『公方両将記』とは?
応仁の乱勃発の時を思い起こすところから筆を取り、義政・富子夫妻の愛息・義尚将軍から始まって、流れ公方・義稙、傀儡将軍・義澄との抗争期について記した軍記物です。明応の政変という大事件を起こした・細川政元、政元暗殺後の三人の養子(澄之、澄元、高国)の家督相続に端を発した畿内の動乱。そんな中、周防の大大名・大内義興、管領家の若君から無一文に転落しても、主である将軍(義稙)のために生涯を捧げた畠山尚順という二人の義の人によって果たされた、義稙復職という偉業の達成を中心に据えつつ、細川・畠山両管領家について記した物語です。
細川高国をベタ褒めして大団円とするなど奇妙なところも多々あれど、これほど興味深いテーマを扱った作品は他に類を見ないゆえ、感動の連続です。なお、タイトルを『管領家の庭園日誌』としたのは、完璧な全現代語訳を作るなど無理にきまっていますから、それを下敷きにまったくほかの話を書いているのだと思っていただけたら、との思いからです。
応仁の乱のこと
後土御門院の御代、応仁年間に兵乱が起こり、天下は大いに乱れた。ことの発端は、尊氏将軍から七代目にあたる公方・義政公が政務を執っておられた時に遡る。
管領・畠山德本入道は耄碌して家督を決められなかった。そのため、養子の左衛門督政長と実子の右衛門佐義就とが、互に家嫡を争い合戦に及んだ。また斯波家では、千世德丸が早世し、治部大輔義敏・左兵衛督義廉という両人の一族が互いにわかれて家督を諍論した。
このように、世の人心が二つに分れてしまった頃、公方・義政公は御子がなかったゆえに、弟君である浄土寺の門主を還俗させて、養子とお定めになった。今出川殿と申され、義視公がそのお方である。今出川殿に天下をお譲りになる御契約も定まり、細川右京大夫勝元に執事を仰せつけ、義政公は隠居なさろうとしていた。
御台所はこの事を深く妬み、御所を出てしまわれた。宮中にお住いの姨母御前(母の姉妹)を頼り、しばらく宮中におられたが、姨母御前が様々になだめ賺して、御所に帰らせなさった。ほどなくして、御台所は御懐妊なさり、月満ちて若君がお生まれになった。
さてこの御台所は贈内大臣・重政公のご息女で、その頃ならぶものがないほどの美人だった。だから、世間の人々は「この若君は大樹(将軍のこと)の御子ではなく、御台所がしばらく内裏におられた時、主上がこっそりお通いになって儲けられた御子なのだ。そのとき、御台所から主上に蔦の細道という硯箱を記念としてお送りになったとか」などと噂し合っている。ひどいことである。
若君御誕生の後、将軍家では御家督を今出川殿に譲る契約をとりやめようとお思いになった。御台所は山名入道宗全の許へ密かに御内書を遣わせ、実子に家督をお譲りになる事を深く頼み込む。また今出川殿は勝元を頼りなさったゆえ、後には両者の争いとなり、応仁の兵乱が起ったのだった。
それから洛中の合戦、諸国の乱れと成り行き、その後子細あって、今出川殿が山名方となられ、若君はかえって勝元をお取立てになった。そして、天下の家督は将軍家の思し召すままに、(弟ではなく、若君に)決定した。文明五年、大乱はおさまり、宗全と勝元は二人とも病死した。
今年十二月、若君は御元服なさり征夷大将軍に任じられた。御名を義尚公とおっしゃって、御歲九歲ということだ。勝元の子息・細川九郎政元を管領職に定められ、武蔵守に補任した。将軍家の御悦びはたとえようもない。
同七年は新将軍・義尚公の御読書始めであった。文学を好まれて、小槻宿禰雅久を講師に論語の御会談をし、卜部兼俱が参上して神代之巻を講読する。そのほかにも、礼法の儀をきちんと整え、 弓馬の芸をお好みになり、文武二道に明るかった。都鄙世間の人々は、「誠に希代の公方、名誉の将軍がお生まれになった」と、噂し合った。
またその頃、世に稀なる歌人と聞こえた飛鳥井大納言雅康卿を師範として、和歌の奥儀を極められ、鞠の遊びにも興じなさると、それを見る人聞く人で、この将軍の優れた才能を信じないということはなかった。
飛鳥井雅康卿、歌を詠む
文明九年、京都に集まっていた諸国の軍兵が退散した。それからは在京を勤めなくなり、国々の合戦、所々の騒動が天下の乱れとなった。多くの人は一日も安堵することがなく、将軍家もこれを深くお嘆きになる。
同十一年秋、御台所が大神宮にご参詣なさった。これは、天下の兵乱を鎮めるための御立願であるという。その頃、飛鳥井雅康卿は江州甲賀郡柏木の里で閑居なさり、花や月を見ながら歌を詠んでおられた。(御台所は)その山庄にたよりを送り、近くにご宿泊なさた。
雅康卿は取り敢えず和歌を詠んで差し上げた。
世を祈る君か心の誠にや 内外の神も惠添えらん
御台所から御返歌があった。
世を祈る心を神の稟ぬとも 此言の葉に更にこそ知れ
今年、将軍家は御治世を新将軍にお譲りし、(義政公は)御隠居なさって、東山殿と申し上げた。慈照寺の院内に東求堂を造り、ここで御閑居されている。累代の奇物、和漢の名器を集め、茶の湯の会を催して、世間のことには関心がなく、楽しみだけに日を送り、時を過ごしておられた。
新将軍は十五歲で天下の政務を始められた。政治を執り行うと理非分明で人は皆、これに従った。
同十二年三月頃、 御鞠始めがあり、顔ぶれは新将軍、東山殿、飛鳥井雅康卿、同雅親の四人だったという。蹴鞠が終わり、雅康卿はまた詠歌を差し上げた。
君々の千世も連ねん袖を見て 身に餘りぬる今日の嬉しさ
東山殿より御返歌があった。
末遠く連ねし袖に包ても けに嬉しさそ身に餘りぬる
義尚公御政務について
同年七月、将軍から一条関白殿下兼良公に、天下を治める政道の法について御尋ねがあった。この殿下は古今に稀なる博覧の智者であり、直ちに御領掌(承知、納得)して一卷の書に記してお渡しになった。『樵談知要』がそれである。
同十七年、関東古河御所の源成氏朝臣は何年も公儀に背き、武力を用いて権勢を振るっていたが、侘び言を申し上げたから、御赦免を受けた。人々は、これまた、善政であると言い合った。
今年八月、将軍家は右大臣に任官し、翌年七月二十九日、大将拝賀のために御参内なさった。御供の人々は兵乱の後、衰えた身といえども、我も劣るまいと綺羅を尽し、人払いして供奉なさる。洛中の貴賤上下がこれを見物した。東山殿も桟敷を構えてご覧になった。さだめし嬉しく思し召したろう。
将軍は、礼儀の次第・故実を二階堂判官政行に仰付けられ、一々作法を定めた。
先ず小侍所は細川右馬助政賢、先陣を承って騎馬十人を進める。
其次は雲客二十余人、重代の武士打込に番長隨身、帶刀左右とも十二番。
その次は将軍家が御車にお乗りになって参向され、次に衛府官人、公卿二十人の御供である。菊亭大納言公興卿が御簾之役、柳原別當重光卿が御沓之役をお勤めになった。
次に畠山政長嫡子・尾張守尚順、佐々木治部少輔継秀、伊勢備中前司貞隆、富樫介政親等各々騎馬。
後陣は時の管領・細川右京大夫政元、騎馬十騎を従えて静かに供奉し奉る。めったにない装いであった。
(※於児丸はこの日に間に合うよう、元服して尚順にチェンジしたのであった……。ちなみに、この『右大将拝賀』だが、幕府にはカネがなく、ゆえに人手を集めるのにも苦労した。かなり寄せ集めチックだったんじゃなかろうか、と思う)
我が生涯で、最も晴れやかなときであった。
義尚公、陣中にて御逝去のこと
文明一統之後ではあっても、諸国の兵乱はいまだに止まない。山名方の残党はなお、国々に逃げ下り、在々所々を押領した。ことに、近江国の住人・佐々木六角四郎高頼は慮外きわまる曲者で、 まったく上洛する事がなく、将軍に従わず、思うままに逆らって勢力を揮っていた。あまつさえ、山門の領地を押領して、山徒の訴訟がしきりとなった。これ以上、勢い盛んなままにはしてはおけなかった。
近いうちに討伐あるべしと、長享元年九月十二日、新将軍・義尚公は数千騎を率いて、江州へ御進軍、その日は坂本に到着した。そこに暫く御陣を置き、高頼を攻撃なさる。高頼も力をつくして合戦に及んだ。
佐々木勢は打ち負かされ、新将軍が勝利したので、高頼は終に己が居城・観音寺から逃げて行き、山賊の望月、山中、和田という者を味方に引き入れ、甲賀の山中に隱れて、行方知ずとなった。
この山は深山幽谷で人の行き来もなく、たやすくは攻め込めず、残さず討ちとることは叶うべくもない。残党は多く高頼の領地は広いから、所々に散らばって、退治するのは困難だった。(義尚公は)なおも彼の輩誅伐あるべしと、同十月四日、坂本から御船にお乗りになって、安養寺に御陣を替えられた。
そこから御父・東山殿へ御詠歌を差し上げる。
坂本の濱路を過て波安く 養ふ寺に住と答へよ
東山殿から御返歌があった。
頓て又國治りて民安く 養ふ寺も立て歸らん
同二十八日、同国鈎の里へ御到着。そこに、三年御在陣なさった。
同年十二月二日、帝におかれては、待従中納言実隆卿を勅使とし、畏れ多くも陣中へ御製をくだされた。
君住めは人の心のまかりをも さこそはすくに治めなすらめ
新将軍より御返しを差し上げる。
人心まかりの里そ名のみせん すくなる君か代に仕へなは
かくて長陣の間、御徒然を慰めるため、または信心のためとして、『春秋伝』と『孝経』の談儀を御聴聞なさる。花晨月夕(花の朝と月の夕)、折に触れたる御詠歌は際限(はて)もない。
そうしているところに、長享三年春の頃、 思いもよらないことに(義尚公は)ご病気となられる。ほんの一時の病のようだったのに、次第に重くなられて、医術祈念の効き目もなく、同三月二十六日、忽ちに御逝去なさってしまわれた。
御出陣の御年より今春まで三年間、合戦の御営で御身心を苦しめられた。勝利して陣中にての御逝去ということは、武将の本望と申すけれども、御年いまだ二十五歲、器量才芸御行跡皆世にまさり、殊更御父義政公老年の一子である。天下の武将あますところなく、貴賤上下どこもかしこも、嘆き悲しむばかりであった。御父君東山殿、御母堂大方殿御二人の御嘆きは喩えていう方法がない。
同卯月二十七日、洛陽等持寺で新将軍義尚公御葬礼の儀が行われた。その日、禁裏から勅使が立ち、義向公に従一位太政大臣の御贈官御贈位があり、また常德院殿下と御追号なされた。亡魂も草の陰でさだめて御悦びであろうと、皆は言い合った。
飛鳥井権大納言雅康卿は今度の御事で嘆き悲しみ、立っていることもできず、一首の短歌を沈吟し、御手向にお供えした。
はしめ無く終り無き世にめくり来て、をのつからなることはりを、見しも聞きしもとどまらず、過ぎし中にもたのみつる、ひろき(大)樹の影かくす、闇のうつゝは誰もみて、夢にまさらぬ思ひにて、心まよひの兎に角に、日數うつりて卯月てふ、名もうらめしきここぬかの、朝夕の煙り立とみし、涙もきえてまぼろしの有か無かの俤は、なに中々に殘るらん、馴にし事をつくづくと、思へば悲し、和歌の浦に道を學て、眞鶴のあさる渚のしほかひに、玉藻數々あらはれん、波の打きき、人しれず、掛し心は袖ぬるる、よすがとのみぞなりはつる、あはれ昔にいひ置し、稀なる齡七十の餘れる迄にながらへて、惜しからぬ身のかはり行、習もがなと思へども、猶おくれ居て歎く頃哉
これを聞く人で、同情しない人はなかったという。
※そのうちのお一人、大内左京大夫政弘公も、遠く周防国から御歌をお詠みになった。ともに歌道に優れたお二人は、和歌を通して、やりとりをする仲だったのである。
匂へなほ昨日の人の袖の香もけふはむかしの軒のたちばな
『拾塵和歌集』巻九・雑歌中 1056:常德院贈相国かくれたまひし夏、橘の枝に付けて三条入道前右大臣家にたてまつり侍りし
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周防山口館【大内庭園~雅の宴~】
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