大内義興イメージ画像
 三月中には、岩戸城の政資、勝尾城の高経ともに敗走した。
 入る城、入る城次々に落とされ、父子共々、肥前に逃げ帰り、千葉胤資が城主を務める晴気城に入った。これが、四月十四日。十八日にはここも落城し、政資は更に逃亡する。
 そして、この最後の城を囲んでいる最中の、十六日、義興は周防五社に参拝し、分国の平穏を祈願している。なんともう、帰国してしまっていたのである。すでに大勢が決まった、と見なしたのだろう。
 ちなみに、周防五社とは、一宮:佐波郡玉祖神社、二宮:佐波郡得地の出雲神社、三宮:吉敷郡宮野荘の仁壁神社、四宮:吉敷郡吉敷荘の赤田神社、五宮:吉敷郡吉敷荘の浅田神社。すべて参拝するとなると十七八里の行程だとか。一里が半時で歩ける距離として八時間半から九時間。なかなかに大変である。
 しかし、方やのんびりと参詣モードに入ってしまったのに、方やなおも決死の籠城戦を続けているというのだから、もはや気の毒にすら思える。しかも、その籠城戦たるや、僅か四日であっけなくケリがついている。もはやなすべき術もなかったのであろう。

 本当に、最後の最後、政資は、多久・梶峰城へと逃れた。しかし、城主の多久氏は既に大内方に投降しており、政資を中に入れてくれなかった。漸く諦めたのか、政資はそこで自害して果てた。髙経も別の場所で自殺している。

 兵を挙げてから彼らの死亡まで、五ヶ月ということになる。決して短い時間ではないが、さりとて長いとも言えない。少弐政資が、積年の恨みを晴らさんとすべてをかけていたことを思い起こせば、全力で挑んだのに、一捻りで鎮圧されてしまった感が拭い去れない。しかし、何とも往生際の悪いお人である。にも拘わらず、次のような辞世の句が残されている……。

   花を散る思へば風の科ならず 時至りぬる春の夕暮れ
 善しやただみだせる人のとがにあらじ 時至れると思もひけるかな

   時至りぬと颯爽と出陣した義興。一方で同じく、時至りぬを連発して自害した少弐政資。なんと、この歌は、歴史マニア(辞世の句マニア?)の間で絶賛の嵐なのだが……。鶴同様風雅を解さぬため、一体どこが良いのか、まるで分らん。
 死に臨んで、「時が来た」と達観していたという見方は分る。しかし、いよいよとなるまで、何回籠城したのだろうか。古文書の山に埋もれている時間がないため、一次史料は放置。しかし、最後の城に至るまで、数回は逃亡している。往生際が悪いとはいえないだろうか。嫌らしい私は、偉そうに時至りぬを連発しているが、結局のところ、自ら墓穴を掘っただけですよね、と言ってあげたい。身の程を知りなさい。大人しく、対馬にでも籠もっていれば、「凶徒」討伐の御内書が発行されることもなかっただろうに、と思う。
 そもそも、鬼の居ぬ間にこそこそと抜け駆け泥棒行為をしたり、やることが小さい。宗像大宮司の重代の宝物のくだりも、実は『肥陽軍記』に書かれている話なので、インチキであるのかもしれないが、他所様の宝物を横取りとか、小さすぎやしませんか?
 さして苦戦することもなく、あっけなく終了した少弐討伐。しかしながら、北九州平定への道はまだ遠かった。なおも大友という強敵が残っていたし、そして、少弐家といえど、別に滅亡したわけではないのである。少弐政資の末子・資元は大友家に助けを求めたし、千葉胤資の子・胤繁も生き残っている。結局のところ、今回は、燃え上がった火種を揉み消したに過ぎなかったといえるだろう。