駒ヶ林(厳島)

駒ヶ林:厳島合戦戦跡。忠義の猛将・弘中隆包終焉の地。

駒場林は標高509メートルで宮島では弥山に次ぐ高い山である。
廿日市商工会議所『宮島本』126ページ。

たいていの観光客はロープーウエーを使って弥山の頂上に行くと思うが、そこから遥かにこの場所が見える。
弥山から仁王門→大元公園へと向かうルートを使って桟橋に戻れるから、ロープ―ウエーに乗る時は、往復チケットを買って帰りも同じ道を戻ろうと思ったら絶対にだめである。

厳島合戦については、インチキな通説が垂れ流されていて、どれも真面目に聞くに堪えない。ただし、弘中隆兼さんが忠義の家臣であり、大内家でも五本の指に入る猛将であることは疑いようもない事実だ。
この点については、勝者の側から歪曲され、捻じ曲げられた史実の中にも、彼を悪く書く人がいないことからも分かる(勿論すべての史書を調べたりなんてしてないから断言できない)。

この合戦についてまともに知ろうと思ったら、『陰徳太平記』だの『吉田物語』だの、あるいはそれらを元にしてまとめてくれた一般書や、それを読んだネット民などが発信している情報を鵜呑みにしてはダメだ。
最近では、これらの軍記物は信頼に値しないとする説が当たり前となっているし、そもそも研究者はだいたい軍記物を嫌う。また、通説となっている○○は実は大嘘などというウケ狙いの書物なども出ている。それでも、やはり最後は「毛利元就は稀有な智将であり、陶は馬鹿である」という固定観念はほぼすべての国民に植え付けられているのではないかと錯覚するくらいだ。
だが、地元の歴史に詳しい方々の見方は意外にも違う。彼らはどこまでも公平である(その割には毛利家の家紋ベタベタの戦跡プレートが花開いているが)。厳島神社公式の書物にも、「陶は馬鹿である」なんてどこにも書いていなかった。
ただし、むしろ「馬鹿である」のなら、それを倒した毛利元就もたいしたことない、となってしまうのであって、名将に打ち勝ってこその勝利だから毛利元就も結果的に輝くのである。

さて、知略勝ちというよりは、暴風雨のおかげだろ? と思う毛利の奇襲に遭い、大内方の防御線は崩れてしまったが、総大将の五郎様さえ無事ならば、幾らでも再起の可能性はある。
そこで、なんとか踏みとどまって同僚(言っておくが、『大寧寺』はクーデターであったかもしれないが、戦国時代の下剋上などではなく、あくまで守護大名家の家臣たちによる主の首の挿げ替え。無能な主には引っ込んでもらわないと、お家存亡の危機となるからだ。当主はあくまで、大内義長であって、五郎様が取って代わったのではないのでそこを間違えはいけない。その点で、弘中と陶は同等である※)を逃がそうと頑張ったのがこの弘中さんである。

毛利家は彼を倒すために面倒な思いをし、多少の手間をとられたものの、悲しいことにはただそれだけだった。兵糧尽きていかんともしがたく、弘中さん父子はこの地で自害して果てたのである。

今この地に立ってみると、そこが切り立った崖の上で、あまりにも狭いことに驚かされる。ここにたとえ一部隊でも軍勢を置いていたのだとしたら、はみ出して谷底深く落ちていきそうだ……。思わず絶句する。

この崖は花崗岩でできているそうであり、遠くから眺めると、断崖絶壁に樹木や草花が生えているのが絵馬のように見えることから別名「絵馬ヶ岳」とも呼ばれているそうだ(上掲書)。

この場所からの展望は素晴らしい。
涙に霞む目で見下ろすと、遥かに宮島の海が見えた……。
なお、『宮島本』では、駒ヶ林を宮島の「伝説」の項目で紹介している。だから、山の高さなどについては正確だけど、弘中さんたちとの戦闘が実際にこの地で行われたかどうかなどは、今のところ、「史料」に基づいた「史実」ではなく「言い伝え」に分類されている、というわけだ。

でもね、たまに思うんだけど、時には史料でガチガチにならずに、自由に言い伝えを信じてもいいんじゃないかな。何もないところからは噂も生まれない。語り継がれてきたことの中には、きっと真実がある。信じるかどうかは己次第でいいんだよ。

写真撮影日:2020年3月6日 15:46

参考にさせていただいたご本:『宮島本』