平清盛公が埋経された経塚です。この付近の岡は「経の尾」と呼ばれています。
平清盛が一字一石の「法華経」を刻んで埋めた「経塚」であると伝えられています。
では、「経塚」とはいったいどのようなものなのでしょうか? 『日本史広事典』で「経塚」「経筒」「埋経」について調べたところ、およそつぎのようなことがわかりました。
末法思想が流行した時代、だいたい平安時代の終わりくらいからとなりますが、人々は仏教が滅亡してしまったら、経典も失われてしまうだろうと危惧していました。そこで、経典を書写して、霊山、寺社、墓の近くなどの場所に、埋めました。仏教滅亡によって、経典が消滅することに備えたのですね。
このようにして、書写して埋めることを「埋経」といい、経典が埋められたところを「経塚」と呼びました。たいていこれらの「埋経」した場所の上には小さな塚を築くことが多かったためです。
こうやって地中に納められる経典ですが、たいていは紙本に書き写しましたが、ほかにも瓦、礫石、銅板、滑石、貝殻などに書写されることもありました。そして、書き終えた経典は「経筒」と呼ばれる筒形の容器に入れて保護されました。おもに、紙製の書写経を保護するためのものだそうです。経筒には、青銅、金銅、鉄、石、陶器、木などが用いられ、地中には石組などの施設を造って、合子、刀子、鏡、銭貨などとともに埋められました。埋経は現代にまで続けられましたが、鎌倉、室町時代になると、極楽往生・現世利益を求めて行なわれる行為となっていきました。(参照:『日本史広事典』「経塚」「経筒」「埋経」)
なお、現存する最古の「経塚」として、藤原道長が金峯山に埋葬したものが有名です。道長が彼の地に経塚を造ったことは『御堂関白記』にも書かれていて、さらに「大日本国左大臣藤原朝臣道長」銘文が書かれたものが江戸時代に発見されたのです。
清盛が崇敬する厳島神社のある宮島に経塚を造ったことも頷けます。この経塚はとくに「清盛塚」と呼ばれており、またこの経塚がある尾根一帯を「経の尾」と呼んでいます。
この塚は、昭和十九年の開墾の際に発見されました。銅製の経筒、陶製の甕、中国宗代の白磁の合子、梅花双雀鏡、刀片などが見付かったといいます。これらはすべて平安時代のものだと考えられています。(参照:説明看板)
基本情報
所在地:〒739-0588 廿日市市宮島町37−1
※史跡解説ページはございません。
アクセス
宮島歴史民俗資料館から水族館に向かう道の途中にある小高い岡にある、と説明されています。しかし、なかなか探すことは難しいです。登り口には標識などがありませんので、「この岡何?」と思い上がってみると「こんなところにあったのかい!」となります。また、石段はとても急でして、登りにくいので覚悟して登ってください。上には写真にある通りの古い塚と説明看板以外なにもありません。
参照文献:『日本史広事典』、説明看板、『宮島本』
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