奇人変人と幸薄い公家の若君
三管領の中で最初に追い落とされたのは畠山家。蜜月にあった頃の、山名宗全と細川勝元の陰謀だった。二人の画策のおかげで、分裂した畠山家は勢いを失う。斯波家はいつの間にか、内部崩壊して消えた模様。気が付けば管領は細川家の世襲になったらしい。まともに務め続ければ、我が世の春は続いたはずが、突然変異で産まれた変わり種・政元の奇怪な行動の数々で、家は目茶苦茶になる。本人は家臣に命を奪われて世を去るが、その後も管領家の家督を巡る争いで畿内は大混乱。明応の政変を戦国時代の始まりと仰った研究者の先生がおられたが、別の意味で、京を戦乱に陥れたのは確かにこの男に違いない。変人の養子となったばかりに人生を狂わされた公家の若君の物語が哀れを誘うが、どこまでが脚色なのかは不明。
細河家争乱の根源
昔、皇胤は二流に分かれ、北朝の持明院殿と南朝の大覚寺殿とが天下を争った。終に北朝に一統して、 南方は帰服なされた。公方家も近年両派になって、今出川殿下と堀越殿下が大樹の位を争っておられるから、下も上をまねて畠山も両家に分れ、斯波も二方が立ち並んで、互いに止むことなく戦っている。
三管領の中で、細川殿だけが一家睦まじく総領を尊び、六代まで繁昌したので、大名高家の手本となっていた。管領・右京大夫政元の代になって、その子孫は二流に分かれ、これも兄弟が世を争って互いに挑み合っている。事の起こりを尋ねると、政元の行動は先祖と違うことばかりであった。
八幡太郎義家の孫・陸奥判官義康には三人の子があり、一人は新田の先祖義重、一人は足利の先祖義兼、 今一人が矢田判官代義清で、これが細川の先祖である。この人は、源平の乱で木曾左馬頭義仲に従い、備中国水嶋の合戦で討死した。これより代々朝廷の武臣となり、また鎌倉に随身した。足利氏一族にはこれより近い分家はない。大公方尊氏卿が天下をお治めになってからは、代々当家の執事をつとめた。
庶流讃岐守清氏は虎口の讒言で御敵とされて滅んだが、そのほかの氏族には一人として御敵となった者がいない。政元の先祖・武蔵守右京大夫頼元以来、代々管領職についている。そのほか武衛、畠山も交代で管領になったとはいえ、これは先祖の斯波修理大夫高経、畠山尾張守義深が一度公方に敵対して降参した子孫なので、細川家とは違うのである。
応仁の乱の時、右京大夫勝元は畠山政長を後援し、山名入道宗全と合戦に及ぼうとした。そのとき、公方は「政長を援ける者は御敵とする」と仰せになった。細川の一族衆はなお、政長を救おうと言ったのに、勝元は思慮深く、忠義の人だったので、思案を巡らせて言った。「当家は将軍の執権として六代まで、一度も御敵のはずかしめを受けたことがない。今政長に合力して御敵となってしまったら、主君に対して不忠であり、先祖に対しては不孝である。不忠不孝の身となったなら、天下の人望に背き、万代の嘲りこれに過ぎるものはない」として、目の前の政長に、合力も加勢もしなかった。
翌年、上意を経て公方方を守護し、山名と対陣した。応仁元年から文明九年まで十一年間の合戦については書き記す暇がないが、最終的に、勝元と政長が運を開いて勝利を得たのだった。山名方の一族は京都にいることができず、散り散りになって滅びた。これはひとえに、勝元が忠義を守り、先祖を崇めたゆえにである。それなのに、その子である政元は父の志にそむき、畠山政長を討っただけでなく、公方の御敵となって将軍の位を替えてしまった。主君への不忠、先祖への不孝、これに過ぎることはないと思える。天下の人望に背いた上は、その滅亡は近いだろう、と人々は噂した。案の定、その通りとなった。
政元は世の人と違い、四十歳の頃まで女人禁制して魔法飯綱法や愛岩の法を修行し、経文を読み、多羅尼をとなえ、まるで出家山伏のようであり、見る人聞く人皆、身の毛もよだつばかりであった。だから男子も女子もなく、家督を継ぐ者がないから、家老の面々はさまざまにこのことを諫めた。
その頃、新将軍義澄卿の御母堂は柳原大納言陸光卿の御娘であり、今の攝政九條太政大臣政基公の北政所とは姉妹でいらっしゃたので、公家も武家もどこもかしこも、九條殿を崇敬していた。政元は当時、公方家の権力を握って驕りを極めたあまりになのか、あらぬ心を起こした。九條殿の末子を己の養子としてしまったのである。元服の時には新将軍家が加冠して、細川九郎澄之と名乘らせ、公武ともに崇敬され、丹波国の守護に補せられた。
昔、鎌倉の将軍頼経卿は月輪殿の公達だったのを、武家としたから、世の謗りを受けた。それでも、頼経卿は右大将頼朝卿の親戚であり、右大臣実朝公の跡目を継いだわけだから、軽率なこととは言い難い。今、正真正銘相国の御子である澄之を、将軍の執事にすぎない政元の家督とさせるのは、末法の世とはいいながら、驚きあきれることである。
これより先に、政元は薬師寺を使者として、阿波国の守護・細河慈雲院に孫である讃岐守之勝の子を養子にすると約束していた。これは一昨年政元が病気がちであった時、俄に契約したのである。この養子は才能がある人で、これも将軍から一文字を賜り、元服して細川六郎澄元といったが、いまだ上洛せずに下屋形に住んでいた。下屋形は阿波国にある。細川の先祖・頼之朝臣はたいへんな忠義の人であったから、公方鹿苑院殿から摂州丹波のほかに四国を添えて賜った。頼之は在京し、阿波国には舎弟・讃岐守詮春を留め置き、四国の政道を執り行わせたが、これを下屋形と呼び、代々阿波に居住している。今の之勝も詮春の子孫だということだ。
政元はこのような同姓の近親を養子としていたのに、九條殿の御子をも養うことは、一家を二流にして、後日の禍を招くことで、ただごとではない。ふだんから不忠不孝だから天罰を蒙り、一家はここに滅亡する、その前ぶれと見える。
藥師寺与市の死 附・両畠山の和睦
もともと薬師寺は細川家の被官の中でも身分が高い。その頃、薬師寺與市郎一元は淀城に住み、摂州守護代だった。その弟・興次とともに無双の勇士であり、合戦での手柄は広く知られていた。ことに興市は、無学で文字が読めなかったけれども、生まれつき正直で、正しいことと間違っていることとをはっきりさせる人柄であったから、細川一家の人々は常に珍重していた。そんな興市であるから、近年政元が魔法を修行し、空へ飛び上がったり、空中で立ったりなどの奇怪を現し、後々には正気ではないようなことを言い、時に狂ったようになっているのを見て、このままではきっと、当家は滅んでしまうだろうと思った。
藥師寺與市一元は赤澤宗益と相談し、六郎澄元を家督として、政元を隠居させ、細川の家を治めよう、と決定して謀反を起こした。一元は淀城に楯籠もり、宗益は三百余騎で伏見竹田近くまで攻め上ったと聞いて、政元は大いに驚き、一元の舎弟・藥師寺與次を大将にして、淀城を攻撃させた。與次はその城の事情に詳しいから、日ならずして淀を攻め落とし、兄・與市は自害もできずに生捕りにして、上京する。
與市は先年一元寺という寺を舟橋の近くに建て、信仰していたが、與次のはからいで、興市をこの寺で殺した。與次は今回の忠賞として、公方から感状を賜り、桐の御紋を下された。その上、摂州の守護代となった。昔、源義朝が父・為義を殺して忠賞に預かった時のようだ、と、爪弾きをして笑う人が多かった。赤澤宗益は降参して様々に陳謝したので、どうにか一命を 助けられた。
細川家では、このように争論のきざしが現われたけれども、永正元年十二月二十五日、畠山尾州方と上総介方両家は公方家の上意で和睦し、河内国誉田八幡宮で対面し、互いに和平の酒宴をした。数年来の遺恨を忘れ、その証に鎧太刀等を奉納する。紀伊大和河内の人々は国民等まで和睦して、互いにこの上もなく悦んだ。
天下妖怪之事 附・政元の死
永正二年の春、天下は大飢饉で、巷には飢え死にした者があふれた。喩えれば十人のうち九人は死ぬというほどである。同三年、諸国に多くの鼠が現われて、耕作した穀物や山林の竹木を喰らった。これは餓死した者の亡霊であろうと、諸国在々所々では、餓死者の骨を一つにまとめ、寺を建てて祀った。やがてこの鼠が静かになったから不思議である。
今年、細川方は澤蔵軒を大将として、和州へ攻め入り、当国を治めようとした。畠山方の者たちは澤蔵の風下に立つことを恥と思い、所々の城に楯籠もって防戦したので、多武峯の衆徒も細川方を裏切った。澤蔵軒は押寄せて難無く攻め落とし、同九月四日、多武峯を焼払った。大和勢は敵わずに方々へ落ちて行った。澤蔵軒は意のままに和州を退治した様子で、陣を開いて帰っていった。
細河六郎澄元はいまだに四国にいたが、政元の養子として、いつまでもこのままでいるべきだろうか、と四国を発って上洛した。実父・讃岐守殿が選び出して補佐の家臣とした、三好筑前守之長と高畠與三郎という、ともに武勇に優れた二人の者と一緒であった。この三好は阿波国の守護代で、小笠原の子孫で評判の者だという。のちに改名して長輝、剃髪した後は希雲入道といった。また、香西又六郎元近という者がいた。武勇に長けた者だったので、讃岐国の守護代として、一方の堅めとなっていた。
その頃、薬師寺與次は三郎左衛門と名を改めて、政元に気に入られ、厚恩を蒙って傍若無人に行動していた。 今度三好之長が澄元を後見して在京する間、権威が高く、何事も薬師寺の下知に従わないのを深く憤り、互いに不和となって争った。
薬師寺は六郎殿方の人々を滅ぼして望みを遂げたいと思いを廻らせる。香西又六郎、竹田源七、新名等の者たちが集まって話し合った。政元は近年狂気じみていて、この人が存命していたら、当家は長くは続かない。六郎殿の世になれば、三好がますます権力を握るだろう。政元を殺して、丹波九郎殿に京兆家督を継がせ、我等もともに天下の政治の権力を握ろう、ということに決定し、政元の右筆で戸倉という者を仲間に引き入れた。
永正四年六月二十三日、政元はいつもの魔法を修行しようと、 沐浴のために湯殿へ入ったところ、戸倉が飛び出して来て、政元を刺殺した。ふだん政元の傍近くにいる伯部という小姓が浴衣を持って来たところを、戸倉はこれも切ったが、浅手だったのでのちに息を吹き返し、疵の治療をして一命を取り留めたという。
この時、政元は丹波国の退治のために赤澤宗益を大将として、三百余騎を向かわせ、河内国高屋へは宗益の弟・福王寺ならびに喜嶋源左衛門、和田源四郎が大和勢摂津勢を向かわせていた。日々の合戦で毎回味方が勝利を得て、所々の敵が降參したが、政元が切られたと聞いて、味方の軍勢は皆、逃げ出し、あるいは討たれた者も多かった。
香西又六郎はつづいて澄元をも討とうと、翌二十四日、藥師寺と香西を大将として澄元の館に近付いた。三好と高畠は備えをしていたので、百々橋をさかいとして、 迎え撃って防ぎ戦った。敵方の戸倉が一陣に進んで攻撃してきたが、伯部はこれを見て、「昨日は深手を負ったけれども、まさしく主の仇であるから通すまい」と言い、槍で戸倉を突き倒し、郎党に首を取らせた。
澄元方からも奈良修理が名乗り出て、香西孫六と太刀打ちし、孫六の首を取った。修理も深手を負い、屋形内へさがる。澄元は今年十六歳、心は勇みに勇んだが、味方はわずかな小勢で敵いそうもなかった。三好高畠等は評議して、澄元を伴い江州へ落ちて行った。
洛中洛外が騒動して、また大乱となってしまったところ、防州山口にいらっしゃる前大樹義稙卿はこのことをお聞きになって、大いにお悦びになった。この事変に乗じて御上洛あるべし、と御用意のために国々の味方を集めなさった。中国西国の面々はおおかた味方に参上したけれども、毛利治部大輔をはじめ宗徒の大名たちは、なおも京都の下知に従ったので、京都の新將軍義澄卿から御教書が下された。
就右京太夫生害之儀都鄙可及大篇候然者今 出河可有出張所詮其以前罷免向取懸可致合戰抽軍忠者以可爲神妙候猶貞宗朝臣 可申候也
七月五日 御判
毛利治部太輔殿
細川九郎澄之の最期
香西と薬師寺は相談して、丹波から源九郎澄之を迎え、 管領と仰いで右京大夫とした。これはじつは九條殿の御子なので公家武家までたいへんに珍重した。香西又六郎と薬師寺三郎左衛門等は権力を握り、我儘に振る舞った。こうして五十余日が過ぎた。
三好之長は六郎澄元の供をして、近江国甲賀の谷山中新左衛門を頼って、 近江伊賀の軍士を集め、畠山総州に頼み込んで、大和河内の軍勢も呼んだ。同八月朔日、多勢を引き連れて、京都に向かって攻め上った。九郎澄之がいる遊初軒に襲いかかって、入れ替え入れ替え攻撃した。
九郎殿御内一宮兵庫助が一番に切って出て、火花を散らして戦ったが、甲賀勢の望月を 始めとし、先駈けの敵七八騎が切って落とし、終に討死した。これが戦の初めだから、九郎方の侍たちと藥師寺香西は、ここが大事なところと防いだけれども、薬師寺は敵わず自害し、香西もまた流れ矢に当たって死んだ。
伯部紀伊守が 澄之に向かって、「君の楯戈と思召す香西薬師寺が 討死し、味方は残り少なくなり、敵は四方から取り囲んでおります。敵の手にかかりなさるよりは御自害なさるのがよろしいでしょう」と言った。九郎澄之は「それは覚悟の上である」と、硯を求めて手紙を書き、父・九條殿下と母・政所へ届けるように、と同朋にその手紙を渡した。
その手紙には、澄之がこの頃丹波でつらかったことなど、またお二人より先に、このように亡び果て、お嘆きを残す悲しさを書き付けて、奥には一首の歌があった。
梓弓張て心は強けれと 引手すくなき身とそ成ける
髻の髪を少し切って添え、涙とともに巻き込んで、己の文ながら名残惜しげに渡されたという。澄之は袖を脱いで雪のような身をあらわにしながら、尋常に腹を切って死なれた。 紀伊守は介錯して、そのままそこで腹を切り、館に火をかけて焼死んだ。 香西兄弟薬師寺をはじめとして、討死の面々と自害の者、都合百七十余人であったという。
さてこの時の様子を、同朋と局の女が九條殿へ申し上げ、 澄之の形見の手紙を差し上げると、父殿下政基公も母の北政所も夢なのか現実なのか、とお嘆きが尽きなかった。