龍文寺・陶氏墓所(周南市)

龍文寺・基本情報

住所 〒745-0125 山口県周南市長穂門前1075−1
電話 0834-88-1072
最寄り駅 徳山駅からバス40分
宗派 曹洞宗

龍文寺・歴史

永享元年(1429)、陶氏五代盛政が建立。陶氏代々の菩提寺。

陶氏は二代弘政が吉敷郡陶から移って以来、都濃郡富田保を100年余り領有。
大寧寺の変、厳島の戦いと大きな歴史的出来事が続き、主家・大内家の滅亡とともに、陶氏嫡流もまた断絶する。

龍文寺は、陶一門の菩提寺として栄えた寺院であり、陶氏の最期を看取った寺でもある。

中世寺院の特徴として、そこそこ要塞的用途を兼ね備えていたと思われ、杉重輔の同士討ちに遭った主・長房は若山の城を離れ、この寺院に逃れた。
偉大な父を失った絶望の淵にいた幼い跡継ぎは、なすすべもなく短い生涯を終えた。
陶家最後の鶴寿丸(長房の子、もしくは晴賢の子両説あり)が、忠臣・野上の手で、傀儡当主・大内義長とともに殉死させられた際に直系としては完全に終わる。
それについては、逃亡を続けた大内義長が最後に辿り着いた場所での話なので、正確にいうとここでお家が消滅したのではない。
なお、親戚筋の中には毛利家家臣となって続いた人もいる。

当寺を攻めあぐねた敵方は、念仏踊りの民衆に紛れ込んで寺内に乱入したとの伝承がある。今に伝わる「念仏踊」は、この時の踊りが「雨々踊り」⇒「念仏踊り」と変化してきたもの。陶氏追善供養のためとして、毎年七月七日に行われている。

寺院内には多くの陶氏歴代の供養塔が残されていた。寺院近くにゴルフ場を作ったとき、建設地が寺の一部分と重なったので、邪魔になった古墓をいくつか元の場所から現在の寺内に移した。
五、六十基に及ぶ現存する供養塔うち、人物が特定できるのは、陶弘護夫人の父・石見国益田兼堯と陶興房夫人の二基のみ。
江戸時代の文献によると、古い墓の類いの数は九十を超えていたらしいので、つまりその後、三十ほどが失われたことになる。惜しいことだ。

なお、念仏踊りの逸話は「伝承」であり、そもそも長房らが当寺院内で亡くなったことも同じく「伝承」とするむきもある。近藤清石先生は、『大内氏実録』の中で、やはり、ここ、龍文寺で亡くなったとするのが妥当だろう、と仰っている。
なぜなら、この付近で、複数の人骨(戦闘が行われた証左)が見付かっているとか。恐らく確かにここで戦闘があったのだろう。

龍文寺・みどころ

陶氏のものとされる大量の墓
幾つかの重要な文物があること、で貴重。
周南市指定文化財⇒「陶氏墓所」「楼門」「鉄造茶釜」「木造釈迦如来坐像」の四点。そし山口県指定文化財⇒「長穂念仏踊り」
「木造釈迦如来坐像」:応安7年(1374)、大仏師院什法印制作。56・4センチのヒノキの寄木造り。金泥彩。
「鉄造茶釜」:永正2年(1505)、八代興房が、龍文寺公用として、筑前国・芦屋の 金工に命じて作らせたもの。
総高42・Oセンチ、胴径48・5センチの巨釜。
鉄鋳造。紀年銘有りの茶釜としては県内では唯一。

仁王門

龍文寺・仁王門

陶氏墓所

龍文寺・陶氏墓所
龍文寺・陶氏墓所
龍文寺・石塔
供養塔の前に名札が刺されているのが、供養者が判明しているもの。墓群は荒廃が酷く、地元の皆さん、研究者の先生方のご尽力によって現在のように整備されたのである。墓碑に刻まれた名称が判読するものはほかにも幾つがあるが、それがどの人物を指すのか不明な場合もあり、現状判明している供養塔も研究者の方々の丹念な調査によってやっと明らかになったものである。

本堂

龍文寺・本堂

初出:2020年4月16日 周防山口館「陶家ゆかりの寺」改編

龍文寺写真集