大内政弘イメージ画像
 応仁元年(1467)八月、大内政弘は西軍の将として、周防・長門から数万の軍勢を率いて上洛した。これにより、東軍優勢のまま速やかに鎮火するかと思われた合戦は、東西両陣営が主たる大名らを取り込み、十余年に及ぶ泥沼のような戦を続けていくことになる。
 政弘の入京前に、何とか西軍を圧し潰しておこうと試みた東軍だったが、その目論見は外れる。弱冠二十歳の若武者は鍛え上げられた精鋭を率いて道中さしたる抵抗に遭うこともなく、颯爽と花の都に現れた。
「お招きに預かり参上いたしました。若輩ながら、皆様のお役に立てればと」
 その匂い立つような艶やかな英姿に居並ぶ西軍諸将は思わず息を飲んだ。どれほど容貌魁偉な武辺者が現れるかと思っていたからである。
「おお、これは……。我が養女(政弘の母)はさほどの美女ではなかったような。一体誰に似てこのような……」
 総帥・山名宗全は不覚にも言葉を失った。だが、見てくれはどうあれ、向かうところ敵なしで上洛した猛将であることに変わりはない。それに、何より、彼に率いられた二万の軍勢。これ以上心強いことはないではないか。
「いやはや、花将軍もかくやと」
 宗全の脇に控えていた、政弘と同じくらいの年かさの若者が呟く。
 この若さで管領職に就いていた斯波義廉だった。斯波姓を名乗ってはいるが、自身は渋川家の出。守護代・甲斐常治と対立した末、没落していった先代・義敏に替わり斯波家の跡継ぎとして担ぎ上げられたのだ。その先代・義敏が流れ着いた先が周防国だったので、政弘はそちらのほうと面識がある。現在、帰国した義敏が当主の座に返り咲いており、相続問題で紛争勃発中。
 義廉の妻は宗全の娘である。舅・宗全が孫・政弘を見て感激した様に追従したわけだが、
「これ、不吉ではないですか」
 と、近江守護・六角高頼が窘めた。
 花将軍・北畠顕家。絶世の美少年で、後醍醐天皇の御前で陵王を舞った公家の公達である。まあ、南朝の将であり、公家であり、最後は大軍を率いて向かう所敵無しの勢いで奥州から京を目指すが、なぜか入京せずに故郷の伊勢に向かい敗死している。あまり「譬えて欲しくない」人物ではある。
「はは。方角は違えど圧倒的兵力で京へ向かったところは同じだ。だが、もう無事に京に入っている。問題はないだろう。不吉だろうが何だろうが、最後に勝てば良いのだ。まあ、花将軍には軍略の才があったとか?」
 向かいに腰を下ろしていた屈強な武者が言う。年の頃は三十余り。畠山義就。二つに分かれた畠山・惣州家の主である。 「見てくれなどどうでも良い。俺は強い男が好きだ。貴殿の用兵の妙、とくと拝見したいものだ」
 政弘は席次を見ながら、話の主が誰であるのかを確認する。評定の席にいるのは三管領四職の幕閣と譜代の重臣ばかりだ。無論、彼らの家はそれぞれ東西に分かれているから、その西軍側の連中である。東軍にも同じく、斯波、畠山がいる。そればかりか、宗全の息子すら東軍に与していた。
 赤入道と呼ばれる山名宗全は、百戦錬磨の強者。家格としては四職だが、大内家より早く足利将軍家に降ったというだけで、斯波や畠山のような将軍家一門衆ではなかった。しかし、これらの一門衆を差し置いて二大派閥の親玉として君臨しているのだ。政弘の母は、この宗全が大内家との関係を深めるために父・教弘に嫁がせた娘。一方、同じく細川家にも娘を嫁がせていたから、細川勝元は婿、政弘は孫にあたる。ただし、ともに宗全の実の娘ではない。一門衆から迎えた養女であった。
 政弘が宗全も驚くほどの美青年であったことはとにかくとして、彼の武人としての素質も相当のものである。周防から京まで、その道々の武勇伝はすべて彼らの耳に届いている。それは、敵方にも同じことで、だからこそ、何とかしてその上洛を阻止しようとしたのであった(もしも、この場に鶴がいたら、『総大将は何もしなかった』と余計な口を挟みそうだが)。
 歳が若いということ、そして、家柄が彼らに及ばないということで、政弘は遠慮がちであった。その貴公子然とした容姿も手伝って、ますます戦場には不似合いに見えた。

 さて、政弘が上洛するまでの京での戦況はどうなっていたのであろうか。
 上御霊社で畠山義就と畠山政長が、家督相続問題にケリをつけようと一戦交えた後、惨敗した政長は細川勝元の援助を得て巻き返しを図った。
 細川と山名は、上京の東西に別れて陣取り戦のような小競り合いを繰り返したが、未だに決着はついていない。
 現状、細川側が優勢であったから、山名側は政弘のような新手の加入で、何とか形勢を逆転させたいと願っていた。

 狭い京の中での合戦は、これまで皆が体験してきたであろう開けた平地での戦とは趣を異にしている。細い通りの中で、万もの兵は動かせない。
「家屋敷や寺社を焼き、戦える場所を作るのよ」
 都大路を眺めていた政弘に、畠山義就が声をかけてきた。 「焼く、のですか?」
「そうだ」
 両軍関係者の邸宅にはそのまま兵が詰め、陣所として使われていた。家屋敷を失った、あるいはそもそも持たない政弘のような者は、寺社などを占領してそこを陣(宿舎)とすることになる。本陣となった屋敷や寺社は、敵軍から見たら「敵拠点」ということになるので、攻撃にさらされ、火をかけられるなどした。
「しかし、家屋敷を失えば、そこに住まう者はどうなるのです?」
「当然、焼きだされる」
 義就は笑った。
「意外にも、慈悲深いのだな」
「……」
「見かけは柔でも、中に一本強い意志が通っている。俺にはそう見えた。要するに、頑固で、きつい性格だ。それに、生真面目、そうだろう?」
 義就の分析は言い得て妙だった。だが、なぜここまであからさまに言われなければならないのか。政弘は不機嫌になった。
 政弘は一見すると穏やかで人当たりが良い。更に美男子なので、たいていの相手はそこで騙される。けれど、大内の当主はそう柔ではない。彼もまた先祖代々の当主たるべき器に適っていた。反骨精神。恐らくはその一言に要約できた。特に父の教弘にはその傾向が顕著であった。彼は代々の当主がそれなりに務めていた「在京」をやめてしまった最初の当主である。
 真面目なところは父親似であるかもしれない。だが、その息子は頑固なまでにそれを徹底していたので、何をするにも完璧であることを求め、その遂行のためには手段を選ばないところもあった。よく言えば、優秀、悪く言えば冷酷。花は花でも楚々と咲く可憐な花ではなかった。
 義就が口にしたそれらは、褒め言葉であると同時に、あまり嬉しくない言葉でもあった。だが、政弘は、むっとしつつも、大胆に思う所を述べる義就という男を、なぜか好ましくも感じた。
「家屋敷を焼き払い、両軍にらみ合いですか? 斯波様の御屋敷は燃え残っていますが、相当な痛手だったようですね」
「ああ。勿論のこと、味方の屋敷は燃やさない。だが、敵のほうは容赦せんからな」
 政弘が到着する直前まで、斯波義廉邸は再三にわたる攻撃を受けていた。かろうじて持ち堪え、政弘の着到で敵が囲みを解いたので、何とか無事にすんでいる。義廉本人より、配下の守護代・朝倉孝景の武勇に助けられているようだ。
 なお、山名宗全や細川勝元の邸宅も襲撃されているが、いずれも陥落までには至っていない。
 しょっぱな、狙われたのは、一色義直邸だった。これは地理的に幕府御所の真ん前なので、そんなところに西軍の屋敷があることが嫌われ、御所を押さえようとする東軍から情け容赦ない攻撃をくらった。
 東軍側は、自軍の中に将軍と天皇を取り込んでいた。よって、彼らは幕府、そして朝廷であり、それに引き換え、それらのシンボルを一つももたない西軍は「賊軍」であった。
 西軍の攻撃は将軍と天皇が潜む御所に向かっていた。相手は当然それを阻もうとする。御所の周辺には細川、山名、一色といった幕閣の邸宅や公卿の屋敷、それに寺社の建物が多かった。彼らはそれらを燃やしつつ、敵の本拠に迫っている。
「花将軍……案外と、合っているかも知れん」
 義就が何やらぶつぶつ言っている。政弘もなぜか同じことを考えていた。
「最後に死んでは困りますよ。私は生きて帰らねば。それに、父上の仇も討つ」
「ん? 仇?」
 政弘は目を逸らして、
「北畠顕家は南朝の武将ゆえ縁起が悪いのでしょうが、今の我らは相手から見たら似たようなものでしょう。ですが、こちらには朝廷も幕府もない。なにか、精神的な支柱となるものが欲しい。無論、そんなものは、実際には何の意義もないのですが」
 南北朝の泥沼では、朝廷が二つ存在した。その意味でどちらにも「大義名分」はあったのだ。同じ幕府への反対勢力であっても、今の彼らにはそれすらないのだから、南朝の連中よりさらに悲惨だ。 「そうなのだ。将軍も天皇もやつらに取り込まれている。それゆえ、何をやっても正しいのはあいつらのほう、となる。まあ、俺は、どうせとっくの昔から賊軍だが」
 天皇は政弘の入京と相前後するように、御所に避難する、という形で招き入れられ、細川方に身柄を確保されている。もう少し、これらの点にも気を配っていて欲しかった。もっとも、山名側も上御霊社の時には、きちんと朝廷からのお墨付きを得ていた。今回はその余裕がなかったのだろう。
 しかし、歴史が語るように、「大義名分」というのは、なければ「作る」ことができるものなのである。ただ、それにはいくらかの下準備が必要である。何もないところに降って湧くものではないからだ。
「私も討伐対象となっていました。ですが、今となっては、全員まとめて賊軍でしょうが」
 政弘は興居島の怒りを思い出したが、何とか自制した。 「今となっては、全員まとめて賊軍ですから、お仲間が増えて心強いですね」
「ははは、そうだな。俺は何度も賊軍と管領家を行き来した。これまた笑えるだろう? だがなあ、どのみち、血筋が悪い俺には、お偉い家臣が付いて来ない」
 畠山家の家督は、義就と政長の間で何度もやり取りされた。父の持国が、最初に弟(政長の父)を相続人としていたのに、その後実子の義就に変更したために、混乱が起こった。ここまでは「普通」だ。だが、守護の相続人を認可する立場にある将軍・義政が、周囲の圧力や己の優柔不断さで、その考えを何度も変更したので、そのたびに相続人の地位が上書きされていった。
 義就の場合は、生母の血筋に問題があったためか、重臣たちの中にも彼を認めない者が少なくなかった。それでも、義政があっさりと家督を認めてしまったから、最初は家督の継承はすんなりといった。しかし、その後、「素行が悪い」という理由で嫌われると、義政は家督を政長に変更してしまった。ここまでも、なお「普通」にありがちな話ではあった、
 しかし、交代劇はそこでしまいとはならず、なおも延々と続いたのだった。こうなるとさすがに「普通」ではない。二人の相続候補を後援する山名、細川の力関係によって、義政の上意はなおも変更され、相続人名簿は上書きされ続けた。
 もはや当人たちにも何が何やら分からなくなったが、共に二度以上、将軍から当主の地位を認められた身。こうなると後へは引けなかった。そもそも、将軍の発行する紙切れ一枚で、承認される危うすぎる地位などに、どれほどの意味があるのか分からない。さりとて、そのお墨付きがなければその地位はますますもって、誰からも認められないという矛盾をはらんでいるのであった。
「賊軍かそうでないか、そんなもの、将軍の気まぐれ次第。アホらしいことだ。しかし、今のままでは俺も行き場がないのでな」
 将軍「公認」の身分がない以上、彼は幕府の中にはその居場所がない。要するに、義就がいくら頑張っても、すべては公認の家督継承者である従弟の政長のものである、ということだ。公認であるかどうかを決めるのが、優柔不断な将軍の上意という紙きれであるという事実は、確かにアホらしく、そんなものがまかり通っている世の中は理不尽ですらあった。
 実際には、政弘の「討伐対象」認定は上京での両者の小競り合いの前に解除されていた。それはこの騒ぎに首を突っ込むな、という幕府(=細川勝元)からの最後通牒であったように思う。義就同様、それらにアホらしさしか感じない政弘は、その「厚意」を無視した。己がその地を治めるのに相応しいか否かを決めるのは、将軍、まして管領の気まぐれではない。それは、治世者自身の力量によるものでなければならない。そんな当然のことが忘れ去られている、それが現状である。
「仰る通り。賊軍上等です。力ある者が相応の評価が得られる、そうであるべきです」
 彼の言葉は飛躍し過ぎていたようで、義就には理解できなかったようだ。かわりに、一つ前の話題を蒸し返してきた。
「ふむ。難しいことをいうな。……さっき、仇と言ったが、もしや、細川勝元のことか?」
 政弘はそれには答えなかった。隠したところで、知らぬ者はないはずの細川家との曰く因縁について、ことさらに繰り返す必要はあるまい。己が胸の内にあることは、あまり多くの相手には語らぬほうが良い。まして、今日初めて知り合った人物だ。彼にしては珍しく、多くを語りすぎたことを後悔していた。 

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