陶弘護イメージ画像

初回訪問日:20200305

畠山尚順畠山尚順

陶殿の館を訪ねたのだが……これはいったい、どういうことだ? 何一つないではないか……。ここはどこなのだ?

千寿千寿

僕たちがここで暮らしていた頃から、もう500年近く経っているんだよ。残っているほうが奇跡なの。そんなことも分からないなんて、相当な馬鹿だね

畠山尚順畠山尚順

お前はたしか、こないだの……口のきき方も分からないと見えるな。いったい何者なのだ?

千寿千寿

あなたに名乗る必要もないけど、僕は千寿って言うの。隆房様の身の回りのお世話をしているよ。ま、もともとは大内義隆の書物の管理をやっていたんだけど……

畠山尚順畠山尚順

な、千寿だと? 大胆にも我らが将軍様のご先祖……

千寿千寿

そういうアホなこと、ここでは関係ないよ。早く、居館跡の解説やって

畠山尚順畠山尚順

どうして、畠山義豊の写真集とやらの解説まで私が……。まあ、良いだろう。少しでも名を売るのだ。ここは、陶殿の館「跡」である。現在は公園になっているゆえ、住所はないし、探すのは困難であった。まあ。すでに紹介済みの海印寺からほど近いところにあるので、そこまで辿り着けた者には造作ないであろう

 解説は、説明板とやらから……。

 この周辺は現在平城と呼ばれています。 これは室町時代、陶氏の居館がここにあったことに 由来するものです。 陶氏は大内氏代々の重臣で、南北朝時代、下松の鷲頭氏を撃つために吉敷郡陶(現山口市陶)からこの地に移り住み、やがてここに居館を構えたとされています。
南方の国道二号線付近に七尾山城、北に上野の城山、 別所城などがありました。
一方、陶氏は海においても、優れた兵力を抱えており、 その本拠地が現在の防府市の富海、或いは、周南市の古市にあったとされています。
また、近くの海印寺には、陶弘護の次男の興明や興房の嫡男で晴賢の兄にあたる興昌の供養塔があり、大切にされています。
平成十六年九月 周南市教育委員会

 な、何? 解説が少なすぎる? ええ……。各地の守護大名は有力な被官を守護代として、分国支配の手伝いをさせていた。陶殿は周防の守護代だったので、この辺りを統治していた。守護には守護館、守護代には守護代館……ま、まあ、そのような名称が存在するかは知らぬが。ここはその守護代館であるな。
 大内家の被官筆頭、同族一門の守護代であるから、その館も当然豪勢なものであったのだろう。残念ながら、現在は「公園」というものになってしまっており、かつてここにあったのだ、という証の看板やら石碑やらがひっそりとたっておる。
 確かに、広の守護館すら今はないのだから、ここも何一つなくなっていて当然かもしれぬな。しかし、こうやって、「跡地」であることを明らかにしてくれているだけでも恵まれていると思うぞ。
 しかし、この写真集とやらは、何なのだ? 意味のない写真ばかりではないか。看板その他以外は、いったいどういう目的で? まさか、二十一世紀の石垣を、室町時代のものだと思って撮影しておるのではあるまいな?
 さて、ここが、公園の入り口だが、目印となる板がフェンスとやらについておる。  公園の中を見回すと、下の石碑が見付かる。  やや見にくいが、碑文だけを拡大する。  つぎに、上で内容を引用させていただいた看板がこれである。  さて、おわかりのことと思うが、この時代、守護や守護代の館というものは、まだ戦国大名の城(ふふふ、私も時空を超えるようになって、己が死んだ後のことも多少分かった)のように、軍事的な砦のようなものではない。なので、この館を襲われたら、ひとたまりもないな。当然、戦になったら、詰めの城に籠るのである。
 陶殿は、若山というところに城をお持ちである。有事の時はそこで立て籠もったわけだ。しかし、武護殿と興明殿との「富田合戦」とやらは、この居館が舞台であったというから、興明殿も分が悪かったろうな。
 まあ、応仁の乱では、細川勝元邸などが要塞化して、親玉同士が、配下も含め、屋敷を襲い合っていたがな……。京の都に城を建てるわけにもいかぬから、致し方ないことではある。
 紀伊もそうだが、山を使えば、そのまま天然の要塞とできるから、陶殿の城も当然山の上に建っている。さて、説明看板によれば、この居館付近にも七尾、城山、の二か所にそのような防御施設(城)があったようだ。
 これより下は、管理人らが撮影した、付近の風景である。彼らにとっては、意味があるものらしいが、私には、説明不能である。あしからず。陶氏居館跡の解説は以上である。