管領家の庭園日誌

第二集・「流れ公方」誕生と明応の政変

足利義材イメージ画像

将軍家断絶の危機に美濃から来た替えパーツ

将軍義尚は、なおも六角高頼を捕らえようと執念を燃やし、鈎の陣中にて亡くなった。京の都は一日たりとも、将軍なしではおられない。しかし、二十五歳の若さで逝去した義尚には、跡継となる男児がいなかった。すでに尊氏から続く嫡流は絶えて久しいが、ここでまたしても、跡継が途絶えてしまう。白羽の矢が立ったのは、足利義政の弟・義視を父とし、日野富子の妹を母とする足利義材だった。夫妻ともどもにとって血縁が濃い「甥」、これ以外考えられない人選だった。

応仁の乱で、兄弟敵味方に分れていた義政と義視。大乱の終結ともに、美濃国で静かな余生を過ごしていた義視は思いも掛けず、将軍の「父」となる。すべてを見届けたのち、義政と義視は仲良く世を去る。運命の悪戯で将軍位に就いた義材は、義尚を真似て近江へ遠征。従兄弟の轍を踏まず、高頼の生死に拘らず、落城とともに帰国。「大成功」に気をよくした義材は引き続き、側近・畠山政長の意向で河内にも遠征。思いも掛けない企てが進行中とも知らずに。

話は途中、突然にして北条早雲のエピソードを挿入、なんでいきなり東国!? と思う展開となる。義材に継いで将軍となる・義澄が堀越公方の息子であるためらしい。義材の将軍就任そして追い落としまで、ほんの一瞬で駆け抜ける。

将軍さま近江へご出陣

長享三年卯月十日、延徳と改元された。さて、今出川殿義視卿は去る文明九年、諸国の軍兵が京都を退去した頃、美濃国へとお退きになった。その時十二歲におなりの若君がいらっしゃったが、ご一緒に連れて行かれた。この若君の御母上は裏松殿の御息女で、大方殿(富子)の妹君である。長享元年秋八月、この若君は美濃国でひそかに元服なさり、従五位下左馬頭に任官された。その頃のお名前は、義材様と仰った。その後度々御改名され、明応三年には義高、文亀元年には義尹、永正十年、終に義稙公と称した。これ皆、義材様の御事である。

今春、常徳院殿(義尚)が御早世なされた後、東山殿には実子がなく、天下の武将大樹の位を相続すべき人がいなかった。東山殿も、大方殿も今は御心が折れてしまわれている。今出川殿と和睦して、その御子・左馬頭義稙様を東山殿の養子にし、征夷大将軍の位を譲って、天下の政事を裁定させることに決めた。

延徳元年四月十二日、今出川大納言義視卿と同左馬頭義稙朝臣が美濃から上洛すると、左馬頭殿を東山殿義政公の養子とし、公方家督を相続させた。東山殿と今出川殿はもとのようにうちとけて、仲良くなられたのだった。

翌年の延徳二年正月七日、東山殿義政公が薨去された。御年五十六歳におなりであった。ご葬儀が営まれ、諡を慈照院殿と申し上げる。

同年七月、左馬頭殿は征夷大将軍の宣下を受け、宰相中将従四位下という官位を授かった。ご政道は正しくていらっしゃり、人々は皆、従った。

その年延德三年正月七日、今出川殿が御逝去なされた。御歳五十三ということだ。追号を大智院と申される。一昨年御上洛の後は、三條東洞院通賢寺の方丈にお住まいになり、出家して今出川大納言義視入道道存と申されたが、はたして今春御薨去なさったのであった。

さて、義稙将軍が大樹の地位につき、天下の政道を執り行いなさると、代替わりなさったことだからと、諸国の大名高家は皆、名代として使者を送り、あるいは自ら上洛してお祝い申し上げた。近江の佐々木六角四郎高賴は近国にありながら、なおも上洛せず上意に従わなかったので、またこれを退治することになった。

明応元年八月、将軍家は近江へ出陣し、三井寺に軍を配置した。佐々木の居館・観音寺城を攻めると高頼は敗れて城を落ち、またも甲賀の山中にこもった。将軍はすぐさま帰京した。

同年十二月、周防の住人・大内左京大夫義興が中国九ヶ国の勢を率いて上洛した。これは遙かかなたに隔たる国なのに、これほどまでに公方を敬うとは、ほかとは異なる大名である、と皆は噂し合った。

伊豆堀越御所の滅亡 附・義澄御上洛 

その頃、関東では、去る享徳年間、鎌倉御所左馬頭成氏が上杉民部大夫憲忠を誅伐するという出来事があった。それ以来、鎌倉方と上杉方とは二つになって合戦し、上杉は京都からの御下知を承り、力を合わせる者が多かったのに、成氏はひとりだったから、ついに打ち負かされ、野州古河へと追い落とされていった。

上杉方は武州五十子(イカコ)に旗を立て、頻りに 京都へ取次ぎし、関東の主をおしいただくことを願い出た。東山殿(義政)は御舎弟・天龍寺香嚴院を還俗させて左兵衛督に補任。政知と名づけて、関東へ下向させた。けれども、相模の武士たちにはなおも成氏を慕う者がいて、政知に従わなかったから、鎌倉にはお入りにならなかった。伊豆北条に御所を立て、そこにしばらく住んだので、土地の名を取って堀越殿と申し上げた。

その頃、駿河高国寺の城主に、伊勢新九郎平盛時という者がいた。後には長氏と名を改め、出家した後は早雲寺宗瑞といった。文武両道にすぐれ、才智抜群の者であった。これはその頃京都にいた伊勢守貞国の外叔の甥である。この者の先祖・伊勢肥前守盛綱は、故大樹等持院尊氏公が天下を草創なされた時、手越河原の戦場で討死していた。それ以来、代々京都公方家の御供衆であったが、一族なので伊勢守とも縁があるのだ。

その新九郎盛時は、先年今出川殿の御供をしに伊勢へ行ったことがあった。関東が乱れて久しいのを見て、時運に乗じて己が家を盛んにしようとでも思ったのだろうか。駿河国主・今川義忠という人が姉聟だったので、これを頼って駿河へ下って行った。

その頃、隣国との合戦で義忠が討死にし、家督五郎氏親は漸く七歳で、幼くて国政に疎かった。ゆえに、一門や家老等が我が意に任せて権力を争い、別れ別れになって合戦に及んでいた。新九郎はこの大きな節目に、氏親を助けて争乱をおさめ、ついに駿河を無為に統治して、氏親の世とさせたのだった。氏親はこの忠義への褒美として禄を与え、同国高国寺城に富士郡を添えて、新九郎に授けた。

新九郎はもとより京家の者なので、常に伊豆堀越御所に参上していた。政知もまた安心して、すべての事を親しく相談なさる。時は延徳三年二月、政知には二人の御子がいた。長男は先妻の子で今年十五歳。茶々丸殿といった。次男は今の御台所の子で十一歳におなりだった。政知も御台所も次男の若君に家督を譲りたいと思い、茶々丸殿が少しばかり酒に酔って暴れたのを、本当に狂ったと言い触らして牢に入れてしまった。

御所内の人々はあわれに思い、小刀一本を獄舎の中に、こっそりと差し上げた。茶々丸殿はその小刀で見張りの武士を刺し、刀を奪い取ると、走り出て継母君を刺殺した。その後、大勢が合力し、茶々丸殿は軍兵をひきつれて、父・政知を攻めた。政知は力及ばず、そのまま自害なさった。哀れなことである。次男の若君は駿河へ落ちて行かれた。

伊勢新九郎はこれを聞くと、急いで義兵を起こし、茶々丸を攻めた。伊豆国の武士たちは、茶々丸殿は父親の首を斬った人である、この人と組むのは具合が悪いだろう、と皆が背いたので、茶々丸殿ひとりでは合戦する手立てもなく、堀越を出て相摸へ落ち行き、三浦介平時高を頼った。

それはそうと、政知の次男の若君は、駿河の今川五郎氏親を頼った。氏親は思案し、この若君を京都へ上らせて、天龍寺の香殿院にお入れした。喝食になっていらっしゃるが、後にこの若君は公方となって家督をお継ぎになる。義澄将軍がこの方である。

それから三年の間、茶々丸殿は三浦介の館に住んでいた。そうであったところ、伊勢新九郎入道早雲は、上州・上杉定正、駿州・今川氏親から加勢してもらい、明応三年九月廿三日、相州三浦に軍を進め、三浦介を攻め落とした。茶々丸殿は敵うはずなく、そのまま自害した。法名を成就院福山広徳という。

前三浦介は 主君の鎌倉殿古典厩持氏を滅ぼして、己が養子時高に滅ぼされた。今また時高が滅ぶ時、時高の子・義同も父子仲が悪く、相州にいた。上杉方から催促されると、先導して三浦に先駈けし、寄手に加って父・時高を攻め滅ぼした。誠に父子ともに大悪人であるとの評判である。三浦には上杉の下知で、義同を入れ置き、早雲は名字を改め北条と名乗り、子孫は繁栄した。

同六年、古河御所成氏朝臣も死去して、乾享院殿と追号された。政知の追号は勝幢院殿と申された。

河内正覚寺合戦と畠山政長の自害

京都は応仁の兵乱後、文明一統以来、細川勝元、山名宗全、畠山義就も皆々死去したから、この時古参の人では畠山左衛門督政長ばかりが残っていた。この政長はもとより一方の棟梁として、位従三位を授かり、管領職にも三度まで補任されていたから、三管領四職の面々、 御供衆に至るまで、彼の人の風下に立たされた。かくして政長は驕りを極め、書状も文書も古の法に替わり、四職の人々をはじめとして、さながら被官のように扱った。これにより、一色、赤松、 山名の面々が色々とこのことを嘆き訴えて、政長を恨んでいた頃、政長の旧敵前右衛門佐義就の子・畠山上総介義豊は河内誉田に居城して、毎度政長と合戦していた。

将軍義稙公は政長の仲間であるゆえ、政長は将軍の御供をしてあまたの軍兵を率い、河内正覚寺に立て籠り、近いうちに誉田を攻めようとしていた。義豊の滅亡は近いと見えていたところ、細川右京大夫政元は亡父が親しくしていたことを省みずに、政長を恨み、大軍を引き連れて義豊に加勢した。これにて桃井、京極、山名、一色といった人々をはじめとして皆、敵陣に加わる。義豊は数万の合力を得て、かえって正覚寺を攻撃したのだった。

時は明応二年四月廿八日、政長方の遊佐、斎藤、志貴、杉原の人々は心を一つにして、ここを先途(大事なところ)と防戦したが、敵は四万余騎、味方はわずかに二千余人、敵うはずもなかった。事が急にならぬ先に公方を落とし申し上げよう、と義材公を馬にお乗せして、夜に紛れて城を出し、大和筒井城へ落着かせる。かくて夜も明けると、 敵陣は次第に多勢が加わり、四方から取卷いて、落つべき道も無くなった。城中の人々は今は逃れぬ所ならば、尋常に腹切らんとなかなかに思い切って、心を静めて待っていた。

政長は平という侍を召し、御児丸といって十三歳の息子(これは三歳の時、常徳院殿から一字賜り、尚慶とおっしゃるのだが)をそばに呼び、「この子を汝に預けるぞ。いかなる知恵をも廻らしても落ち延びさせ、再び当家の運が開ける時を待つのだ」との仰せ。

平は「それがしこの度、御最期のお供をいたそうと思っております。一族の平三郎左衛門に仰せ付けくださりませ」と言う。三郎左衛門も「ぜひに御最期のお供いたさん。若君のお供はほかの者に仰せ付けくださりませ」と頻りに辞退した。政長は大いに怒った。「汝は不覚の申し事なり、十死を暫時に定め、只今自害する事は最もたやすき事なり。一生を将来に期し、尚慶を守り立て世に出さんとする事こそが大事の儀である。早々に」との仰せなので、平三郎は畏まり、泣く泣く座敷を立ったのだった。

さて三郎の謀とは。この頃公方をお慰めするために参上し、舞などしていた桂の遊女等の装束で、御児丸を桂の姿にして、彼女たちの中に入れ、己は桂の男の風情となり、むながいと装束などを包物の中に、畠山重代の長刀を竹の筒に入れて背負った。敵陣の前を通ったが、敵方にも桂を知る者は多く、それだと思って咎める者もいない。そこから若君を馬にお乗せし、鞭を進めて、大和国奥郡へと逃れて行った。

かくて、今日四月廿八日の夜になり、政長は最期の酒宴を始めた。その時城に籠られていた葉室大納言光忠卿を始めに、一同に盃を廻らせる。心閑に念仏して車座に居並び、各々腹を切ろうとした。政長は藤四郎吉光の脇指にて腹を三度切ったのに、 三度とも切れなかったので、腹を立ててその刀を投げると、傍にあった薬研にあたり、薬研を裏表二重にまで通してしまった。それからこの刀を、薬研藤四郎と名づけたのだった。

さては重代の刀なので主人が死ぬのを惜しんでいるのだろう、いかがすべきかというところに、丹下備後守が冠落しの信國の刀を抜いて、己が股を二刀突通し、この刀は具合がいい、これにてご自害なされと政長に渡した。政長はこの刀を逆手に取直して、腹を十文字に搔き破り、刀を光忠卿に差し上げた。光忠卿もそのまま自害なさり、それからつぎつぎ腹を切り、二百余人の者どもは一騎も残らず、一同に自害し果てて、城には火を放ち片時の煙と焼失してしまった。

将軍家没落

かくて細川政元は正覚寺の戦に勝利して、政長を討ち取った。公方の行方を捜させていたところ、大和筒井城にいらっしゃったので、かの城から捕らえてきて、無礼にも征夷大将軍・源義稙公を下部紀伊守に預け置き、牢を作って中に入れてしまった。配膳の役として遁世者をただひとり侍らせて、男女ともにその牢へ行くことを堅く禁じた。将軍の伯母御前の比丘尼が御所にいらっしゃったが、この御方だけが見張りに許されて中に入り、お話をなさった。

あるとき、彼の遁世者がひそかに将軍に申し上げた。早々にお逃げになり、いずこなりとも御座を移され御運をお開きなさいませ。御本意を遂げられたならば、我が子孫をお取り立てください、と。私めはどんな責め苦に遭おうとも、御行方を話しはしません、と親切に言ったのだった。将軍はもっともだとお思いになり、ならばその意に従おう、汝が忠義は生涯忘れないだろう。子孫のことは、必ず取り立てる、とお約束なさった。

その後、将軍は伯母御前と一つ輿にお乗りになって、獄舎から忍び出て易々と逃れて行った。先ずは、北国に向かい、道々武士たちを召集し、中でも能登国の住人・畠山修理大夫、椎名、神保、石黒を頼りになさり、越中国・放生津というところに到着した。

さて、将軍が落ち延びられた後、遁世者はこの事を深く隠し、何事もなくその場にいらっしゃるかのように、毎日御膳を捧げ、知らぬ顔でもてなし、ひとりだけで将軍と話し合っているかのように見せかけていた。けれども、十日ばかり過ぎて、自然と皆に知られてしまった。

昔鎌倉で頼朝卿の御時、木曾左馬頭義仲の嫡男・清水冠者義高を召し捕らえて置いた時に、清水殿はあるとき、女房の姿になって逃げていった。乳母子の海野小太郎幸氏はひとり御座所の亭に居残り、ひとりで物語をし、ひとりで双六を打った。外様の番侍はこのことを知らず、いつもただ清水殿がいらっしゃるのだと思っていた。遙かな日数が過ぎてから事が明らかとなり、幸氏を召捕えて問い質したとか。この遁世者はこのようなことを思い合わせて計画したのだろうか。かくて、下部紀伊守は遁世者を召捕えて、様々に拷問し、公方の行方を尋問したけれども、この者は白状しなかったので、遂には河原に引出して首を刎ねた。その日、紀伊守の父・豊前守が頓死すると、公方にひどいことをした罰だと、人々は噂し合ったのだった。

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