陶興房イメージ画像
 帰陣した二人を待っていたのは、豊前守護代・仁保護郷であった。
 去年の春、龍豊寺で邂逅してから、そろそろ一年になる。
 興房と護郷とは、互いにそっと目を合せた。
「此度の合戦においての、そなたの活躍ぶり、目覚ましいものがある」
 義興にそう言われ、無骨者の護郷は、その場で感泣する。
 なぜにここまで感激するのか、むろん、それには理由があった。

 数日前のこと。
 護郷は興房の幕舎を訪れていた。少弐は見ての通りの有様であるし、新年ということで、その日、太宰府を落とした祝いにちょっとした宴会が開かれた。護郷は、道中ずっと義興の目に入る距離で戦っていたから、その武勇伝はすべて主の知るところであった。その上で、身内でもある興房にちょっと頼み事をしに来たのだ。
「お父上(弘護)が亡くなられて以来、私は先代も含めて、ずっと御館様の傍近く仕え、功を上げたいと務めてきた。去年、興明殿の墓所でお目にかかり、『九州では期待している』とのお言葉を頂戴してから、ずっと今日この日が来るのを待っていた。御館様の目には、私はどう映っていると思う?」
 宴席で酒が入ったゆえにか、護郷がいつになく饒舌に語る。
「……」
 護郷は興房の父・弘護の従兄弟である。つまり、興房から見たら一代上だ。だから常に目上の人として接してきた。しかし、護郷のほうは、年齢的には上だが家格では興房に劣ると思い込んでいる。それは、興房が義興の親族筋にあたるから、というのではなく、彼の家の「経歴」から来る「負い目」であった。
 護郷の父・弘有は応仁の乱の際、細川勝元の嫌がらせ工作で、政弘に叛旗を翻した大内道頓に与していたのである。本来ならば、反乱分子として処断され、お家も断絶となるはずが、弘護の母(つまり興房の祖母)が弘有の妹であったため、護郷を当主としてお家の再興がなるように尽力してもらえた。そして、政弘もそれに同意してくれたからこそ今の護郷がある。つまり、護郷にとっては、陶弘護も政弘も大恩人なのであった。二人の亡き後は、当然、その息子である義興に忠節を尽くし、興房に恩返しをしたいと思っている。しかし、それがまだまだ足りないのではないか、常にそう思い悩んでいた。
 興房は、未だに先代からの負の遺産を背負い込んでいるこの「伯父」に、いたく同情した。道頓の反乱に与した者など、数え切れないのである。その関係者まですべて洗い出していたら、家臣の半分くらいになるのではないかと思える。