陶弘護イメージ画像

初回訪問日:20200305

龍文寺 説明

 周南市にある寺院です。かつて陶家の菩提寺であったところとなります。
 「毛利家の防長経略」により、大内家が滅ぼされた際、陶家の血統も途絶えてしまいました。弘護様→興房様→隆房様→お子様方、という直系の系統についてですので、親戚筋の中には毛利家家臣となって続いた方もおありとは思われますが。
 最後の鶴寿丸様が、忠臣・野上さんの手で、傀儡当主・大内義長とともに殉死させられた際に終わっております。
 お寺自体は、きちんと整備されておりまして、見学可能。次回はアポイントをとって、詳細なお話をうかがいたいと思っています。自分で分かる範囲内では、こちらには、大量の墓があること、幾つかの重要な文物があること、です。
 まずは、お墓についてですが、ここが陶家の菩提寺であったことから、関係ある一門の方の古いお墓があったはずです。実際に古い墓は大量に見つかっており、目にすることができます。とにかく数が多いです。しかし、どれがどなたの墓であるのかは、未だ研究途上であり、お名前が判明しているのは数名分だけでございます。
 これ以上は、現在の史料ではもう無理であるのか、現在進行中で研究が進んでいるのかは分かりません。そのうち大発見があるかも(゚ー゚*?)?
 しかし、謎でしかたないのは、隆房様のお墓がここにあるのかどうか、という点です。分骨塔(正護寺)だの、「墓」(洞雲寺・廿日市市)だのが他所にあるため、こちらには何もないのか、いわゆる、招魂の形で供養塔だけでもあるのか……。とても知りたい。
 当然のことながら、先生方がこれほどの重大事項を調べておられぬはずはないですし、観光関係の方も、もしあることが分かっているのであれば、大々的に宣伝なさっておられるはずなので、現状、詳細不明なんだろうと思います。まあ、洞雲寺に「それ」を入れてしまって、ほかの部分は宮島の山中に放置されたのであれば、残念ながら、ここには何もありませんよね。でも、供養塔なら誰かが作ってくれても損はないかと。無論、今の所、見つかっていない、可能性も。
 しかし、隆房様の死後、お子様方も亡くなっていますから、親族にはもう、お父上の菩提を弔う余裕はなかったでしょう。

江戸時代の文書には、陶氏歴代の供養塔が龍文寺に存すると記されていますが、五、六十基あるうち人物が特定できるのは、陶弘護の妻の父、石見国益田兼堯と陶興房の妻の二基のみです。(龍文寺・説明板)

 なるほど。益田兼堯さんの供養塔などもここにあるんですね……。身内とは言え、陶一門ではないよなぁ。墓地は墓地で益田家代々のところにあるのだろうか。

 かつて伊東愛が『常闇の宴』を書いた際、防長経略がメインであったのですが、その時、そこそこ調べたようでして、私もこのお寺のことは知っていました。
 隆房様の遺されたお子様方は、杉重輔という人物によって命を落とされたことになっておりますが、その際、若山の城を棄てて、いったん、菩提寺であるこの龍文寺に逃れたのです。
 言うまでもなく、杉家は大内家の家臣であり、同士討ちのようなものです。しかし杉の父親・杉(名前どわすれした)なにがしと隆房様とが仲違いして、この人物を成敗しているので、その息子である、杉重輔からしたら、陶家は父親の仇であったわけです。
 本来ならば、隆房様を倒したかったのでしょうが、ご本人は厳島であのようなことになりましたし、杉なんぞが敵う相手ではありません。好機到来と思ったのでしょう。これはもう、因果は巡るでございまして、相手方にとっても、親の敵討ちは重大事ですので、誰が悪いなどとは申せません。気の毒というよりほかないですね。我々現代の一般庶民には想像できない世界です。

 さて、城を出て、龍文寺に逃れたのは、ここがそこそこの要害の地であったからなのだと思います。実際、先代の大内義隆さんにしても、政変の際には、次々寺院目がけて逃げておりましたし、そもそも、寺院というのは合戦の時、陣を置いたりすることが多々あったのです。応仁の乱を見てもそうですよね。勝栄寺など、中世の寺院が防御施設を兼ねていた証拠の史跡として今なお、その土塁が残っているわけですし。
 雨風をしのげるのは言うまでもなく、飲食の準備なども可能であることから、短・長期的に生活空間として利用できます。防御を固めれば、そこそこ要塞的に機能したのでしょう。
 しかし、杉は実は毛利家と繋がっていたという噂もありまして、お子様方は持ち堪えられずに、この寺内でご自害召されたのです。
 この要害の地に立て籠もっていた陶長房(隆房様の御嫡男)様が杉にやられてしまったのは、杉方が、「念仏踊り」の民衆に紛れて寺内に入って来たからである、という言い伝えがございますが、それも含めて、そもそもここで亡くなられた、ということが伝承にすぎないとする見方もあったようです。しかし、近藤清石先生は、『大内氏実録』の中で、やはり、ここ、龍文寺で亡くなったとするのが妥当だろう、と仰っています。
 さて、どういうわけか、この「念仏踊り」が、今なお受け継がれており、陶家の霊を慰めているそうなのですが、もしも、その踊りの民衆に紛れて寺内に……の話が事実とすると、心中複雑ではあります。しかし、恐らくは長房様たちの頃から、普通に地元の方々の楽しいお祭り(?)として、存在していたのでしょうね。それゆえに、微笑ましく見ておられたのではなかろうか、と。
 逆に、そんなところに紛れ込んで入ってくる杉のほうが腹黒いよ。そこまで知恵が回る人物という言い伝えもないので、毛利方から知恵をつけられたのではないか、と私は過去に推測しました。何の根拠もないのですが。

 ちなみに、お寺の説明板では、これらの事情を以下のようにまとめておいででした。

地元に伝わる伝承では、若山城にいた晴賢の子長房と小次郎は、大内氏家臣の杉重輔に攻められ、ここ龍文寺に逃れたということです。錦川と険しい山々に囲まれた龍文寺は天然の要害であったことから、寄せ手は一計を案じ、古くから伝わる周方神社祭礼の踊りに紛れて寺内に乱入しました。このため、時の住職のお諭して、陶氏の一族は自刃したとされています。 踊りはその後、陶氏追善供養のため、毎年七月七日に舞われ、やがて雨々踊りへと変化し、念仏踊として現在に至っています。現在、県指定無形民俗文化財になっています。

記念写真まとめ

山門

 入り口から順番に行きましょう。例によって、のどかな田園地帯にございます。  山門はとても豪華です。ただ……再建モノですね。ピカピカで立派過ぎます……。  仁王さんがいました。

本堂

 釣鐘です。  お寺の由来と、念仏踊りについて書かれた看板、文化財説明板です。

陶氏墓所

 さて、いよいよお墓に向かいます。先ずはやや遠い所から全景です。かなりの数、説明板によれば、5、60ってことでしたし。少しずつ、近付いています。  石碑がございました。板で書かれたものと同時に載せます。 こちらも、鎮魂のためなのか、観音様がおられました。 お墓まんまです。これらは、どれがどなたのか分からないので、出来る限り大量に撮りました。後から、あれが、だれそれのだと分かった、というときに、手元にビンゴだ(o^-')b  ってあるといいな、って希望からです。
 ちなみに、手前に板が刺してあるのは、どなたか判明したものでして、説明板ではお二人となっていましたが、どうもその後更に増えたようでして、四基ございました。  こちらが、興房様の奥方様の供養塔となります。中央のものです。「歓室永喜姉」と名札があります。

千寿千寿

 なお、実は江戸時代の文献によると、古い墓の類いの数は、九十を超えていたらしい。ゴルフ場を作るために、いくつか元の場所から移してきたものもあるけれども、そのときに失われたものはないはずで、なくなってしまったのはほかの理由みたい。
 このご本で勉強中だよ。 『山口県の歴史と文化』播磨定男先生著・Ⅱ章二「中世末期の墓塔-山口県徳山市を事例として-
 元々は、隆房様のも含めて、すべてのご先祖様のものがあったのかも……。いや、あったはずだよね……。
 なくなってしまったものは悲しいけど、先生方のご研究が進んで、残っている物だけでも全部、誰の物かわかると良いね

 これ、わからないのですが、瓦ですよね。この寺院のみならず、他所でも見かけました。特にこの寺院には大量にありました。
注目すべきは、毛利家の家紋も入っているところで、メンテナンス時のものとしても新しすぎるため、最近の方の手になる物かなぁ。でも。ちょっと古そうなものもありますね。

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所在地:〒745-0125山口県周南市長穂門前1075-1
TEL: 0834-88-1072
徳山駅からバスで40分
山口県観光連盟様HPより
※バスで40分かけていくことは難しいです(本数も少なくなっているため)。タクシーもしくはマイカー、レンタカーをおススメします※