尚順の戦いと流れ公方の周防落ち
父・政長が亡くなった時、尚順は十幾つの子どもだったことになっている。しかし、史実ではとっくに成人していた。幼い跡継を逃がし立派に成人させるという任務を負わされる家臣、亡き主君の仇を討つため、偶然の出来事から知恵を巡らせて軍資金を得た家臣などの逸話を盛り込むことで、物語的効果を狙ったのだろうか。尚順が畿内で少しずつ勢力を拡大し、主君である義材と亡き父の敵討ちのために奮闘する。しかし、細川政元も黙ってはいない。一味だった畠山義豐の死に驚き、巻き返しをはかる。やはり何事もそう簡単には果たせないのだ。尚順は政元の逆襲に遭い紀伊に逼塞。義材も大内家を頼って周防に落ちていく。
新将軍即位 附・山門炎上
ところで、京都を公方がいないままにしてはおけない。堀越殿の御次男は、天龍寺香殿院で喝食をして、いまだ落髪しておられなかった。九條殿下政基公と内縁があり、(九条殿が)あれこれ申し上げたので、右京大夫政元はこの儀を承り、ほどなく喝食御元服の準備をした。義遐と御称号、後には義澄と御改名になった。こうして義稙卿を将軍職から解任し、義澄卿が征夷大将軍の位におつきになった、ということだ。栄枯は短い間に移り変わったのだった。
ここにまた、前大樹義植卿は北国に御座して、一味の面々を招集した。 味方に属する輩は、能登に畠山修理大夫長九郎左衛門、 越中国に椎名、神保、小坂等、加賀国に富樫中務政親、 越前に朝倉、若狭に武田、そのほか石黒左近藏人、多田治部大夫等である。明応二年閏四月、これらの人々を御供にして攻め上らせながら、近江坂本へご到着になった。
山門を頼りにして御在陣なさっていたところに、京方の軍勢が雲霞の如く押し寄せ、山門を取り巻いて、夜を日に継いで攻撃してきた。寄手方が火を放ち、頼りにしていた大もとの中堂、三千の僧房までが一片の煙と焼き拂われて、今は楯籠るべき城廓陣所もなくなってしまったので、(将軍は)またここも退去なさった。
前大樹は中国へ落ち延び、周防の大守・大内左京大夫義興をお頼りになる。 この者は多勢なので、頼もしくお請けし、尼子、少弐、大友備前守等を遣わし皆味方に参上した。 しばらくそこに御座なさり、催促の御教書を諸国に下された。
その頃、近江の住人・石丸丹波守利光は、前大樹の味方として、同年五月十日、尾張勢を仲間に引き入れ、美濃国斎藤が新将軍の味方だったから、退治のために出陣して旗落寺に陣を取った。斎藤法印妙椿はかねてより約束していた、越後国の住人・上杉相州からの加勢を待ち、三千余人を集めて、小山城に出陣した。四十余日の間昼夜合戦したが、終に石丸は打ち負けて、父子兄弟皆一所で自害した。
畠山中務少輔政光は、先年河内の合戦の時、前大樹の御供をして筒井城まで行ったが、この城で大樹が敵陣に囚われてしまった。政光はそれから力無く落ち行き、石丸の許に今年まで隠れ住んでいた。この度、石丸が戦に負けて、斎藤のために自害して亡くなったから、政光は頼む木の本に雨が降る心地がして、ここからもまた立ち去ったのだった。前大樹の御跡をお慕い申し上げ、遙々中国に赴き、周防国山ロまで下向して拝謁したところ、前大樹は感動のあまり、御自筆の御書状をくださった。その書状に曰く、
今度正覺寺供奉之輩馳上京都敵同意候處相殘堪忍一段忠節殊就 當國下向馳參之條感 悅候彌抽戰功者可爲三神妙候也
明應二年七月十三日
御判
畠山中務少輔殿
雪敲之事
畠山尾張守尚慶(=尚順、以下同じ)は大和奥郡に隠れ住んでいたが、彼の侍に木沢という者がいた。政長自害の後、なんとかして主君の望みをかなえ、尚慶を再び河内の本領へお戻ししよう、と心の底から思っていた。天も心を動かしたのであろうか、その望みを遂げたのである。
さて、その仔細はというと、木沢はその頃、放浪して和泉堺に落ち行き、商人になって暮らしていた。あるとき、大雪が降った。夜になって名屋という商人の家の門前を行き過ぎる。はきものに雪がたくさんついたので、木沢が門のしきいにあてて、とんとんと打ち付け、雪をたたき落とすと、門が開いて袖を引く者がある。闇夜の折節、あやしいと思ったが、木沢はすこしも騒がず、音もたてずに袖を引かれ、奥へと滑り入る。屏風の中に引き入れると、女房二人が燈を持って来て、つくづくと木沢を見、あきれている風情であった。
これはその亭主、名屋という町人が商売のために高麗国へ渡海し、長いこと留守であったので、名屋の女房が他の男と密通して、夜な夜な通って来る者があったのだった。だから、名屋の女房は今夜彼の忍男が通って来て門を敲く音かと思い、戸を開けて木沢の手を取り、引き入れたのだということだ。
すぐにその様子を見取った木沢は、女房に向かい、私はこの家の主人の知音だ。主人が高麗から帰って来たら、お前の不義をつぶさに申し聞かせよう、と言った。名屋の妻女は手をすり合わせ、頭を地につけて、この事を隠してくださいませ、と様々に詫言をし、金銀財宝を持って来て、色々と袖の下を贈って許しを求めたけれども、木沢は終に聞き入れない。金銀は取らずに、床の上にあった笛を一管、懐に入れて帰ったのだった。
遥かに程経て後、名屋は高麗から帰る旨、先だって言ってよこした。そのもてなしの準備にと、妻女が家の中を掃除していると、床の上に置いてあった笛が見えないので、不思議に思って尋ねるうちに、ある下女が言うには、いつぞやの夜の男が笛を懐にして持って帰りました、と。よくよく尋ねれば木沢であった。木沢は、この笛を証拠にして、ぜひともこの(不義の)ことを、名屋に告げ聞かせると言う。
妻女の父・臙脂屋という町人がこのことを聞いて、木沢のもとに行き、「我が娘の不作法を夫の名屋に告げたならば、娘の命が危うくなる。なんとかしてこのことを隠してくだされば、そのご恩に報いるため、いかようなお望みでも叶えて差し上げましょう」と、様々に詫言を言う。木沢が言うには、「私は故畠山政長の臣下です。亡き主の仇を討つために、合戦を思いたち、河内平野城を攻め、敵の上総介義豊を討とうと謀っているところですが、当家は近年浪人の身となり、金銭も兵糧もわずかで長陣の支度が叶わない。そのために大儀の計略が延引してしまっている。裕福であれば、兵糧と金銭を見積もってくれないだろうか」。
臙脂屋は卑しい町人であったけれども、木沢の忠義の志を信用し、また、娘の命を救うためならそれこそお安いご用だから、いかほどでも兵糧金銭が途切れないようにしましょう、と固く約束を交わした。木沢は安心して、笛を臙脂屋に与えた。
畠山の家人・杉原、斎藤、志貴、丹下、宮崎、 安見、遊佐等に触文を遣わして軍を集め、畠山尚慶が紀州に隱れていらっしゃったのを大将にして蜂起すると、臙脂屋はかねての約束通り、兵糧を輸送してきた。木沢の忠節はめったにないものである。
さて、畠山総州義豊は河内平野の城にいて、細川政元から加勢を受け、大和を退治せんと企てた。これによって、大和、河内の間で合戦が度々に及んだが、尚順自ら多勢を率いて平野城を取り巻き、息をも継がさず攻撃したから、総州方は終に打ち負け、 明応八年正月二十七日、平野城は攻め落とされて、畠山義豊は伴抜という所で、自害して果て、その子・弾正忠は行方知れずとなった。 尾張守尚順は父の仇・義豊を討ち取っただけでなく、紀伊、大和、河内三カ国を同時に従え、河内高屋に在城して、少しの間、運を開いたのだった。
畠山尚順入道卜山と細川方の戦い
畠山義豊が自害したときき、細川右京大夫政元は大いに怒り、尚慶追討のために大軍を集め、赤澤宗益という者を大将として大和国へ向かわせた。彼の国の住人・越智、古市を初めとして皆、味方となったのでその勢力を得て河内誉田城を攻撃した。この城は尚順の味方なので、その急を救うため、尾張守尚順は多勢を率いて後詰したが、防戦叶わず、尚順は終に勝利を失い、誉田城は攻め落とされた。宗益はなおも、将軍の力を得て、高屋城を囲んで攻撃する。同十二月十八日、終にこの城は攻め落とされて、畠山尚順は紀伊・広という所へと落ちて行って隠れ住み、残党は大半が討ち取られ、 細川方の軍兵は大勝利を得たのだった。
そもそもこの高屋城は安閑天皇の御廟所だったのを、要害にできる所である、と、尚順が初めて城を築いたのである。何の苦もなく暮らしていたのに、霊神の祟だったのだろうか、ほどなく落城してしまった、と人々は話し合った。
さて、 赤澤宗益は畠山故総州義豊の子・弾正忠を抜擢し、河内国の守護に定め、甚だ威勢を揮った。尾張守尚順は今年十八歲、紀州で剃髪しト山入道と号したが、いつまでもそうしているべきではないから、敗軍の士卒を集め、明応九年九月二十八日、河州へ向かい高屋城を攻めた。
細川政元はこれを聞き、高屋城の後詰のために、同朋・澤藏軒という者と、江州の内堀という者を大将とし、五千余騎の軍兵を河内国へ向かわせた。この軍勢は高屋に到着し、ト山方と合戦する。ト山入道は新手の敵に切り散らされ、忽ち打ち負けたので、城中の兵たちは後詰の勢にカを得て、追い掛け追い掛け戦ったので、ト山はいよいよ敗れ、這々の体にて漸く紀伊へ落ち行き、畠山弥次郎以下、同苗の一族七人まで生捕られてしまったのだった。
大和国の合戦
明応九年庚申九月二十八日、主上が崩御なさったので、洛中は深く嘆き悲しんだ。御追号を土御門院と申し上げる。やがて、新帝が御践祚された。後柏原院がその御方である。翌年辛酉二月二十五日に文亀と改元された。
文亀元年四月晦日、 粟ほどの大雹が降った。これはただ事ではないといい、前大樹義稙卿はその頃周防国山口にいらっしゃったが、諸国へ御内書を送って軍勢を集め、再度御帰京の儀を催させると、九州の諸侍等は皆従った。
畠山入道卜山はなお、紀伊国にこもっていたが、先の敗北で残された家子郎党が所々から馳せ集まり、また多勢となったので、ほどなく大和へ乱れ入って、越智伊賀守の城を取り巻き、隙間もなく攻め戦って、終にこの城を攻め落とした。
この時、越智の家臣で武者大将と評判の鳥屋という侍父子は一番に斬り合って、 はげしく戦ったが、重傷を負って死ぬところだったのを、郎党等が肩にせおってかろうじて引き退き、追撃する敵どもを、引き返し引き返し防ぎ矢を射ながら落ち延びた。鳥屋の子息は十六歳だったが、父と離れ離れになって戦い、討死した。こうしてその夜に落城し、越智伊賀守は城を開けて逃げ去った。
このことは京都に伝わったので、新将軍は悲しまれ、詠歌をくださった。
子を思ふ燒野の雉子ほろほろと 涙も越智の鳥屋啼らん
細川政元はト山入道がまた蜂起したと聞き、赤澤宗益の弟・福王寺、ならびに、喜嶋源左衛門、和田孫四郎、澤蔵軒、柳本、近江勢の内堀を始めとして、三千の軍兵を大和国へ派遣し、ト山を攻撃した。
文亀二年五月三日、 おのおの手分けしてト山方の諸城を攻めた。同月七日、澤蔵軒は南都西大寺に陣取ったが、その夜彼の寺は炎上して、澤蔵軒は陣を退いた。ト山入道は籠城し、細川勢は同八月から取り巻いて攻めたけれども、終に落ちず、同十月五日、城内から攻め返され、寄手の細川勢は悉く敗北した。城内の卜山方、 斎藤、誉田、杉原、遊佐、二具の者たちは悉く手柄をたてて、ト山入道はまた、家運を開いたのだった。
このことが中国に伝わったので、前大樹義稙卿は大いに感動なさり、御内書をくださった。その状に曰く
十月五日信貴城合戰時遊佐九郎次郎平三郎討死之 由注進去月卅日到來畢言語同 斷且忠節且不便雖然無 異儀相踏候由先以 大慶候彌成敗可爲肝要候仍細河式部太夫不存 疎略 通神妙候佐 佐木中務大輔江内書事即遣之候政近義隆可述候謹言
十二月十七日 御判
畠山尾張守どのへ
近江百済寺炎上 附・音羽城の合戦
その頃、近江国佐々木六角四郎高頼の家臣・伊庭という者が謀叛を起こし、六角に敵対した。これにより、佐々木家の軍勢は二つに分れて合戦に及んだから、南部一円が騒動で乱れ、この変乱に遭って、文亀三年四月七日、当国百済寺が炎上した。この隙を伺い、澤蔵軒は多勢を率いて近江へ乱入し、城々を攻め取って、一国を残らず治めようと猛威を振るって戦闘した。
同国日野音羽城主・蒲生貞秀という者が城に籠もっていた。この人は昔当国の湖水で、百足を射て竜宮へ渡ったと言い伝わる俵藤太秀郷の末裔で、武勇の士であった。出家して智閑法師といった。まずはこれを攻め落とせと、(澤蔵軒は)音羽城を取り巻き、日夜絶え間なく攻めたが、城は強く、よく防いで、落ちる様子もなかった。寄手は攻めあぐねて、無駄に日数を送り、延々と囲んでいた。
城内に鋳物師の安河という者が籠もっていたが、彼が射た矢先に立つ者は 一人として命を落とさぬということがない、といわれる希代の弓の名人だった。澤蔵軒は音羽城から三町ほど遠ざけて本陣を構えていたが、陣の前に五尺廻の柳の木があったのを、彼の安河が射た矢が羽ぶくら(矢の先端の羽がついている部分)近くまで射抜いていたので、これを見た人々は舌を巻いておびえた。やがて、この柳の木を切って城内に送り、名誉の精兵と褒めたのだった。
さて、近江の国人は次第に寄手に靡き従ったので、澤蔵軒の人数は二万人に及んだ。しかし、城主は心屈せず、一通の書状を送って寄越した。その辞に曰く
合戰雌雄難相決數日御在陣御苦勞令推察候寔是驚武威之雷鞁被奪靏翼之術條輕命重義尤感入候浴久年之恩波諸國之猛卒抽忠勤盡粉骨事神妙之儀候仍懸替之弦五百張令 進入候 可被立御用候城中之輩恰似鷹前之雉子墮草 底歟今更率 卑賤之蟄術而迎花洛之勇將遂合 戰決勝負捨命瀑骸事當時面目自他嘉幸不過之候畢早破圍之構靡凱歌之旗武勇佳名可被傳後代者也恐々謹言
文龜三年卯月廿八日(一本年號無之) 蒲生國人等
澤藏軒御陣所
城兵は志を一つにしてしっかり持ち堪えて防いだから、 寄手は長陣に疲れ、攻め戦うのに退屈し、兵糧も悉く尽きたので、次回の戦で攻めよう、と四方の囲みを解いた。寄手が皆々引き返すところに、智閑法師が城兵を払い、多勢を引き連れて、中山という方へ切って出た。小谷縄手という所で寄手の前後に挟み立ち、悉く切り崩した。澤蔵軒の軍兵は悉く敗れ、細川方は打ち負け、這々の体で諸国 へ逃げ去った。蒲生の武勇を褒めない人はなかったのだった。