大内義興イメージ画像
 その後、主従の姿は、博多・聖福寺にあった。
 太宰府が学問、そして政治の中心地なら、博多は経済の中心地だ。この時代、全国一の国際貿易港であったのがこの博多である。ただし、単なる商売だけの町ではない。
 蒙古襲来の後、博多の地には鎮西探題が置かれた。これ以降、政治の中心は大宰府から博多に移ってしまった。だから、太宰府にはその仰々しい名前と古めかしい建造物、そして、天神信仰のような宗教的シンボルとしての意義はあっても、それ以外の実権はもうないのである。そして、唯一残された文化の中心としての役割も、鎮西探題(博多)にも文化サロンが生まれたことで、安楽寺(太宰府)と博多とで二元化されるようになる。
 父・政弘は足かけ五年、筑前に滞在したが、その折、この聖福寺を本営としていたと聞く。政弘はここを拠点に、筑前の経営を行い、この地の寺社を手厚く保護するともに、引き続き、和歌や連歌に傾倒した。まだ幼少だった義興や興房は、話に聞いたに過ぎないが、政弘が宗祇らとともに、百韻連歌を挙行した事は今なお家臣らの記憶に新しい。

 博多と言えば忘れてはならないのが、対外交易である。大内家は主に対朝鮮貿易で多大な利益を上げてきた。何と言っても先祖は「百済の王族」である。朝鮮国王の覚えもめでたく、常に友好的な関係を築いてきた。例の少弐なども、朝鮮との交易は行っていたが、その規模がまるで違う。
 聡明すぎる武護ならずとも、この祖先伝説がでっち上げであることはまるわかりだ。そもそも、星が降ってくる、などという発想からして非現実的だ。しかし、当時、現地の人々の間にそのような「伝説」があったことは事実で、過去の当主たちはそれを上手く「利用し」、北辰降臨という尊い言い伝えに彩られた「琳聖太子」なる人物を作り出したのだ。
 朝鮮との交易に際して、元は同族である、という観念はとても有利に働いたし、それは朝鮮側にとっても同じであった。だから、大内義弘が、「我々は元は百済の王族の子孫であり、あなた方と同族なのである。しかし、それを証明する『証拠』がないため、皆が信じてくれなくて困っている」と証拠の品を用意してくれるよう頼み込んだとき、国王は喜んで百済の始祖なにがし王の子孫であることにしてくれた。一方で、義弘は亡祖父と父の菩提寺を朝鮮風の建築様式にしたりして、朝鮮との関わりを強調することもしている。
 その後、義興の曾祖父・盛見の代に、氏寺興隆寺の草創者は「琳聖太子」であり、彼こそが大内氏の始祖であることを明確にした。つまり、「琳聖太子」という名前が出てくるのはこの時であって、それ以前にはまだ、百済の王族の子孫である、というだけで、具体的な名前はなかったのである。
 ここまでで、「祖先伝説」が漸く完成したが、義興の祖父・教弘はまだ足りないと思った。なぜなら、これらは未だ「伝説」の域であって、それを証明する文献史料が存在していないからだ。それで、朝鮮に使節を派遣し、形ある史書のかたちで、このことを事実として証明してくれるように頼んだ。ご丁寧にも、文献の名前は『琳聖太子入日本之記』であることも決めておいた。勿体なくも朝鮮国王はこの証拠の品を捏造して下賜してくださり、ついに単なる「伝説」は史実へと昇華した。