる息子がいなかった。しかも、父の義政は、隠居するのに弟を頼ったくらいだから、息子は僅かに義尚一人。代わりをつとめる兄弟すらいない。
京は俄に慌ただしくなった。
義政は銀閣寺を建てることに熱心で、風雅の道に遊びながらも、隠居の身で政治の実権を手放そうとせず、親子げんかがたえなかった。なので、義政本人も含め、政務を助ける家臣はそろっている。だが、将軍様を空席のままにはできないのである。
跡継ぎを誰にするか、彼が座るのが将軍の座である以上、これは大問題である。
ところが、義政、富子夫妻は意外にもあっさりしていた。

わしは隠居の身……もう一度将軍になるわけにもいかんし……。
一番血縁が近いのはこやつしかおらんなぁ。
しかし、御台が義視に妹を嫁がせていたのは、まさか、このような時にそなえてだったのではないであろうなぁ? ううむ。

義視の妻は富子の妹。つまり、彼の息子は、義政の甥であると同時に富子にとっても実の甥。これほど、彼ら夫婦と血縁の濃い人物はいない。迷うこともなかった。

天から降ってきた打ち出の小槌

突然にもたらされた息子を将軍の跡継ぎに、という知らせ。義視はどれだけ驚いたことか。義材はこのとき、二十歳を過ぎた青年となっていたが、どうやらまだ元服もすませていなかったらしい。
当時の元服は、とくに年齢がはっきりと決められていたわけではなく、十代半ばが普通とはいえ、二十歳過ぎでもおかしいことはない。反対に、幼くして父を亡くし、大慌てで成人するケースもある。
この辺りは、史料がないらしく、義材が義材として史書に現れる以前の名前などを記した書物がない。あるいは、これ以前に成人していたのかもしれない。
とにかく、従兄の死によって、彼は足利義材、という名前で歴史の表舞台に飛び出してきたのだ。

以降は、これらの史実の当事者でもあるこの於児丸がお送りします。

義材様に初めてお目にかかったのは、将軍にお成りあそばされてから間もなく、父上に連れられて御所にご挨拶に行った時だった。
美濃の片田舎で育った義材様は、気さくで人懐っこいところがあった。生粋の嫡流の将軍と遜色ない器になろうと努力し、常に必死に頑張っておられた。生まれながらの将軍家の跡継ぎならば、その地位に就任するときには、すでにそれなりの地盤を固めておいでのはず。しかし、このお方にはそれがなかった。いきなり降ってわいた将軍位だったから。この後、いわば、力のある者に擁立され、やっとのことで形ばかりの高貴な身分を維持していく「将軍像」が普通となるが、その最初の一人が義材様だった。

伯父と父の死 見回せば一人きり

義材様が将軍となることは、前将軍の義尚の両親、先々代の将軍義政とその御台所富子が後押ししていたから、反対意見を唱える者はなかった。だが、このとき、ほかの「候補」を推薦した人物がいた。細川政元である。

いや、元西軍関係者から次の将軍を迎えるのは気分が悪いです、ですので、ここは堀越公方様のお子を次期将軍に……

この男の意見はしごくもっともである。我が父・畠山政長とて、元・西軍の又従兄・義就となおも激しく争っていた最中だったのだから、このワードにはもっと過敏に反応してもよかったはず。だが、義政夫妻には、応仁の乱もすでに記憶の彼方となっていた模様。政元の意見は無視された。ただし、この時の「しこり」が後にとんでもない事態を招く。
降ってわいた打ち出の小槌はとんでもなくラッキーなこと。だが、将軍様の仕事も楽ではない。もともと、幼い頃から、将来の将軍様として、大切に育てられ成長した前将軍とは違い、義材様は美濃の片田舎の出身。帝王学のなんたるかと縁遠いことはもちろん、己を支える股肱の臣というべきものがいなかった。
それでも、伯父の義政様、父の義視様の存命中はそのサポートがあり、心強かったのだが。彼らが立て続けに世を去ると、義材様の周辺は途端に閑散とした。

伯父上の義政様、お父上の義視様が御存命の間こそ、お二人に守られていた義材様だが、一人になられた後は、地盤がないだけに、さぞ心細い思いをなさったことだろう。
そんな義材様をお慰めするためにも、私はしょっちゅう拝謁を賜り、お相手をしたものだ。まあ、そこには、葉室光忠などという怪しげな公家などもいて、その辺り、義材様も本当に人材不足であった。
父上は、相変わらず宿敵・畠山義就(本人は世を去り、息子の義豊の代になっていたが)との戦に明け暮れ、私がかわりにお相手をしたのだ。それでも、父上は、義材様にとって信頼に足る忠臣であった。この頃、元々、義材様が将軍位に就くことに反対していた細川政元と義材様の仲は険悪であり、入れ替わって、我らが将軍様のお気に入りとなったのである。

苦楽を共にした「側近」 謎の公家・葉室光忠


心細い新将軍を支えた側近の一人に葉室光忠という公家がいる。葉室家は元々そこそこの身分の公家ではあった。しかし、応仁の乱では、何となく西軍だったので、敗戦後そのあおりを食って没落したらしい。
そのため、美濃に下向中の義視様父子と時を同じくして、この男もまた美濃の片田舎の住人であった。
義材様との交流はその時から続いていたものと見える。
一人ぼっちで寂しい青年の心の隙間にべったりと入り込んできたこの男は、たちまちにして、その側近となる。義材様のこの男への待遇は常軌を逸しており、権大納言という高い位につけるなどして便宜をはかってやった。
葉室の権大納言昇進に際しては、定員オーバーとなってしまうため、罪もないのにその地位を追われた人物がでるなど、周囲にも被害が及んだ。将軍への取次なども、この男を通すルートが確立され、相当な利益を懐に入れていたと思われる。
このような人物が非難の対象とならぬはずはなく、その矛先は、彼を重用する義材に向かった。

「忠臣」畠山政長とその息子

葉室のような男を重用しなければならなかった背景には、他の将軍たちのように、少年時代から培われた幕府内での人脈がなかったことが大きい。でもどうせなら、怪しげな公家なんぞではなく、政治家を味方につけるべきでは? しかし、幕政においてもっともデカい顔をしていた細川政元が、義材様と不仲である。
何しろ、後継者問題の時、この男はあからさまに他の人物を推薦していた。義材様に面白いはずはない。もちろん、政元のほうも、こんな将軍おことわりだ。
そんなとき、この機会を利用して、新しい将軍に取り入り、お気に入りの座を目指そうとした人物が皆無だったわけではない。
たとえば、義材様は心許ない将軍というイメージを脱却するため、まずは従兄・義尚が果たせなかった近江六角氏の討伐を継続し、見事にそれを完遂する。
それにあたっては、元・東軍の赤松氏など奮闘努力で目立ちまくった。この時点では、細川家もいちおうは協力し、細川被官の功績も認められるが、せいぜいここまでだった。
え、元東軍って? 細川政元もそうだけど、未だに過去を引きずってんの?
そうです。応仁の乱は、内輪もめ大爆発みたいなものだったが、彼らの大原則は「敵の敵は味方」であった。いちおう、疲れ果てて和解になったが、弓矢に及ぶほど揉めていた問題ある連中がそう簡単に和解してまるくおさまるはずはないのである。
現に、いちおう、大乱のきっかけみたいに言われている畠山政長と義就両名は、その後も闘争を続けていた。
ただし、ここで、微妙な「歪み」が生じるのである。
彼らは、それぞれ家中に問題を抱えており、未だ分裂しているような者もいたわけだが、全国規模での大乱がおさまった今、それぞれの家の中のことと、元西・東がどうのということはあまり関係がない。あるとすれば、心情的なものだろう。
思い出して欲しいのだが、六角高頼は元・西軍の将である。
元・東軍の義尚が攻め込んで来ようとも何の矛盾もないが、元・西軍義視の息子、義材様にそれをやられたら、なんとなく気分が悪い。
そもそも、六角高頼がやっていたようなことは誰もが普通にしていたことであって、たまたま京から近く、大胆にやり過ぎた彼がやり玉にあがりはしたが、ほかの大名たち全員にとって、これは明日は我が身の脅威である。

六角高頼が何をしたのかって? 寺社領なんかを強引に自分の領地にしちゃってたんだよ。これ、力のある大名家はみんなやっていた。ただし、横領した土地の中に、将軍家直轄領も混じっていたらしいから、ちょっとやり過ぎたね。

こういう、「やる気がある」将軍は面倒だ。御所に籠って、山荘の建築に勤しんでくれるような人物が望ましい。そうでなくとも、いちいち、「親征」だなどと呼びつけられては迷惑なのである。
こんな風に、皆は目に見えないところでストレスと不満を感じていた。しかし、大事をやり遂げた義材様は最高にいい気分だ。
そして、例の「歪み」。元西軍で、義視様を奉じて戦っていた畠山義就と敵対する我が父・畠山政長が、義材様に接近してきた。もうここには、元東も西もない。彼は細川政元とそりが合わず、義材様と政元が不仲なら、当然かれと義材様は接近する。ごくごく自然の成り行きだった。
管領を輩出する畠山家は、二つに分裂し没落しかけてはいたが、細川家に対抗できるはずの勢力なのだ。彼が味方になってくれるのなら、義材様にとってこれほどありがたいことはない。葉室同様、義材様の側近となった父上は、息子である私ともども、義材様と親しく付き合い、彼を助けた。
まあ、本人は未だ畠山義就の息子・基家と抗争中だし、軍事も政務も多忙なので、若い将軍の気を紛らわせるのは、もっぱら、息子である私の役目だった。

きゃあーー。思い出したくもない。言わないで……。

ん? そこまで余を煩わしい存在だと思っておったとは……。
ふむ。そう言えば……。尚順のことを飼い犬のように可愛がった気はするが、
友としての交わりで終ってしまったような……。

犬じゃないったら(怒)

一生消えない恥辱 明応の政変

先に、前任の義尚様が果たせなかった近江の六角討伐を見事に成し遂げた義材様は、これに気をよくしたのか、つぎは河内の畠山討伐を行う、と宣言した。とうぜん、お気に入りである、我らの意見をくみ取ってのことである。
将軍様親征という大義名分とともに、憎らしい畠山義就の跡継ぎを倒し、念願の一門の統一を成し遂げる。父上にとっても私にとっても、これ以上ない名誉なことである。当然、義材様にとっても将軍としての威厳を示すまたとない機会だ。
だが、ただでさえ気にくわぬ義材様が名を挙げること、その「お気に入り」として、畠山家が細川家にとって代わって将軍の傍近く仕える家臣筆頭となること、が政元に面白いはずがない。更に言うと、政元だけではなく、この遠征を好ましく思わぬ者は少なくなかったのである。
政元は義材様の遠征に付き従わなかったばかりか、討伐先である畠山義豊(基家)と密かに結び、先に義材様が留守の間に京を乗っ取り、ついで、義豊とともに義材様を襲うというやり方で政権を奪取した。
父上は私と義材様を逃がしたあと、河内の将軍本陣だった寺でご自害なさり、義材様は、細川家の家臣に囚われるという辱めを受け、側近であった公家・葉室光忠なども命を奪われた。

悪運強い主従

紀伊に逃れた私は、今は父上の仇となった畠山義豊と細川政元を討つことに生涯をかけることになる。義材様は、父上の忠臣・越中の神保長誠の手の者に救い出されて彼の分国に匿われ、再起を図ることとなった。

ここよ。ここなのよ。きいてきいてみんな。なんと、於児丸は、細川家の追っ手から逃れるために女に変装して逃げたのよ~

ぎゃーー。だから、それは軍記物に書かれているインチキであって、真実とは限らない。つまらないことに興味もつな(怒)

けけけ。でもよ、そんくらいやってもいいんじゃね? このネタ、そこら中に転がってるよ。ムサいおっさんには出来ない芸当だけどさ、落城に際して、幼い跡継を逃がすのに女中の群れに紛れ込ませたり、よくあるじゃない? ま。たいていバレるけど。
ここは俺がまとめとくけど、要するに、義材も於児丸も悪運つよい連中だよな。捕まってた政元の家来のもとから逃げ出すのに成功するとか、親父も含めて家臣のほとんどが討死(自害)してるところで一人だけ逃げおおせたとか。この二人がここで死んでたら、この話もここでしまいだからな。

美濃のつぎは越中 片田舎が似合う将軍様

神保長誠のもとで匿われていた義材様はそこで再起をはかることを心に誓った。全国の大名たちに檄文を飛ばし、政元の悪行を懲らしめ、自らを復職させるよう協力を募ったのだ。そして、越中がもったいなくも将軍様御座所となったことで、長誠は付近の寺院を改築し、政庁を準備した。それは「越中幕府」と呼ばれ、文字通り、京の傀儡政権ではなく、義材様こそが正統であった。
政元は、義材様には何も出来まいと放置していたが、幕府などつくり檄文を飛ばすにいたって、やや目障りに感じ、攻め込んで来た。
しかし、ここは我が家の忠臣・神保長誠の功績大である。政元一派は越中を落とせずに引き上げていった。

畠山尚順力戦 でもかなわなかった京都奪還

思えば、於児丸との付き合いも長いものになったなぁ。父上がなくなってから、先にあいつの親父、そして於児丸と俺らを目の敵にして、なんども河内を侵してきた。
結局俺の人生何だったのよ? 元西軍の誼を捨てて、細川政元と手を組んだけど、特に旨味はなかったぜ。俺は連戦連敗。どんどん於児丸の餌食になっちまった。

ついにこの日が来たか。父上、ごらんになっておられますか? ついに義豐を倒し、河内国を取り戻しましたぞ

義材様のシンパは少なくなかったが、気持ちの上では同情してくれても、細川政元の専横に口を挟む義の人は少なかった。
義材様が頼るべきは我らか、周防の大内殿であったが、神保長誠はなぜか大内殿を味方に引き込むことを敬遠した。
大内家の勢力はそもそも大きい。だからこそ、力を貸して欲しいのだ。だが、力が大きいということは、義材様をお助けするにあたって「第一の功臣」となってしまう恐れがあった。なんということか、長誠はそんなつまらないことにこだわっていたのだ。

何もかも、若殿を思ってのことです。新政権いや正統な政権の再出発にあたっては、当然第一の功臣は若殿でなくてはなりません。かつての畠山家の威厳を取り戻すのですぞ

後から知ったのだが、神保のこの思いは非常に強いものであった。
彼はなりふりかまわず、なんと、細川政元と手を組もうとすら考えていたのだ。
神保家は二つの意見が対立していた。
一つは、もう騒ぎは起こさないと約束するので、政元には大目に見てもらい、義材様および、若殿・尚順様のお命だけ保証してもらえればそれでいい。という「穏健派」

一つは、そんな馬鹿な話があるものか。とうぜん、憎っき細川政元を成敗し、義材様を復職させ、同時に殿(父上・政長)の仇も取り、畠山義豐一味を河内から追い出す。という「好戦派」
私と義材様とが、「好戦派」であることは言うまでもない。だれが、政元などと手を組めるものか。
しかし、長誠自身も含め、「穏健派」の勢力のほうが優勢であって、いちおうはその「策」が第一案とされていたらしい。それで、神保家からは、政元との交渉にこぎつけるための工作資金として、大量の金銭がばらまかれた。
策はあと一歩で、政元との面会に辿り着けるくらいまで進んでいたらしいが、ここで、どういうわけか方向転換となり、「穏健派」として工作にかかわっていた家臣が殺害されるなど血なまぐさいことになった。
というのも、最初は揉めるよりは和解してやるのもかまわないと考えを緩めていた政元の態度が硬化してしまい、この「策」を続けることができなくなったこと。それに、畿内での私と義豐との戦いが、思っていた以上に成果を上げ続けたことなどによる。
私と義材様とは、越中と畿内から京を挟み撃ちにして、政元を倒そう、と計略していた。
義豐を自害させ、息子の義英には「降伏」および、我らと手を組むことを認めさせたことで、畠山家は一時的に「統一された」。
この時、義材様はどういうわけか、礼も告げずに夜陰に乗じて神保家を去り、朝倉家に身を寄せていた。朝倉家が義材様の復職を助けることに応じたからだというのだが。
しかし、朝倉家は「動かなかった」。
わずかばかりの手勢で京を目指すことになった義材様は旗色悪く、これでは挟撃どころではなかった。
さらに、細川政元は「やるときはやる男」だ。我らの計略を見抜き、しかもそれが朝倉家に無視されたことで頓挫すると知るや、総攻撃を仕掛けてきた。
元々士気が低下していた我らに勝ち目はなく、またしても、紀伊国に逼塞することを余儀なくされた。
いっぽうで、義材様のほうは、京へはいることをあきらめ、大内殿の周防に向かわれた。

流れ着いた周防国

大内殿は元々義材様に好意的ではあったが、檄文の類いには快い返事を返してこなかった。なぜなら、先代が亡くなって、若い義興様が当主となるや、北九州での騒乱が激化し、それどころではなかったのである。
しかし、義材様はそんなこと知ったことではない。着の身着のままで周防に辿り着くと、「将軍」として手厚くもてなされて居座ることになった。
ある意味、最初から、義材様を助けられるのは大内殿くらいしかいなかったのだから、ようやく、主役登場となったわけだ。

大内義興の館に転がり込む

大内家は将軍様のお成りを光栄な出来事ととらえて、手厚くもてなしたから、周防での日々は義材様にとって、過ごしやすいものであったはずだ。
山口には今も、義材様がらみの史跡がそこここにある。
しかし、社交辞令はとにかく、本当に光栄であるというだけで簡単には片付けられない面もあったろう。何しろ、接待には金がかかるのだから。
いきなり転がり込んできた居候、しかもそれがあろうことか将軍様だった、そんなかんじであろうか。

山口館はパラダイス でもやっぱり「片田舎」

山口は「西の京」などといわれ、繁栄した町であった。対外貿易などで潤う大内家は裕福であり、戦乱を逃れて下向する公家なども多かったから、雅な雰囲気も漂う。それこそ、パラダイスだ。義材様はここで、政務をお執りに成り、義興殿もよくこれを支えた。
しかし、義材様からすると、どんなに大内家の歓待が素晴らしくても、山口のまちがどれほど雅やかであっても、そこがホンモノの「都」でない以上、やはり「片田舎」なのであった。
とにかく、一刻も早く京に帰りたい、それだけであった。

都合良く死んでくれた宿敵

義興殿というのは軍略にも長けた聡明なお方だ。いくら大内家の軍事力が強大であろうとも、おいそれと上洛しようとはしなかった。
上洛自体はいつでも出来たろう。だが、問題はその後である。細川政元一派を駆逐し、完全に京を制圧するとなるとそう簡単ではない。
応仁の乱が良い例だ。
行くことはできても帰れなくなる、そんな事態は避けねばならない。
(まあ、別の意味で、大内殿は本当に帰れなくて難儀することになるのだが)
義材様が周防に来て八年。京ではとんでもない大事件が起こる。
なんと、あの細川政元が、養子・澄之の家臣に殺害されてしまったのである。
「半将軍」とまで呼ばれた男のあっけない最期に、京は騒然となった。
そして、この絶好の機会に、大内殿が遂に動いた。

夢にまで見た復職

まるで応仁の乱の再来を見ているかのよう。義興殿の勇姿が京に近付くにつれ、恐れおののいた将軍・義澄とその一派、政元を継いだ養子・澄元は慌てふためいて近江へと逃亡。
越中、周防と遠い異国でご苦労なされた義材様は、夢にまで見た京の都に戻ってきたのである。
御前に侍るのは、義材様復職の最大の功労者、義興殿。それに、同じ細川家でも澄元と袂を分かち義材様に恭順の意を表した、髙国。不肖・畠山尚順もその列に加えて頂いた。こうして、我ら三人を中心として、義材様の二度目の政権が動き始めたのである。

大内vs細川 やはり終世相容れぬ両家

大内家の「掟」は細川家に気を許すな。しかし、何の因果か細川家も今は二つに分裂し、その片割れは義材様の下、「管領」を務めていた。お人好しの義興殿は文句一つ言わず、今は味方となったこの細川髙国と交流を続けた。
しかし、髙国という人物は、専横ぶりが激しくさすがの義興殿も最後は音を上げた。家臣同士のいざこざは日常茶飯事。また、これは我らとは関係のない話だが、日明貿易の利権をめぐって「寧波事件」などという出来事もおこっている。どうやら、細川家が汚い手を使い、大内家より多くの利益を得ようとしたらしい。
髙国の専横に嫌気がさしたのは、大内殿だけではない。一番腹を立てていたのは、むろん、主であるはずの義材様だ。どうも細川家の連中というのは、自分たちの手で「仕切らない」と気がすまぬらしい。
まあ、管領などという仕事はそういうものだとも言える。将軍自らがあれこれの雑事にかかわっていたら身が持たない。しかし、そこにまた「旨味」がある職ともいえた。

大内軍なくして守れない京

政権を支えている、とはいっても、細川髙国が仕切っているところに、第三者の出る幕はない。無事に義材様を上洛させた大内殿は、はやくも帰国を考え始めた。しかし、近江にはまだ、「前」将軍・義澄も細川澄元もいる。
大内殿がいなくなったら、彼らは待っていたかのように京の奪還に現われるだろう。そう言う意味では、義材様の政権はある意味「もろい」ものだった。

ふふふ。ようやっと京に戻ることができた。戻った者勝ちじゃ。これよりは余が正真正銘のホンモノの将軍じゃ。二度と美濃や越中のような片田舎に戻るものか。おお、そうであった、周防とて同じじゃよ。やはり、余には京が似合うのだ。ふふふふ。
何事じゃ、騒がしい。な、何!? 大内義興が周防に帰りたいと言っておるだと? とんでもないことじゃ。認めるわけがなかろう。あやつがいなければ、いつまた細川やニセ将軍に襲われるかわからぬではないか

何、また断られた、だと?

もはやこれ以上付き合ってはおられませぬ。留守の間、分国がどうなっておるか心配です。

しかし、将軍様からお許しが出ぬ上、帝からも再三引き留められて……どうしたらよいであろうか……。

まったく、迷惑なお方です。どうせ我らがいなければ、身分も地位も失うことになると分かっているのでしょう。しかし、我らが守るべきは、あのお方よりも、国の民でしょうが。

刺客に襲われても死なない

京に帰りたくてうずうずしていた義澄と澄元だが、あれこれの謀をめぐらせるうち、あろうことか義材様に刺客を放った。義材様を亡き者とすることで、将軍としての立場を取り戻そうとしたらしい。
だが、この暗殺事件は未遂に終わる。

見くびるでないぞ。愚か者めが。このぽわんとした愛らしい容貌はキャラ画像だけ。余にはしっかり武芸の心得もあるのだ。ふふふ。

いや、やっぱ悪運つよいんだっての。於児丸なら女房の格好して布団被って正体隠したりして。ししし。

いい加減にしろーー。殴られたいか?

なんだか違う将軍暮らし

念願叶って京へ戻り、復職した義材様だったが、「何かが違う」。政治の実権をにぎっているのは細川髙国、軍事力では将軍をも上回る義興殿。将軍家の威厳とやらはどこにいったのだろうか。
それこそ、優雅に蹴鞠でも楽しんでおられれば何の問題もない。しかし、自ら親征をこなしたほど、「やる気に満ち溢れた」お方である。こんな状況が楽しいはずはなし。そんな毎日に嫌気がさしたのか、義材様は何の前触れもなく、唐突に近江に出奔なさる。
この時、足利義澄はすでに病没し、澄元も実家である阿波に戻っていたらしい。
義材様の心の中までは、我らには分らないが、残された史料などからは「細川髙国の専横を嫌って」のふるまいであるとされている。

我儘将軍のだだに困り果てる側近衆

義材様にしたら、一番エラいのは誰だか明らかにしろ。政治を牛耳っているお前か? 大軍率いているお前か? 将軍はこの私だ!! と言いたかったのかも知れない。
しかし、この幼稚な「家出」騒ぎに、我ら側近一同は面食らった。将軍様が、理由もなく京を離れるなど前代未聞のことである。まずはお怒りを解き、ご帰国をすすめるほかなかった。
我らは連名で「義材様に忠誠を誓います」との起請文を提出し、どうにかこうにか京へお戻り願った。

さすがの善人も総スカン

こんな有様だったから、将軍様にお仕えすること=駄々っ子の世話をするごとし。またも臍を曲げてしまったら、今度は何をされるか気が気でない。
にもかかわらず、細川髙国の専横は相変わらず続いていたが、大内殿はさすがに義材様に愛想をつかせたようだ。
なおも、帰国の願い出は続いていたが、何よりも京の安定を望むのは義材様だけではない。帝も同じ思いであった。ゆえに、義興殿に高位高官をあたえることで、なんとか京に留まって欲しいと慰留を続けられた。
大内殿も朝廷の意向は無視できないから、ますます困ってしまった。ところが、朝廷もなりふりかまわず官位を与え続けたせいで、義興殿の官位が、義材様のそれを上回る、という奇妙な現象が起こってしまった。
これに関しては、大内殿は無実である。官位というのは、それなりの箔をつけるという以外、なんの実権もない。中にはそれでも、高位を欲する武家は存在したが、義興殿はそのようなタイプの人間ではないからだ。
周防の田舎者などと揶揄されていれば、いくらかの高位をもらえることで、田舎者への風当たりが弱まるのなら、いくらか貰っておくのは必要かも知れない。だが、何も、将軍様を上回る高官まで頂戴して、その地位に対抗しようなどとは露ほどもおもっておらなかったはずだ。
しかし、義材様はこれをあからさまに不安に思った。
義興殿の帰国が許されたのは、分国でののっぴきならない事情もあったが、義材様にとって、義興殿が、髙国どうよう邪魔な存在になってしまったことを意味していたのではないかと思う。
義材様がこの程度の器の人物であったとしたら、今までお支えしてきた我らの苦労はなんだったのだろうか。何やら虚しさを覚えるのである。

流れ流れて最後は四国

何度も居場所をかえたことで、義材様には「流れ公方」という異名がある。越中、周防と流れたことまでは話したが、じつはまだ続きがある。
義興殿の帰国で、京はがら空きとなった。澄元がこれを放って置くはずがない。澄元派はさっそく上洛の準備を始めた。
しかし、上洛するのにはお仕えする「将軍様」が必要となる。澄元個人が殴り込みをかけたところで、義材様に認めてもらえなければただの「造反者」である。
ところが、細川髙国と決裂した義材様は、なんと澄元と手を結んだ。
澄元が上洛すれば、髙国は追い出され、澄元がこれに取って代わる、そんな約束ができていた節がある。髙国という男は、よほど義材様とそりがあわなかったのだろう。
残念なことに、義材様の「最後の一手」は失敗に終わった。上洛を前にして、澄元が病に倒れたからである。
髙国はもう一度だけ、義材様に「手を組む機会を与えた」。しかし、義材様は、こんどは堺に出奔。もうこの男の配下として仕える意義を完全に失った髙国は、堺の義材様を無視。
義澄の忘れが形見を新たな将軍に立てた。
足利義晴。彼のつぎが『麒麟が来る』や、各種ゲームでもおなじみ剣豪将軍・足利義輝、そして、最後の将軍・足利義昭と続くのである。

「取られた者負け」だった人生

こうして、先に細川政元のクーデターで将軍職を奪われた義材様は、再び細川髙国の手で、将軍職を奪われたかたちとなった。しかし、当然ながら、本人はまたしても、将軍位を手放した覚えはない。よって、出奔先堺から、淡路⇒阿波へと移り、この地の人々は彼を「淡路公方」もしくは「島公方」などと呼んだ。
流れ公方義材様の最後の御座所である。
本当に「奪われ続けた人生」であった。

最後まで付き添った真の「忠臣」は?

義材様には実子がおられなかった。そこで、好むと好まざるとにかかわらず養子を迎えねばならなかった。そして、足利姓の身内と言ったら、もはや亡き義澄の遺児くらいなものだったのである。
そこで、義晴と義維の二人の兄弟は義材様の「猶子」となった。遠回りではあるが、義晴の将軍位は、義材様にも認められたと言って良い。
養子が養父の後を継ぐのは珍しくなく、そもそも、義澄将軍と義材様は元々みうちだったのだから。
義晴は京で将軍を続けたが、義維のほうは細川澄元の子・晴元の元で養育された。養育されたといっても互いに兄弟のような年齢差の少年同士であった。
この義維という人については、もはやほとんど史料がない。そこで、先生方のご本でも「史料がない」として、推測の範囲内である。
晴元・髙国政権に対抗し、晴元は義維を擁して上洛を試みたものの成功はしなかった。そして、ここも謎だが、晴元は義維を淡路に戻した後、自らは義晴の下につく。
この先、義維の名が再び現われるのは、その子・義栄が第十四代将軍となった時である。むろん、義栄の父親が彼であった、というかたちで。
そう、かなりマニアックになるが、義輝⇒義昭という周知の流れの間に、もう一人、義栄という将軍が挟まっているのである。
義維同様、この人物についても謎だらけで、史料すらほとんどない。
このあたりになると、畿内は応仁の乱当時とはまったく様相が変わっている。
本願寺や、三好氏、そして、やがて天下を統一していく新たな勢力の誕生で、畿内の地図は完全に塗り替えられてしまう。
幸いに、というか、不幸にして、というか、私も、義材様もその後のあれこれを見ずに済んだ。
阿波の小島に流れ着き、彼の地で寂しく世を去った義材様。
その傍らに最後までよりそっていたのはこの私である。

(瞳キラキラ)

結局、お前だけだったなぁ。損得勘定無しで、心から余に尽くしてくれたのは。お前に先立たれて、余は寂しくてならぬ。だが、待っておれ。もう間もなく、そちらに行くからな。余の生涯はなんであったのだろうか。自分でもよくはわからぬわ。しかし、色々なことがあったな。来世は美濃の片田舎でひっそりと過ごしたいものだ。いや、どうせなら、周防がいいかな。大内之介の暮らし向きは京をも凌ぐものであったぞ。

今日はもう行きますよ。明日また来ますからね。お身体に気を付けて。ゆっくりお休みくださいね。

そうだな。眠るとするか。つぎはお前も周防につれていってやるからな。

早々に隠居し、息子に家督を譲った私は、その後再び勃発した両畠山家の騒動とは無縁であった。しかし、息子は煙たい父を追い出したので、行く場のない私はまたしても義材様の元を訪ね、その話し相手になって差し上げたのだ。
しかし、病を得た私は、義材様を残して先に旅立つこととなり、今はこうして、義材様の思い出の中に住んでいる。私の姿がいつまでも、幼児期のままなのは、義材様にとって、この時期が一番幸せであった故かも知れない。
私が世を去ってから間もなく、義材様も旅立たれた。我らにとって、その後の畿内のあれこれはもはや関わりのない世界なのである。
大内主従にとって大迷惑だった義材様。私にとっても、この生涯をこのお方のために捧げたと言っても過言ではない。

だが、悔いはない……。私にとって、このお方の願いをかなえることは、我が本懐を遂げる事と等しく、無礼を承知で申せば、我らはいわば同士のようなものであったのだ(遠い目)