今回は右田氏から分家した陶氏についてご紹介いたします。日本史の受験参考書にある人物が載っているため、おそらくは大内宗家から分家した家の中で、もっとも全国的に知られている家なのではないでしょうか。といっても、知られているのは参考書に載っている人とそのお父上くらいですかね。一般的には。著名な人物にダークなイメージがつきまとうのが何ともですが、分家の分家とはいえ、大内家中で重きをなした家柄です。
陶氏概説
大内宗家の分家・右田氏から分出
大内氏第十五代当主・貞成の次男・盛長から分かれ出た一族が右田氏です。その盛長の玄孫・重俊の子、弘賢が独立して一家を立てました。陶村を領地としたため「陶」と名乗ります。ところで、右田氏の祖・盛長には跡継がおらず、兄弟にあたる宗家十六代・盛房の子・盛綱が継いでいます。細かいところではありますが、正確に言うと、盛長の子孫というより、盛房の子孫ということになります。⇒ 関連記事:右田氏
名字の地「陶」にいたのは二代目まで
陶と名乗っているのは、陶が名字の地だったゆえにですが、二代目弘政の時に、宗家の命令で本拠地を都濃郡富田に移します。以来、陶氏の根拠地は滅亡時まで、ずっと富田でした。陶氏=陶に居住していたというのは、正しくもあり、誤りでもあることには注意が必要です。
本家・右田家に入ったり出たり
右田弘篤という人が亡くなった時、跡継がなかったので、分家した陶の家から、弘房を呼んで後を継がせました。ところが、弘房が出ていった後、今度は陶の家で当主の弘正がやはり跡継なく亡くなってしまいます。陶家では家名が途絶えることを愁い、弘房に後を継いで欲しいと願い出、宗家の許しを得ます。右田家には、弘房の子・三郎(後の右田弘詮)を残しました。このことは、右田氏のところで書いたので繰り返しません。
本家を凌駕し重臣の家柄に
弘政が富田の地に移ったのは、大内弘世と分家・鷲頭家との争いに備えるためでした。弘世の期待に応え、鷲頭家との戦いで活躍した弘政は、子息・弘長とともに、弘世・義弘期に多くの功績をあげました。そんなことから、陶の家は、宗家にとってなくてはならない重要な地位を占めるようになっていきます。
幼少のまま家を継いだ当主が何代か続いたこともありましたが、大概において、終始家中で重きをなしていたといえます。
歴代忠義の臣を輩出した家から叛乱者が……
代々、宗家のために尽してきた陶の家でしたが、最終盤にきて、主に叛旗を翻した人物が出ました。それが興房の息子・晴賢です。出来の悪い主君に物申した家臣は全国どこの家でも頻出という事態となっていきますから、とりたてて珍しい話でもありません。古い考え方が主流だった近世などにおいては、いわゆる謀叛人的な扱いで、散々にこき下ろされてきましたが、現在は、そんな簡単に片付けられる問題ではなくなっています。
現代も含め、後世の評価は人それぞれと思われるので、事実だけ述べるに留めます。主を死に至らしめたことだけは確かですので。
毛利家の防長経略で滅亡
厳島の合戦に勝利した毛利家が、あらたに防長の主となりますが、陶の家関係者も含めて、大内宗家から分かれ出た人々の中にも、毛利家に降った人は少なくありません。しかし、「叛乱者」に結びつく陶という姓は嫌われたものか、姓氏を改めて毛利家に仕えたりしましたので、陶という姓で毛利家臣となった例はないと思われます。
系図に出て来ない方も数多くおいでになったはずですので、どこかに子孫がおられるという話はよく耳にします。ただし、具体的に、どこで、どのようなかたちで続いていったのかは不明です。
『新撰大内氏系図』に見る陶氏の家系図
当主の流れは以下の通りです。これはあくまで、『新撰大内氏系図』によるものであり、最新の研究成果で書き改められた部分や、解決されてはいないものの、別の意見を提示しているご研究などは反映されていません。
①弘賢―②弘政―③弘長―盛長―④盛政―弘正―⑤弘房―弘護―⑥興房―晴賢―長房―鶴寿丸
縦横の繋がりがわかりにくくなるため、〇数字で、親子関係を示したのが以下です。さらに、そこから続いて行く人たちについては〔 )数字にて記しています。
①弘賢―弘政、又三郎、僧(方山)、弘綱⑴
②弘政―弘長、僧(正受)、某(遠江守)、某(和泉守)⑶、某(余一)、僧(蘭室)
弘綱⑴―弘宣、宣顕⑵、盛長
宣顕⑵―宣輔
③弘長―盛長
某(和泉守)⑶―僧(通隣)
④盛政―弘正、弘房、某(法名元禅童公)
⑤弘房―弘護⑷、弘詮⑸
弘護⑷―武護⑹、某(興明、夭)、興房⑺、女子(宗像大宮司氏定妻興氏母)
弘詮⑸―隆康―隆弘、元弘
武護⑹―興明⑺、隆胤(伊予守)、晴之(兵庫頭、十九歳而戦死)、女子(宗像大宮司氏定妻興氏母誤欤)
興明⑺―房賢(五郎三郎、上総守、尾張守)
⑥興房―女子(宗像大宮司興氏妻)、女子(内藤掃部妻)、興昌、⑦晴賢、隆信(安房守)
⑦晴賢―長房、貞明
弘詮⑸―隆康⑻、興就、女子(尾張守興房房室)
隆康⑻―隆弘、元弘
弘賢 陶祖、六郎、初弘景、法名海印寺道意、以防州陶村為食邑
弘政 五郎、越前権守、越前守、法名春林道栄、徙家于防州都濃郡富田
弘綱 宮内少輔、周防守、長門守護代
弘宣 兵部少輔、紀伊守護代、於紀州自害
宣顕 宮内少輔
宣輔 遠江守、於豊前守篠崎戦死
盛長 三郎
弘長 三郎、尾張守、長門守護代、於豊前国猪岳戦死、法名道琳
盛長 三郎、治部少輔、中務少輔、長門小守護代、実弘綱男
盛政 徳房、五郎、越前守、長門守護代、周防守護代、文安二年乙丑十一月廿一日卒、法名龍文寺殿大造釣公大居士、妻宝徳三年六月三日卒、法名定葱妙観大姉
弘正 越前太郎、寛正六年乙酉八月廿六日於芸府戦死廿一歳
弘房 三郎五郎、中務少輔、越前守、康正三年一族右田弘篤戦死無嗣子以大内教弘之命嗣其家名雖然寛正六年兄弘正戦死而無男子一族請願太守弘房復帰陶家、応仁之乱属大内政弘而上洛二年戊子十一月廿四日於落陽相国寺合戦戦死、法名泉福院殿或瑠璃光寺殿文月道周大居士、妻仁保盛郷女、永正五年戊戌八月廿八日卒、法名保安寺殿華谷妙栄大姉
弘護 鶴寿丸、五郎、尾張権守、尾張守、越前守、周防筑前守護代、母仁保盛郷女、康正元年乙亥九月三日誕于防州山口私第、文明十四年五月廿七日与吉見能登守信頼有宿意倶闘死於大内殿中廿八歳、法名昌龍院殿建忠孝勲大居士、妻益田越中守兼堯女、大永五年乙酉九月廿六日卒、法名龍豊院殿咲山妙听大姉
弘詮 三郎、右田中書、陶兵庫頭、陶安房守、筑前守護代、父弘房一旦雖継右田家後帰陶家依是使弘詮継右田家、文明十四年兄弘護遇害其子三郎幼稚也大内政弘為名代陶氏可上洛之旨有将軍家御教書依之弘詮暫時称陶氏改兵庫頭帥軍上洛数励勲功将軍家吹挙従五位下
武護 鶴寿丸、三郎、五郎、中務少輔、早世
興明 五郎、年月不知於富田被撃
興房 三郎、中務少輔、尾張守、入道祥岩道麒道麟、周防守護代、天文八年己亥四月十八日卒、法名大幻院殿透麟道麒大居士、母益田兼堯女、妻右田右馬允隆康妹、天文廿四年七月十八日卒、法名大義院殿観室氷喜大姉
興昌 或興次、次郎、享禄二年四月廿三日死二十五歳、法名信衣院春翁透初大禅定門
晴賢 初隆房、五郎、中務権大輔、中務大輔、尾張守、従五位下、十五位上、法名卓錐軒呂翁全薑、母右田隆康妹或曰実問田紀伊守嫡子而興房姉所生之子也興房実子五郎義清于十五歳無道而不応父意故鴆殺而以晴賢為養子、妻内藤左京大進隆時女、法名照山妙金大姉
長房 鶴寿丸、四郎、右馬助、兵部少輔、弘治元年乙卯十月七日為杉重輔兄弟所襲若山城棄城奔入長穂龍文寺自害、法名龐英洪公大居士
貞明 小次郎、鶴千代丸、雅楽助、於龍文寺自害十七歳、法名月光阿三
鶴寿丸 或作晴賢季子、弘治三年四月四日大内義長一所生害長門国長福寺六歳
隆康 称右田氏、又称陶氏、右馬允、天文二十年八月廿九日於山口法泉寺戦死
興就 三郎、死去年月不知
隆弘 陶中務少輔、於法泉寺父一所討死
元弘 鶴千代、八郎、称母家宇野氏
究極右田祖からの血はとうに途切れている
始祖から展開して行けば、宗家も分家も身内です。現代のように医療が進んでいなかった時代、寿命を全う出来ずに若くして亡くなった人も多かった時代です。ご覧になれば分る通り、時代が時代なだけに、戦死もあり得ました。そこで、身内同士で人員を補填して融通し合っていました。弘房が右田に入ったり、また陶に戻ったりしたのもそうですし、そもそも、右田祖・盛長を継いだのは甥でした。
時代が下がるほど、宗家との血縁は遠くなりますので、宗家とは主従関係の色が濃くなっていきます。最終的には、完全に家臣ですよね。まあ、それでも遡れば……というところはあります。しかし、数百年前の話になってますから、もはや身内感はなかったやも。
とにかく、家名が途絶えるのが嫌なわけで、身内から誰か連れてくるのですが、できればなるべく血縁が濃い人が有難いですよね。陶興房が唯一の跡継息子を失って、姉の子を養子にした、というのはここ数年来に出て来た新しいご説ですが、それ以前はそんな話を信じる人は皆無でした。怪しげな但書には、それらしきことが書かれていたにもかかわらず。
このほかにも、ここに載せている家系図には、怪しい部分が多々あり、最新の研究で書き改められた部分もあります。しかし、ここでは敢えて反映させていません(ほかのところで書いています)。なぜなら、陶の家だけが、注目されて研究が進んでいたとしても、他の家が誤りだらけのままでしたら意味がないからです。そんなわけで、ここではすべて横並びに『新撰大内氏系図』をメインとしているのです。
陶氏の有名人
この家に限っては、毛利家に仕えてその後も続いていた人はいません(あくまで表向きは。隠れ潜んでいた人は知りません)。そのうち、大内氏実録に伝が立てられているのは、弘房以降の当主たちです。このサイトでは、サブのページで、それら全員について独立したページをつくっていますので、ここにはそれらの記事へのリンクを貼ります。なお、問田から養子に入ったという人は入れていません。
陶弘政
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陶弘政 名字の地「陶」から新天地富田へ・弘世の信頼に応えて活躍
陶祖・弘賢の子。鷲頭氏への抑えとして、弘世の命で富田保に領地替えした。その後、陶氏代々の根拠地となる富田保に最初に入部し、基礎を整えた。鷲頭 ...
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陶弘房
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陶弘房
陶弘房(城主さまのお父上)についての紹介文。初稿です。
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陶弘護
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陶弘護 応仁の乱で主不在の分国を守った若き英雄
応仁の乱で父が戦死。主・政弘不在の分国で、その伯父・教幸が起こした叛乱を見事に鎮圧。十六歳にして救国の英雄となった。
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陶弘詮(右田弘詮)
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陶弘詮(右田弘詮) 吾妻鏡を書写した功績甚大・文武両道の臣
『吾妻鏡』の蒐集・書写で著名。現在の「吉川本吾妻鏡」である。陶家出身だが、右田家を継ぐ。後に旧姓に復した。孫は毛利家臣。
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陶興房
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陶興房 親子二代続く忠臣の鑑・義興とは最強の主従
大内義興・義隆二代に仕えた重臣。文武両道に優れ、人柄も立派な忠義の人として知られる。常に義興の傍らにあり主を支え続けた。
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参照文献:『新撰大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内氏史研究』、『周防国と陶氏』
ほかにも記事できてるのに。
リライトできてないから貼ってないよ。
俺は早世したのかな……(しんみり)。系図にも載ってない人物なんだね。俺が無事だったら、兄上が亡くなっても、変な人物を連れてくることはなかったのにね。親不孝な生涯だったんだなぁ。
(いや、そんなことはないよ。でも、なんでも新しいものに飛びつくということはあまりやりたくない。フリー百科事典じゃないのでね)
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大内宗家から分家した一族
「大内」以外の名字の地を名乗って分家していった多々良氏の人たち。滅亡後毛利家に仕え今に続く人、宗家と運命をともにした人色々。
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人物説明
大内氏の人々、何かしらゆかりのある人々について書いた記事を一覧表にしました。人物関連の記事へのリンクはすべてここに置いてあります。
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