大内政弘イメージ画像
 寛正五(1464) 年十一月、築山館に京から二人の客人がやって来た。鹿宛院の承勲西堂と東福寺の慧鳳蔵主。前者は将軍・義政、後者は管領・細川勝元からの使者である。ともに伊予・河野家討伐の戦に力添えして欲しいとの根回しが目的だった。
 讃岐の細川家と伊予の河野家とは、久しく対立関係にあった。それが、前年ついに一触即発の事態となった。伊予河野予州家当主・河野通春は、教弘と姻戚関係を結んでいる。すでに、救援を求める使者も来ていた。
「勝元め、どうでも四国全てを手に入れたいか」
 教弘は忌々しそうに言った。
「勝元はよいとして、将軍からの下知には逆らえません。かように懇ろに使者を寄越しての根回し。しかも父上は『進物』まで受け取ってしまわれましたし」
 慧鳳蔵主のほうは、教弘に頼まれるままあれこれのサービスをしていった。まあ、気にくわぬとは言え、細川勝元は一流の文化人。送ってよこす者もこれ以上ないほどの一級品である。これを機会に、京の風流に憧れる家中の文芸人たちの好奇心を、十二分に満たさせてやったのだ。
 政弘の言葉に教弘はふっと笑みをもらし、
「兵は出す。だが我らが助けるのは通春殿だ」
 政弘は秀麗な面差しをふっと曇らせた。
「幕命に背くのですか?」
「我らがこれまで通春殿との間に築いてきた友好は何のためだ? 我らとて四国に乗り出したい。伊予はその足がかりだ。将軍家の側近として仕えているのをいいことに、細川家の横暴は目に余りある」
 父・教弘は分国の守護でありながら、在京の意志もなく、元々幕府の為に尽くしたこともあまりない。だからこそ、強制隠居になったくらいだ。しかし、実際には、幕府の求心力は近年とみに弱まり、個々の守護たちは各々の在地勢力の被官化に余念がない。幕府権力の上意など無視する潮流の最先端にちゃっかり乗っかっているのが教弘である。もっとも大内の家は三管領四職でもないから、在京したとしても文字通り「相伴」するくらいが関の山だ。
「亀童もともに来るのだ。いよいよその英姿を披露するときである」 「はい」
 常は無表情の息子の顔に涼やかな笑みが浮かぶのを見て、教弘はこの上ない頼もしさを感じた。

「な、なに、大内が通春側についただと?」
 教弘出陣の報を聞いた将軍・義政は信じられないといった風に真顔で問い返した。
「はい、すでに、細川方との間で戦になっております」
 細川勝元と入れ替わって管領となっていた、畠山政長から説明を受け、義政は文机を蹴り飛ばした。ただでさえすべてが無気力に感じられる日々、将軍として皆が恭しくその上意に従うのを見届ける時こそが、唯一その「権力」を感じられる瞬間である。それを無視したどころか、討伐せよと言った者を助けるとは。しかも、大内には使いまでだして機嫌をとっている。無論、教弘と道春との日頃の付き合いや、細川家との微妙な関係を考慮してのことだ。それなのに。
 そもそも、伊予の守護がだれであろうが義政にはさしたる影響はない。ことの発端は細川勝元である。時折こうした上意を発給し、部下の守護がその意に従って動くのを確認する事で、将軍としての承認欲求が満たされる。多少の役得は大目に見ていた。
「大内の無礼は捨て置けません、この際、通春共々討伐してしまいましょう」
 御前に控える勝元がさらりと言った。
「討伐? できるのか?」
 河野のような小国を倒すにも大内の軍勢を借りようとしたくらいである。どこにあやつらを倒せるだけの大物がいるというのか? 義政にはとうてい信じがたい。
「倒さずとも、このまま捨て置くよりはマシでしょう? 気持ちの問題ですが」
 文化人&政治家属性なので、勝元のやり方は常に狡猾だ。調略を用い、戦わずして勝つ。暑苦しい武辺者には辿り着けない境地である。たとえ、勝ち目がなくとも、嫌がらせくらいはしておかないと、それこそ「気分が悪い」。
 大内教弘が将軍(じつは管領)の上意などに大人しく従うはずがないことは、はなから承知である。将軍からの使者に、教弘が喜びそうな坊主をつけてやった。先に、武田信賢に認めた安芸国東西条の地も翻って大内側に権利を譲渡してやった。そこまでばらまいておきながらも、勝元は背後でちゃっかり手を打ってある。毛利・小早川・吉川の安芸国人衆を動かす準備をしただけでなく、何と、教弘の異母兄・教幸(南宋道頓)にまで根回しされていた。策士にとって、不満分子を焚き付けて敵を内側から崩すのに勝る快感はない。ただ、最後の切り札には使い時がある。今はまだ、少し出し惜しみすべきか。

 とまれ、四国での戦いは早々に決着がつくと思われた。
 元々大内の援軍だのみで細川にはそれほどの準備はないと踏んでいた。寄せ集めの幕府軍など、難敵とは思えなかったからだ。  だが、意外にも直ぐには片がつかなかった。
 幕府は下知に背いた教弘を「討伐対象」とする旨を伝え、大内軍は河野道春共々「賊軍」となってしまった。
「まあ、想定の範囲内だ」
 教弘は平然と流したが、想定外のことが起こる。道中にて病に倒れてしまったのである。
「父上、無念ですが、ここは一旦、兵を引きましょう」
 どう考えても、勝ちが見えている戦ではある。だが、政弘とて、武人である前に孝行息子なのだ。珍しく取り乱し、弱気になっている息子の姿に、教弘は却って意地になった。
「ふん、戦は勝って終わりにせねば意味がないのだ。幕府の腰抜けどもなど我らの敵ではない。ここで退いたら勝元めの思うがままになってしまうわ」
 政弘は父の身を案じつつもその意見を尊重した。しかし、教弘の病は思いのほか重症であり、ついに周防に戻ることはできなかった。

 寛正六年九月三日、政弘は伊予国興居島にて父の死を看取った。
 確かに父は上意に背きはしたが、そもそもそれは、将軍の名を借りた細川勝元の上意である。元より大内家の当主が討伐対象となったこともこれが初めてではない。応永の乱を起こした義弘、そして幕府によって討伐された義弘の後継者となった祖父・盛見。皆、討伐対象となっている。いずれも劣らぬ猛将であった。そして今、父の教弘も。彼らの最期は皆、戦死である(祖父・盛見の死は、討伐対象を解除された後、上意に従い討伐戦をしていた最中のことであったから、やや皮肉めいているが)。
「おのれ細川勝元。父上の仇は必ず討ち取ってみせる」
 政弘は父から重代の家宝である大太刀を受け取り、父に代わって当主となった。弱冠十八歳。家督と共に、父がやり残したこの戦も引継いだ。京では細川勝元が教弘の死を天罰だと罵り、幕府は彼もまた「討伐対象」であると認定した。凜として静。文武に秀で、和歌を愛する雅な貴公子が勇猛果敢な猛将として、正式にデビューした瞬間だった。

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