陶隆房 (過去記事再掲載・未修正)

2021-01-26


どうやらどこかから圧力でもあったのか、五郎様の記事だけが消えてるね。ここでは断片的に残っていたものを修繕して取り敢えず載せたよ。ここは僕たち全員のライフワークとなるから、こんな記述で終わるはずないんだけど、どうやら、元の管理者たちも、大した資料を集められぬまま挫折したようだね。
残っているのは、変なチャットと年譜の抄訳だけ。それから、こんなことをやりたい、みたいな予定表が断片的に残っていたよ。
おおお、いよいよ、この野郎の正体が明らかになるんだな
何興奮してんの? 過去記事をリライトもせずに載せるだけだから、読んでも何も分らないよ。
ん? そういう低品質を公開していいのかよ(ブツブツ)

千寿は隆房様の年譜を見て、猛烈に怒ってる……そもそも、紀伝体の組み分けで「逆臣」になっていることが許せないし。『実録』は素晴らしいご本だし、これ以上ないほどお世話になっているけども……。
近世に形成された「武士道」みたいのに照らすと、隆房様の行いは不忠の至りで、赦されることではないのかもしれないけどさ。今日日、赤穂浪士を馬鹿らしいと思う人もいるくらいなんだよ(-_-;)
だいたい、室町時代の常識としては、アホな当主は更迭してかまわないわけであって(怒)
そうだな。神保らが畠山義就のようなのが主に相応しくないと怒り出したのと同じことだろう。神保は大伯父・持国に殺されてしまったが……。斯波義敏など、家臣の甲斐常治に追い出されたしな……それと大差ない気がする。ちと暴走したのか。主が悪質だったゆえ、命まで取らざるを得ず、陶殿にはその力量があった、そういうことかな?
あなた、最高に良い人だね(*゚ー゚*)
もしも、来世があるのなら、あなたに忠節を尽くすよ(本当は何度生まれ変わっても隆房様にしかお仕えしないけど、美辞麗句をばらまくのは得意だよ)
ははは……
ま。組み分けが酷いだけで、『実録』に罪はない。ただ、悪者扱いしている割には、記述はあっさりしているね。
でも意外なことに、残っている通史っぽいものはどれもこんな感じなんだよ。
これを見た人は、「陶隆房のどこが名将もしくは猛将なんだ(゚ー゚*?)? 」となるのではないかな……
うーーん。インチキだらけのしょうやくっての読んだけども、ダっせーの一言だなぁ。そもそもこいつ、「名将」なの? きいたこともないんだけど?

またお前か。どうしてこうも、どこにでも現れるのだ? 恥を知れ。だいたい、しょうやく、というのは何なのだ? 生薬のことか? 仮名文字で話すな
お前に言われたくないぜ。けどよ、お前の親父も含めて、俺らのほうが、この見掛け倒しの男より、ずっとイケてると思わね? 乱世の驍将。ししし。
こいつなんかは、ただの謀叛人だもんなぁ。ま。細川政元の同類? にしては、頭足りないんじゃないか?
ううむ。やはり、「家格」であるな。まあ、お前のほうにはやや問題があるが
“>
ちょっと、いい加減にしてよ。本当に、どうしてこんなところにも両畠山が……とっとと消えてよ。あ……
うむ。元気そうじゃの
あんたこそ、元気そうじゃない? それに、暇そう……。天国でまったりしている人は羨ましいよ
そうとも限らんぞ。ヒソヒソ
え━━━(゚o゚〃)━━━!!!
\(◎o◎)/!
ま、詳しくはあちらの毛利庭園で茶でも飲みながら、の
今のじーさん、誰だ?
さ、さぁ……

年譜

陶晴賢、初名は隆房、幼字は五郎。尾張守・興房の二男。
(俗書・『陰徳太平記』の記述に、晴賢は実は問田紀伊守の嫡子であり、興房の姉の子であった。興房の実子・五郎義清という者は、十五歳であったが、 道徳に背く行いがあり、父の意に従わず、ゆえに興房はこれを殺して、晴賢を養子とした。とあるが、根拠がない)。
容姿が美しく、義隆に愛された。

天文六(1537)年正月八日、従五位下に叙され、中務権大輔に任じられた。

九(1540)年、義隆は安芸に出陣して、玖珂郡岩国に布陣した。隆房もこれに従った。九月、尼子晴久は大軍を率いて、安芸・高田郡に入り、毛利元就の郡山城を囲んだ。元就が援軍を要請してきたから、義隆は隆房と内藤興盛らを派遣した。
十月四日、隆房は厳島に参詣し、太刀と神馬を奉納すると、伊香賀対馬守を名代として在島させた。
四日未明に海田に渡り、中郡より郡山に進んだ。十二月三日、郡山に到着し、山田中山に陣を置いた。十一日、城内及び五龍城の宍戸安芸守元源に呼びかけ、尼子の宮崎長尾の陣営を攻撃した。十年正月十一日、郡山の天神尾に陣替えをした。十三日、元就が宮崎長尾の敵営を焼く。隆房はこの機に乗じて晴久の本営を衝こうと三塚山下に進軍した。晴久の従祖父下野守久幸は、山上より下って奮闘した。 深野平左衛門尉ら十三人が戦死し、江良伊豆守も十三ヵ所もの傷を負ったが、久幸主従十五人を斬った。この夜、尼子軍は壊滅し、晴久は出雲に逃れた。
三月、佐東にて戦った。

十一年(1542)六月七日、出雲国飯石郡に進み、赤穴の瀬戸城を攻めた。 戦況は芳しくなく、 粟屋内蔵助ら二十余人が戦死した。

十二年(1543)五月、出雲より帰還。

十四年(1545)八月十七日、尾張守に任じられ、十七年四月十六日、従五位上に昇進した。

十九年(1550)八月十五日、先に杉重矩の讒言を信じた隆房は、 義隆を恨んで相良武任に立腹していた。この日、仁壁、今八幡両宮の例祭に際して、義隆が両宮に参詣するのを狙って、隆房が途中でこれを襲うだとか、相良の屋敷に押し寄せるだとかの噂があり、市中は騒然としていた。義隆は参詣をとりやめ、十六日、近郷の兵を山口に集めて、館を警衛させた。
隆房は名代を派遣して、無実を訴えた。それなのに、なおも罪を問い質す兵を差し向けられるとか、切腹を命じられるとかの噂が起こった。
それで、隆房は武具を揃えて、防御を固めた。
十七日、義隆の命を帯びた陶隆満、杉興重入道、吉田興種が来て、家人を山口にあつめ置き、武具を揃えたことを詰問した。隆房は、家人は翌年の氷上山二月会の大頭を承っているため、その差配のために召し出したこと、武具のことは誤解である、と弁明した。こうして、なんども陳情するにおよび、ようやく疑いが晴れて、事はおさまった。
十一月、所領の都濃郡富田に帰還。これより密かに造反を謀り、また、罪に問われることを想定して、二十(1551)年二月には、興隆寺の二月会に出仕しなかった。
山口では、大友家が援助に同意したので陶討伐に兵を送ってくるだろうとか、真珠院では護摩を焚いて隆房を調伏するよう命じられたなどの噂があった。そんなところへ、領内の荘厳寺が隆房毒殺の命を受けたときいたので、叛意を決して荘厳寺の僧を殺した。
義隆を幽閉すべきか、あるいは弑逆すべきかと、野上平兵衛尉、江良丹後守、伊香賀民部少輔と相談し、義隆父子を殺害し、義隆の猶子・大友八郎晴英を当主に迎えることに決まった。そこで、山口及び各所に通達すると、杉重矩が仲間に加わってきた。麻生彌五郎を遣わせて、晴英に、義によって義隆を廃するので、大内氏の家督を継いでくれるように頼むと、晴英はこれを承諾し、義隆から贈られていた密書を隆房に渡した。
八月二十八日、江良丹後守、宮川甲斐守が防府口から、隆房自身は徳地口から進軍し山口を攻めた。
義隆は法泉寺に退却して抗戦し、二十九日、長門国大津郡に逃れた。
柿並佐渡守に足軽を率いさせてこれを追撃させた。
九月一日、佐渡守は義隆を深川村大寧寺に囲み、義隆は自害した。義隆の子・義尊を捕らえ、翌日殺害した。また、各地に兵を派遣し、己に従わぬものを討った。
晴英に偏名を尋ね、晴賢と名を改めた。(九月二十三日の 文書に隆房とあり 、十一月十一日の文書では晴賢となっているので、この間のことである)

二十一(1552)年三月、晴英を豊後から迎え、主君に立てた。晴英は義長と名を改めた。口月、先に、義長を迎える件で、杉重矩と仲違いしていたが、遂に重矩を蟄居させた。重矩が風見鶏のような人物であると進言する者があり、相良武任が免罪を訴える書状も見つかった。そこで、はじめて重矩に利用されたことが分かり、重矩を殺害し、その首を晒した。その後、義隆の霊に謝罪し、剃髪して法名:呂翁全姜と称した。(九月十八日の文書に尾張守とあり、十月十五日の文書に前尾張あるので、その間のことであろう)

二十二(1553)年十月、石見の吉見正頼が挙兵した。二十三年、義長は吉見討伐のため阿武郡渡川に出陣し、晴賢は先鋒として徳佐に陣を置いた。
五月、毛利元就が挙兵。九月、正頼は嫡男・亀王丸を人質とし和平を求めた。この時、晴賢主従は毛利氏の勢いが盛んになっているのを憂いていたので、これ幸いと和睦して、義長は山口へ帰還した。
晴賢はただちに周防国玖珂郡岩国に赴き、横山の永興寺に陣を置いた。

弘治元(1555)年三月十六日、毛利氏の離反の計に陥り、江良丹後守を殺害した。
九月二十一日、安芸国厳島に軍を派遣して宮尾城を攻めていたが落とせず、晴賢はこの日、大挙して厳島に渡り塔の岡に陣を置いた。
十月一日未明、毛利元就父子が塔の岡を襲った。晴賢は不意を突かれて狼狽し戦うこともできず、西山に向けて逃れた。小早川隆景がこれを追った。
三浦越中守が殿となって戦死した。晴賢は何とか逃れて、青海苔浦にいたったが、船がなかったので、大江にて自害した。三十五歳であった。
宮川市允が介錯し、晴賢の首を山中に隠して埋めた。伊香賀民部少輔、柿並佐渡入道、山崎勘解由らもこれに殉じた。
毛利氏は晴賢の首を探したが見つけられずにいたが、晴賢の召し使う子供が、命を助けてくれるように頼み、晴賢の首の所在を告白した。それで、毛利軍はその首を見つけることができたのである。元就父子これを廿日市の洞雲寺に埋葬した。

妻は内藤左京大進隆時の娘。二男を生んだ。長男・長房、二男・某。 長房は五郎と称した。(鶴寿丸、右馬助、兵部少輔の名があるがほかに所見がない)。
長房は若山を守っていたが、弘治元年十月七日、杉重輔兄弟が襲って来た。興房は父敗死の訃報に意気消沈しており、また、杉重輔の襲撃は思いも寄らないことだったので、防御することもできなかった。
城を棄て、長穂の龍文寺に逃れたが、重輔はこれを追撃し、寺内に押し入ったので、自害した(閏十月七日、杉隆重のために、富田にて討ち死にとするものもある。また龍文寺の寺伝には若山にて亡くなった、とある。しかし、龍文寺付近に千人塚という古い塚が五つもあるため、これらの説はとらない)。法名:龐英洪□。子・鶴寿丸(系図は、あるいは、晴賢の末子である、とする) 、某(系図に貞明、小次郎、雅楽助とあるが他に所見なし) は龍文寺にて自害。

弘治三(1557)年、義長が且山に逃れた際、鶴寿丸は六歳(五歳とするものもある)だったが、家人・野上房忠がこれを背負って義長に従っていた。四月三日、義長が長福寺にて自殺した際、房忠は鶴寿丸を刺して、これに殉死させた。

近藤清石『大内氏実録』より

※リニューアル前の管理者たちが書いたものが少しだけ残っていた。内容に責任はもてないが、ページを改めて、ひっそりと残しておく。

陶家列伝

Posted by ミル